第八〇話 パパ
パーティの翌日。
ベルフォートはガルド城にいた。
より正確に言うと、ガルド城の玉座の間にいた。
「それでねっそれでねっ、すっごく可愛い子なのよ~」
嬉しそうに、体をくねくねさせながら話すベルフォート。
「アルバートもギルベルトもメロメロのデレデレでね~、父上にも見せたかったわ~」
楽しそうなベルフォートの前には、巨大な玉座に座る巨大な王。
この国の皇帝であり、ギルベルト達の父――魔王帝ベネディクト。
「ギルベルトなんて、自分の刻印を書くくらい好きなのよ~」
ベネディクトは、ギルベルトとアルバートのピアスを受け取った女の話を、ベルフォートから聞いた。
どちらもそう言う女性が出来た事は知っていたが、まさか同じ女に贈っていたとは思わなかった。
「それにね異邦人で、お洋服のセンスもいいのっ!」
「……異邦人か」
服の話はどちらでもいいが、この世界ではない別の世界の人間と聞いて、少し黙った。
そんな彼をベルフォートとネフェルアが見上げていた。
「うむ……、面白そうだ」
そう言って笑う。
それは、どこかとんでもない事が起こりそうな予感を孕んでいた。
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君子は、初めて帝都の街を散策していた。
もう五日も帝都にいるのに、今まで散歩も出来なかったのは可笑しな話だ。
「ふぁ~すごい、正に都って感じですね!」
翼のないワイバーンが引く馬車が行きかっていて、乗り物こそ違えど賑わいは東京と大差ない様に思える。
まるでヨーロッパにでも来たような街並みに、君子は興奮していた。
「当然だ、ヴェルハルガルド最大の人口を誇る要塞都市だからな、この都に勝る都市はベルカリュース中探しても見つかるまい」
アルバートは自信をもってそのように答えた。
「なンでてめぇまでいるンだよぉ!」
「私はキーコに帝都を案内しているだけだ、貴様こそいつまで付きまとうつもりだ」
アルバートはパーティが終わった後も、当然の様に君子と一緒にいた。
昨夜の君子があまりにも美しかったので、離れたくないのである。
しかしギルベルトだってそれは同じ、君子と一緒にいたいのにアルバートがしつこく付きまとうので、イライラしていた。
「私は昨夜のキーコを見て確信した、キーコは私の妻になるべき人だ」
「黙れ、クソ野郎がっ!」
アルバートは君子の手に指を絡めて来る、それに怒ってギルベルトが殴り掛かった。
しかし当然の様に特殊技能で避けられて、いつものように乱闘になる。
もう、この程度では誰も気に留めなくなって来た。
「でも昨日のキーコは本当に綺麗だったわ~、これからはああいう恰好をするようにしましょうよ!」
「いっ嫌ですよ、それにアレはベルフォートさんの『魔法』あっての物ですから……」
「そうよね、あのメイクは本当にすごいわ……私も教わりたいくらいよ」
「メイクだけじゃないわよ、『ベル』の服は貴族の令嬢にも人気だしね、アタシも着たいわ」
「やっぱりそうですよね、あのブランドは本当にいいですもん!」
ベルフォートのブランドは軍人女性の中でも人気で、小物をつけて軍服をアレンジする者もいれば、オーダーメイドする者もいる。
それくらい彼のブランドは人気なのである。
すっかり観光気分の一行、実際明日の会議まで用事は無いのだが、やはり王族がそれも魔王になったばかりで注目を浴びているギルベルトとアルバートが、堂々と出歩いているのは目立つ。
「仕方がありません馬車を用意させましょう」
下手に目立つのは困るのでヴィルムが馬車を手配する。
ギルベルトとアルバートは相変わらずやりあっていて、ルールアとアンネはファッションの話をして、君子はスラりんバックに入っている愛しのスラりんを撫でる。
そんな時――。
「……キーコ様、でいらっしゃいますか?」
そう声をかけられた。
しかし、振り返るとそこにいたのは耳の長い魔人の老人。
老人といっても背筋がピンとしていて、風格がある紳士の様だ。
「異邦人の、キーコ様でよろしいでしょうか?」
そう言ってもう一度確認を取って来た、知らない人だが向こうはこちらを知っているらしい、とりあえず肯定する。
「はっはい……、あっあのぉどちら様でしょうか?」
君子が恐る恐る尋ねると、話していたルールアとアンネもその老人の姿に気が付いた。
何か普通ではない空気を感じて、ギルベルトとアルバートも乱闘を止める。
そして馬車を手配していたヴィルムが戻って来た。
「辻馬車を捕まえました、乗り心地はあまりよろしくないでしょうがどうか辛抱を……」
ヴィルムの言葉はそこで切られてしまった。
彼の視線は、まっすぐ君子の前にいる老人へと向けられている。
そして見る見るうちに君子も初めて見る、驚愕の顔へと変わっていった。
「まっ、魔王将ネフェルア様……」
こんな所にいるはずのない人物に、ヴィルムはただただ驚愕する。
「へっ……魔王将?」
それは何度か聞いた事が在る言葉、確か六人の魔王を統べる三人の将。
ただでさえ偉い魔王のそのまた上の存在、それがこの老人。
君子がその事を理解する前に、ネフェルアは君子の鎖骨と左胸の間に人差し指を当てる。
それはつい先日見たばかりの光景――、刻印の上書き。
書かれた者より強い者が名前を書け、それよりも強い者なら上から書き換えられる。
本当に一瞬で、君子もギルベルトとアルバートもヴィルムもルールアもアンネも、誰も理解できなかった。
そしてネフェルアは、所有物である君子の肩を掴むと――。
「では、お借りいたしますギルベルト王子殿下」
そう平然と言った。
「まっ――」
ギルベルトが怒号を上げようと口を開いたが、ネフェルアと彼に掴まれた君子はその場から一瞬で消えてしまった。
光に包まれて消えたわけでもない、本当に一瞬で眼の前から消えたのだ。
戸惑うギルベルトにアルバートが、焦った様子で口を開く。
「急いで城に戻るぞ!」
状況を理解できていない者達に、アルバートは続けた。
「ネフェルア魔王将殿がキーコを連れ去る理由などない、そこにあの方の意志がないとすれば、可能性は一つしかないだろう」
「……まさか」
魔王将は魔王よりも上の立場、有事の際は魔王を指揮する存在。
そんな彼に命令できるのは、この国にたった一人。
「行くぞ、玉座の間だ!」
そしてギルベルトとアルバートは、父ベネディクトの元へと走った。
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君子は、突然変わった眼の前の景色に驚いていた。
確かに帝都の石畳を踏んでいたはずなのに、今は高級そうな赤絨毯を安物のパンプスが踏んでいる。
「へっ……アレ?」
一緒にいた筈のギルベルトやアルバート達の姿がない。
何が起こったのか訳が分からない君子は、恐る恐るネフェルアに尋ねようとしたのだが、視界の端の方で何かが動いたので、そちらを見る事を優先してしまった。
「……ふぇっ?」
君子が振り返ると、柱だと思っていた物は巨大な足だった。
壁だと思っていた物は胴体で、よく見るとそれは馬鹿みたいに大きな椅子に腰かけていて、君子は初めて、ここで何か巨大なものがいる事に気が付く。
君子はゆっくりと視線を上げた、上げなければ良かったと後悔したのは、言う間でもなかった。
そこにいたのは、一〇メートルはあろうかという大男だった。
黒髪に黒角に赤い眼。
蓄えられた髭、とがった耳には一対の黒稀鉱のピアス、なにもかもが巨大。
その巨大な男は、真っ赤な目で君子を見下ろしながら、彼女を一飲みに出来そうな口を開く。
「お前がキーコとやらかぁ!」
ちょっと大きな声のつもりだったのかもしれないが、その巨体から放たれる音は城を揺らすほどの衝撃を生む。
君子の様なちっぽけな凡人は、その衝撃に耐えられるはずもない。
「あっ……あ――――」
君子はその巨体と衝撃に驚いて、気絶した。
(アレ……私、なんで寝ちゃったんだろう)
記憶がない、確かギルベルト達と帝都を散策する事になっていたのに。
早く起きないと、そう思って目をゆっくりと開ける。
その時何か温かいモノに包まれているのを感じた。
毛布とかそう言う物ではないような気がする、一体何に包まれているのだろうか、疑問に思いながら目を開けた。
「おう起きたな!」
しかし眼の前には、君子を見つめる巨大な顔。
魔王帝ベネディクトが、その大きな手で君子を掴んでいた。
「はっはひょっひょっひょっひょほおおおおおおっ」
忘れていた事を全部思い出した、そうだこの大男に驚いて気を失ったのだ。
その覇気に圧倒されて、君子の意識はまた遠ざかる。
「おっおい、気を失うでない! 話が進まぬではないか!」
「はっはいぃぃぃぃっ」
ベネディクトに怒鳴られて、君子は気を失わない様に必死に意識を保つ。
しかしその巨体が怖くて、プルプルと震える。
「お前がキーコじゃな!」
「ふぁっ、ふぁふぁっふぁっ」
「なんじゃ、はっきりと言わぬか!」
ベネディクトのあまりの迫力に、君子は圧倒されて呂律が回らないのである。
一方自身の大きさと気迫のせいで震えている事に気が付かないベネディクトは、更に大声を出してより怖がらせる。
この悪循環を見て、ネフェルアは冷静な口調で衆生へと進言する。
「陛下、その娘は陛下の王気に当てられているので御座います」
「なに……そうなのか」
ベネディクトの周囲の人は、魔王帝が大男だという事を周知しているので、怖がりはしない、だからこの姿を見て怖がる者がいるとは思わなかったのだ。
ベネディクトはしばらく困った様子で考えると、口を開く。
「うぬぅ……仕方あるまい」
持っていた君子を絨毯に下ろすと、自身はその巨体で椅子から立ち上がる。
座っているだけでもかなりの迫力だというのに、立ち上がると余計にすさまじい。
そしてベネディクトは、小さな声で何かを唱えると――その体が褐色に光り輝く。
「わっ――」
君子はその眩しさに、手で目を守る。
その発光がしばらく続いた後、目を刺すような光が無くなったのを感じてから、ゆっくりと目を開く。
「あっ……」
そこにいたのは、小さくなったベネディクトだった。
小さくなったと言っても、二メートルは優に超えているので、大男には違いない。
だが、先ほどの巨人に比べれば、恐怖はかなり軽減される。
(きょっ巨人が小さくなるって……、そっそれってアイデンティティ崩壊してない?)
きっと魔法か何かなのだろうがそれにしたって、個性を殺しているようにしか思えない。
しかし君子がそんな事を考えていると、ベネディクトは当然の様に彼女へと近づく。
「お前が、我が息子共の女のキーコとやらか」
「へっ……はっはい」
と答えたものの、君子は今息子共と言った事に今更気が付いた。
君子と交流のある人は限られてくる、ここが明らかに普通の人が出入り出来る様な場所で無い事も見れば解る。
色々な事を考えると、おそらく息子共と言うのはギルベルトとアルバートで、ここはガルド城の玉座の間 で、そして今目の前にいるこの大男はこのヴェルハルガルドの王。
(こっこの人がギルのお父さんで、ヴェルハルガルドの王様……つまり魔王帝!)
なんでそんなとんでもない人の前に自分はいるのだ。
君子はモブの脇役の凡人のそばかすの不細工なのだ、そんな王の御前にいていい人間ではない。
正体を知って別の意味で震える君子を、ベネディクトは抱き寄せる。
「グハハハっ、ピアスを見て一目でわかったわい」
豪快に笑うと、ネフェルアの名前を呼ぶ。
何もかもわかっているネフェルアは、軽く礼をするとその場から一瞬で消えた。
「ふぇっ!」
何が起こったのか君子が理解する暇もなく、再び彼が現れた時には座り心地がよさそうな三人掛けのソファと、金細工が施されたテーブルがあった。
一瞬で城の玉座の間に来た事といい、消えたネフェルアと共に現れたソファとテーブルといい、君子にはある能力が口をついて出た。
「テレポート」
「ほう知っておるか、ネフェルアの特殊技能は『瞬間移動』よ」
どちらかと言えばSFの部類に入りそうな気がするが、この世界ではこういう物も特殊技能として存在するのだろう。
君子がそんな事を考えていると、ベネディクトはごくごく当たり前の様子で君子の手を引くと、ソファに座って自身の膝の上に君子を座らせる。
「うひょっ――」
皇帝の膝の上に座るなんて不敬にもほどがある、一刻も早く膝の上から降りたかったのだが、魔王帝の力はとても強くて腰に回された手を振りほどけない。
(ぎっギルとアルバートさんと一緒だよぉ、ほっ本当に親子だよぉぉ)
何とか下ろして貰おう、君子がどういえば不敬にならないか模索していると――、スラりんがバッグからもぞもぞと出てきてしまった。
「ん? なんじゃコレは」
「ひゃあああっすっスラりんっ!」
ベネディクトはスラりんを掴みあげると、その大きな手でぷにぷにボディを握る。
今にも握りつぶされてしまいそうなスラりんを見て、君子は必死に魔王帝へと泣きつく。
「やっやめて下さい、スラりんは私の大事なスラりんなんですぅ、潰さないでくだしゃい」
「なんじゃ、お前は妖獣を奴隷にしているのか?」
スライムは本来雑魚として潰されるような妖獣だ。
魔王帝ともなれば小指でこれを潰す事が出来る。
「奴隷じゃないです、仲間なんですぅ! 私はどうしてもいいのでどうかスラりんだけは潰さないでくだしゃ~い」
泣いて懇願する君子を見て、ベネディクトは彼女の手の上にスラりんを返した。
ぷにぷにボディが元気に揺れているのを見て、君子は頬ずりをする。
「スラりーん、良かったよぉぉ」
雑魚の妖獣を愛でる君子の姿を見て、ベネディクトは面白そうに口元に笑みを浮かべる。
「面白い奴じゃのぉ」
君子は嗤う皇帝を見上げた。
(……この人が、ギルのお父さん)
ギルベルトとアルバート、ロベルトとベルフォートの父親。
話には聞いていたが、まさか巨人だとは思わなかった。
というよりも、なぜ自分はこんな所に連れて来られたのだろう。
何か悪い事でもしてしまったのだろうか、君子は恐る恐る尋ねる。
「あっ、あの……どっどうして私はここに連れて来られたのでしょうか」
「ベルフォートが言うのじゃ、息子共が気に入っている異邦人の女がいるとな、そんなに気に入っているのなら儂も見てみたいと思ったまでの事」
つまりこんな所に呼ばれたのはギルベルトとアルバートのせい。
ベネディクトが見てみたいと言っても、こっちは皇帝に会うなど心臓に悪すぎる。
だが、君子はベネディクトと会ってみて、思う事があった。
(……この人が、ギルとラーシャさんを捨てた)
ギルベルトとラーシャが野に下ったのは、ベネディクトが虚偽の不貞を認めたからだ。
それさえなければ、ギルベルトは捨てられなかったし、ラーシャもあんな風になる事はなかったかもしれない。
時間を巻き戻す術など無い、もう過ぎ去った事を問うても意味がないかもしれない。
でも君子はどうしても聞かなければならなかった。
一〇〇年前、まだ幼かったギルベルトの事を知っているから――。
「……どうして、ギルの事を捨てたんですか」
しかし言ってからあまりにも直球すぎたと後悔した。
もっとそれとなく聞けば良かったのに、どうして自分はもっと上手い事話せないのだろうか、自身の社交スキルの低さを後悔した。
「なにぃ?」
案の定ベネディクトは、ちょっと強張った声でそう言った。
殺されると思ったら、短き一八年の人生が走馬灯のように駆け巡った。
「…………、うむ奴の女であれば知っていても不思議ではないか」
しかしベネディクトは、ちょっと困った様子でそう言う。
君子が思い描いていた様な完璧な王様でも、冷酷な王様でもない。
その表情は、普通の人とあまり変わらない様に思えた。
「お前がどのように聞いているかは知らぬが、儂はアルバートで子は作らぬつもりだった」
そもそも王族は歳が近いとその母親同士が争うのは解っていた。
だから、ロベルトからは十分に間をあけて歳が離れるようにしていた。
そしてアルバートは生まれ、王子が三人王女が一人、もう十分だろうと思っていたのだ。
しかし――そんな矢先ギルベルトがラーシャの腹にいる事が分かった。
「……だから、ギルを捨てたんですか」
もう十分だったから、捨てた。
君子はその苦しさを知っている、必要ないと捨てられたのは彼女も一緒だ。
生まれた瞬間に父に認知してもらえなかった、もう十分だからという理由で捨てるなんて、許せない。
「それは違う」
否定したのは、ネフェルアだった。
いつもの無機質な感じとは違っていて、感情が表に出ている様に思える。
「ネフェルア」
ベネディクトを注意するかの様にそう言ったが、ネフェルアは止めなかった。
「その時ギルベルト王子殿下は敵が多すぎた、元々ラーシャには後ろ盾がいなかったが、そのせいで身籠のラーシャを殺そうとする輩までいた、到底守り切れなかった」
「……それって」
確かにロベルトが、ラーシャには味方がいなかったし敵も多かったと言っていた。
守り切れなかった、それはいいかえれば守ろうとしていたというようにも聞こえる。
つまりベネディクトは――。
「ギルを、逃がしたんですか?」
城はギルベルトとラーシャの敵しかいない。
その数は、魔王帝であるベネディクトでも守り切れない程。
もし守り切れないとなれば一体どうするか――、答えは君子でも分かる。
ベネディクトはギルベルトを捨てたのではない、逃がしたのだ。
母子共々命を狙う輩から、彼らの命だけは守ろうとしたのだ。
「それ……ギルには言ったんですか」
「言う訳がなかろう……」
なぜそんな大切な事を言わないのだ。
そうすれば、ギルベルトの態度だって変わるかもしれないし、家族の関係だってもっと良いものになるかもしれないのに、なぜと問う君子にベネディクトは静かに続けた。
「儂の判断は間違っておったのだぞ」
ロベルトが連れて帰って来た時、ギルベルトは母親にも捨てられていた。
彼の命は守れたが、結果的には彼を酷く傷つけて一人ぼっちにしてしまった。
それは正しい判断、と呼べるようなものではなかったのだ。
「奴は儂には懐かない、この先一生父として認められる事はないだろう」
君子はようやく気が付いた。
魔王帝ベネディクトは、確かに王であるが父親でもあるのだろう。
勝手に冷酷な人なのだろうと思っていたのを深く反省した。
同時に悲しくなって来た、どうして家族がこんなにすれ違っているのだろう。
ギルベルトには、お父さんも兄弟もいるのに――どうして。
「……なぜ泣いているのだ」
君子はいつの間にか泣いていた。
泣くつもりはなかったのに、ぽろぽろと涙が出て来て止まらない。
「だって、だってギルにはお父さんがいるのに分かり合えないなんて、仲良くできないなんて悲しすぎます」
君子は父親の名前も顔を知らない。
でもギルベルトは違う、ちゃんと名前も顔も知っているし、何より会えるのに話が出来るのに、それなのに分かり合う事が出来ないのが君子には悲しかった。
「…………良い子じゃな、キーコは」
ベネディクトは、君子をより抱きしめる。
彼の膨れた腹部が当たり、髭がチクチクと額を刺し、中年男性独特の匂いがした。
普通の年頃の少女なら拒絶しそうなものだが、君子はそんな事はしない。
「あっ……」
涙を止めて、君子はまっすぐベネディクトを見上げた。
突然泣き止んだのを見て、ベネディクトは不思議そうに首を傾げる。
「なんじゃ、儂の顔は面白いか?」
「いっ――いえっ、そっそういう訳では……」
「ではなぜ儂の顔を見て泣き止んだのじゃ」
ちょっとムッとした表情をするベネディクト。
君子は彼の顔を見て、少し戸惑いながらも、その訳を口にする。
「おっ……お父さん、みたいだと思って……」
「……なに?」
「わっ、私、おっお父さんがいなくて、知らなくて……だから、お父さんに抱っこされるのは、こんな感じなのかなぁって……思って」
父親は認知してくれなかったから、抱きしめて貰うどころか名を呼んで貰った事もない。
だから、ベネディクトを姿さえ見た事もない父親に重ねていたのだ。
しかし言ってから気が付いた、彼はこの国の王なのだ。
君子の様な凡人とは比べ物にならない程の高貴な存在、あまりにも不敬な物言いだ。
「ごっ、ごめんな――」
すぐさま君子は全力で謝ろうとしたのだが――。
「なんと……、そんな辛い生い立ちだったのかっ!」
「ひょっひょぶっ」
ベネディクトは君子を更に強く抱きしめる。
「父親がおらぬとはなんと不憫な、今からこの儂が、お前の父になろう!」
「えっふぇえええええええっ」
皇帝を父にするなどとんでもない、君子は全力でお断りしようとするのだが、流石は皇帝押しが強い。
「娘にするからには、儂の事は『パパ』と呼んでよいのだぞ」
「ぱっぱぁっ!」
皇帝をそんななれなれしく呼ぶなんて出来るわけがない、むしろこれは罰ゲームだ。
戸惑う君子にベネディクトは詰め寄る。
「息子も娘も、パパと呼んでくれなんだ……、儂はパパと呼んで欲しいというのに」
基本的に皆父上で、ギルベルトに置いてはクソジジイだ。
皇帝といえども人の親、もっと親しく呼んで欲しいのだろう。
「むっ無理ですぅ、まっ魔王帝様をそんなふうには呼べません」
君子が拒否しても、ベネディクトは君子をじーと見つめる。
どうやらパパと呼べと要求しているようだ。
「うっ……、ぱ、パパ」
顔から火が出るほど恥ずかしい、生まれて初めて呼んだ。
ベネディクトもご満悦の様子で、笑った。
「おいネフェルア娘が出来た祝杯を挙げるぞ、酒を持て」
「かしこまりました」
ネフェルアはまた瞬間移動で消えて、再び現れるとワインを樽で持って来た。
樽の下には蛇口があって、栓を開けると赤ワインが出て来る。
「キーコ、お前も呑め」
ベネディクトはそう言って君子にワイングラスを向ける。
「だっ駄目です、私は未成年ですからワインは飲めないんですぅ」
「なんじゃとぉ、この儂のワインが飲めぬというのかぁ?」
もしこの場にワインの味が解る者がいれば、これを受け取りグラスに残ったワインも舐めるであろう。
そのくらい高価な品なのだが、君子は断る。
「だっだめなんです、ワインは飲めないんですぅ」
そもそもここは異世界、日本の法律など気にしなくていいのだが、律義な君子はしっかりとそれを守る。
君子があまりにも拒絶をするので、ベネディクトも諦めた様子だ。
「仕方あるまい……おい、ネフェルア」
そう言うと、ネフェルアが君子に高そうなガラスのコップを手渡す。
中には赤い液体が入っているが、ワインとは違う。
「どうぞ」
「……いい匂い」
試しに嗅いでみると、甘い香りがした。
どういう物かは分からないが、フルーツの香りがする。
ベネディクトが急かすので試しに一口飲んでみた。
「んっ――、美味しい!」
ベリー系の甘酸っぱい味が広がった、なんというか木苺を絞ったジュースに似ている。
「リンシャじゃ、それなら飲めるであろう」
「はっはい……すっごく美味しいです」
今まで飲んだことのない味わいに、君子はすっかり虜になった。
ごくごくと、憑りつかれたようにリンシャを飲む。
そんな君子を見てベネディクトは満足そうに笑いながら、豪快にワインを一気に飲み干した。
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その頃、ギルベルトとアルバートはガルド城の回廊を走っていた。
普段は走ってはいけないのだが、今の二人はそんな礼儀など構っている暇はない。
一刻も早く、玉座の間に行かなければならないのだ。
「あのクソジジイ、キーコなンかしやがったらぜってぇ許さねぇ」
「異邦人は物珍しい存在だからな……、父上がキーコに何もしなければ良いのだが」
地方によっては、異邦人は災禍をばらまく厄災の化身と呼ばれ蔑まれたり、神の御使いとして幸福をもたらす存在と崇められたりしている。
一見よさそうだが、危険なのは意外にも後者の考えを持っている者達だ。
そう言う言い伝えのある地方では、異邦人の体の一部を持っていると幸福が訪れるという迷信が信じられており、手足を切り落としてミイラにしたり最悪殺されて剥製にされたりする場合があるという。
迷信に決まっているのだが、そう言う事を本気にする輩も少なからずいるのである。
「それにしても……、なぜ魔王帝様はキーコの存在を知っていたのでしょうか?」
二人の後を追いかけるヴィルムは、そう疑問を口にした。
ギルベルトもアルバートも、魔王帝に好意のある異邦人がいる様な話はしたが、それが君子という名で、見た目や変わった服装、更には刻印の事は言っていない。
それなのに君子を連れて行ったネフェルアは、君子の名前を呼び、的確に刻印を上書きして見せた。
「誰かが父上に話したという事か? だがキーコの名や刻印の事を知る奴などいないぞ」
君子はご挨拶やパーティで貴族や軍幹部の者達と会った。
しかし、その時は顔を隠したり化粧で別人の様になっていたりしたので、同一人物だとは思わないだろうし、そもそも名前を教えていないので知る術がない。
更には刻印が書かれているという事を知っていて、それを魔王帝に伝えられる人物となると――、かなり限られてくる。
「……ベルフォート兄様か」
彼なら君子の名前も刻印が書かれている事も知っているし、何より魔王帝にその話が出来る。
「あのクソ女男野郎っ!」
本当に何を考えているのか分からない。
ろくでもない兄に、ギルベルトはイライラを募らせていると――玉座の間に着いた。
巨大な扉、この先に父親と君子がいる。
なんとしてでも君子を取り返したいギルベルトは、ノックもせずにその扉を開け放った。
「キーコぉっ!」
怖い思いをしていなか、酷い目に合っていないか、ギルベルトは心配していた。
しかし、その心配は一瞬で消し飛ばされる。
「きゃはははっ」
そこには、とてもハイテンションな君子がいた。
今まで聞いた事がない大きな声で笑う君子。
怖がっていなければ酷い目にも合っていない。
ただ嬉しそうな君子が、魔王帝の膝の上で抱きしめられていた。
その姿に皆愕然とするが、無視して君子は空になったガラスのコップをネフェルアへと向ける。
「ネフェルアお替りぃ~」
魔王を統べる者である魔王将を、あろうことか小間使いの様に使っている。
ヴィルムはその光景を見て眩暈がした。
「キーコぉ! 何やってンだよぉお前はぁ!」
「ふぁ~ギルぅ?」
明らかに様子がおかしい、とにかく君子を連れて行かなければ、ギルベルトは君子の腕を掴むとベネディクトから引き離そうとする。
「帰るぞ、キーコぉ!」
「イヤっ!」
しかし君子はギルベルトの手を振り払う。
「パパと一緒にいるんだもん」
「ぱっ、パパぁ!」
そのあまりにも聞きなれない単語がベネディクトの事を指していると気が付くまでかなりの時間が必要だった。
「この儂がキーコを娘にすると言ったのだから、キーコは儂の娘じゃ」
「パパはパパだもん!」
確かにベネディクトはヴェルハルガルドの王。
彼の命はこの国の全て、彼が君子を娘にするというならばそのようになる。
話について行けないギルベルト達、それにしても君子はなぜこんなにもハイテンションなのだろうか――。
「どうぞ、お替りです」
「ふぁ~い」
君子はネフェルアから嬉しそうにお替りを受け取る。
しかしその時、そこから匂いがした。
「さっ酒くせぇ!」
「これは……リンシャではないか!」
リンシャと言うのは、ペルの実という赤い小さな身を絞り発酵させた果実酒だ。
甘酸っぱくてアルコールの度数も低く、酒が苦手な人でも飲みやすい一般的なお酒なのだが――、君子はそれを何杯も呑んでいる。
君子が異常にハイテンションなのは、リンシャで酔っているからだ。
「リンシャおいしーよぉ、パパぁ」
自分の父親と君子が仲良くなっているのを見て、ギルベルトとアルバートは猛烈な嫉妬を抱いた、男として父親になど負けたくない。
「何がパパだよぉっ、いいから帰るぞキーコぉ!」
「ギルはお腹がぷにぷにしてないからイヤっ!」
ベネディクトのメタボのお腹に頬ずりをする君子。
割れた腹筋よりも、中年のだらしないメタボ腹の方がいいというのか、ベネディクトに負けたギルベルトはあまりの心的ショックで固まった。
次はアルバートが挑む。
「キーコ、父上もそろそろ疲れていらっしゃる、酒なら私が付き合うから降りるんだ」
君子は人に迷惑をかけるのを嫌う、それを利用した作戦だ。
流石頭脳派アルバート、と思ったのだが――。
「イヤっ、アルバートしゃんにはヒゲがないんだもん!」
君子はそう言って、ベネディクトのヒゲへとすり寄る。
綺麗に整えられているとはいえども所詮は中年のヒゲ、それに容姿端麗のアルバートが負けるなんて――君子の言葉が突き刺さる。
「ほーら、ヒゲだぞ~」
「きゃははっおヒゲチクチク~」
ヒゲを喜ぶ君子は、完全にベネディクトに甘えている。
普段ちっとも甘えて来ない彼女が、酔っていても心を許すとは思わなかった。
好きな人を取られたギルベルトは、この行き場のない怒りを父へと向ける。
「このクソジジイィィィィ」
ベネディクトに向かって殴り掛かる。
豪快に笑うベネディクトの鼻をへし折ってやるつもりで、全力の全速で拳を放った。
のだが――。
「うるさいぞ」
ベネディクトのデコピンで吹っ飛ばされた。
馬鹿な話なのだが、本当にそうなのだ。
中指一本で、Aランカーであるギルベルトが吹っ飛ばされて、一〇メートルほど離れた壁に激突した。
強者の中の強者である魔王、その強者を統べる魔王将の長、それが魔王帝なのだ。
魔王になったギルベルトなど赤子の様なものである。
「馬鹿が、父上に勝てるわけがないだろう」
オールAランカーであるアルバートでも戦おうとは思わない。
壁に激突したギルベルトは、床に倒れながら目を回している。
君子が自分からベネディクトの膝を降りるか、ベネディクトが君子を下ろすまで、おそらく手出しができないだろう。
「ネフェルア、お替りじゃ!」
「ネフェルア、お替りっ!」
「かしこまりました」
命じられたネフェルアは、新しいグラスにそれぞれワインとリンシャを注ぐ。
それを見て、眩暈を起こして倒れていたヴィルムが起き上がる。
「ネフェルア様申し訳ございません、魔王将であらせられる貴方様にこの様な事を!」
ベネディクトならまだしも、君子の世話は彼がするべきことではない。
一体この無礼な行いをどうやって償えばいいのか、ヴィルムは絶望する。
しかしネフェルアは、平然とした顔で答える。
「私は陛下に仕えているのだ、陛下の命であればどのようなものの世話でもする」
ベネディクトが、会いたいというのならば連れて来るし、娘にすると言うのであればそれに従う。
魔王将ネフェルアは魔王帝ベネディクトに仕えているのだ、そのような不満はない。
「……それに、あの娘は良い」
「キーコが……ですか」
「陛下の機嫌がとてもいい、あの娘をとても気に入っている証拠だ」
君子を抱きしめて笑うベネディクトの姿を見るネフェルアの顔は、ちょっとだけ悲しそうにも見えた。
ヴィルムには、このネフェルアの表情の意味は分からなかった。
だが、大声で笑うベネディクトと君子の酔いが、本当に深刻だというのは解った。
「ネフェルア早くせい!」
「ネフェルア早くして~」
翌日、君子はいつの前にか滞在先の離宮に戻って来ていた。
どうやって戻って来たのか全く記憶がないが、それ以上に訳が分からないのが――。
「頭痛~い」
この頭痛である。
昨日ネフェルアにベネディクトの所に連れて行かれて、色々話をしたのは覚えているのだが、どういう訳かこの離宮に戻って来た記憶も眠った記憶もない。
ただ今まで感じた事のない頭の痛みと、酷い吐き気に襲われていた。
「うっ……きっ気持ち悪い」
「大丈夫キーコ?」
アンネが気持ち悪そうな君子の背中をさする。
「当たり前です、いくら度数が低いとはいえあれだけリンシャを呑めば、二日酔いになるに決まっているでしょう」
酔っていたとはいえ、魔王将を小間使いの様に使ったのは許せない。
だからヴィルムの口調もいつもよりも厳しい物だった。
「うっうう知らなかったんですぅ、お酒だったなんてぇ」
甘くて美味しいからジュースだと思ったのだ。
だがもう遅い頭の中から思いっきりハンマーでたたかれているような、酷い頭痛が君子を襲う。
「キーコもそうですが……ギルベルト様、そろそろお体に触りますよ」
ヴィルムは、さきほどからずっとポテチを食べ続けているギルベルトへと言った。
もういつもの倍以上、いくら大食漢の彼でも限界だろう。
しかしギルベルトは手を止めず、口の中へとポテチを放り込む。
「あのクソジジイに負けて堪るかぁ!」
ギルベルトは昨日酔っぱらった君子に言われた事を気にしていたのだ。
だから引き締まった腹筋から、メタボ腹に逆肉体改造をしようと、朝からずっとポテチを食べているのだ。
健康にも悪いし、何よりなろうと思ってあんな体型になるものではない。
ヴィルムが呆れてため息を付くと、アルバートがやって来た。
「アルバートさ……ま?」
ヴィルムは言葉を失った。
アルバートは普段綺麗に剃っている髭をそのままにしていて、無精ひげだ。
そのあまりにみっともない姿に、ルールアは泣きながら訴える。
「アルバート様ぁ、お願いですから髭を剃って下さぁい」
「断る、私の髭だどうしようと私の勝手だろう」
そんな事言っても、アルバートの歳から髭を蓄えるというのはいくら何でも年寄り臭い。
「私は髭を蓄えると決めたのだ、絶対に剃らぬ」
アルバートも昨日酔っぱらった君子が言った事を気にしているのだ。
だから似合わない髭を蓄えると言っているのだ。
アレは酔っぱらった君子がファザコンと甘え癖を爆発させていただけなのが、よほど悔しかったのか、ギルベルトとアルバートはかたくなだった。
「キーコ、アルバート様に髭を剃るように言ってぇ!」
「うっううう、やっやめてくだしゃあい、ゆらしゃないで~」
興奮しているルールアが君子の肩を揺らすが、二日酔い中の身には辛い。
今にも吐きそうになりながら、君子は言う。
「もうお酒は呑まない、絶対に呑まない~」
断酒を心に誓いながら、吐きそうになるのを必死に堪えるのだった。




