第八七話 いつか……
サクラ屋がオープンして一ヵ月。
スラまんの名と共に、商人が通るだけだったルーフェンの名も知れ渡って来た。
商人の口コミで広まったスラまんを一口食べようと、観光客も増え始めたこの頃。
城下町からルーフェン城を見上げる一人の女がいた。
「…………ここが、ルーフェン」
平凡な服に身を包み、顔を隠すようにスカーフを被っていて、その隙間から美しい真っ白な角が二本出ていた。
女は、何かを憂うようなそんな感じで呟く。
「…………ギルベルト」
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君子は部屋でお勉強をしていた。
といっても今日は文字ではなく、その内容は君子向きだ。
「……これが、加護刺繍ですか」
マルナに見せて貰ったのは、正方形に切った布にあしらわれた刺繍の数々。
どれも色とりどりで一刺し一刺し丁寧に造られたものだ。
「ええ、軍人の親族の女は大体これを造るのです」
加護刺繍というのは、元々は戦闘種のドワーフの風習であった。
それぞれの模様に意味があり、戦場へ出る男の為に女が刺繍をする。
ヴェルハルガルドでも一部の軍人の中でこの風習が残っており、刺繍の模様は数百を超える。
「刺繍は一刺し一刺し願いや祈りを込めて刺すのです、こういう目に見えない力を私達ドワーフは加護と呼んでいます」
この刺繍を迷信と言って信じない輩もいるが、そう言う縁起を担ぎたがる軍人もおり未だ根強く残っている。
「加護かぁ、要はおまじないみたいものですかね?」
「そうですね、王子の剣にも加護が宿っていますよ」
「ふぇっグラムにもですか?」
「私も女の身なのであまり詳しくありませんが、素晴らしい剣ですわ」
北欧神話の一振りを君子が複製したもの。
神話の剣なのだから、凄いのはある意味当然と言えよう。
「これらが見本の刺繍です、どれか王子にかけたい加護の物をお選び下さい」
「そう言われると迷っちゃいますね……、どれも素敵です」
元々お裁縫は好きなので、こういう授業は楽しい。
「こちらが褒美が多く貰える刺繍、こちらは追い風が吹く刺繍、こちらは敵に囲まれない為の刺繍です」
「へぇ、本当に色々な種類があるんですね」
綺麗な刺繍に目を輝かせる君子だったが、その輝きはすぐに失せる。
「この剣は何ですか?」
「それは、敵の印を多くとれる刺繍です」
印というのは、生首の事だ。
つまりこの刺繍は人を多く殺すための刺繍、それを聞いて君子の表情は暗くなる。
元々君子はギルベルトが戦争をするのを快く思っていない。
口出ししないが同時に協力もしない、そう決めたのだ。
(刺繍は好きだけど、あんまり気が進まないなぁ)
でも何かしら造らないと教えてくれるマルナにも悪い。
君子は造ってもいいかなと思える加護の物を選んでいると、翼をあしらったものを見つけた。
「これは何ですか?」
「それは、無事に戦場から帰って来られるようにという刺繍です」
鳥の翼をあしらった刺繍で、鳥の巣に正確に戻って来られるようにという意味が込められている。
翼の部分が複数の色を使っていて、ちょっと難しそうだが加護の意味が良い。
「じゃあこれにします」
本来なら初心者は難しい刺繍だが、君子が器用な事を知っているのでマルナも止めない。
それに、加護刺繍は思いを込める者の気持ちが尊重される、嫌々刺すのでは気持ちが込められないという物だ。
「これ出来上がったらどうするんですか?」
「王子が身に着けている物に縫い付けます、定番は背中や襟の裏など目立たない所です」
「なるほど……」
「流石キーコ様、手際が良いですわね」
刺繍の基礎は解っているので、君子は初めてとは思えない手つきで加護刺繍を刺す。
こういう細かい作業をしているとなぜか無口になってしまう。
ほぼ無言のまま一時間ほど刺し続けていると、アンネとシャネットがお茶を持って来た。
「そろそろ休憩にしませんか?」
「お茶菓子もあるのです~」
今日はベアッグのマドレーヌなのだが、一緒にやって来たマルナの子シュナンはちょっと不満気。
「スラまんがいい……」
「こらシュナン」
「シュナンちゃん、スラまん食べたんですか?」
「前にせがむので買ったのですが、すっかり気に入って事ある毎に食べたがるのです」
元は忙しい商人達が手軽に歩きながら食べられる様と思って開発されたが、その手軽さから子供のおやつとしても人気が高い。
甘い味の種類が多く、今ではお茶好きな貴族がお忍びで買いに来ているらしい。
「じゃあ折角ですし食べに行きましょう!」
「えっしかし……」
「私も刺繍のし過ぎでちょっと外を歩きたい気分なんです」
座りすぎは腰にも悪い、それに君子も開発に関わったスラまんを美味しいと言われるのはとても嬉しい。
せっかくなら、ご所望のスラまんを食べさせてあげたい。
君子がここまで言うならばという事で、皆でサクラ屋に行く事になった。
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城下町でも君子の存在は有名なものになっていた。
制服のせいという事もあるが、君子が外に出る時は必ず護衛の兵士を連れ歩く事になっているので、目立つ事この上ない。
肝心の当人は気が付いていないが、ルーフェンの人々は君子を高貴な人と思っている。
「正士さ~ん、スラまん下さ~い」
「君子ちゃん、いらっしゃい」
正士とエイリがすぐに出迎えてくれた。
正士はルーフェン城を出て、城下町でアパートを借りて暮らしている。
エイリも村長代理の仕事を別の者に譲り、主にサクラ屋とヤマト村をつなぐ為にいろいろと動いてくれている。
ヴォルムは城勤めになり、ルーフェンとマグニ内のインフラや法整備などをしつつ、手が空いた時はサクラ屋も手伝っている。
「食べていくかい?」
「はい、あっギルが今夜あたり帰って来るので、お持ち帰り用に全種類パックを一つ」
「スラパックひとつね」
一月も経つと、正士達の接客もすっかり板についている。
マルナとシュナン、そしてアンネとシャネットが席に着くと熱々のスラまんが大皿に盛られてやって来た。
「いただきますっ!」
やっぱりとても美味しい、この熱々のスラまんの美味しさが体に染み渡る。
せがんだシュナンもご所望のスラまんを食べてご満悦の様子。
君子は護衛の兵士にもスラまんを配ると、お持ち帰り用のパックを受け取って帰る。
「ちょっと寒くなって来ましたね」
「南のルーフェンとはいえども、この時期はとても寒くなりますからねぇ」
「キーコさん寒かったら言って下さいなのです、わたしの髪はぽかぽなのですから」
「あ~シャネットさんの髪の毛モフモフです~」
シャネットの髪は羊毛、その触り心地に君子がメロメロになっていた。
「キーコぉ!」
そんなモフモフに夢中になっていると、上の方から名前を呼ぶ声がした。
君子が吃驚して上を向くと――。
ギルベルトが落ちて来た。
どうやらワイバーンで城に帰る途中で、君子の姿を見つけて飛び降りた様だ。
周囲には一般の人もいるしかなり危ない。
だがギルベルトはそんな事お構いなしで、君子へ駆け寄って来た。
「キーコっ」
ギルベルトは三日ぶりの君子を抱っこして、ご満悦の様子だ。
するとヴィルムも同じようにワイバーンから飛び降りて、身軽に着地した。
「ギルベルト様、危険ですので飛び降りるのはおやめ下さい、民も驚いております」
そういうあんたもだよ、という突っ込みを君子は空気を読んで飲み込んだ。
「キーコ、なぜここにいるのですか?」
「スラまんを買いに行ってたんです、これはギルの分だよ」
「うおっ、美味そ――」
「駄目、お城に帰って手を洗ってうがいしてからだよ!」
この場でスラまんを食べそうな勢いのギルベルトを、君子は子供の様に叱る。
魔王で戦争から帰って来たばかりの彼も、彼女には渋々と従う。
「ベアッグさんに温めなおして貰ってから食べようね…………、ギル?」
ギルベルトはなぜか固まっていた、君子ではなくどこかをとても驚いた様子で見つめている。
「どうし――」
何があったのか君子が聞こうとした時、ギルベルトの視線の先で誰かが動いた。
既に王族を一目見ようと周囲は人が群がっていたので、君子には動いた者の性別も種族も何も分からない。
しかしギルベルトは護衛の兵士を突き飛ばすと、群衆の中をかき分けてそいつを追う。
「ギルっ!」
君子達も急いでギルベルトの後を追う。
人ごみをかき分け追いついた時に見たのは、ギルベルトが女を捕まえてスカーフを無理矢理取る所だった。
スカーフから長い金髪があふれるように出て来て、同時に彼女の額から真っ白な角が生えている事に気が付いた。
「あっ――」
君子は言葉を失った、こんな所にいる訳がない人物がそこにいたから――。
だがそれ以上に、とっさに追いかけたギルベルトの方が固まっていた。
「母ちゃン……」
ただこの思いもよらない再会に、驚く事しかできなかった。
このしばらくの無言は、君子には永遠のものの様に感じられた。
脈がいっきに速くなって全身が警鐘を鳴らす。
思い出すのは、一〇〇年前のあの時――。
もう治っていたはずなのに、幼いギルベルトを庇って負ったあの傷が痛む。
君子は早くなった脈と傷の痛みのせいで、喋れなかった。
だからこの無言の時を終わらせたのは、激高したギルベルト。
「このクソヤロォっ! いまさら何しに来やがったぁ!」
ギルベルトが今まで怒った事は何度もあった。
しかしこの時の怒りは今まで見た事がないほど激しく、鬼気迫るものがある。
そんな気迫に、母親であるラーシャは圧倒された。
「なっ……何よ、久しぶりだって言うのに……」
真っ先に出た言葉がクソで傷ついた様子だが、激高するギルベルトはそんな事では収まらない。
怒りや憎しみや恐怖が混じって、複雑な感情になっているのだろう。
このままではラーシャを斬り殺しかねない、ヴィルムが間に入ろうとしたのだが、それよりも早く動いたのは君子だった。
「ギル、やめなよ」
優しい声でそう言うと、ギルベルトに触れて彼とラーシャの間に立つ。
「キーコ」
流石にこんな場所で流血沙汰を起こしたくはない、上手い事君子が止めてくれたとヴィルムが安心したのだが――。
「ヤローじゃなくでババアでしょう?」
君子はあえてそう訂正をした。
その暴言ともとれる言葉に、ヴィルムもそしてアンネ達も驚いた。
「間違っちゃ駄目だよ、この人だって『一応』女の人なんだから」
「……何しに来たンだこのクソババア!」
「そうそう、よくできたねギル~」
全く褒められたものではないのに、君子は背伸びをしてまでギルベルトを撫でてやる。
まるでラーシャをたきつける様な言動、明らかに君子は彼女に敵意を持っていた。
だがその姿は、事情を知らないヴィルム達には異質な物にしか思えない。
「(キーコどっどうしたんでしょうか、いつもは止めてくれるのに……)」
「(さあ……、でもキーコはギルベルト様の母上を知らないはずなのですが)」
七〇年ギルベルトに仕えるヴィルムも、その名前は知っていたが会うのは初めてだ。
人づてに聞いた話だが、彼女はギルベルトを捨てて男と駆け落ちしたらしい。
「だっ、誰がババアよ! 母親に向かってなんてこと言うのよぉ!」
「うっせぇ、ババアはババアだろぉこのクソババアぁ!」
今までされた仕打ちを考えれば、このギルベルトの強い拒絶は当たり前。
君子もラーシャを睨みつけていて、彼女とギルベルトに圧倒されてラーシャもそれ以上何も言えない。
「とっとと失せろ! 次俺の前に来たらぶった切るぞ!」
ギルベルトは今にもグラムを引き抜きそうだ。
「…………っ」
流石にラーシャもそんなギルベルトに何も言う事が出来ず悔しそうに口を噤むと、スカーフを拾い上げ、逃げるように人込みをかき分けて立ち去って行った。
「…………っ、ギル」
ギルベルトは君子の手をつかむと、城へと戻っていく。
かなり大股で君子にはきついのだが、ギルベルトは君子を気遣う余裕もないほど怒っていた。
掴まれている右手が少し痛い、その強さがギルベルトの動揺を表している様だった。
「…………」
君子はラーシャが消えた人込みを、黙って見つめていた。
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ギルベルトは城に戻ってスラまんを食べているのだが、機嫌がすこぶる悪い。
眉をつり上げてイライラと貧乏ゆすりをしながら食べている。
「ギルベルト様、貧乏ゆすりなど王子としての品位が損なわれますのでおやめ下さい」
ヴィルムがいつもの様に注意するが、全く効果はない。
ここまで不機嫌になるのは珍しい、そのくらい母ラーシャとの再会は彼の心を乱しているのだろう。
「……それにしても、なぜ今更ラーシャ様が現れたのか」
ギルベルトが王族に復帰して一〇〇年、ラーシャは会いに来る所か手紙一つよこした事はなかった。
まさかこんな唐突に現れるなど、思いもしなかった。
「……まぁあの身なりから察するに、金の無心と言った所でしょうかね」
色々あったとはいえども、皇帝の息子を生んだ女があんな平民と変わらないみすぼらしい服を着ているのは、見るに堪えない。
「でも……あの人とっても美人でしたね」
「仮にも魔王帝様のお眼鏡にかなったのですから、聞いた話ではかなりの歌手だったようですよ」
その歌声を聞いた者全てが虜になったと言われたほどで、その歌唱力で平民の出だが魔王帝にお近づきになりその子供を身籠ったのだから、年をとっても美貌と歌唱力は他の庶民とは一線を画すものだ。
「あのクソババアの話なンかすンじゃねぇ!」
ギルベルトは声を荒げる。
捨てた母親の話など聞きたくないだろう、そこは配慮がなかったとヴィルムも反省した。
スラまんを全て食べ終えても、ギルベルトのイライラは収まらない。
ここまで怒っているギルベルトをヴィルムは抑える事が出来ない、何かに八つ当たりしてしまいそうな彼に優しく言葉をかけたのは君子だった。
「ギル、ヴィルムさんに当たっちゃ駄目だよ」
「当たってねぇ……」
「いくらラーシャさんでも城にまで来ないよ、だから大丈夫」
君子が肩を撫でてやると少しイライラが落ち着いて来たのか、彼女を抱きしめた。
そして頬ずりをするのだが、右のこめかみ辺り当たり頬が触れた時、ギルベルトは固まって、どこか悲しそうな表情を浮かべている。
君子はすぐに右こめかみを押さえると、ギルベルトから離れた。
「あっ……」
その不自然な動きをヴィルムが不可解に思うのは、当然の事だった。
「…………ヴィルム城の警備を増やせ、クソババアを絶対に近づけるな」
「……かしこまりました」
今度ラーシャと会ってしまったら、彼女を殺しかねない。
流血沙汰を起こさない為には、彼女がギルベルトと接触しない事が重要だろう。
「それから、キーコは明日から外に出ンな」
「えっ……」
突然の外出禁止に君子は戸惑った。
「そこまで必要でしょうか?」
ラーシャに会いたくないから城の警備を増やすのは理解できるが、君子を外に出さないというのは、ヴィルムも理解できない。
「でっでも、私はもう大丈夫だよ?」
「駄目だ、とにかく絶対に外に出ンな」
ギルベルトは更に強い口調で言った。
最近は城下町までいけるくらい刻印の範囲は広がっていたので、この突然の不自由は辛いものだ。
しかし今のギルベルトに何を言っても無駄、君子は渋々それを了承する。
「うん分かった……明日から外に出ないよ」
君子がそう言うと、ギルベルトはもう一度彼女を抱きしめた。
彼の表情がとても不安そうだった事に、君子は気が付いていた。
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夕食を食べ終えて、今日は早めの就寝となった。
「おやすみ、ギル」
「……おう」
君子は自分の部屋へと向かう、アンネとシャネットもいつも通りそれに続くのだが、今日は珍しくヴィルムも来た。
いつもギルベルトのベッドを整えていて、この部屋に来るのは滅多にないのに。
「どうしたんですか、ヴィルムさん」
「……いえ、ギルベルト様とラーシャ様の関係について、貴方があまりにも疑問に思っていないようなので」
「うっ!」
うっかりしていた、君子は一〇〇年前にタイムスリップしたので知っている。
だから平然と塩対応してしまったが、事情を知らない者が見たら初対面であの暴言を吐いた事になってしまう。
(しっしまったぁ~、小さいギルがされた事を思い出したらムカムカしてやってしまったけど、ヴィルムさん完璧に疑ってるよぉ)
ヴィルムだけではない、アンネもシャネットも昼間の君子の言動を不思議がっている。
(でっでも、正直に話したら『時空震』が発生してしまって、処刑されちゃうかもだし……)
ララァに言われた事を君子は現代に戻ってからも、律義に守っている。
ここはタイムスリップの事は言わずに、何とか誤魔化したい。
「えっえとぉ……そっそれは、おっ教えて貰ったんですよ、そうっギルのお母さんの事を聞いたんです!」
「…………誰に聞いたのですか、ギルベルト様の事を知っているのはごく限られた人物だけなのですが?」
ヴィルムは更に疑いの眼で見て来る、君子はしどろもどろになりながら続ける。
「えっえっとぉ……ろっロベルトさん、そうロベルトさんに教えて貰ったんですよぉ!」
「……ロベルト様に、ですか?」
(嘘はついてないもん、詳細を教えてくれたのはロベルトさんだもんっ!)
君子が怪我をした時に、ロベルトはラーシャの事もある程度教えてくれた。
だから嘘はついていない、ちょっとニュアンスを変えて言っているだけだ。
だがロベルトはお目付け役、彼がギルベルトを王族に戻したので詳細を知っているのは当然の事、彼の名前を聞いてヴィルムもちょっと納得した。
「…………まぁ、キーコに話しても不思議はない、か」
唯一ワガママで凶暴なギルベルトを止める事が出来るのは君子だ。
君子の存在はギルベルトにとって大切な物、そう言う立場だからこそ知っていた方がいいと考える事もあり得るだろう。
という感じに、ヴィルムは思ってくれたので、君子は曖昧な笑顔を浮かべて頷く。
「ギルベルト様が仰ったようにしばらく厳戒態勢に入ります、母親が不用意に近づいてギルベルト様が暴れては困りますから」
「…………あの人、何しにルーフェンに来たんでしょうか」
「なんとも言えませんが、私は金の無心だと思いますよ」
確かに一〇〇年前最後に会った時は、パーティにでも行くようなドレスを着ていた。
しかし今日は庶民的な服で、着飾る為の金がないのは目に見えて解る。
「金で解決できるならば安いものですが、下手に与えるとそう言う輩は何度でも無心しますから」
「でも放っておく訳にもいきませんよね……?」
アンネの言葉にヴィルムは深く頷いて溜め息を付く。
どうにか被害が最小限で済む解決策を、ヴィルムは考えようとしているのだろう。
「キーコも、明日からは城下町に出ない様に」
「……はーい」
ヴィルムまで釘を刺して来た。
それほどラーシャの問題を深刻に考えているという事なのだろう。
ヴィルムはそれだけ言い終えると、君子の部屋を後にした。
アンネもシャネットも、君子が着替えを終えベッドに入ってから部屋を後にする。
「おやすみなさい、キーコ」
「おやすみなのです、キーコさん」
「はい、おやすみなさい」
ランプの明かりが消され、天蓋付きのクイーンサイズのベッドで君子は眠りにつく。
しかし――。
「眠れない……」
眼が冴えていて到底眠れない、原因は分かっている。
「ラーシャさん、どうして今更来たんだろう」
親に置いていかれた子供の気持ちは、君子が一番分かっている。
だからこそお金が欲しいからという理由で戻って来るなんて、一番許せなかった。
「…………もう、あんなギル見たくないよ」
一〇〇年前の幼いギルベルトは、餓死寸前の状態になっていた。
暴力を振るわれて泣いている所など、思い出すと腸が煮えくりかえるくらい。
だからもういてもたっていられなくなって――、君子はベッドから飛び起きる。
パジャマを脱ぐといつもの制服を着て、カーディガンとフード付きのダウンコートを羽織る。
「……約束は明日からだもんね」
まだ日付は変わっていない。
専用のベッドでもぞもぞと動いているスラりんに言い訳をすると、君子はなるべく音を立てない様にして部屋を後にするのだった。
(問題は刻印の範囲だよね)
最近は城下町まで広がっていたが、外出禁止命令のせいで刻印の範囲が狭くなっているかもしれない。
ラーシャが刻印の範囲外にいたら会う事は出来ないだろう。
普段なら絶対にやらないが、君子は人目を避けながら裏口から裏庭へと出た。
この間城を散歩している時に、柵の一本が歪んでいてちょっと大きな隙間がある事を偶然見つけた。
(ちょっと狭いなぁ……)
お腹周りが少しきつい、胸は全然つっかえないのに――。
どうにか柵の外側へと出ると、君子は森の中を壁伝いに歩いて城下町の方へと向かう。
門番に気が付かれない様に遠回りをして、どうにか城下町へと向かった。
城下町の大通りを半分くらいまで来た。
流石に夜更けに出歩く人はいない様で、通りに人は少ない。
(ギルはまだ刻印の範囲を狭くしてないんだ)
明日からと言っていたし、すぐに眠ってしまったので忘れてしまったのだろう。
ギルベルトが起きる前にラーシャを見付けなければならない。
(この街に住んでないって事は、宿に泊まるはずだよね)
他にあてはないとりあえず近くの宿屋へと向かうのだが――。
「うっうううう~」
とても苦しそうなうめき声が聞こえた。
病気か何かだろうか、君子は急いで声がした路地裏を覗き声を掛ける。
「大丈夫ですかっ!」
しかし、そこにいたのはラーシャだった。
見ただけで酔っぱらっているのが解る。
病気ではなく、飲みすぎて吐いているのだ。
君子はあれほど心配だった気持ちが、一気に呆れに変わっていく。
どうして人によって、こんなにも気持ちが変わってしまうのだろうか。
(あ~なんでだろう、探してたんだけど会ってしまった事を深く後悔してる)
こっちは兜の緒を締めるつもりで来たのに、肝心のラーシャがこんな酔っ払いでは拍子抜けというか、もう心から呆れるばかりである。
もう無視しようとも思ったがそれでは意味がなくなるので、君子は仕方なく声を掛ける。
「……なにやってるんですか」
今まで出したことがない冷たい声が出た。
ラーシャはやはりかなり呑んでいるのか、声を掛けられるまで君子の存在に気が付かなかった。
「うっうええええええ」
「あ~吐いちゃ駄目ですって」
嘔吐するラーシャの背中を、君子はさすってやる。
本当に渋々だ、ルーフェンの街を汚くしてはいけない。
「ほらっしっかりして……、てっ無理か」
このまま放っておいて凍死でもされたら困る。
あくまでもルーフェン市民が困るのだ、だから渋々ラーシャをどうにかする事にした。
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サクラ屋。
「いや~解るなぁ、呑み過ぎって辛いですよねぇ」
正士は水をラーシャに出しながらそう言った。
よほど気持ちが悪いのか、机に突っ伏してピクリとも動かない。
「正士さんすいません、こんな時間にこんな人を連れて来て」
深夜だったが、たまたま正士とエイリ達が仕込みと売り上げ計算をしていたので、入れて貰えた。
「ニャっほ~、往診に来たニャ~」
キャトリシアが大きな革鞄を持ってやって来た。
彼女はヴォルムの提案通り、城下町で医院を開業している。
将来的にはルーフェンの民が安く治療を受けられるように、保健制度を導入するらしい。
ただの飲みすぎなのだが、一応医者である彼女にも来て貰ったのだ。
「すいませんキャトリシアさん、こんな遅くにこんな酔っ払いの為に」
「気にする事ないニャ、それより出張医療の代わりと言ってはなんニャのだが、ちょこっと献血をお願いしたいニャ」
「へっ、献血ですか?」
「そうニャ、研究用の血液が不足していて困っているニャ」
そう言う事ならお礼もかねて是非協力をしたい。
「これで研究がはかどるかもしれないニャ」
キャトリシアがあくどい笑みを浮かべている事に、君子は全く気が付いていなかった。
献血の約束を取り付けると、ラーシャの処置を始める。
とは言っても飲み過ぎに治癒魔法は効果がないので、薬を飲ませるだけである。
「うううっ……あー気持ち悪い」
薬を飲んでちょっと楽になったのか、少しはマシに会話ができそうだ。
回復してきて、ようやく君子の事も認識できるようになった。
「…………なんだ、アンタだったの」
重い溜め息を付きながら言ったので、流石に君子もイラっと来た。
しかし君子だって、ラーシャに会うのにそれなりの決意を持って来たので、このくらいでは怒らない、毅然とした態度で臨む。
「……なんで今更ギルの所に来たんですか、貴方はギルを捨てたのに」
いつになく言葉にトゲがある、正士達は込み入った話と察し少し距離を取ってくれた。
「…………ねぇ、お酒ないのぉ」
「真面目に答えて下さい!」
君子は声を荒げた、ラーシャは真面目に答える気がないのか、君子から目を逸らして水を飲む。
「……ギルは貴方が来たせいでとっても怒っています、イライラしていて皆怖がってるんです」
ギルベルトが怒りに任せて暴力をふるうのではないのかと、使用人達も心配している。
君子だって、ギルベルトがイライラしているのは嫌だ。
「…………また、ギルに酷い事をするつもりで来たんですか」
「…………」
「そのつもりなら、私は今度こそ貴方を許しません」
幼いギルベルトにした事を君子は怒っている。
またあんな事をギルベルトにしようとしているのなら、絶対に許せない。
睨みつけて来る君子をしばらく見詰めると、ラーシャは溜息をついた。
「…………アンタは、あの子の事捨てなかったのね」
そしてどこか寂しそうな表情で言った。
それは君子が思っていた物とはちょっと違う。
罵声を浴びせて来ると思っていたのに、一〇〇年前のあの時と変わったのは、身なりだけではなかった。
「……私が捨てたあの子と、一緒にいたのね」
「…………ラーシャさん、もしかして後悔してるんですか?」
君子がそうはっきりと言うとラーシャは図星なのか、顔を逸らした。
一〇〇年前、ギルベルトを捨てて男と逃げて、今更ルーフェンにやって来たのは捨てた事を後悔しているから。
ラーシャはしばらくの間を開けると、どこか諦めた様に正直に話し始めた。
「……男と逃げても結局あの子の事ばっかり思い出して、最悪だったわ……」
「…………」
「いらないと思って捨てたあの子が今や領主で魔王……、笑いなさいよ、結局アンタが正しかったんだから」
「…………笑いませんよ」
君子がそう返したのが面白くないのか、溜め息を付いた。
だから君子が更に口を開く。
「貴方とギルが住んでいたあの家には、貴方がギルを愛していたという痕跡がありました」
二人分きちんと揃えられた家具と食器、背を図った跡がついた柱。
それら全てに愛情を感じた。
「…………本当は、ギルの事愛してるんですよね」
シングルマザーで子供を育てる事の大変さくらい、子供を産んでいない君子でも想像する事は出来る。
その大変さが次第にギルベルトに対する怒りへと変わっていった。
家事と育児に追われて、自分の時間が全く持てない。
そんな日々のストレスが、まだ幼く何もできないギルベルトへと怒りとして向けられてしまったのだろう。
「…………ホントあの時は最悪だったわ、仕事も上手くいかないし休む時間もない、嫌な事全部あの子のせいに思えて来て……、あの子さえいなければ私は幸せになれる、そう思えて来たの」
おそらく育児ノイローゼだろう。
あらぬ罪を掛けられ本来暮らすはずだった王宮を追われて、頼るべき人もなく赤ん坊のギルベルトを育てていくのは、一言では言い表せない程の苦労だったはずだ。
その中で心をすり減らしていくのは、ある意味無理もない事と言える。
「馬鹿よね、ホント馬鹿よ……私、大馬鹿だったわ」
「…………ラーシャさん」
君子はなんと声を掛ければいいのか分からなかった。
自分は、母親に捨てられて一人ぼっちになったギルベルトの気持ちが痛いほどわかる。
だけど同じ女として、ラーシャの気持ちだって解る。
ギルベルトを捨てたラーシャへの怒りと、一人で子育てをした彼女の苦労への共感で、自分自身の感情が分からなくなっていたのだ。
「……ずっと、アンタに言いたかった事があるの」
「私に……?」
ラーシャはなかなか言い出せないのか、視線が右にいったり左にいったりしている。
首を傾げながらしばらく待つと、彼女はようやく言った。
「あの時……止めてくれて、ありがとう」
「あの時?」
「私があの子を殺そうとした時……」
一〇〇年前、ラーシャがギルベルトに灰掻きを振り下ろした、あの時の事。
君子は反射的にあの時の傷に触れる。
傷跡が残ってしまったあの時の一撃を、幼いギルベルトが受けていたら死んでいた。
「あれから何度もあの時の事を思い出して後悔した、あの時アナタが庇ってくれなかったら、私はホントに取り返しのつかない事をする所だった」
あの時のギルベルトの恐怖の顔が、瞼に焼き付いて離れなかった。
殺していないのにこれほど後悔しているのだから、もし殺していたら今以上に後悔したに違いない。
「…………本当にありがとう、そしてごめんなさい」
ラーシャは深々と頭を下げて、そう謝ってくれた。
君子は彼女から視線を背けると、黙り込んでしまった。
それを見てラーシャは残念そうな顔をした。
「許して貰えるわけないわよね……、仕方がないわそれだけの事をしたんだから」
「……いえ、そういう訳じゃ」
「…………いいのよ、私がしたのはそう言う事なんだから」
本当に一〇〇年前とは違う、もしかすると本当はこんな女性だったのかもしれない。
「……ラーシャさん、なんでルーフェンに来たんですか?」
話を本題に戻す、なぜラーシャは今頃になってギルベルトの前に現れたのか。
「やっぱり……王宮に戻りたいんですか?」
王族に戻り魔王となり、今やルーフェンやマグニの民からの支持を受けているギルベルトの恩恵を受けようとしているのだろうか――。
「そんな訳ないでしょう誰があんな魔境に行くもんですか、頼まれたって行かないわ!」
「えっ……じゃあお金ですか?」
「失礼ねちゃんと歌手で稼いでるわよぉ、金になんて困ってないわ!」
確かにラーシャの恰好は、王子の母としてはみすぼらしいが、ごくごく普通の服だ。
別に着飾るつもりがなければ、これくらいで十分なレベルだ。
「じゃあ、どうして?」
君子が尋ねると、ラーシャは少し戸惑いながらも布に包まれた何かを取り出した。
「コレは?」
「……開けてみて」
「………あっ」
君子は中身を覗く、ラーシャはちょっと恥ずかしそうに眼を逸らしながら続けた。
「……私からじゃ絶対受け取らないでしょ、だから何でもいいからあの子の周りのモノにつけて欲しいの」
「…………ラーシャさん、不器用ですね」
「うっうるさいわねぇ、これでも頑張ったのよぉ!」
毒づく君子だが、それはちゃんと預かった。
ラーシャは小さく笑みを浮かべるのだが、ふと君子の右耳で輝くピアスに気が付く。
「……アンタ、そのピアス誰から貰ったの」
「へっ、ギルとアルバートさんですけど?」
それを聞いて、ラーシャの顔色が変わる。
さっきまでの穏やかの表情とは変わり、眉を顰めて表情が険しくなった。
そして真剣な口調で告げる。
「……アルバート王子のピアスは返しなさい」
「えっ……ピアスを?」
半ば無理矢理付けられたのだが、今では体の一部ぐらいのつもりだった。
でもなぜラーシャがピアスについて、そんな事を言うのだろう。
「良い、アルテミシアには気をつけなさい」
「アルテ……ミシア?」
人の名前の様だが、一体誰なのだろう。
その人とアルバートのピアス、一体どんな関係があるのか詳しく聞きたかったのだが、ラーシャは口を噤んだ。
「助言はしたわ……、アンタは私と同じになるんじゃないわよ」
一体何の事だか分からないが、君子は一応頷いた。
「世話になったわね……、薬代と場所代はちゃんと払うわ」
「場所代なんて気にしないで下さい」
「困った時はお互い様ですよ」
「ニャーもいいニャ、お礼は十分貰ったニャ」
正士とエイリがそう笑顔で言ってくれた。
キャトリシアも、君子の血を研究用に頂けたので十分な収穫である。
しかしお礼は良いと言われたラーシャの方が、それでは気が済まない。
だから君子はある提案をする。
「なら、代わりに歌って貰えませんか?」
話によればラーシャはとても歌が上手いそうだ、是非一度聞いてみたい。
歌はベルカリュースでは数少ない娯楽の一つ。
それも現代日本のアイドルが歌うような曲ではなく、酒場などしっとりとした雰囲気の中で聞く物。
歌と聞いて正士とエイリとキャトリシアは、椅子に座って拍手をする。
タダで歌うのはプロのプライドが許さないが、お礼として歌うのであれば話は別だ。
「分かったわよ……、私の歌は高いんだから心して聞きなさい」
ラーシャはそう言ったものの、一切の手加減なく完璧な歌を披露してくれた。
本当に美しい歌声で、一国の王が聞き惚れるのも理解できる。
「…………素敵」
正士もエイリもキャトリシアも、その歌声に耳を傾けて身を委ねる。
本当に綺麗な歌声は、ルーフェンの夜に溶けて行った。
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翌日。
「全く、貴方は馬鹿ですか本当に」
そう暴言を吐いたのは、心底呆れた様子のヴィルムである。
君子はサクラ屋から帰宅したのだが、柵の隙間をくぐる時に見つかってしまい、あっという間に捕まった。
そして怒る気にもなれない程、ヴィルムが呆れてしまったのである。
「どうしてするなという事をするのですか」
「ごめんなさい、サクラ屋に忘れ物をしちゃって……どーしても昨日中に取りに行かなくちゃいけなかったんです」
「それこそメイドを使いなさい、何の為に専属のメイドがいると思っているのですか」
「そうよ、夜道は本当に危ないんだから、キーコは一人で歩いちゃ駄目よ!」
「今度からはわたしに申し付けて下さいなのです!」
「でっでも、皆さん寝ている時間でしたし……」
「貴方はもう少し自分の重要度を理解しなさい」
君子がいないとギルベルトは暴れ出してしまうのだ、彼女だけが彼の精神安定剤なのだからもっとその重要性を自覚して欲しい。
しかしそんなヴィルムの小言もアンネとシャネットの言葉も聞き流しながら、君子はソファに座って何か作業をしていた。
「所で、貴方は先ほどから何をしているのですか?」
よく見ると、君子が持っているのはギルベルトがいつも着ている赤いコートで、何かを襟に縫い付けている。
それを見てアンネが説明に入る。
「マルナ様から教わった加護刺繍ですよ、キーコが王子の為に刺して」
「それをコートに縫い付けているのですか」
そんな話をしていると、ギルベルトが寝室からようやく出て来た。
「ギルベルト様、おはようございます」
「ン~」
まだ眠そうで寝ぐせで髪もぼさぼさだ。
ギルベルトは周囲を見渡していつものコートを探す。
「終わった、はいギル」
君子は糸をハサミで切ると刺繍を縫い付けたそれを手渡した。
鳥の翼をあしらった刺繍、しかしそれを見てヴィルムは眉を顰める。
「……随分歪んでいますね」
素人が見てもかなり雑、ところどころ歪でどうにか翼と分かる程度だ。
裁縫が上手な君子にしては、かなり失敗作な方だろう。
「変ですね、昨日は綺麗に刺せてたのに……」
マルナに教わっていた時はとても正確に刺せていたのに。
しかしギルベルトはその歪な刺繍を下手だと笑う事はなく、ただ見詰めていた。
「これはね、ギルが戦場から無事に帰って来れるようにっていう加護があるんだよ」
「…………そうか」
ギルベルトはそう言うと、コートを持ったまま窓の方へ歩いて行って、どこかは解らない遠い場所を見つめたまま固まってしまう。
「……どうしたのでしょうか、ギルベルト様は?」
「…………多分、色々思い出してるんですよ」
ヴィルムがどういう意味か尋ねたが、君子はその問いには答えなかった。
そして裁縫道具を片づけると、外へと出た。
廊下でドアにもたれかかると、ふと呟く。
「…………ギルは鼻が良いから、分かっちゃうよね」
あの刺繍は君子のモノではない。
昨夜ラーシャが渡したモノを、ギルベルトのコートに縫い付けた。
たまたま君子が刺そうとしたモノと同じだった加護刺繍、一刺し事に思いを込めて刺すからこそ解る、戦場から無事に帰って来て欲しい、それがラーシャの気持ち。
ラーシャはお金が欲しかった訳でも、王宮に戻りたかった訳でもない。
魔王となり、戦場で戦うギルベルトの無事を願う為に、あの刺繍を持ってルーフェンに来たのだ。
鼻のいいギルベルトは、きっとあの刺繍を誰が造ったのか分かっただろう。
それでも受け取ってくれたという事は、やはりラーシャに対して憎しみ以外の感情があるのだ。
「今は無理でも、いつか……」
まだギルベルトは、自分を捨てた母親を許せないのだろう。
でもいつの日か、また母と子として再会できる日が来る事を、君子は願う。
「…………お母さんか」
ふと思い出したのは、もう何年も会っていない自分の母親。
異世界に来てしまった今、もう母親の消息を知る術はない。
ただラーシャの、母親の愛を見せられてふと思ってしまった。
「……お母さんは、私の心配をしてくれてるのかな?」
自分が消えて、元の世界では騒ぎになったはずだ。
どこかにいる母親も、ラーシャの様にその心配をしてくれていればいい。
そんな風に、ふと思ってしまった。
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ギルベルトは、ただ遠い空を見る。
何を見ている訳でもない、ただ遠くを見たい気分だった。
コートに縫い付けられた刺繍から、微かな彼女の痕跡を求めるように、ずっとずっと触れていた。
それはまるで、母を求める子の様だ。
「…………母ちゃン」
そう誰にも聞こえない小さな声で呟くのだった。
商売繁盛編、完結。
いろいろな人たちがやって来て、君子の周りもにぎやかになって来ました。
新キャラも前からいるキャラも、もっと活躍させてあげられればと思います。
次回より新章に入ります。
今までののほほ~んとした空気から一変、シリアスな空気に戻ります。
『血』と『見る』がテーマで、アルバートの過去や、彼の人間関係にまつわるお話です。




