第八四話 異邦人しかいません
藤原正士は、リストラされた。
突然の解雇通知、三年前のリーマンショックの影響で、業績が悪くなったのは知っていたが、まさか自分がリストラされるなんて思いもしなかった。
独身二九歳、大学を卒業から務めた会社にまさかこんな簡単に切り捨てられるなんて、途方に暮れて普段呑まない酒を浴びるほど呑んだ。
「あ~ひっ、ちっくしょ~、課長の馬鹿ヤロォォ、ひっく」
典型的な酔っ払い、ビジネスバッグを持ち千鳥足で歩く様は、あまりにも惨めだった。
普段呑み慣れていないせいか、もう歩くのが限界だった。
「う~もう、むりぃぃぃ」
道路に寝転んでしまう、二月下旬の今日はよりによって冬将軍が率いる大寒波が襲来しており、外で寝れば凍死しかねない状況なのだが、泥酔状態の正士はもう眠気のせいでどうする事も出来なかった。
(寒いっ……コートとマフラー、店において来ちゃったのか)
意識が最後に考えたのはそんな事だった、眠魔に逆らう事が出来ず意識はまどろみの中へと消えていく。
(……光?)
そして柔らかい山吹色の光が、正士を包み込んだ。
***********************************************************
草の匂いがした。
それに聞いた事のない鳥の鳴き声も聞こえる。
意識が覚醒し始めたのは、朝日が顔に当たり始めてしばらく経った頃だった。
「……んっんんん~」
体中が痛い、変な所を寝違えたのだろうか、どこかしらの筋が痛む。
「あれ?」
見渡すと、どこをどう見ても森。
こんな鬱蒼とした森が、東京にあるのだろうか。
それに二月の東京にしては、随分気温が暖かい様な気もする。
「……、ここはどこ?」
こんな森じゃ二三区なら皇居とか明治神宮とか、そういう場所しか思いつかない。
だがどちらも正士の家とは方向が全く違うし、呑んだのは家の近くの店だ、いくら酔っぱらったといえども、こんな変な所には来ない。
まさか強盗にでもあって、こんな変な所に連れて来られてしまったのではないか。
正士は心配して、鞄の中身を確かめるが無くなったものはない。
あるとすれば、居酒屋に置いていったコートとマフラー。
「……とりあえず、人を探そう」
ここがどこだか聞けば、帰れるかもしれない。
そう思って、当てもなく森を歩き始めた。
しかし行けども行けども森が終わらない、こんなに広い森が東京にある訳がない。
(えっ……まさかどこかのとんでもない山奥なんじゃ)
正士が焦り始めた時、明らかに獣道とは違う道を見つけた。
何度も人が通った事で踏みしめられてできた道、ここを辿って行けば人がいる場所につくはずだ。
正士の足取りは途端に軽くなって、小走りで道を駆けていく。
するとだんだん木々が少なくなって、鬱蒼とした森に太陽の光が差し込んでくる。
そして森を抜けた。
「へっ?」
しかし広がっていた街並みは、彼が知っている東京の物とは全く違う。
赤い石材を使って作られた建物が立ち並んでいて、東京と言うよりも日本の要素さえなかった。
「どっ……どこだ、ここ?」
戸惑いながら一歩足を踏み出すと、踏み固まれた土から石畳へと道が変わった。
アスファルトではない石畳だ、日本で石畳の道なんてそうそうあるモノではない。
更に足を進めると、路地から大きな通りへと出た。
「あっ――」
正士は言葉を失った。
そこには、彼が知る街の風景とは全く違うモノは広がっていたのだ。
飛び込んで来たのは、明らかに日本人ではない顔立ちの人々が、中世ヨーロッパの様な古めかしい服を着て、行きかっているというもの。
ある者は籐で編んだ籠を手に持って、ある者は大きなタライで洗濯物をしている。
「なっ、なんだ……これ?」
今時手で洗濯をする者はいないだろう、吃驚していると彼の眼の前を馬車が通り過ぎて行く。
この平成の世で、馬車が街を闊歩するなんて――ありえない。
(なっなんなんだこれは、何が起こっているんだぁ!)
まさか酔っぱらって寝ている間に、自分は海外にでも来てしまったのだろうか。
リストラでいっぱいいっぱいだった正士の精神は、もう寝ている間に海外に行くというありえない事を否定する事さえも出来なくなっていた。
ただパスポートを持っていない事と、再発行の時間と費用の心配をしていた。
そしてたまたま近くを通りかかった三〇代くらいの男性に声をかける。
「あっあの、エクスキューズミー」
茶髪にブラウンの眼をしていていたので、英語で尋ねた。
英語なら一通り使えるが、もし通じなかったらもう本当に困ってしまう。
どうか英語圏であれと思っていると――。
「あ? えくすきゅ……なんだよそれ?」
そう流暢な日本語で返された。
とてもネイティブで片言ではない、外国人がこんなに見事な日本語を話すのを正士は初めて聞いた。
だから衝撃で固まっていると、男は首を傾げる。
「なんだよ変な格好のあんちゃん、俺だって暇じゃないんだぞ、冷やかしなら他所でやってくれよ」
「あっ……いっいや、ひっ冷やかしじゃないです」
エクスキューズミーが通じず、日本語が通じるなんて、まさか日本人なのだろうか、とにかく言葉が通じるなら話が早い。
「あっあのぉ、こっここはどこなんでしょうか?」
「はぁ……あんた大丈夫か? ルーフェンだよ、ルーフェン」
ルーフェン、全く聞いた事のない地名だ。
どうやらとんでもない田舎なのだろうか、今度は国の名前を聞く。
「えっとぉ、ルーフェンはどこの国なんでしょうか?」
「はぁぁっ! あっあんた大丈夫かよ、ヴェルハルガルドに決まってるだろう!」
男はとてもびっくりした様子で答えた。
しかし、ヴェルハルガルドなんて国名を正士は聞いた事がない。
確かに名前も知らない国があっても不思議ではないが、それにしたって変だ。
正士が固まっていると、知り合いなのか別の男がやって来た。
「おい、どうしたんだよ?」
しかし――その男の額には、青い角が生えている。
長さが二〇センチくらいはありそうな角を見て、正士は眼を見開いて驚く。
(えっ……おっ鬼! 二月下旬だし節分じゃないのに!)
精巧につくられた鬼のコスプレをしているのかと思ったのだが、偽者にしては質感が本物っぽい。
「聞いてくれよ、このあんちゃんここがどこだかちっともわかんねぇって言うんだぜ!」
「なんだよそれ……、てか変な格好してるなあんた」
中世ヨーロッパの様な格好で、鬼のコスプレをしている人に言われたくはない。
(えっ、どこだかわからない外国で、皆で節分のイベントでもしてるのかぁ!)
混乱している正士、酷く思いつめたその顔を見て男二人は余計に怖くなったようだ。
正士から見れば、眼の前の男二人の方が可笑しいが、彼らにとっては正士の方が可笑しい。
変な格好で変な事を言う、頭がいかれた奴にしか見えないのだろう。
「おいお前ら~、どうしたんだよ」
更に誰かがやって来た、正士が首を上げると――そこにはトラが立っていた。
トラが服を着て、二息歩行で歩いているのだ。
トラなどこんなに近くで見た事がない、固まる正士の顔をトラは見詰める。
「本当に変な格好だな……お前、一体どこから来たんだよ」
「えっ……へぇっ、にっ日本のとっ東京ですぅ……」
トラの迫力に押され怯えながら答えるが、三人の男達は、首を傾げた。
「にほん……」
「とうきょう?」
「なんだ、そんな国聞いた事ねぇぞ」
本当に知らない様子だ。
男達は変な格好をして可笑しな事を聞く正士が怖くなったのか、適当に話を切り上げてどこかへと歩いて行った。
一人残された正士は途方に暮れる。
(一体何がどうなってるんだ、僕は一体どうなってしまったんだ……)
正士は座り込んで、行きかう人々を見る。
先ほどの男達だけではない、よく見ると角の生えた者や獣の耳の者、牙が生えている者や獣の者など、正士が知っている光景とは異なった物が広がっている。
(携帯も繋がらないし、誰に何を聞いてもここはヴェルハルガルドのルーフェン、皆日本も東京も知らない……)
そもそもここは本当に海外なのだろうか。
あの角もあの耳も全て本物の様に思える、だが普通人間に角も生えていないしましてやトラの様な風貌の者もいない。
(まさか……、リストラのショックで幻覚でも見てるのか……)
正士が作り出した妄想で、これは全て夢。
こんな中世ヨーロッパの様な街並みに、角が生えた人や二息歩行の動物達が闊歩する夢なんて、どれほど自分は狂ってしまったのだろうか。
(あ~……どうしたらいいんだ、どうやったらこの幻覚からさめるんだぁ)
頭を抱える正士、森で目覚めてから何時間が経ったのだろうか、行く当てもこれからどうすればいいのかも解らず、ただ現状に絶望していた。
そんな時、急に辺りが騒がしくなって来た。
人がどこか嬉しそうにどこかへと集まっている、すごい騒ぎでまるでお祭りの様なので、絶望して憔悴している正士も、流石に気になる。
(……なんだ?)
一体皆何を熱心に見ているのだろうか、皆がやっているとやりたくなる日本人特有の性質のせいで、正士も同じように群衆が見詰める先を見る。
「あっ――」
正士は言葉を失った、群衆の合間から見えたのは女の子。
十代後半くらいの少女がいた、しかし正士が驚いたのはそこではない。
彼女は――セーラー服を着ていた。
カーディガンにパンプス、日本の東京でごくごく普通に見かける少女のいでたち。
女子高校生が、そこにいた。
(なっ……、あっアレってセーラ服だよな……)
黒髪のおさげに瞳の色は黒、見慣れた肌の色に顔立ち、それは正士と同じ日本人のモノ。
間違えない、女子高校生だ。
やっと見つけた見知ったものに、正士は心の底から喜んだ。
外国で同じ国の人を見かけると、妙に安心するあの感覚である。
なぜこんな所に女子高校生がいるのかなど疑問、ただあの少女と話がしたい、その一心で人込みの中を進む。
「あっすいません、ごめんなさい」
満員電車の通勤で培った、人込みをかき分ける能力をフルに利用して、少女へと近づく。
あともう少しで少女の前に行ける、その時正士は石畳の段差に足を取られて、バランスを崩す。
「いっ――」
盛大に躓いて、すっころぶ正士。
まだそれだけだったのなら良かったのだが――、転んだ拍子に女子高校生を押し倒してしまった。
「あったぁい」
女子高校生は痛そうだったが、こんな訳の分からない事になっている正士は謝るとか気遣うとかいう余裕がなかった。
ただ彼女が自分と同じなのか、どうしても尋ねたかった。
「君はにほ――」
『君は日本人ですか?』、そう聞こうと思った。
現にそう言ったはずだったのに、残念ならが言葉は発せられる事はなかった。
正士はぶっ飛ばされた。
意味が解らない、理解も出来ない。
ただ、気が付いた時には顔面へ激痛と衝撃があって、不可解な浮遊感の後に――石畳の上に落ちた。
それは蹴り飛ばされてサッカーボールの様に飛び上がり、そして落下したのだが、正士は知る事はない。
「あ――――」
激痛と衝撃で薄れゆく意識、最後に見たのはとっても青い空だけだった。
***********************************************************
正士の意識が再び鮮明になったのは、酷い寒さを感じたからだ。
眼を開けようとしただけで、全身が痛い。
何とか痛みを堪えて眼を開けると、薄暗い石の壁が見えた。
じめじめとしていて、とても薄気味がわるい。
視線の高さから、椅子に座らせられているらしい、一体どうしてこんな所にいるのだろうか、痛さから身をよじるとジャラッという金属が当たる音が聞こえた。
「えっ……ジャラ?」
音がした方を見ると――、腕に金属の腕輪が嵌められていた。
腕輪には鎖が付けられていて壁に接合してある、これはブレスレッドではない、本物の手枷だ。
よく見ると足枷もはめられていて、しかもパンツ一丁になっている。
「えっ……えええっ、なっなんで」
脱いだ覚えなんて無い、そもそもここは一体どこなのか、パニックを起こしていると冷たい氷の様な声が聞こえた。
「眼が覚めたようですね」
暗闇の中から出て来たのは、水色の長髪に真っ黒な軍服の様なものを着た男。
細身だが引き締まった肉体だというのが、服の上からでも分かる。
(えっ……水色の髪?)
日本ではまずありえないその髪の毛の色に、正士はただ驚き戸惑っていた。
男は正士が目覚めたと解ると、氷の様に冷たい眼で見下して来る。
訳が分からない正士は、何とか言葉をひねり出す。
「……あっあの、こっこれはどういう状況なのでしょうか?」
「…………ほう、面白い冗談を仰るのですね」
冗談なんて言っていないのだが、男は口元だけで笑う。
でもその笑みはとても怖くて、笑っているとは到底思えない。
「どこまでも白を切るというのですね、随分仕事熱心な暗殺者ですね」
「えっ……暗殺者?」
何を言っているのか意味が分からない、いや彼は間違えなく日本語を話しているので言葉は解るのだが、どこをどう見たら暗殺者に見えるのだろうか。
こんなどこにでもいるサラリーマンを捕まえて、一体何を言っているのか意味が分からない。
「まだとぼけますか、貴方がキーコを暗殺しようという事は分かっているのですよ」
キーコが誰だか知らないし、暗殺なんてそもそもしようとしていない。
「あっ暗殺なんてしていません、なっ何かの間違いです、人違いです!」
「ほう、あれだけ見事なタックルをキーコに食らわせておいて、よく言いますね」
「えっ?」
正士は思い出した、女子高校生を見かけて駆け寄ったのだが、すっころで彼女を思いっきり押し倒してしまったのだ。
「ちっ違う、あっアレは転んでしまって……」
「白々しい嘘を、一体誰に雇われたか素直に話して頂ければ、解放しますよ」
嘘も何も、本当に誰にも雇われていないし暗殺もしていないのだ。
「とぼけンじゃねぇ、このクソ野郎」
そう恐ろしい声で言ったのは金髪の青年、額から黒い一対の角が生えていて、正士を睨んでいる。
「俺じゃなくて、キーコを狙ったのは許せねぇ」
彼は本当に怒っていて、今にも腰に吊っている剣を抜きそうだ。
だが正士は本当に知らないのだ、だから雇用主の事なんて話せるわけがない。
「……ならば、致し方ありませんね」
男がそう言うと、水が入ったバケツを中世の鎧を着た兵士が持って来た。
その水を男が柄杓で掬って――正士の頭へとかけた。
「うっうわっ、つっ冷たい」
パンツ一丁の正人には水の冷たさは堪える、しかしそれだけではない。
「さっ、さむいっ!」
急に温度が下がって来た、吐く息が白くなっていて冷気に襲われる。
震える正士を見ながら、男は温度が感じられない、冷たい声で言う。
「氷の魔人の冷気は初めてですか? これは氷の魔人に古くから伝わる拷問です、私の冷気が貴方の体温を奪っていきますよ」
そう言って更に正士に水をかける。
男の言っている事は嘘ではない、掛けられる水と冷気のせいで体温がどんどん下がっていく。
手足の指が悴みぶるぶると震えるが、それでも男は水をかけ続ける。
「さぁ、そろそろ話す気になりましたか?」
だから本当に知らないのだ、そう言いたくても寒さで口が動かない。
本当に正直に話しているだけなのに、なぜこんな目に合っているのだ。
(僕は……、こんな所で死ぬのか)
会社をクビになって、こんな訳の分からない所で死ぬなんてそんな人生あんまりだ。
今までの人生が走馬灯のように流れていく、両親と弟と暮らした海辺の街、たくさん勉強して受かった大学、馬鹿みたいにエントリーシートを書いた日々、馬車馬の様に働いた勤め人時代、とてもありふれた平凡な人生。
(あっ……僕の人生って、こんなもんなのか)
他人から笑われてしまいそうなくらい、普通の人生。
何も成せていない、もっと他にやりたかった事が在ったのに――これで終わり。
正士の意識がもう覚めぬ眠りへと落ちていく。
「ちょっとまったああああああっ!」
しかしそんな彼の意識を引き戻したのは、少女の声。
瞼が凍ってほとんど開かない眼でどうにか声の主を見ると、それは正士が押し倒してしまった女子高校生だった。
「キーコ、取り調べをするから来るなと言ったはずですよ」
「何が取り調べですか、身ぐるみはいでこんなに凍えさせて、いくら何でもやりすぎです!」
少女はそう言って水をかけている男を止める、どうやら彼女は味方らしい。
「こいつは貴方の命を狙った暗殺者かもしれないのですよ」
「暗殺者じゃないです、この人は藤原正士さん、私と同じ異邦人です!」
「……我々を欺くために、異邦人のフリをしている可能性だってあります、とにかく貴方は自室へ戻っていなさい、こんな地下牢に来るものではありません……ギルベルト様もそう仰っていますよ」
「キーコには関係ねぇ、良いから部屋に戻ってろ」
本当に自分を暗殺者だと思っているのだろうか、彼女をとにかく遠くへやりたいようだ。
しかし、そのそっけない言い方に少女は怒ったのか、ムッとする。
「キーコ、危ないから早く部屋に戻りましょう」
「キーコさん、暗殺者に近づいてはいけないのです!」
メイドの二人が連れて行こうと手を引っ張るのだが、彼女は動かない。
そしてしばらく何かを考えると、とても不機嫌な感じで言った。
「ギルがそのつもりならいいよ……好きにすればいいよ、でもその代わり……」
少女は十分すぎるほどの間を貯めると、その続きを青年に向かって言い放った。
「これから先、一生口きいてあげないんだからね!」
まるで子供の喧嘩の様な、とても幼稚だ。
正直脅し文句にしてはかなり弱弱しくて、全く効果がなさそうだったのだが――。
「うっうぎぃぃぃぃ」
あれほどの殺気を出していた青年の顔が歪む。
口がきけないという脅しで完全に心を乱された様に見える。
「えっあっおっおい、だっだってこいつはキーコに攻撃して来たんだぞ、だっだから俺はお前を守ろうと思って……なっなぁ?」
「…………」
青年がとてもうろたえた様子でそう言うのだが、少女はそっぽを向いて押し黙る。
どうやら既に口をきかないというストライキは始まっているらしく、その事に気が付いた青年は余計に戸惑い始める。
「きっ、キーコぉぉぉっ」
「…………」
やはり何も言ってくれない震える青年を見て、何かを諦めたのか男がため息を付いた。
そして――、青年はとても不服そうに言葉をひねり出す。
「………………、解放しろぉ」
それは本当に聞き取り辛い声だった。
***********************************************************
「大丈夫ですか正士さん! 早く暖炉で暖まって下さい」
君子はすぐに正士を自分の部屋へと連れて行った。
正士の体は氷の様に冷たくて、このまま放っておいたら凍死ししてしまいそうだ。
「アンネさん、早く暖炉に火を付けて下さい」
「…………」
しかし正士がまだ暗殺者だと疑っているのか、不服そうな顔をしたまま動かない。
「アンネさんっ!」
再度呼びかけると、ようやくアンネは石炭をくべて火をつけてくれた。
君子は部屋にある毛布をありったけ正士にかけて、とにかく冷え切った体を温める。
「大丈夫ですか、もう……ヴィルムさんここまでやらなくたっていいのに」
唇は紫だし、手足からは血の気が引いている。
このまま死んでしまっても不思議ではないほど、彼からは体温が感じられなかった。
暖炉で背中をしばらく温めると、ようやく正士も口が利けるくらいに回復してきた。
「あっ……ありがとぉ、おっおかげで助かったよ」
「良いんですよ、こっちこそごめんなさい藤原さん、ギルとヴィルムさんがこんなひどい目に合わせてしまって」
「…………どっ、どうして、ぼっ僕のなっ名前を?」
「あっ、ごっごめんなさい、勝手に荷物を漁らせて貰いました、免許証が入っていたので日本人だって分かったんです」
「やっやっぱり、君も日本人なのか?」
「自己紹介が遅れてすいません、私は山田君子、一八歳です」
同じ日本人と分かって安堵したのか、正士は涙を流して喜んでいた。
気持ちは痛いほどわかる、急に違う世界に来てしまったのだから同じ日本人と分かれば、涙が出るほど嬉しいに決まっている。
君子はイルゼがいやいや持って来た、温かいポンテ茶を正士に飲ませる。
お茶を飲んで体温が戻落ち着いて来たので、君子は話を聞く事にした。
「とりあえず、お話を聞かせて下さい」
君子は正士の話を聞いた。
リストラをされて泥酔し道で眠ってしまったらここにいたというのだ。
その時光を見たとも言っているので、異世界に転移して来てしまった日本人、つまり異邦人という事になる。
しかも話によると今日転移して来たばかり、戸惑いは大きかったはずだ。
君子はこの世界について、知っている事を話した。
はじめはとても困惑したようだが、既に魔人や獣人を見ているらしく、ここが自分の常識が通用しない場所だという事を理解してくれた。
「……じゃあ、僕は日本には帰れない、という事なんですね」
「…………はい、今の所方法は解ってません」
嘘をつくべきかと思ったが、後々嘘だと思われるよりは今正直に話した方がいいだろうと思い、包み隠さずに話した。
少し落胆したようすだったが、なんとか精神が可笑しくなるという事はなかった。
「一体……どうしたら」
思わずそんな不安が漏れていた。
それはそうだろう、ここには彼の知り合いは誰もいない、どうやって生きて行けばいいのかなんて誰にも分からないのだ。
君子は運よくギルベルトと出会ってお城で面倒を見て貰えたが、普通は誰も頼れず、どうやって生きて行けばいいのか困惑する。
同じ日本人放ってなんかいられない。
「安心して下さい私も出来るだけフォローします、とりえずしばらくは私の部屋で暮らして下さい」
幸運な事に君子の部屋は無駄に三部屋もあるし、一部屋渡しても生活に支障はない。
しかしそれに猛反対するのはアンネである。
「だめぇっ、ここはキーコの部屋なの! こんな暗殺者なんかと隣同士なんて、ぜっっったいにだめぇ!」
「だってほっといたらまた藤原さんに酷い事するじゃないですかぁ! それだけは絶対にダメです!」
まだ君子以外の者達は、正士の事を暗殺者だと思っている。
部屋の隅で正士の事を睨みつけているギルベルトとヴィルムを見れば明らかだ。
「キーコ、貴方は前にも狙われた事があるのです、多少の疑いがあるならば徹底的に調べるべきです」
「まっまだ疑ってるんですかぁ! よく見て下さい私と藤原さん黒髪に黒目ですよ!」
「…………見た目は幻覚魔法でどうともなりますし、姿を変える特殊技能もあります」
つまり外見では判断しないと言っているのだろう。
「じゃっじゃあステータスを見ればいいんですよ、暗殺者じゃないって解る筈です!」
君子はステータスを見られる眼鏡を使って、正士のステータスを見た。
マサヒト フジワラ
特殊技能 『商魂』 ランク2
職業 なし
攻撃 E 耐久 E+ 魔力 D- 魔防 D 敏捷 E+ 幸運 D+
総合技量 D
あまり人の事を言えないが、これは到底暗殺者とは言えないステータスなのではないだろうか、君子は自信をもって言う。
「ほらどこをどう見てもふつーの人ですよ!」
「ステータスも偽装が出来ます、むしろこういう者の方が暗殺者に向いていると言えるのではないですか?」
強ければ警戒するのは当然の事、弱い人間だと思わせて近づく方が、隙をつけるし暗殺する確率は上がる。
だがそんな事を言われてしまったら、身の潔白を証明する方法がない。
というより、ヴィルム達は正士が暗殺者だと初めから決めつけて、他の意見をまるで聞く気がない様に思える。
取り付く島もない、君子は頬を膨らませて言い放つ。
「もう良いですよ! とにかく藤原さんには私の部屋にいて貰います」
「駄目だ、キーコの近くにそンなクソ野郎いさせてたまるか!」
暗殺者であろうがなかろうが、君子の近くにどこの馬の骨とも分からぬ男がいるのは許せない。
今にも正士を殺してしまいそうな恐ろしい眼で、彼を睨みつける。
「ひぃぃぃぃぃっ!」
そんな明確な殺意を持って睨まれたことなどない正士は、悲鳴を上げて縮こまる。
正士を庇う様に、君子が前に立った。
「ギルっ、いい加減にしてよね! 藤原さんに何かあったら、一生喋ってあげないし抱っこもさせてあげないんだからね!」
「うっうぐぐぐぐぐぐ~~~っ」
まるで犬の様に唸るギルベルト、正士の存在は嫌だが君子と話せずましてや抱っこも出来ないのはもっと嫌なのだろう。
二つの感情で揺れ動くギルベルトは、噴火前の火山の様にデリケートな存在だ。
扱いを間違えると噴火しかねない彼を見て、流石にまずいと思ったのかアンネが話しかけて来た。
「(どうしましょうヴィルムさん……)」
「(困りましたねぇ……全くルーフェンに引っ越してそうそうに)」
正直、正士を始末するか追い出せば済む話なのだが、そんな事をすると君子が絶対に許さないだろう。
「(………要は、あの男がキーコと同じ異邦人かどうかを確かめれば良いのですね)」
「(えっ……でもそんな事出来るんですか?)」
外見やステータスも偽装できるベルカリュースで、彼が異邦人であるという事を証明するのは本当に難しい事だ。
だがその証明さえできれば、事は進む。
暗殺者なら殺し異邦人ならお咎めなし、正士が殺されないと解れば君子も自分の部屋に置くという馬鹿な事は言わなくなり、ギルベルトの機嫌も戻るという算段だ。
「アンネ、貴方に用意していただきたいものがあるのですが」
***********************************************************
翌日。
一番鳥が鳴く頃、正士は目が覚めた。
あれから結局、君子の書斎で眠る事になった。
ギルベルトがものすごく不機嫌で、結局見張りのメイドが君子の寝室の前にいる事を条件に、部屋を使っていい事になった。
書斎は君子の希望によって和室に作り替えられていた、ヤマト村の畳を敷いて火鉢も置いてあって、温かい。
「……あぁ、いつの間にか眠ったのか」
異世界に来たショックで全く睡魔がなかったのだが、火鉢の温かさと布団のおかげで眠れたようだ。
しかし起きた所で状況は変わらない、また今日も暗殺者だと疑われるのだろうか。
「はぁ……リストラで異世界で暗殺者、ほんととんだ人生だ」
正士は大きな溜め息を付いた。
すると――、ドアがものすごく強くノックされた。
びっくりしていると、眉をつり上げてムスッとしているアンネがやって来た。
「なっ……なんで、しょうか?」
怖がる正士に、アンネはとても刺々しく言い放った。
「………………御飯よ」
シャンデリアが輝く、君子の部屋。
見事な彫刻の彫られた高そうなテーブルの上に、それは置かれていた。
お茶碗に盛られたほかほかな炊き立ての白米の御飯、お椀には青菜と豆腐のお味噌汁、そして――生卵。
ごくごく一般的な日本の朝食がそこにあった。
「……えっ、こっこれは?」
えらく場違いな朝食に正士は驚いた。
そう言えば昨日君子が、日本人が開拓した純日本的な村があるという話をしてくれたが、書斎の畳や火鉢、そしてこの食材はそこの村のものなのだろう。
「なによ……食べないの?」
「あっあの、山田さんは?」
「キーコは別よ、当たり前でしょう」
相変わらず警戒しているのか、アンネはムスッとしている。
その隣には、ちょっと緊張している様子のシャネット、そして鋭い眼光で睨んでいるヴィルム。
はっきり言って食べ難いのだが、いくら自分が暗殺者ではないと言っても信じて貰えない今、なるべく大人しくしていて嫌疑が晴れるのを待つしかないのだろうか。
ひとまず朝食を食べる事にする。
「いただきます」
正士としてはごくごく当たり前の動作として、卵へと手をかける。
大ぶりの綺麗な卵を空の器の淵で割ると、ぷりんっとした黄色い黄身が美しい生卵が出て来る。
カラザを取って醤油を垂らし、白身が残るくらいに黄身を溶きほぐすと御飯に穴をあけて、卵を流し込んだ。
そして――ただただ当たり前の事として、食べた。
「ぎゃあああああああああっ」
「やああああああああああっ」
アンネとシャネットが悲鳴を上げる。
びっくりした正士がむせ返りながら振り返ると、まるで得体のしれない物でも見る様な目をしていた。
「なっ、生卵、なっ生卵ぉたべてるぅぅ」
「気持ち悪いっ、気持ち悪いのですぅ~」
「えっ……なっなんでっ」
ご飯と生卵を出されたら卵かけご飯で食べるのは当然だろう、そっちが出しておいてこの反応はあんまりである。
「……どうやら、本当に異邦人の様ですね……」
「えっ、へっなっなんでっ、急に!」
断固として認めない雰囲気だったのに、急にあっさりと認めた。
戸惑う正士に、ヴィルムはテーブルの上の卵を指さす。
「卵を生で食べるなんて馬鹿な事をするのは、異邦人しかいません」
「てっ、まさかこの朝食は僕を試したんですか!」
つまり生卵は踏み絵。
確かに生で卵を食べる習慣は日本以外ではないので、このヨーロッパの文化に近いベルカリュースでも食べられていなくても不思議ではない。
もしも卵を食べられなかったら、暗殺者としてまた拷問にかけられていたのだろう。
ヴィルムが本当に嫌そうな顔をしているので、酷い判別方法だが、それくらい生卵を食べるという事はこの世界ではありえないのだろう。
「美味しいのになぁ……」
濃厚ですごく美味しい卵だ、白身も水っぽくなくきっと生みたての卵なのだろう。
普通に美味しいので、正士が更に食べていると――。
「あああああっ、なんで藤原さん卵かけご飯食べてるんですかぁ!」
寝間着のままの君子が起きて来た。
そして自分は没収を食らったというのに、正士が食べているのを見て憤慨する。
スラりんを抱っこしてすぐに近づくと、猛抗議をする。
「私は食べちゃ駄目なのになんでですかぁ、美味しいですか藤原さん、美味しいですよねぇ、美味しいに決まってますよねぇ!」
「えっ……あっはい」
「一口、一口でいいから下さい!」
「えっええぇっ」
しかしそんな事言われてはいどうぞなど言えない、正士が戸惑っていると、君子は腕にしがみ付いておねだりをする。
しかしそんな様子を、騒ぎを聞きつけて起きたギルベルトが見てしまった。
「このクソ野郎、キーコとイチャイチャすんなぁぁぁぁっ!」
「うわああああああっ」
卵ご飯をおねだりする君子に、怒り狂うギルベルト、そして悲鳴を上げる正士。
ルーフェンに引っ越してそうそう、おかしなことが起こるモノだ。
「……はぁ、全く騒がしいですね」
ヴィルムは、そう言ってため息を付くのだった。




