第七七話 私の為に
君子が時間遡行をして四日が経った。
生活もかなり慣れ、ララァの要求に応えて行く内に料理の腕も上がった気がする。
だが何より一番変わったのは――。
「けけっ、キーコぉ」
ギルベルトがとても懐いた事だ。
おねしょの一件から二人の距離はぐっと縮まり、事あるごとに君子に甘えてくる。
その姿は一〇〇年後の姿が想像できない程、可愛らしくてたまらない。
(えへへっ、なんだか子供が出来たみたいだなあ)
多分自分からはこういう可愛らしい子供は生まれないので、この疑似親子を楽しみたい。
抱き着いてくるギルベルトの頭を、君子は撫でる。
(あぁ……このままギル君大きくならなければいいのになぁ)
この幼いギルベルトだったら、何も怖くない。
純粋無垢だし、それに――人だって殺さない。
(……信じられないよ、こんなに可愛い子が一〇〇年後には戦争をするんだもん)
聖都から逃げた船の中で、ギルベルトを問いただした時のギルベルトは本当に怖かった。
彼も成長すれば人を殺める様になる。
自分の王子としての地位を上げるために、人の命を奪う。
(そんなの……嫌だよ、ギルは王子として恵まれてるのに)
いっその事、ずっとこのまま一〇〇年前の世界にいれば、君子がこの幼いギルベルトを育てればそんな事はしなくなるのではないか。
(あの優しいギルのまま大きくなってくれるんじゃないかな)
優しくて、君子にいつも笑いかけてくれる、あの優しい彼のまま――。
(しまった、これって『時空震』を起こす事になるんじゃないかな? しょっ処刑されるのは嫌だなぁ)
君子は、ギルベルトにバレない様に食器棚の上で食後のプリンを食べるララァを見る。
見た目は強そうには思えないが、アレだけ肩書があるのだ、すごいのだろう。
「……どーしたンだぁ、キーコ」
考え事をしていた君子をギルベルトは心配そうに見上げていた。
子供を心配させるなんていけない、君子は戸惑うギルベルトを抱きしめる。
「ううん、なんでもないよギル君」
今第一に考えるのは、この幼いギルベルトの事だ。
ちゃんと守ってあげなければならない。
(今は、ラーシャさんを見つけてあげる事に全力を注がないとね)
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「……困ったなぁ」
ロベルトは一人途方に暮れていた。
捨てられたギルベルトに関わると、自身の地位に問題が生じる事は分かっていても、結局の所、放っておけなかったのだ。
だから街の人々に聞き込みをしてみた。
どうやら彼女は街外れの小屋に住んでいて、時々歌って稼いでいたようだ。
しかし誰も彼女の行方を知る者はいない。
(この街のめぼしい所は聞いて回ったんだけどなぁ……)
もしかすると、この街にはもういないのかもしれない。
そうなるともう探せないだろう、貧弱だが王子としての権力を使えば、見つける事は可能だろうが、それをしてしまうと領主の話は頓挫してしまう。
(あくまでもバレない程度に手伝うだけだ、一線さえ越えなければ大丈夫、だと思う)
自分はつくづく駄目な奴だ。
姉や兄の様に戦場へ行けず、弟の様に才もない。
結局、血の繋がったギルベルトを切り捨てる事が出来ず、今こうやって手助けをするなんて、事情を知っている者が見たら愚かだと罵るだろう。
(兄だって言えなくても……、俺はギルベルトを弟だと思ってる、だからせめて母親の行方を捜す事ぐらいはしたい)
もう少し酒場などを当たってみる事にしよう。
ロベルトがそう思った時――。
「ロバートさんっ!」
君子とギルベルトがやって来た。
二人で手をつないで、二日前よりも仲がよさそうに見える。
「やあキーコちゃん……それに、ぎっギルベルト君」
「こんにちはロバートさん、あっもしかしてラーシャさんを探してくれていたんですか?」
「えっ……うっうん、ごめんまだ居場所が分からないんだ」
「……そうなんですね」
残念そうに俯く君子、その時彼女の右耳のピアスが眼に入った。
(あれ……王族のピアスに似てるなぁ)
だがロベルトのピアスは恋人につけさせているし、兄ベルフォートのピアスは四つちゃんとついているし、アルバートはまだ小さいのでピアスをつけていない。
そもそも金色と銀色のピアスをつけている王子はいない。
(あっ、異邦人の風習かお洒落か……似てるから勘違いしちゃったなぁ)
君子が別の世界から来た人間だという事を思い出して、ロベルトはこの疑問を勝手に処理してしまうのだった。
「あっ、折角ですしお昼御飯でも一緒にどうですか?」
「あっそうだね、じゃあ今度は俺が奢るよ」
三人は昼食を取るお店を探すために歩き始めた。
「やっぱり、まだラーシャさんの行方は分からないんですか」
「あぁ、酒場とか回ってるんだけどね」
ギルベルトが餓死寸前になるまで帰って来ないなんて、やっぱり変だ。
何か事件や事故に巻き込まれていなければいいのだが。
君子は申し訳なさそうにギルベルトを見おろす。
「ギル君寂しいよね……ごめんね」
「……キーコがいるから、いい」
ギルベルトはそう言って笑ってくれた。
彼としては君子がずっと一緒にいてくれるし、ご飯も母親よりも美味しいので、もう本当に寂しくないからそう言ったのだが、君子がソレを心遣いと勘違いする。
(本当は寂しいに決まっているのに……あぁギル君はなんていい子なんだろう、マジ天使)
感動する君子はしばらく歩いた所で、足を止めた。
「あれ……、今日はお祭りか何かあるんですか?」
「えっ、そんな予定はないけど」
「でも、あそこすごい人混みですよ?」
そう言って君子が指さした広場には沢山の人がいて、皆色とりどりの花を持っていておそろいの赤い帽子をかぶっている。
「……ああ、あれは結婚式だよ」
「結婚式!」
世の女性の夢の様な事を言われて、君子のテンションが跳ね上がった。
異世界の結婚式に、君子は興味津々である。
「ふぇ~、結婚式ってああいう風にやるんですかぁ」
見ると新郎と新婦らしき魔人と人間の二人が、群衆の中心で祝福を受けていた。
「庶民の結婚式だとあんな感じだね、他にも地方によって変わるけど、大体ああいう風に大勢の人々に祝福してもらうんだ」
「へぇ~、神父さんとか、いないんですか?」
「いる訳ないだろう聖都じゃないんだから」
ベルカリュースで一般的な結婚式というのは、戸籍上の手続きのついでに過ぎない。
そもそもこの世界において冠婚葬祭には宗教は関わらない。
だから、結婚も実に淡泊なものになってしまう。
(じゃあ、死がふたりを分かつまで~みたいな誓いの言葉とか言って、神様の前で愛を誓わないんだぁ……なんかロマンがないなぁ)
恋に恋する君子さん的には、婚約指輪とか夫婦の誓いとかをしたいものだ。
とはいえ、綺麗な花を渡されて祝福を受けている新婦はとても羨ましい。
「いいなぁ……結婚式」
「……そうだよなぁ、結婚はいいよねぇ」
「あれもしかしてロバートさん……恋人でも?」
「あっうん、そうなんだけどね……なんて言うか俺がふがいなくて地位がない男だから、なかなか切り出せなくてさぁ」
重いため息をつくロベルト、ロマンだけでは結婚は出来ない、現実は非情である。
「……結婚って、なンだ?」
まだ幼いギルベルトにはその意味が分からないのか、不思議そうに尋ねて来た。
しかし聞かれた方も聞かれた方で困ってしまう。
「えっえっと、伴侶になる事だよ」
「はんりょ?」
「えっとぉ……なんて言えばいいんだろう」
まだ子供のギルベルトには難しくて理解できない。
ただあこがれているだけの君子には、『結婚』をどうやって言い表せばいいのか分からなかった。
「簡単に言うと、好きな人とずっと一緒にいる為の約束……みたいな感じかな?」
「好きな人と……?」
ロベルトに言われて、ギルベルトは嬉しそうに笑みを浮かべると君子を見る。
首を傾げる彼女に抱きつきながら、ギルベルトは言った。
「キーコ、俺と結婚しよう!」
それはもう見事なまでの笑みで言われた。
一切の迷いなく、はっきりとダイレクトに言われたものだから――君子の脳はそれがプロポーズだという事を認識するのに時間がかかった。
「ふぇっ……ふぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
意味を理解して赤面する君子。
まだ幼いギルベルトにそんな事を言われるなど思いもしなかったので、不意打ちにもほどがある。
そんな状況を、人をムカつかせる笑みで見つめるのはロベルトだった。
「うへへっ、最近の子供はおませさんだなぁ」
「ちょっちょっとぉ、笑い事じゃないですよぉ!」
君子は戸惑っているのだが、幼いギルベルトにはそんな事関係ない、しがみついて催促する。
「なぁキーコ、結婚しよう、なっなあ?」
「えっいやっ、えっあっえぇっ」
どうしても結婚したいギルベルトは、彼女がうんと言うまで引く気はないだろう。
困ってしまった君子は、目でロベルトへと助けを求める。
それを感じ取って、温かい目で見守っていた彼も口を開く。
「ギルベルト君、キーコちゃんが困ってるだろう? その辺で止めてあげなよ」
しかしロベルトの言葉を聞いて、ギルベルトは悲しそうな顔をする。
そして今にも泣きそうな声で口を開く。
「だって……結婚したらずっと一緒にいられるンだろう、母ちゃンみたいにいなくならないンだろう……」
それには君子もロベルトも言葉を失った。
こんなに幼いのに唯一の家族である母親が失踪するという、辛い経験をしている。
だからずっと一緒にいる為に、君子に結婚しようと言ったのだ。
短絡的な発想だが、それでもギルベルトの気持ちが君子には痛いほど伝わって来た。
このプロポーズを、無下にする事なんて出来なかった。
「うん……、ギル君が大きくなったらね」
その答えを聞いて、ロベルトは傍観者として、心底面白そうな顔をする。
もし君子に彼を殴り飛ばせるほどの腕力があれば、存分振るうだろう。
「大きくじゃ分かンねぇよぉ……」
「えっ、えーとぉ」
困った君子が視線を逸らすと、ちょうど新郎が新婦を抱っこしていた。
「ギル君が、私を持ち上げられるようになったら……かな?」
まだギルベルトは小さいし、君子を抱っこするどころか背負う事も出来ないだろう。
これでどうにか諦めてくれると思ったのだが――。
「じゃあやる、だっこするっ!」
ギルベルトはそう言って君子の腰回りに手をやると、渾身の力で彼女を持ち上げようとする。
しかし彼の力では不可能、中途半端に持ち上げられて君子はバランスを崩して、今にも倒れてしまいそうだ。
「あっおい、止めるんだギルベルト!」
危険と判断して、ロベルトがギルベルトを止めた。
君子を抱っこ出来なくて、ギルベルトはとても悲しそうだ。
「……うっ、これじゃあ結婚できねぇ」
「仕方がないだろう、お前はまだ子供なんだから(そもそも子供の癖に俺より先に結婚するなっての)」
「……ロバートさん、なんか心の声が駄々洩れになってますよ」
「(というか、君は良いのかいこんな約束しちまって)」
ロベルトは、ギルベルトに聞こえない様に君子へと耳打ちをする。
「(えっ……何言ってるんですか、ギル君はまだ子供なんですよ)」
これは保育園の先生とかお母さんを、お嫁さんにするというようなものだ。
大人になればそんな事コロッと忘れる、だから君子は全く本気にしていない。
「いつか……絶対キーコをだっこするンだぁ」
ギルベルトの眼が本気だという事に、まるで気が付いていないのだった。
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ロベルトと情報交換などした後、聞き込みをしたが、有力な情報は得られなかった。
夕暮れが近づき家に戻って来た君子は、夕飯の支度をする。
「今日は、ミートパイですよぉ」
野菜嫌いのギルベルトでも食べられるように、あめ色の玉ねぎを入れた特製ミートパイである。
「デザートはあるのでしょうね?」
「勿論、今日はフルーツゼリーです」
「実に良い、アナタは最高のシェフですわ」
ララァは心から賞賛すると夕飯まで、食器棚の上でおやつのクッキーを食べる。
「キーコぉ」
夕食の準備をしている君子にギルベルトは抱きついて来た。
頬ずりをして、本当に愛くるしくてたまらない。
「お腹空いた? ご飯はもうちょっと待っててね」
「けけっ、キーコぉ」
ご飯の催促ではなくて、どうやら甘えたかったようだ。
君子は手を止めると、ギルベルトを優しく抱きしめてあげる。
(はぁっ、可愛いなぁ……)
もう本当に自分の子供にしてしまいたいくらいだ。
しかし、そんな幸せでたまらない君子を見下ろすのが、ララァだった。
「むっ……」
早くミートパイを食わせろと、目で訴えていた。
怒らせて処刑されるのは嫌なので、君子は名残惜しいがギルベルトを離す。
「ごめんねギル君、ご飯の準備をしないといけないから、抱っこはまたあとでね」
「う~」
しかしギルベルトは、君子に引っ付いて離れない。
料理は火を使うし包丁だって使う、危ないから離れて欲しい。
君子が困っていると、玄関のドアが開く音がした。
「あれ……ロバートさんかな?」
この街には彼以外に知っている人はいない、もしかしたら何か言い忘れた事でもあったのだろうか。
「俺、見て来る」
ギルベルトは、玄関へと向かった。
君子も火を消すと、彼の跡を追ってドアへと向かう。
「ロバートさん、どうしたんです……か?」
しかし、なぜかギルベルトは声も上げずにドアの前に立ち尽くしている。
不思議に思いながら、視線を上にやると金髪の女性がいた。
「あっ……」
何よりも君子を驚かせたのは――、彼女の額に真っ白な角がある事。
ギルベルトは、どうにか彼女を呼んだ。
「母ちゃン……」
それはずっと探していた、ギルベルトの母親ラーシャ。
話には聞いていたがとても美しい人で、どことなくギルベルトに似ている。
長い金髪は見る者を魅了する美しさがあり、胸元が強調されたドレスを着て、まるでパーティにでも行っていたかのように着飾っていた。
(この人が……ギルのお母さん)
息を飲むほどの美人に、君子は驚いてその場に立ち尽くしてしまった。
「母ちゃン!」
ギルベルトはラーシャへと抱きつこうと、両手を目いっぱい広げて駆け寄る。
強がっていても、本当は母親がいなくて寂しくてしかたがなかったのだろう。
母と子の感動の再会、君子の望んだその瞬間がようやくやって来た。
そう思った――のだが。
バシンッ。
誰も想定しなかった音が、響いた。
どうしてそんな音がしたのかも、それが何の音かも、君子は分からなかった。
でも――その音と同時に、ギルベルトが倒れた事は分かった。
「えっ……」
赤く腫れあがった頬を抑えるギルベルト。
その頬の痛みが意味しているのはただ一つ。
ラーシャがギルベルトを叩いたという事だけ――。
彼女の美しい顔はすぐに別のモノへと変わる、憎悪に満ちた怒りの顔へ。
そして――自身の息子へと叫んだ。
「なんで生きてるのよ、ギルベルトぉ!」
それは誰も、本当に誰も予想しなかった言葉。
君子が聞いた、ラーシャの初めての言葉だった。
「えっ……、かっ……母ちゃン?」
叩かれた頬の痛みと怒鳴られた恐怖で、ギルベルトは震えながら涙を流す。
やっと再会できた母親は、抱きしめてくれなかった、優しい言葉をかけてくれなかった。
代わりに――やって来たのは更なる暴力と罵りの言葉。
「なんで死んでないのよっ、なんで生きてるのよアンタはぁ! どうしてアンタは、私に面倒ばっかりかけるのよぉ!」
倒れているギルベルトをヒールの靴で蹴り飛ばす。
それは到底母親のする事ではない、母と子の関係なんかではない。
「うっ……うえっ、かっ母ちゃンっ、イタイ、イタイよぉ」
蹴られ泣き喚きながら、ギルベルトは必死に叫ぶ。
それでもラーシャは止めない。
だって彼女の望みは――ただ一つ。
「死ねよぉ、ギルベルトぉ!」
(なっ……なに、何が起こってるの?)
君子は蹴られているギルベルトを、見ている事しかできなかった。
怖くて、体が震えている。
怒るラーシャ、泣き叫ぶギルベルト、二人の声が――記憶を呼び覚ます。
――お前が、死ねば良かったんだ!
(おっ……お母さん……)
それは君子の母、七年前のあの日からもう一度も会っていない母。
ラーシャの声が母親に、ギルベルトの声が幼い君子自身に重なる。
(あぁ……やっと分かった、なんで私がギル君を放っておけなかったのか……)
いない父親、帰って来ない母親、一人ぼっちの子供。
君子はどこかで分かっていたし理解していた、それでも気が付かないフリをしようとしていたのだ。
(ギルは……私と一緒だ、同じなんだ)
君子はギルベルトに、過去の自分を重ねていたのだ。
だから放っておけなかったのだ、だから助けたかったのだ。
正義感などではない、彼を助ける事で――過去の自分を救ったと錯覚したかったのだ。
「ワガママばっかり言って! いう事聞かないで、私に迷惑ばっかりかけて!」
ボールを物欲しそうに見ていたのも、おねしょをした時に異常に怖がったのも、全部母ラーシャが怒るから、怖いから。
今なら分かる、今だから分かる、今だから分かってしまった。
ラーシャは、事件や事故に巻き込まれたわけじゃない。
ギルベルトを餓死させる為にわざといなくなったのだ。
「死ねよ、早く死になさいよぉギルベルトぉ!」
君子の母と同じ――もう、ギルベルトの事を愛していないのだ。
「あっ……あっあああっ」
ラーシャの罵声が、あの日の母親の罵声と重なり、君子のトラウマを呼び覚ます。
存在を全否定された、あの時の恐怖が蘇り、体が震えて涙が出て来た。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
その場にうずくまり、ただ必死に許しをこう。
自身の母ではないのに、恐怖は君子から理性を奪い取る。
ただ怒られるのが嫌で、怖いのが嫌で、必死に謝り続けた。
存在しない母親の幻影に向かって――。
(怖い……、怖いよぉ……)
震えが止まらず、君子は動けない。
ギルベルトが暴力を振るわれているのは解っているのだが、助けられない。
ただ、何度も何度もヒールで蹴られるギルベルトの悲鳴を、聞いている事しか出来なかった。
「アンタなんて産んだから、私の人生がめちゃくちゃになったのよぉ!」
激高したラーシャは蹴るだけでは収まらなかったのか、暖炉へと近づくと灰掻き棒を手に取る。
ギルベルトは魔人とは言えまだ子供、そんな物で殴られれば死んでしまう。
(止めなきゃ……止めなきゃいけないのに、体が怖くて動かない)
分かっているのに体は動いてはくれなかった。
動こうとする意志も、何もかもがくじかれてしまったのだ。
「私が落ちぶれたのは、全部アンタのせいなのよぉ!」
ラーシャは灰掻き棒を振り上げる。
泣いているギルベルトへと殺す為に、自分を不幸にしたものを始末する為に。
「アンタなんて、生まれて来なければ良かったのよぉぉぉぉぉっ!」
それは、君子の何かを突き動かす言葉だった。
体の奥の芯が、その時大きく動いた。
「――――っ!」
震えが止まった、恐怖が消えた。
それはほんの一瞬のものだったが、それだけで十分だった。
「あっ――」
存在を否定されたギルベルトへと、母の憎しみの一撃が振り下ろされた。
しかし、君子がギルベルトを庇った。
震えが止まった体で、どうにかギルベルトを庇った君子。
ギルベルトの代わりに――、彼女の頭部に灰掻きは振り下ろされる。
「――あっ、キィ……コ」
ギルベルトは自分の代わりに殴られた君子の後ろ姿を、見ている事しかできなかった。
床に倒れた彼女の頭部からは血が滲み出て来て、床を濡らす。
「なっ……だっ誰よアンタ!」
激高していたラーシャは、君子の存在に気が付いていなかった。
だから突然現れてギルベルトを庇った彼女に驚いている。
「うっ……うう」
君子は殴られた頭を抑えながら、ゆっくりと起き上がろうとしていた。
「キーコぉ、キーコぉぉぉっ!」
ギルベルトは泣きながら君子の名前を呼ぶ、ただ何が起こっているのか理解できなくて、怖い事から助けて欲しくて泣いていた。
「そう……アンタがこいつを助けたのね!」
餓死させるはずだったギルベルトを助けた君子をラーシャは睨む。
君子さえいなければ、邪魔なギルベルトを始末出来たのに、怒りの矛先が彼女へと向けられる。
「よくも余計な事をしたわね! やっとコイツを始末出来るはずだったのに、私の幸せの邪魔をして、アンタ何様のつもりなのよぉ!」
身勝手な言葉で怒鳴るラーシャの迫力は、普段の君子なら泣き叫ぶくらい怖い。
でも今は違う、言わなくてはいけない事が在るのだ。
「…………ですか」
「えっ……何よ、なんて言ったのよ」
小さくて聞こえなかったから、ラーシャは聞き返した。
すると今度は聞こえる声で、言う。
「生まれて来なくていいわけ、ないじゃないですかぁ……」
君子はよろよろと立ち上がる。
すぐに倒れてしまいそうなのに、なぜか迫力があってラーシャを圧倒する。
心配するギルベルトにも構わず、彼女は口を開く。
「ギルは、私を肯定してくれたんですよ……、こんな私を肯定してくれたんですよ、ソレなのに、親の貴方が否定しないでぇ!」
ギルベルトはあの時、君子の『生』を肯定してくれた。
それがどんなに嬉しかったか、それでどんなに救われた事か。
「子供にだって生まれる権利がある、子供にだって生きる権利があるんです、なのに親の身勝手で奪わないで下さい!」
ギルベルトが肯定してくれたのと同じように、君子は叫ぶ。
その言葉に、自分の気持ちをありったけ乗せた。
「ギルは、私の為に生まれて来てくれたんです!」
それはギルベルトが君子に言った言葉。
でも今の彼女の思いを伝えるのは、この言葉しかなかったのだ。
「ギルは私と一緒にいる為に生まれて来てくれたんです、私を肯定してくれる為に生まれて来てくれたんです! それなのに母親の貴方が否定しないでぇ!」
頭から血を流し、息も上がっている。
今にも倒れてしまいそうなくらい弱弱しい存在なのに、ラーシャはその気迫に圧倒されていた。
君子の言葉こそ、誰よりも『捨てられた子供』の主張だから、『捨てた親』には言い返す権利などない。
「そう……、そんなにそいつが気に入ったんだったら、アンタにくれてやるわよ!」
ラーシャは灰掻き棒を放り投げると、外へと歩き出す。
泣いているギルベルトを一度も見る事無く、吐き捨てるように言った。
「捨てたものよ、もう私には関係ないわ」
それだけ言って、彼女はもう振り返らずに家を後にした。
自分の息子を残して、もう二度と戻る事はなかった。
「はっ……はぁ……」
痛む頭を抑えるが、出血が止まらない。
どうやらかなり深い所まで切れたらしい、早く何とかしなければと思うのだが、体が動かなくなって床に倒れた。
「キーコぉ! キーコぉ!」
ギルベルトは泣きながら君子の顔を覗く。
そんな悲しい顔をしないで欲しいのに、体はもう動かなかった。
「ギ、ル……」
早く何とかしなければいけないのに、視界はかすみ瞼が勝手に閉じて来る。
君子が最後に見たのは、泣いているギルベルトの姿だった。
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「キーコぉ、キーコぉ!」
いくら呼んでも君子は眼を覚ましてくれなかった。
ギルベルトが泣いている間にも、頭の傷口からはどんどん血が流れて来る。
血が全く止まらない、子供のギルベルトにはどうしたらいいのか分からない。
「うっうええええええん、キーコぉ、キーコぉぉ」
うおんうおんと、声を上げて泣くギルベルト。
しかしそんな彼を叱咤したのは、突然頭の中に響いた声だった。
『泣くんじゃありません、男の子でしょう!』
「ひっ……だっだれぇ?」
知らない女――ララァの声にギルベルトは戸惑った。
ララァは念話で更に語り掛ける。
『布で頭を縛るのです、早く!』
ギルベルトは言われるがまま、洗濯物の中からタオルを持ってきて、つたない手つきで傷口に布を巻いた。
圧迫して出血しにくくしたとは言え、これは所詮応急処置。
急いで医者に見せなければ、手遅れになる。
しかしララァは妖精で人前に出る訳にもいかないし、治癒系の魔法も使えない。
このまま君子が死ぬのは困る、どうすればいいのか彼女が考えていると。
「あっアナタ、一体何を――――」
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ロベルトは酒場にいた。
ラーシャの行方について聞き込みをしていたのだが――。
「おっ……男と駆け落ち?」
ついに掴んだ情報は、あまりにも予想していなかったものだった。
「あぁそうだよラーシャの奴ウチで歌って稼いでたんだけどな、その内常連の金持ちと恋仲になってな、まぁそう言うこった」
店主は開店前の準備をしながら、ちょっと面倒臭そうにそう答える。
だが一大事のロベルトにはそんな店主の事情など関係ない、更に詳しく聞く。
「でも、あの人には息子がいるだろう! それを置いて駆け落ちなんて……」
「馬鹿だなアンタ、鬱陶しくなったんだろう、子持ちの美人に男なんかよってこねぇよ、だから子供を捨てて自分は男と暮らす、よくある話だろう?」
「そんな……よくある話って」
貧弱ながらも王子であるロベルトには、考えられない話だった。
下級貴族の母だったが最期まで愛情は注いでくれたし、その他にも王子である彼には乳母やメイドなど、世話を焼いてくれる人は幾らでもいた。
だから母親一人で子供を育てるという事がどういう事かを、根本的に理解できないのだ。
(どうするんだよ……コレじゃあギルベルトは父親だけじゃなくて、母親にも捨てられた事になるじゃないか!)
ギルベルトは天涯孤独になった。
こんな事を一体どうやって君子とギルベルトに伝えろと言うのだ。
ロベルトは酒場から出ると、とりあえずホテルへと向かう。
果たして正直に真実を告げるべきか、このまま何も言わずに帝都に帰るべきか。
(……ギルベルトを助けたら俺の領主の話が無くなっちまう、でもあいつはあんなに小さいのにこの先一人でどうやって生きて行くって言うんだよ)
下手に関わってしまった事を後悔した。
ギルベルトと再会しなければ、こんな思いをする事はなかったし、領主となって恋人と幸せに暮らしていけたはずだ。
「一晩じっくり考えよう……」
柔らかなベッドに寝ころべば、少しはマシなアイディアが浮かぶかもしれない。
ロベルトは重い溜め息をつきながらホテルへと向かっていたのだが――、突然辺りが騒がしくなった。
「……なんだ?」
気になってロベルトは足を止めた。
するとどういう訳か、人だかりが避ける様に割れてロベルトの前まで続く道が出来る。
「なっ――」
ロベルトはあまりの光景に驚き、声を上げた。
それは、君子を背負ったギルベルトだった。
君子は頭から血を流し、ギルベルトは顔や手足にあざが出来ている。
そのあまりにも普通ではない状況に皆驚き、避けていたのだ。
「どっ――、どうしたんだ!」
ロベルトはすぐに二人へと駆け寄った。
君子には意識がなくて、素人目にもまずい状況だというのは解る。
なぜこんな事になっているのかロベルトが尋ねる前に、ギルベルトが口を開く。
「お願いします、キーコぉ助けて下さい!」
「えっ……」
「俺を庇って、……俺のせいだ、俺が悪いンだぁ」
理由は分からないが、ギルベルトの強い気持ちだけしっかりと伝わって来た。
ロベルトは君子を抱き上げると、力強い笑みを浮かべながら、泣きじゃくるギルベルトの頭を撫でた。
「大丈夫だ、兄ちゃんが絶対助けてやるからな!」
弟がこんなに頼んでいるのだ、見捨てるなんて出来る訳がなかった。
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君子が眼を覚ますと、見知らぬ天井が見えた。
(あれ……私)
まだ霞がかかった様な曖昧な意識の中、状況を理解しようとしていると――、真っ白い服を着て頭から真っ白な布を被った人達が、何かメモを取っていた。
「あっ……」
何度も診察してもらったので覚えている、確か王族に仕える医療集団だ。
でも、どうしてこんな所にいるのだろうか、君子が不思議そうに見つめていると、医者の一人が顔を覗き込んできた。
「医療長、意識が戻ったようです」
「ではロベルト様に知らせなさい」
医療長は部下にそう言うと、君子の傷口の様子を見てから二本指を立てる。
「何本立っているか分かりますか?」
「にっ……二本」
医療長は安心したようで、君子の掛け布団を直してから、どこかへと歩き出した。
まだ頭がぼーっとしていて、状況がよく理解できない。
そんな彼女の頭の中に声が響く。
『目が覚めたようですね』
「(……ララァ、さん……私どうしたんでしょうか?)」
『覚えていないのですね……、アナタはあの魔人の子供を庇って、母親に殴られました』
朧気だが、そんな記憶はある。
ラーシャはギルベルトを殴り殺そうとしたから、それを庇って君子は怪我をした。
それなのにどうして今、こんな所にいるのだろう。
『気を失ったアナタを、あの魔人の子がロバートの所まで運び治療を受けて、約一五時間後の今眼を覚ました、といった状況です』
「(ギル君が……私を?)」
さぞ重かっただろう、自分だって蹴られて怪我をしていたのに、無茶をさせてしまった。
「(ギル君はどうなったんでしょうか……)」
『命には別条ありません、隣の部屋で治療を受けていますよ』
「(そう……ですか、よかった)」
君子は安心そうにそう言った。
しかし同時に大変な事を思い出した。
「(あの、私がやった事っていうのは……その『時空震』を起こす事だったんでしょうか)」
とっさにラーシャからギルベルトを守ってしまったが、これは君子がやってよかったことだったんだろうか。
ベルカリュースを崩壊させる事だったのでは――、心配する君子にララァは少し不思議そうに答えた。
『いいえ、アナタがした事は「時空震」を起こす様な事ではありませんでした』
「(えっ……そうなんですか?)」
『おかしな話ですが、アナタがやった事は全て、本来の歴史から逸脱していない、という事になります』
ギルベルトを助けて、今こうやって治療を受けている事といい、歴史を変えるに十分値しているはずだ。
それなのに、歴史を変えた時に起こる『時空震』が観測されないというのは、変だ。
『……アナタを助けられなくて、ごめんなさい』
「(ララァさん……)」
『ワタシは歴史を守らなければなりません、ワタシが手を出すという事は、本来の歴史を曲げる事になりかねません……』
君子がこの時代に来なければララァはここにはいない、ララァが必要以上に関わると『時空震』が発生する可能性は十分あるのだ。
君子が歴史を変えなくても、ララァが変えてしまっては意味がない。
だから、ララァはラーシャのした事を止める事が出来なかったのである。
「(私なら大丈夫です……、ソレよりもミートパイ作れなくてごめんなさい)」
『キーコ……』
「(今度美味しいミートパイ作りますから……それで処刑は勘弁してください)」
ミートパイの事などとっくに忘れていた。
優しいのか馬鹿なのか、ここまでくるとどちらなのか分からない。
『ええ、ちゃんとフルーツゼリーも付けて下さいね』
ララァはいつになく優しい口調で言った。
君子も彼女の気持ちを十分理解して、笑みを浮かべるのだった。
「キーコちゃん、気が付いたんだね!」
ロベルトがとても慌てた様子でやって来た。
すぐに君子の顔を覗き込んで、彼女の無事に安堵の溜め息をつく。
「良かったよ、君にもしもの事があったらギルベルトがどうなった事か……」
「……ロバートさん」
「医者の話だと君も命に問題は無いらしい、ただ傷が深くてね、あとが残ってしまうかもしれないそうだ」
怪我は右のこめかみ付近、髪の毛で隠せる位置だがやはり女の子、顔に傷が残るなん嫌に決まっているだろう。
君子は包帯を巻かれている頭部に触れた、少し痛みはあるが、大丈夫だ。
「……ラーシャさんは?」
ロベルトはその問いに少し戸惑ったようだが、しばらく間を開けてから話してくれた。
「彼女はこの街を出て行った……男と一緒にね」
薄々分かっていた、やはりラーシャはギルベルトを捨てたのだ。
どうか違っていて欲しかったが、違わなかったらしい。
「…………君に、聞いて欲しい話があるんだ」
ロベルトは少し悲しげに、君子に話した。
ラーシャとギルベルトの事を、知りうる凡てを話したのだった。
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君子と話し終えたロベルトは、ホテルの自分の部屋にいた。
君子とギルベルトの治療の為に、更にホテルの部屋を使った、金はかかるが仕方がない。
「……もう、俺も覚悟を決めるしかないよな」
思い出すのは血まみれの君子と、彼女を背負ったギルベルトの姿。
まだ子供の二人のあんな姿を見せられたら、ロベルトだって黙っている訳にはいかない。
旅行鞄の中から携帯用の小型水晶玉を取り出すと、誰かに連絡を取り始めた。
しばらくすると、水晶に半魔人の女性が映し出される。
『あら……ロベルト、どうしたの?』
「あっ……マリー、久しぶり」
それはロベルトの恋人の女性だ。
素朴な顔立ちながらもどこか愛らしい彼女は、恋人であるロベルトに純粋そうな笑みを浮かべている。
「あの……話があるんだ」
『お話って?』
「……実は、弟を見つけたんだ」
『弟?』
「あぁ、捨てられた弟だったんだけど……本当に俺の弟だったみたいなんだ」
『まぁ……、それで?』
ロベルトは十分すぎるぐらいの間を開けてから、深呼吸をして話の本題を切り出した。
「そいつを、引き取ろうと思うんだ」
血の繋がりがあるとは言え、ギルベルトは一度捨てられたのだ。
ソレを引き取るという事は王族内での地位をほとんど失うも同然。
おそらく、ロベルトの後ろ盾になってくれる貴族などはいなくなるだろう。
「簡単な事じゃない、たぶん王子としての地位は無くなると思う……、それに領主の話も……全部、なくなるはずだ」
せっかく彼女を地位ある女性にして上げられると思ったのに、ギルベルトを選んでしまえばそれは不可能になるだろう。
「だから……君を幸せにして上げられる事が、出来なくなっちまった……本当にごめん」
恋人より捨てられた弟を選ぶなんて最低だ、別れると言われても何も反論できない。
ロベルトは申し訳なさそうに頭をさげた。
そして飛び出してくるであろう怒りの言葉に、必死に耐えようとしたのだが――語り掛けて来た彼女の言葉は、予想したものとは全く違っていた。
『良かった』
「えっ……」
『もしロベルトがその子を見捨てて領主になるって言ったら、別れる所だった』
つまり、それはギルベルトを引き取っていいという事だ。
絶対に別れると言われると思っていたので、嬉しくて泣きそうになった。
『あなたのその優しいところが好きなの、別に王子の地位なんてどうでもいい、領主のあなたよりも家族思いのあなたの方が、とっても素敵よ』
「まっ……マリー」
『それで何時わたしに会わせてくれるの? その弟くんに』
「あっ……もう一人一緒に連れて行くことになると思う、弟を命がけで守ってくれた勇気ある女の子なんだ、異邦人なんだけどきっと君とも気が合うと思う」
『まぁ、急に大家族になっちゃうわね……お部屋準備して待ってるからね』
「ああ、ありがとうマリー本当にありがとう」
ロベルトはお礼を言いながら、これからの事を話始める。
増える家族の事と、これから先の苦難と喜びを思い浮かべながら――。
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意識がはっきりした君子は、病室から外へと出た。
病室と行ってもホテルの部屋で、外には庭師によって整えられた芝生と庭があった。
彼女の後を追って部屋の隅に隠れていたララァも、人目を気にしながら外へと出る。
「…………私の為に、か」
ラーシャがギルベルトを否定していた時、ついあの言葉を言ってしまった。
君子が一番嬉しかった言葉、自分を肯定してくれた言葉。
(あれ……でもコレって、一〇〇年後のギルが言った言葉だけど、私が一〇〇年前に言っちゃったって事だよね?)
まさか一〇〇年後のギルベルトは、君子が言った言葉を覚えていて、あの時言ってくれたのではないだろうか。
(そうなるとコレはギルの言葉だけど私の言葉で、私の言葉だけどギルの言葉になるんじゃないの?)
ものすごくややこしい事になっている気がする。
(これってたしか、タイムパラドックスっていう奴なんじゃないのかな?)
君子は無い頭をフル回転させて、色々考えたのだが――。
(うん分かんない、止めよう)
自分が何を考えても分からないし、そもそもララァが時空震は起っていないと言っているのだ、つまり歴史には影響がないのだから、コレで良いという事にしよう。
君子は難しい事を考えるのを止めて、別の事を考える。
「…………捨てられた、王子」
それは、ロベルトが話してくれた事。
生まれてすぐ父親に実の子だと認められず捨てられ、母親にも捨てられてしまった。
まるで君子と同じ、そして何より到底王族というきらびやかな存在とは思えない程、不幸で凄惨な人生だと思う。
君子が思っていた様なものではなかった、それ以上に苦労の連続だったはず。
今ならヴィルムの言っていた意味が解る。
ギルベルトは恵まれていなかった、王子として悠々自適になんか暮らしていない。
君子は芝の上に座りながら、ふと青い空を見上げる。
(……私、ギルの事何も分かってなかった)
ギルベルトが捨てられた王子だという事も、どれほど寂しい人生を送って来たかも、何一つ分かってなかった。
(私……ギルに酷い事しちゃった)
ギルベルトにはギルベルトの理由がある、立場がある。
でも君子はそれを理解しようとしなかった。
ここは異世界なのに、自分の世界の常識を押し付けてしまった。
「ギルに……謝らなくちゃ」
だから今は、その事をただ謝りたかった。
それだけだった、しかしその気持ちこそ、迷いし者が辿り着いた答えだった。
もう導かれる必要のない者は、帰るだけ――。
「キーコ、体が!」
「へっ?」
ララァに言われてようやく気が付いた。
君子の体が光り輝いて、足元から徐々に光の粒子となって消えて行く。
「えっええええっ、なっなんでえっ私消えちゃうんですかぁ!」
「落ち着きなさい……どうやらアナタは元の時代に帰るようです」
元の時代、つまり一〇〇年後の世界に戻るという事だ。
「まっ待って下さい、私まだ帰る訳にはいかないんです!」
幼いギルベルトは一人ぼっちなのだ、一体誰が助けてくれるというのだ。
ご飯をつくってくれる人も、遊んでくれる人も、そして愛してくれる人もいない。
「ギル君には……ギルには私が一緒にいなくちゃいけないんです!」
君子は必死に訴えたが、ララァは首を横に振る。
「アナタがこの時代に来たのは自分の道に迷っていたから、その答えを得てしまったのならばここにいる意味はありません」
消えるのを止めようと、こすったり叩いたりするが意味がない。
この強制的な帰還に抗う事は出来ないのだ。
しかし消え行く者を、呼ぶ者がいた――。
「キーコぉ!」
それは、ギルベルトだった。
手足に包帯を巻いたとても痛々しい姿で、自分の部屋から出て来る。
「キーコぉ、行くなっ、行くなぁ!」
ギルベルトは、君子を何とか止めようと駆け寄る。
君子はそんな彼を抱きしめようとしたのだが――、体をすり抜けてしまった。
「ギル君!」
振り返ると、すり抜けてしまったギルベルトが転んでしまっていた。
助けたいが、体はどんどん消えて行ってしまう。
消えてしまう君子の体を見て、ギルベルトは声を張り上げる。
「嫌だぁ! 俺を置いていくなぁ、俺を一人ぼっちにしないでぇキーコぉ!」
ギルベルトは必死に叫ぶ、しかしコレは誰にもどうする事は出来ない。
いくら呼んでも、いくら叫んでも、君子の体はどんどん消えて行ってしまう、ギルベルトの前から、いなくなってしまう。
「うっ……うううえっ、キーコも……俺を捨てるのかぁ?」
ギルベルトは涙を流していた。
大好きな人が皆いなくなってしまう、皆自分を嫌いになって離れて行ってしまう。
それが悲しくて、寂しくて――涙がたくさんあふれて来る。
「母ちゃンみたいに俺を置いて行くのか、俺を捨てるのかぁ!」
「違う……違うよ」
「嫌だぁ……嫌だぁ! 捨てないで、俺を、捨てないでぇ」
寂しくて悲しくて、ただ大きな声で泣く。
もう誰も一緒にいてくれない、もうずっと一人ぼっち。
「違うよ、ギル!」
嘆くギルベルトを、君子が抱きしめた。
抱きしめた訳ではない、消えかけた体でギルベルトを覆っているに過ぎない。
感覚も、ぬくもりもない。
それでも、君子が自分を抱きしめているのだけは、泣いていたギルベルトにも分かった。
「違う、違うよ……捨てたりなんかしない、ギルを捨てる訳ないよ」
「キーコぉ……」
ギルベルトが君子の顔を見ると、彼女も同じくらい泣いていた。
自分と同じように、別れを悲しんでいてくれている。
「もう一回会えるから、一〇〇年後また会えるから……」
それは君子にとって初めて会った、あの時。
泉で会ったあの時――。
「ハルデの泉で待ってて、絶対会いに行くから!」
異世界に来たばかりの時、泉のそばで眠っていたギルベルトと出会った。
一〇〇年後、ギルベルトは絶対に君子と再会する。
だから――――待っていて。
「キーコぉっ!」
とうとう君子の手も消えて、顔まで光の粒子となって消えようとしていた。
ギルベルトが手を伸ばしたその瞬間、君子は涙でぐしょぐしょになった顔で、笑顔を浮かべる。
「――――約束、だよ」
そして、君子は消えてしまった。
もうこの世界にいない。
刻印の所有者であるギルベルトには解る、君子はもうこの世界のどこにもいない。
今はただソレが悲しくて、中庭に一人残されたギルベルトは大声を上げて泣く事しかできなかった。
「うああああああああああああああん、キーコォォォォォ」
ギルベルトの泣き声に気が付いて、ロベルトが飛び出して来たが、彼は泣き止まない。
他の誰に何を言われても、ギルベルトの悲しみは消える事はなかった。
一〇〇年後に再会する、『彼女』を除いては――。
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ララァは泣くギルベルトと、なだめるロベルトをしばらく見つめる。
もう時間遡行をした君子はいない、この場にいる意味はない。
ララァは六枚の美しい羽根を広げると、大空へと飛んだ。
時間の管理者としての仕事は終わったのだが――気になる事がある。
(なぜ……キーコは『時空震』を起こさなかったのでしょう)
ギルベルトの命を助けて、ロベルトやラーシャなど、本来この時代に関わる事がなかった人々と接したのだ、普通ならばその分本来の歴史を変革することになる。
歴史を変えれば、その影響が大きければ大きいほど『時空震』が起きるはずだ。
(……まさか彼女が時間遡行する事が、本来の歴史とでも言うの?)
君子のタイムスリップは偶然などではなく、初めから定められていた事。
彼女が一〇〇年前でやったこの事は、全て本来の歴史に組み込まれていた事だとしたら――、コレは歴史の変革ではなく、ただ起こるべくして起こっただけ。
それなら『時空震』が起きない理由にはなるが、やはり疑問は残る。
(だとすれば彼女はこの世界にとって、とんでもなく重要な存在なのではないだろうか?)
なぜ君子の時間遡行が本来の歴史に組み込まれていたのだろうか。
君子はただの凡人、その彼女のタイムスリップというイレギュラー、それが正しい歴史というのだろうか。
時間の管理者であるララァでさえ、それがどういうことか分からない。
ただ一つ言えるのは、この時間遡行がこの世界ベルカリュースにとって必要な事だと、創造主たる万物の創造神が定めたから。
(……異邦人キーコ、アナタは一体何者だったのでしょうか?)
ララァはもうこの時代にはいない少女へと語り掛ける。
そして、彼女はどこまでも青い空へと消えて行った。
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一〇〇年後・ベルダル
軍管理の屋敷では、騒ぎが起こっていた。
「ぐっぬああああああっ、はっ離せぇぇ!」
ベッドに押さえつけられたギルベルトが、鎖を引き千切ろうと暴れていたのだ。
その暴れっぷりには、医療集団の医師達どころかヴィルムさえも手が付けられない状況だった。
「ギルベルト様どうか落ち着いて下さい! キーコは我々が探しますから!」
今から五日前、部屋にいた筈の君子が忽然と失踪したのだ。
ギルベルトの刻印の範囲からは出られないはずなのに、いくら探しても君子は見つからなかった。
先のジャロードの件もあって、ヴィルムもアンネも心配している。
だが、どこに行ったのか見当がつかず、探しようがない。
「うりゃあああああっ」
ギルベルトはとうとう鎖を引き千切って、ベッドから起き上がってしまった。
「ぎっギルベルト様ぁ、おやめ下さ………きっキーコ!」
ヴィルムがギルベルトを抑えようとした時、君子が廊下に立っている事に気が付いた。
いくら探しても見つからなかった彼女が突然現れた事に動揺したが、何より君子の頭に包帯が巻かれていて酷い怪我をしている事に驚いた。
「きっキーコ、その怪我どうしたの!」
「一体何があったのですかキーコ!」
心配するアンネとヴィルムの前を君子は通りすぎる。
「――キーコぉっ!」
ギルベルトは、素足のままで床に降りると君子へと近づいた。
抱きしめようとしたのだが、彼女を『覇気』で怖がらせてしまった事を思い出した。
先に謝らなくていけない、ちゃんと許して貰わなければいけない。
「あっ……あのぉ、ごっ……ごっ」
でもなんと言って謝ればいいのか分からなくて、言葉に詰まる。
そんな風にもたもたとしていると――、君子が先に口を開く。
「……ごめんねギル」
どうして君子が謝るのか分からない、驚くギルベルトに彼女は続ける。
「私ギルの立場とか都合を考えないで、自分の世界の常識を押し付けてた……ここは私の世界じゃないのに……」
「キーコ……」
「ワガママ言って、ごめんなさい」
君子は深々と頭を下げた。
ギルベルトもヴィルムもアンネも、ただ彼女のこの急な心変わりに驚く。
五日間の謎の失踪に加えて、この心変わり、何が起こったのかさっぱりだ。
だがもう君子が怒っていないと知ると、詰まっていたギルベルトの口から言葉が出た。
「おっ……俺もごめン、キーコを怖がらせて……本当に、ごめン」
「ううん、ギルにはギルの事情があるんだもん、仕方がないよ」
君子はそう言ってギルベルトの手を取った。
あれほど触れるのを嫌がっていたのに、自分から触れてくれた。
こんなに嬉しい事は無い、ギルベルトは君子を力いっぱい抱きしめる。
「キーコぉっ……キーコぉ!」
嬉しそうに君子に頬ずりをして、ギルベルトは温もりを感じる。
大好きな彼女をもう離さない様に、力いっぱい抱きしめるのだった。
************************************************************
ヴィルムは、驚いていた。
君子にどんな心変わりがあったのか分からないが、あれほどギルベルトを怖がっていたというのに、こんな事ありえるのだろうか。
それにあの頭の怪我は一体どうしたのだろう。
「一体、何がどうなっているのでしょうか……」
ヴィルムが唖然としていると、軍服を着た魔人がやって来た。
「ギルベルト王子殿下に、書簡をお持ちしたのですが?」
「はい……、ギルベルト様は今取り込んでおられるので、私が受け取りましょう」
「必ずお目を通して下さい、何しろ第一級の配達物で御座いますので」
男は頭を下げると去って行った、どうやら軍属の配達人だったようだ。
ただの書簡にしては、便箋ではなく巻物という格式ばった方式を取っている。
こんなもの今時祭事の時にしか見かけない。
「何のお手紙なんですか?」
「さあ……まぁ後で開けてみましょう」
今はギルベルトと君子の仲が戻った事を、素直に喜びたい。
だからヴィルムは、自室に戻ってからその中身に目を通す事になる訳だが、彼は君子の失踪騒動のせいですっかり忘れていた。
今日が新魔王の発表の日であり、その書簡が新たな魔王に贈られる任命書である事を――。
それから二時間ほど経った後、ギルベルトが魔王になったと大騒動になる訳なのだが、それをまだ誰も知らないのであった。
とりあえず一〇〇年前の約束編、本編終了です。
ちょっと短い章でしたが、元々聖都動乱編とセットだったものを分けたので、こんな感じになりました。
次章に入る前に幕間やら番外編やらなんやらを更新すると思いますので、本編はゆるるりとお待ちください。
次回より、魔王になったギルベルトのお話です。
帝都で就任式に出席したギルベルトについて行った君子、彼女の前に現れたのは個性強すぎな王族達。
主に君子が連れ去られたり気絶したりします。




