第八二話 引っ越しですか?
「へっ、引っ越しですか?」
帝都からマグニに戻って来て、エントランスでくつろいでいた君子に告げられたのは、そんな意外なものだった。
「はい、ギルベルト様の魔王就任に際して、領地が増える事になりました」
「つまり、ギルは二つの領地の領主になるってことですか?」
そもそもマグニ領は、ヴェルハルガルドの中でもかなり領土が小さい。
アルバートが治めるシューデンベル領に比べると、半分以下の領土しかないのである。
しかもマグニは大きな街はなく、大した交易もない土地で、皆がギルベルトを下に見る要因の一つだった。
しかし今回、新たな領地を与えられる事になった。
「ルーフェンというここから見て南西の領地です、人口もマグニより多く城下町もあって賑わった所ですよ」
「ひっ、引っ越しって事は、ヨルムンガンドさんはどうなっちゃんですかぁ!」
君子はエントランスに顔だけ出しているヨルムンガンドに抱き着く。
はじめは喰われかけたというのに、今ではすっかり仲良くなっている。
「ヨルムンガンドさんとせっかく仲良くなったのに、お別れなんて嫌ですよぉ」
「ご安心を、ヨルムンガンドも引っ越しします」
「そうジャ、あとからついて行くのジャっ!」
「良かったぁ、ヨルムンガンドさんも一緒なんですね!」
流石にこの巨体ではワイバーンに乗れない、後から陸路で行って合流する事になっている。
お別れでないという話を聞いて、君子は安心した様子でヨルムンガンドの頭を撫でる。
「という訳で、四日後にルーフェンに引っ越しをしますので、各自荷造りをして下さい」
そんなわけで君子達は、新しい城ルーフェン城へと向かう事になったのである。
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ルーフェン。
人口八千人、地方都市の中でも中規模の街だが、東南の流通の拠点であり様々な物資がここから都市へと流れて行く。
商人の宿場町でもあるこの街は、ちょっとしたお祭りムードだった。
長らく空席だった領主が決まった。
それも魔王で王族。
ヴェルハルガルドでは強者の中の強者である魔王は大変人気、王族であるのだから、ルーフェンに住む者達は喜んでいて、領主がやって来るのを楽しみにしていた。
その領主が暮らす官邸である、ルーフェン城は緊張していた。
これからやって来る新領主ギルベルトに失礼がない様に、メイドや執事達の最終確認が行われていた。
「以上が各部署の説明です、その他細かい説明は各部署の責任者に聞いて下さい」
この城の全てを統括するのが、中年の人間メイド、イルゼである。
メイド長の職を担う彼女は、ルーフェン城で働く百人の召使い達にそう言った。
相手は魔王で王族、一切の不敬があってはならない。
皆、その事を胸にしっかりと刻んで、それぞれの持ち場へと向かった。
「シャネット、来なさい」
「はっはいっ」
メイド長イルゼに呼ばれたのは、一人の少女。
腰まである真っ白な巻き髪はもこもこのふわふわで、触れずにはいられない。
中くらいの胸だが、メイド服からでも分かる細いウエストので、とてもスタイルがよく見える。
だが何よりも目を引くのは頭の角、ちょっと弱気な美少女には似合わないが、これは生粋の物だ。
シャネット・ランゼ
羊の半魔人である彼女は、ルーフェン城に新しい領主が来た為雇われた、新米メイドである。
初めてメイドとして働く彼女は、とても大切な職を与えられた。
「貴方には、ご主人様の恋人のお世話を務めていただきます」
「はっはいっ……、頑張らせていただきますのですっ!」
シャネットが仕えるのは領主の恋人、彼女はその身の回りの世話をする。
「ヴィルム様のお話では貴方と歳が近いそうです、お二人の王子からご寵愛を受けているお方です、くれぐれも粗相のない様に」
ただでさえ緊張しているというのに、より一層怖くなった。
「いちおうマグニ城にいた時の専属メイドがおります、彼女は貴方の先輩にあたるので、ご主人様の性格や趣味嗜好などを聞いておくとよいでしょう」
先輩がいると聞いてシャネットは安心した、自分の様なド新人がいきなり王族の恋人のメイドというのは荷が重すぎる。
「それで、そろそろご主人様達がご到着される頃ですが、暖炉に火を入れたのですか?」
「はっ、まっまだなのです~」
「ご主人様達はワイバーンで来られるのですよ、いくらマグニに比べれば暖かいルーフェンでも飛んでくれば寒いに決まっています、早く火を起こして来なさい」
「めっめぇ~、わっ分かりましたなのですっ!」
「それと、ご主人様の為に浴場の掃除もしておくんですよ」
「はっはい~~っ」
シャネットは石炭とマッチを持つと、急いで四階へと向かう。
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一方その頃、君子はギルベルトのワイバーンで空を飛んでいた。
雲の合間から時々見える畑や村は物珍しい。
「あっ、あれっ!」
見えて来たのは城下町である、大きな広場が特徴的な街で、一直線に伸びるメインストリートには、沢山の馬車や人が行きかっている。
帝都や聖都ではこれ以上の規模の街並みを見たが、こっちはなんだか普通の人の営みがあってみていてとても楽しい。
赤い鱗のワイバーンで並走していたヴィルムがある建物を指さした。
「アレがルーフェン城です」
赤い煉瓦を積まれて城には、綺麗なネイビー色の屋根がついていて、とてもメルヘンな雰囲気を醸し出している。
しかし四階建ての城の大きさはマグニ城の倍、大きな門と陸上のトラックが優に入り、かつサッカーコートと野球場が入ってしまいそうな広すぎる庭があった。
「あっあそこで暮らすんですか……」
びっくりするほど豪華で大きい、あんな所で暮らしていいのだろうか。
おじけづく君子とは違いギルベルトはワイバーンのスピードを上げる。
そして玄関ではなく、四階のエントランスへと強引に着地した。
「うにょっ!」
すさまじい衝撃で、首がガクッとなった。
マグニより立派な城だというのに、ギルベルトは全く怖気づいていない様だ。
「けけっ、ここが新しい家かっ!」
「ギルベルト様、せめて玄関からお入りください……」
玄関では、城を統括しているメイド長が待っているはずなのに、できれば合流してギルベルトや君子の事を紹介して置きたかった。
「ヴィルムさん、どうしましょう」
アンネは緑色の鱗の小型ワイバーンから降りながらそう言った。
ベアッグと双子は陸路で来るのでもう少し時間がかかるだろう、できれば温かいお茶でも出したい。
「では私はアンネとワイバーンを竜舎に戻して来ます、それでメイド長に事情を話して、ギルベルト様の部屋に来ていただきましょう」
「分りました」
「あのっ、私はどうしたらいいですか?」
「自分の部屋に荷物を置いて、ギルベルト様の部屋にいて下さい」
ヴィルムはそう言うと、君子の部屋を指さす。
「貴方の部屋はちょうどあの花壇がある所です、ギルベルト様の部屋は貴方の部屋から二つ隣です」
「はーい、わかりました」
君子は持って来た荷物を置くために自室へと向かう。
「スラりんも寒かったよね、すぐにあったかくしてあげるからね~」
ベランダから入るというのはちょっと礼儀知らずな気もするが、この際仕方がない。
君子はノブに手をかけると、部屋へと入る。
「あっ――」
真っ先に見えたのは高価な絨毯、花をあしらった模様が刻まれたソレは踏むのをためらうほど美しく、ふかふかしている。
次に見えたのは高価なソファとテーブル、どちらも木目が美しい木で作られていて、飽きの来ないシンプルなデザインに、百合の花の彫刻が控えめながらも繊細に施されていた。
そして何よりも君子の眼を引いたのは――、天井で煌くシャンデリア。
到底凡人には不似合いな、超高級な空間が広がっていた。
「なっ、なにっ……こっこれ」
まるで一流ホテルの様な造り、君子は驚き戸惑いながら部屋を見渡す。
見ると、他に部屋が二つある。
その内の一つを開けてみると――そこは寝室。
天蓋付きのベッドはクイーンサイズで、君子が寝ころんでも余裕があって、あと二人は眠れそうだ。
マットレスはとても柔らかくて、どこまでも沈んで行ってしまいそうな超低反発だ。
白地に金色の装飾が目立つドレッサーに、これまた広すぎるウォークインクローゼット。
「ひっ――」
続いて隣のドアを開けると、シックな色で統一された書斎があった。
三部屋全て合わせると、軽く二〇畳は超える。
この三部屋全てが、モブの脇役である君子の部屋――――。
「なっなにこれっ東京にいた時のアパートより広いよ!」
君子は驚きのあまり、スラりんと荷物を落とした事にも気が付かない程だった。
ただこの部屋を、庶民の足で汚してはいけない。
一刻も早くこの場から立ち去りたい、そう強く思っていると誰かがやって来た。
「……めぇっ?」
やって来たのは、羊の半獣人のシャネットである。
部屋の暖炉に火を入れる為に、石炭とマッチをもって来たのだ。
シャネットは、変わった服を着た知らない少女君子を見て、戸惑った。
「もしかして、マグニの方なのですか?」
「へっ、あっはい……そうです」
この部屋はシャネットの主人のものなのだが、彼女はとても王族の恋人という風には見えない、となると――。
「もっもしかして先輩なのですか?」
君子の雰囲気は召使いを使うという主人の物とは到底思えなかった、だからシャネットはごくごく普通に、君子を先輩メイドであるアンネと勘違いしてしまった。
シャネットが石炭の入ったバケツを置こうとしたのだが、その時手が滑って石炭をばらまいてしまった。
「めっめええええええっ!」
高級な絨毯の上に散乱した石炭を、シャネットは拾い上げる。
しかし手袋をしないで拾ってしまったので、手が汚れてしまう。
君子はハンカチを取り出すと、シャネットに手渡す。
「どうぞ、使って下さい」
「ありがとうございますなのです」
シャネットは申し訳なさそうに受け取ると、手の汚れを拭く。
君子は両手を合わせ特殊技能で軍手を二組造ると、シャネットへと手渡す。
「どうぞ使って下さい」
「すっすいませんなのです」
君子も軍手を装備すると、石炭を拾うのを手伝う。
よくよく考えると、石炭に触れるのはこれが初めての事だ。
君子も手伝って暖炉に石炭をくべると、シャネットがマッチを取り出す。
「あっあれっ?」
しかし上手くこする事が出来ず、なかなか着火しない。
それどころか力を入れすぎてマッチが折れて、何本も無駄にしてしまう。
放っておけなくなった君子は、シャネットからマッチを受け取ると手慣れた手つきで火をつけた。
「マッチが折れないなんてすごいのです!」
「マッチは前に押し出すようにこすると、とっても簡単につきますよ」
まさか小学校の理科の時間に教わった技術が、こんな所で役に立つなんて思わなかった。
紙に火を燃え移らせて火種をつけると、暖炉の暖炉にいれる。
しばらくすると石炭に火が移って、温かくなって来た。
「よかったぁこれでメイド長に怒られなくて済むのです、えっとぉ……」
「あっ、私は山田君子、キーコって呼んで下さい!」
「わたしはシャネット、シャネット・ランゼって言うのです」
君子は同い年ぐらい(にみえる)のメイドさんを見て、ちょっと嬉しかった。
なんやかんや言って、君子の周辺には外見も年齢も年上の人が多いから、ちょっと嬉しかった。
「めぇっ、そっそうでしたぁ、あと浴場の掃除をしないといけないのでしたぁ」
シャネットはメイド長に言われた事を思い出して慌てふためく。
「はっ早くしないと、ご主人様が着ちゃうのですぅ」
なんだが抜けているシャネットを見て、君子はどうしても放っておけなくなった。
だからごくごく自然の流れで、行動を起こした。
「それじゃあ早く行きましょうっ、私もお手伝いしますから!」
君子はすっかりギルベルトの部屋へ行くことも忘れて、シャネットと共にこの超豪華な部屋を後にするのだった。
ルーフェンの浴場は、はっきり言ってどこぞの大衆浴場かと思うほど広い。
何十人もいっぺんに入れそうな大きな浴槽に、中くらいの浴槽、小さい浴槽、色々あるが、そのどれもが大理石でできていて、はっきり言って贅沢すぎる。
「こっこれ全部掃除するんですか……」
よく見ると、細かい所に汚れが残っているし、湿気のせいでカビが目立っている、こんなお風呂では気持ちよく入れない。
「ごっごめんなさい、本当はもっと早くやるように言われていたのです、でも……わたしの仕事が遅いから……」
むしろここまで汚れていると、かえってやる気が起きるという物だ。
君子は制服のカーディガンを脱ぐと真っ白なエプロンを装備して、腕まくりをして気合を入れる。
「よしっ、頑張りましょうシャネットさん!」
「はっはいっ、キーコ先輩!」
まずは頑固な水垢から駆逐することにする。
「水垢は研磨して落とす方法もありますけど……それだと時間がかかるので、ここは文明の利器に頼りましょう!」
君子は両手を合わせると、魔力を集中させる。
そして魔力は君子の想像に沿って、姿を変えた――。
「酸性洗剤~」
某猫型ロボットを意識して、ボトルに入った洗剤を掲げる君子。
しかしシャネットはそれが何か解らずに首を傾げる。
「さんせい、せんざい?」
「はい、お風呂の水垢はアルカリ性なので、酸性の洗剤で洗うと、とってもよく落ちるんですよ」
しかもこれは君子がずっと欲しかった、業者用の洗剤。
通販番組でずっと紹介されていたのだが、高価で手に入れる事が出来なかったのだ。
「東京のアパートでもこの特殊技能さえあれば、年末の大掃除が楽になったのに……」
水垢と鏡のウロコは本当に落とすのが大変だった。
本当に異世界万歳、特殊技能最高である。
君子は洗剤をスポンジに振りかけると、頑固な水垢をこする。
すると水垢があっという間に落ちてしまった。
「すっすごいっ、すごいですの!」
「スポンジと洗剤を渡すので、シャネットさんもやってみて下さい」
シャネットも試しにスポンジでこすってみると、頑固な水垢汚れが落ちてしまった。
本来何度もこするしかない水垢汚れが、あっという間に落ちる様は言葉に表せないほどの快感だ。
「後は、黒カビですね……、カビはコレっ!」
君子はカビ取り専用の洗剤を特殊技能で造ると、頑固なカビ目掛けて噴射する。
ちょっときつい匂いにシャネットは顔を顰めた。
「これで本当にカビが取れるのですか?」
「はい、そろそろかな?」
しばらく時間を置いてから泡を流してみると、あの頑固な黒カビが跡形もない。
強くこする訳でもない、ただ待つだけでカビが無くなったのを見てシャネットは興奮する。
「あっあの頑固なカビが、こんなに跡形もなく無くなるのですかぁ!」
なんだか、通販番組みたいになって来た。
だがそんな便利な洗剤や道具で、水垢や黒カビが見る見るうちに落ちていくので、大変だが面白い。
(こういう掃除って、一回始めると楽しくなってくるんだよね~)
元々家事が嫌いではない君子は、一度やるとハマるタイプだ。
よくよく考えてみると、マグニの城に来てからは料理をする機会はあったが、掃除をする機会はなかった。
東京にいた時は当たり前の様にやっていたので、むしろ体の方がこの労働を求めていた。
(なんだろう、今私とっても充実している……)
いつもギルベルトに抱きしめられているだけで、ご飯は勝手に出て来るし、お風呂の準備も床の準備も全て勝手にやってもらえる。
そんな生活君子の様なモブの凡人の脇役に合う訳がなかったのだ。
むしろこうやって、お風呂の水垢やカビを落とす方が性に合っている。
だからなのか余計に熱が入り、きびきびと手を動かして行く。
するとシャネットがメイド長に言われた事を思い出して、口を開く。
「……あのキーコ先輩、ご主人様ってどんな方なのでしょうか」
シャネットは君子の専属メイドだ、つまり彼女の主人は他でもない君子なのだが、君子をアンネと勘違いしているので、眼の前にいる彼女が主人だとは夢にも思っていない。
一方君子は――。
(ご主人様って……ギルの事だよね?)
ギルベルトはこのルーフェンの領主、この城はギルベルトの家なので、シャネットの言うご主人様の事をギルベルトの事だと勘違いしてしまった。
勘違いに勘違いを塗り重ねているとは夢にも思わず、君子は正直に答える。
「う~んちょっと怖い人、かな?」
「こっこわいのですかっ!」
「うん、それにワガママで暴力的だし、野菜は嫌いだし子供っぽいし、あんまり印象が良いとは言えないかなぁ」
「わっ、ワガママで暴力、野菜嫌いで子供っぽい……」
シャネットの脳内には、とんでもなく高飛車な貴族の令嬢が、自分に嫌いな野菜を投げつけて来るという映像が構築され、何度も再生される。
自分の様なのろまでドジなメイドは、きっと怒らせてしまうに違いない。
ぷるぷると震えるシャネット、君子はちょっと怖がらせすぎた事に気が付いた。
「あっ、でっでも大丈夫ですよ、最近は壁を壊したり使用人を殴ったりしないらしいし」
「こっ壊すっ、殴るぅっ!」
君子もそんな風にイライラしているギルベルトを見た事は無いのだが、余計に怖がらせてしまったようだ。
「わっわたし……五人の妹と弟がいるのです、わたしが稼がないと皆飢えてしまうのです」
シャネットの家は小さな土地しか持っていない農家で、山で猟や材木をとる事で生計を立てている。
だからもし主人の機嫌を損ねて仕事をクビになる、あるいは怪我でもして働けなくなったら大変な事になってしまう。
涙を浮かべながら不安がるシャネットの手を、力強く握る。
「大丈夫ですシャネットさん! 失敗しても、私がカバーしますよ!」
「キーコ先輩……」
頼りになる先輩の言葉でシャネットは勇気づけられる。
「シャネットさんがご主人様にクビにならない様にフォローしますし、私から殴らない様によ~く言い聞かせますからっ!」
このご主人様と言うのは、そんな事を言っている君子本人なのだが、勘違いに勘違いを塗り重ねている二人は、その事を知らない。
「先輩……」
「先輩なんて呼ばなくていいですよ、キーコでいいです」
君子の言葉に、シャネットはちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「キっ、キーコさん……ありがとうございますぅ」
それからも黙々と掃除を続けて、どうにか風呂の水垢とりは終わった。
だが四つん這いになって作業をしていたので、服が濡れて体がすっかり冷えてしまった。
「う~、お城の中とはいえども寒いですねぇ」
「めっめぇ……、あっ、わたしの髪に手を突っ込んでみて下さいなのです」
「えっ髪に?」
君子はシャネットに言われるがまま、手を髪の毛に突っ込んでみた、
すると、信じられないぐらい肌触りが良くて温かい。
「あっ温かい」
「わたしは羊の半獣人なので、髪の毛はとってもあったいのです!」
言われてみればこれは髪の毛と言うよりは羊毛だ。
このモフモフ、なんとも例えようがない手触りに君子は夢中でモフる。
かじかんでいた手に血の気が戻り、ぽかぽかしてきた。
「お部屋に戻ってお洋服を着替えた方がいいですの、行きましょうです!」
シャネットに連れられるまま、君子も後に続く。
やって来たのは一階の部屋、絢爛豪華で物静かな雰囲気の四階に比べると、質素な作りで、メイドや執事にコックや庭師などなどが、せわしなく行きかっていて賑わっている。
「すごい人……」
マグニはアンネとベアッグと双子しか使用人がいなかったので、これだけの人数がいるルーフェンのお城は、なんだかとっても落ち着かない。
(こんな所で暮らしていけるのかなぁ?)
三部屋もあるあんな豪華な部屋が、これから自室になると思うと、凡人の拒絶反応により胃がキリキリして来た。
「着きました、ここが私達のお部屋なのです!」
シャネットがドアを開くと――、そこにはたくさんのメイドがいた。
身支度をしている者もいれば、軽食を取っている者もいる。
床は板が打ちっぱなしで、壁もところどころ剥がれてしまっていた。
十個置いてあるベッドは、どれもマットレスが固くて寝心地が悪そうだ。
領主のメイドとはいえども待遇はこれくらいだ、一人一畳ちょっとくらいのスペースに押し込まれている。
立ったまま君子が動かないので、心配になるシャネット。
「せっキーコさん……、もしかしてマグニの方がいいお部屋なのですかの?」
気に入らなかったのではないかと思って、心配するシャネット。
すると君子は――。
「なっ……なんて、私にあった部屋なんですか!」
この絶妙なボロい感じ、一人当たりのスペースの狭さ、これこそ君子の求めていた部屋。
凡人のあるべき部屋。
「この絶妙なボロさ、東京にいた時のアパートにそっくりですっ! それにこのベッドの大きさこれが私のいるべき場所です!」
君子はベッドにもたれかかると、その固さを懐かしむ。
あんな大きすぎて柔らかすぎるベッドでなんて眠れない、この大きさこの硬さが良いのだ。
言っている意味が分からないが、君子が部屋に不満を持っていないと解ると、シャネットは安心した。
「わたしのベッドはお隣です、これからよろしくお願いしますなのですっ!」
「はいっ、よろしくお願いしますっ!」
君子は改めて、シャネットと固い握手をした。
「シャネット、こんな所にいたのですか」
「あっメイド長、お掃除終ったのです」
「それどころではありません、貴方のご主人様がいなくなってしまわれたのです」
「めぇっ、ごっご主人様がっ!」
主人が行方不明と聞いて、シャネットは慌てた。
「キーコさん、急いでご主人様を探しましょうですのっ!」
「キーコ?」
メイド長は、君子を見て不思議そうに首を傾げる。
「誰です、その方は」
「へっ……誰って先輩なのです」
「……貴方の先輩は、アンネという半魔人の少女ですよ」
「へっ? でっでも、先輩は――」
シャネットがそう言った瞬間。
「キーコォォォっ!」
それはまるで借金取りの取り立ての様な怒号。
さんざん部屋で一人待たされて、怒り心頭の彼の声――。
「めっめぇぇぇっ、いっ一体誰ですの、メイド長!」
シャネットの問いに、イルゼはすぐに答えられなかった。
それどころか、冷静な彼女の表情が見る見るうちに驚愕の物へと変わる。
「おっ、王子殿下っ!」
王子、それはつまり魔王でありこの城の領主である、ご主人様と言う事。
それが、こんな汚いメイドの部屋に来るなんて――一体誰が予想しただろうか。
「ぎっぎるううううっ!」
かなりお怒り気味のギルベルトを見て、君子は悲鳴を上げた。
「めぇっ、おっ王子、えっへぇっ?」
戸惑うシャネットやイルゼ、更には部屋にいたメイド達。
普通こういう場所に王子は来ない、心の準備ができていない皆は、ある者は慌てふためきある者は呆然としていた。
ギルベルトの後を追って、かなり怒った様子のヴィルムとアンネがやって来た。
「キーコ、私は貴方にギルベルト様の部屋に行くように言ったはずですが?」
「その恰好……、キーコまたメイドの仕事したんでしょうっ!」
いつまでたっても君子が来ないので、ギルベルトは匂いを辿って城中を探していたのだ。
君子は必死に弁明する。
「だっだって……、かっ考えてみて下さいヴィルムさん、私みたいなモブの脇役に、あんな超豪華な部屋を三つなんて多すぎますよぉ」
君子の荷物は、アルバートからもらったスティラの種と旅行バッグ一つ分の衣服や日常品、そしてスラりんだけ。
三部屋も必要ないし、そもそも前から思っていたが待遇が豪華すぎるのだ。
「お掃除をして、私は気が付いたんです、私が本当にしたい事は――仕事なんだと!」
大浴場の掃除をして、君子は思い出したのだ。
マグニに来てからという物、身の回りの世話も御飯も、全て面倒見て貰っていてすっかり忘れていた。
モブの脇役の凡人が、養われていいはずがないのだ。
「だからこれからは労働をして生きて行くって決めたんですっ!」
君子は決意表明の様な主張をしたのだが――。
「うっせぇ、いーから行くぞぉっ!」
「あー、やめてぇ担がないでぇ~~~~」
ギルベルトは君子を俵担ぎにすると、嫌がる彼女を無視して部屋へと戻っていく。
凡人には不似合いな絢爛豪華な部屋へと連れ戻される君子の悲鳴が、響き渡る。
「メイド長、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「ヴィっヴィルム様、こっこれは一体どういう事なのですか」
「お恥ずかしい話ですが、アレが行方不明だった王子のお気に入りのキーコです」
それを聞いて、イルゼも驚いた。
二人の王子の寵愛を受けている女性が、まさかあんな平凡な少女だとは思いもしなかったのだ。
だがイルゼ以上に驚き、そして絶望していたのは、他でもないシャネットだった。
「えっ……じゃっじゃあ、わたしはご主人様と一緒にお掃除をしていたのですか?」
本来なら仕えるべき人に、石炭を拾わせ、あまつさえ浴場の掃除までさせてしまった。
自分がしでかしてしまった事をようやく自覚した。
「めっめぇぇぇぇぇっ」
驚愕と戸惑い、そして主人に掃除をさせてしまった罪の意識によって、シャネットは眩暈を起こして、倒れてしまうのだった――。
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「うっうう、あんなに人がいっぱいいるのに、俵担ぎは酷い……」
「うっせぇ、キーコがいつまで経っても、俺の所に来ねーからだろう」
ギルベルトはマグニ城よりもフカフカで大きいソファに横になると、君子を自身の腹の上に乗せてくつろいでいた。
「全く、貴方はギルベルト様のお傍にいればいいと前にも言ったでしょう」
「そうよ、キーコは王子と一緒にいればいいの、分かった?」
ヴィルムとアンネが、勝手な行動をした君子をこっぴどく叱っていた。
君子がいないとギルベルトはルーフェンの城を壊しかねないのだ、掃除よりもずっと大事な役目がある事を自覚すべきだろう。
「ソレのどこがお仕事なんですかぁ……私もお掃除とかお洗濯とかしたいのに」
スラりんを抱きしめながら、君子はぶつぶつと文句を言っていた。
ドアがノックされると、怪訝な顔をしているメイド長と涙で目を腫らしているシャネットがやって来た。
「あっ、シャネットさん」
君子は笑うのだが、シャネットは暗い表情で俯いている。
首を傾げると、メイド長イルゼが口を開く。
「この度はシャネットが大変なご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
そう言って二人は突然頭を下げて来た。
「へっ……迷惑?」
しかし君子は掃除がとても楽しかったので、まさかその事を謝っているとは思わない。
だから、自身の下にいるギルベルトに謝罪をしているモノだと勘違いしてしまう。
「そう言えばギル、シャネットさんが不安がってたから、酷いワガママを言ったり暴力をふるっちゃったりしたら駄目だよ、ギルはご主人様なんだから」
上に立つ者と言うのは、下の者を思いやらなければならない、そんな道徳心を君子がこれから説こうと思ったのだが――呆れた様子のヴィルムが口を開く。
「何を言っているのですか、彼女は貴方の専属メイドですよ」
「へっ?」
「ちなみにアンネも貴方の専属になります、あと双子も」
マグニ城でも、本当なら君子には専属のメイドをつけたかった。
しかしギルベルトが半殺しにしてしまったせいで、使用人の数は激減。
城を回していくにはとても専属メイドなどできず、今までいなかったのだが、ルーフェンは違う、一〇〇人の使用人がいるので君子にも専属メイドが付けられるのだ。
衝撃の事実を聞いて固まる君子に、イルゼは謝罪を続ける。
「主であるキーコ様に掃除をさせるなどあってはならない事、メイド長である私の監督不行き届きで御座います」
「えっ……いっいやっ、あのっ」
「メイド長として責任を取る為私は減給を、そしてシャネットは解雇――」
「えっちょっ、ちょっと待って下さい! なんでシャネットさんがクビになっちゃうんですかぁ!」
主人としての自覚がないのは君子だけ、シャネットは膝をついて深々と頭を下げた。
「キーコ様、ほっ本当に、申し訳ありませんなのです……」
シャネットは仕事がなくなる事で悲しくて泣いてしまったのか、鼻声だった。
「ちょっと待って下さい、シャネットさんは家族が多くてお仕事がクビになったら大変な事になっちゃうんです、だからクビにしないで下さいっ!」
「しかし、シャネットは仕事の覚えが遅く、いつも何かしら失敗をしますし……」
「そんなの関係ないです、シャネットさんは妹さん達の為に一生懸命働いているんですよ、それはすごい事ですし、仕事だったらこれから覚えて行けばいいですし、失敗だったら私がフォローしますから!」
「……キーコ様」
「……しかし」
ソレでは他のメイドに示しがつかない、主人への不敬は許していけない事だ。
メイド長の立場として渋るイルゼに、君子はあろうことか頭を下げてお願いする。
「お願いします、お掃除の事は私が勝手に手伝ったんです、私の好きでやったんですから、シャネットさんは何一つ悪くないんです、だからクビにしないで下さい」
「いけませんキーコ様、私共の様なメイドに頭を下げられては……」
「キーコ様止めて下さいなのです」
一生懸命メイドの為に頭を下げる事に、イルゼもシャネットも驚き戸惑っていた。
そんな様子を見ていたヴィルムは、ようやく口を開いた。
「メイド長、今回はこれくらいでいいのではありませんか?」
「ヴィルム様……、しかし……」
「そもそも先にキーコの『使用人の仕事をしたがる』という悪癖を話していなかった私にも責があります、それにキーコはそのメイドの事をとても気に入っているようです」
ヴィルムの言葉に、君子は何度も頷く。
「はいっ、シャネットさんじゃなきゃ嫌です!」
「だそうですし、今回は厳重注意という事でいいでしょう」
「…………キーコ様とヴィルム様が仰るのでしたら」
イルゼもようやく折れてくれ、何とかシャネットのクビの話は無くなった。
君子は膝をついて、シャネットの手を掴む。
本来主人がこんな事をしてはいけないのだが、君子が主人らしくない事は皆分かっているので、誰も何も言わない。
「ほっほんとうにわたしでいいんでしょうか、とっても迷惑をかけてしまったのにです」
「何言ってるんですかシャネットさん、クビにさせないって言ったじゃないですか」
にっこりと笑う君子を見て、シャネットの顔にも笑顔が戻って来た。
こうしてルーフェンの引っ越しは無事に終わったのだった。
魔王就任編、完結。
大まか予定通り書けたかなぁと思います。
これからは王族の皆さんを登場させられればなぁと思います。
次回より新章に入ります。
ルーフェンに移った君子とギルベルト、新しい街で新しい人達と新しい事を始めます!
(新しくない人達もいますが……)
意外なあの人から新参者まで、ちょっと騒がしくなるルーフェンのお話で御座います!




