第七五話 タイムスリップ、ですかぁ
魔王ジャロードを倒してから、四日。
ジャロードの死は、暗殺という形でヴェルハルガルド中に知れ渡り、死を悼み、偽の暗殺者である勇者を憎む者もいたが、皆の関心はそれ以上に次の魔王という一点のみ。
空いた席は二つ、内に野心を秘めし者達は、誰もがそこに座ろうとしていた。
誰もが五日後の魔王の発表を心待ちにしている中――、そんな事関係ない当事者が一人。
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「だぁぁっ、コレ外しやがれぇ!」
ベッドに無理矢理拘束されているのは、ジャロードを討ったギルベルトである。
頑丈な鎖で縛られている彼は、はっきり言って猛獣と形容する方が正しい。
「なりません、ギルベルト王子殿下は特に重症なのです、あと一週間は安静にしていただかなければ、死にますぞ」
「もう治ったって言ってンだろう!」
ちなみにアルバートは、暴れるギルベルトとは違い安静にしていた為昨日無事に退院となり、今回の件をベネディクトに報告する為に帝都へと向かったのだった。
暴れるギルベルトに、ヴィルムが口を開く。
「……ギルベルト様、その医者の言う通りです、少しは安静になさって下さい」
「そうですよぉ王子殿下ぁ、そんなに暴れるとぉ傷口が開いて体液がどぴゃーって出ちゃいますよぉ?」
そう恐ろしい事を言うのは、何度か見覚えのある背の小さい医者。
確か前も、色々と問題発言をしていた気がする。
ヴィルムが睨むと、先輩がその医者を引きずるように連れ出した。
「……ギルベルト様、どうしてそんなに暴れるのですか?」
「…………だって、キーコが」
ギルベルトが心配していたのは、あの日から一度も部屋から出て来ない君子の事。
まるで抜け殻の様になってしまって、君子は誰が話しかけても答えず、ただ一日中呆けている。
ただでさえギルベルトが戦争をしていると知って怖がっていたというのに、偽者とは言え姉の形をしたモノを目の前で殺されては、心が壊れてしまっても不思議ではない。
「……キーコに、謝ンねぇといけねぇンだ」
「…………なんと言って謝るのですか?」
「そっそれは……」
ベッドから自由になったとしても君子の所に行く前に足を止めてしまうだろう。
彼は君子との関係を修復したいと願っているのに、なんと謝ったらいいのか分からないのだ。
「……ギルベルト様、今のキーコに何を言っても無駄でしょう……状況は余計に悪くなっています」
エルゴンで戦争をしていた事を隠しただけではなく、偽者の姉を殺した事で状況は言葉では表せない程悪くなった。
君子の拒絶ぶりは、正直言って誰にもどうする事も出来ないレベルだ。
「でも……俺はキーコの事が……」
ギルベルトの気持ちは痛いほどよく分る、しかし今は彼らにはどうする事も出来ない。
「せめて彼女の気持ちが大きく変わるほどの出来事があれば、状況が変わるのですが」
あの強い拒絶を打ち消し、更に心に響くほどの出来事が起これば、君子も少しはこちらの事を受け入れてくれるかもしれない。
だが――そんな事が起こる訳がない。
何もできない彼らは、ただ落ち込む事しか出来なかったのであった。
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「キーコ、ご飯……ここに置いておくからね」
アンネは、ベアッグが造ってくれた食事をテーブルに置いた。
その前に持って来た手を付けられていない朝食を片づける。
もうずっとろくに食事を摂っていない。
「……ほらっ、スラりんもキーコとご飯食べたいって」
アンネはスラりんを君子の膝の上に置く。
ぷるるんボディを揺らしながら、君子を励ますようにもぞもぞ動いている。
一緒に気が紛れればと思って、彼女の持ち物が入ったバッグも置くが、君子は人形の様に呆けているだけ。
「……キーコ」
何をすれば元に戻ってくれるのか、どうすればまた笑ってくれるのかアンネには分からない。
今はただ自体が少しでも良くなるように、祈る事しか出来なかった。
アンネが出て行っても、君子は動く気にならなかった。
椅子に座って、ただ一日中ぼーっとしているだけで、まるで人形だ。
ただ、二度も大切な姉を失った悲しみで打ちひしがれていた。
(……お姉ちゃん)
ほんの数日前まで、大好きな姉は眼の前にいて言葉を交わし触れあっていたのに、今はもうどこにもいない。
悲しい、もう自分が信じられる人は――どこにもいない。
(お姉ちゃんは偽者だった……、私が造ったお姉ちゃん、だからアレは本物じゃない、本物じゃない)
君子は自分に何度もそう言い聞かせた、しかし――渓谷の底へと落ちて行く姉の姿がフラッシュバックする。
姉の形をした別のモノだとしてもやっぱりアレは姉で、大切な人を失った悲しみは、七年前と何も変わらない。
姉の後を追いかけたくとも、君子はギルベルトに刻印を書き直されて、彼が指定した範囲である屋敷から出る事は出来ない。
もうどうする事も出来ない、ただなんのやる気も起きない。
誰にも迷惑をかけず自分という存在が消えてしまえば、どれほど楽だろうか――。
(ギルは……戦争をしてる怖い人で、皆はそれを隠していた嘘つきで……私はそんな見せかけだけの世界を幸せだと思ってたなんて……、バカみたい)
このベルカリュースという世界を、夢の世界だと思っていた自分が本当にどうしようもない馬鹿だ。
「ギルのあの言葉も……嘘だったのかなぁ」
それは、君子の『生』を肯定してくれたあの言葉。
あの言葉がどれほど嬉しかった事か、アレもまた口から出まかせだったのだろうか。
君子がポツリとそう言った時、彼女の膝の上に置いてあったバッグが落ちた。
膝の上でスラりんがもぞもぞと動き回って落としたのだ。
「………………」
無視しようかと思ったが、財布やら裁縫セットが散乱していて無性に目障りになった。
元々綺麗好きな性分もあってか、こんなにも何もやる気が起きないのに、散乱したものをスローモーションのようにゆっくりと拾い始める。
「…………」
でも頭の中では、ギルベルトと過ごした思い出が、ぐるぐると回っていた。
楽しかった事、悲しかった事、怖かった事――全部がごちゃごちゃになって、頭が破裂しそうだった。
「……もう、どうしたらいいのか分からないよぉ」
これからどうすればいいのか、どうやって生きて行けばいいのか分からない。
そう弱音を吐いた。
しかしその時、その弱音など吹き飛ばす様な出来事が――起こる。
「まっ眩しっ」
急に強い光が発生した。
窓から差し込む太陽の光ではない、もっと光量があって、もっと異質な真っ白な光。
「えっへぇっ!」
光っているのは握っている君子の手――一体何が起こっているのか訳が分からない。
突然の現象にパニックを起こしている君子を、強く大きくなっていく光が飲み込む。
「ふっふえぇぇぇぇぇぇ――――」
誰にも届く事無く途切れた悲鳴。
しばらくして光が収まったのだが、そこにはもう君子の姿はなく、モゾモゾと動くスラりんだけ。
その瞬間、この世界のどこからも君子の反応は消えてしまったのだった。
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「うぎょべっ!」
君子は落下する感覚の後、強い痛みをお尻に受けた。
ものすごく痛い、泣きそうなくらい痛い。
「……うっいたたぁ、一体何が起こったのぉ」
突然手が光って、何もかも見えなくなったと思ったら、お尻が痛かった。
「げほっ、げほっ……なっ何コレぇ埃っぽい……」
屋敷の部屋はとても綺麗だったから、せき込むほどの埃が舞い上がるなんてありえないと思うのに、君子は手で煙を払っていると握っていた手から何かが落ちた。
「あっ……あれコレって、聖都で買った」
聖都の露店でアンネに買ってもらったペンダント。
エルフの遺跡から出て来た、宝玉と露天商は言っていた。
ばらまいてしまったバッグの中に入っていたのだろう、しかしあの時は琥珀の様に透き通った綺麗な宝玉だったのに、今は色がくすんでいて濁っている。
「えっ……なっなんで? えぇ?」
あの光はこの宝玉から出たモノで間違いない、だがなぜ光ったのか何が起こったのか分からない。
「げほっ、ていうか、なんでこんなに埃っぽいのぉ」
君子は口を抑えながら、ふと壁や天井へと目をやる。
木目が剥き出しの天井と壁、どちらも薄い木の板で作られている。
屋敷の天井には豪華なシャンデリアがあったし、壁にはちゃんと壁紙がしてあって、木は一切見えなかったはずだ。
驚き戸惑いながら、周囲を見渡していると――。
「だっ誰だよおまえぇ!」
知らない声がした。
声からして子供のように思える。
「ごっごめんなさいぃ」
よくわからないが反射的に謝ってしまった。
君子が声のした方へと視線を向けると――、部屋の隅の方に小さな影があった。
その声の主を見た、同じ空間にいる人物が一体どんな人なのか知りたかっただけで、知れば何が起こったのか分かるかもしれないから。
ある意味人間として、普通に状況を整理したかったからだ。
「あっ――」
最初に見えたのは、酷く汚れたボロボロの服。
ところどころに穴が開いた服を繕いなおした跡があるが、それはとても不器用でみすぼらしい。
次に見えたのは短い金髪、そして最後に見えたのは額の小さな黒い角。
君子は、ただ反射的に呟いてしまった。
そんな事ありえるはずないのに、口が勝手に動いた。
「……ぎっ、ギルぅ?」
顔立ちこそ幼いが、目の前にいる子供は間違えなくギルベルトだ。
金髪に赤みは混じっていないし、額の角なんてまるで子牛。
引き締まった体とは無縁の五歳前後の実に子供らしい手足で、背丈だってグラムよりも小さく、到底振りまわすことは出来ない。
でも、それでも――彼はギルベルトだと解る。
「おっおまえだれだぁ! なンで俺ン家にいるンだよぉ!」
小さなギルベルトは声を張り上げて、精いっぱい君子を睨みつける。
だがそこには、君子が抱いたあの怖さなど微塵も感じられない。
むしろ強大な敵と遭遇して、自身を少しでも大きく見せようと毛を逆立てる小動物の様。
自分の心臓の鼓動でショック死してしまいそうなギルベルトを、君子は見下ろす。
「あっ……」
何を言えば、何をすればいいのか分からずに君子は固まった。
時間まで固まってしまったのではないかと錯覚し始めた時――。
ぎゅるるるるるっ。
この場にえらく似合わない、見事な腹の虫が鳴いた。
これは君子の腹から発せられたものではない。
「あっ……あ――」
すると小さなギルベルトは倒れてしまった。
「ぎっギルっ!」
君子は急いで近づくと、彼を抱き起す。
どうやらとてつもない空腹で気を失っただけで、死んだ訳ではない。
生きている事に安堵の溜め息をつくが、状況は何一つ変わっていない。
「ここは、どこなの?」
どうやら小さな家だと思う、ベッドもあるしテーブルと椅子が二つと、それに安物だがのソファもある。
奥には台所とトイレがあるようで、一応生活感はある、すごく汚いけど。
「……あの屋敷、じゃないよね」
君子がついさっきまでいた屋敷と同じ所だとは到底思えない。
つまりあの光のせいで、君子はどこかへと移動してしまったと考えるべきなのだろうが、目の前のこの幼いギルベルトは一体何なのだろう。
つい抱き起してしまったが、こんな気を失うほどお腹が空いているなんて、正直普通の状況ではないと思う。
「一体……何が起きたの?」
訳が分からず、少ない頭をフルに回転させて、どうにか試案を巡らせようとしていると。
『――人間の娘よ、理を侵犯したのは貴様か』
「ふっふえっ! だっ誰ですかぁ!」
今度はとても大人びた声が響いた。
部屋中から声が発せられているようで、どこで誰が喋っているのか分からない。
『よもや我らが創造神に背き、理を侵す者が現れるとは、この罪はそなたの命を持って償わなければならない』
「えっええええっ、わっ私何か悪い事したんですかぁ! 犯罪をしてしまうなんてぇ、人様に迷惑をかけないで生きて来たのにそんなぁ~」
『まだ白を切るつもりですか、仕方がありません……』
声の主は億劫そうにそう言うと、どこからともなく冷たい風が吹く。
すると君子の正面の暗闇がうごめき、何かが出て来た。
「あっ……」
それは――妖精だった。
真っ黒なファーの帽子に、真っ黒なドレスを着た真っ黒な妖精。
そして、まるでガラス細工のように透き通った六枚の羽根。
手のひらくらいの大きさで、とても愛くるしい。
「ふぁっふぁっ……よっ妖精さんだぁぁぁぁぁぁぁっ!」
もう一年も異世界にいるのに、このファンタジーのド定番に会わないなんて、今までが可笑しすぎたのだ。
ファンタジー大好き君子さんのテンションは、この真っ黒な妖精の登場によってマックスへと跳ね上がった。
(よっ妖精、瓶にいれたら体力回復してくれるのかなぁ! 瓶っ瓶はどこぉ!)
もはや某緑の服の主人公のゲームの思考回路になっている。
だがそんな思考など知る由もなく、妖精は口を開く。
「ワタシは、万物の創造神より『時間』の管理を賜りし原始の存在が一人にして、妖精族の宰相、『闇の超越者』ララァ=フリージング・ブラックローズ」
「管理……宰相? 超越者?」
なんだかよく分からないけど、これだけの肩書があるという事は、とてもすごい人なのではないだろうか。
ありすぎて少しイタイくらいだが。
「姿を見せたからには、アナタを処刑します」
「しょっしょけっ! えっえええええっ、罪状はなっなんなんですかぁ!」
処刑されるような悪い事はしていないはずなのだが――。
妖精ララァは、億劫そうに口を開く。
「この世界の理を侵し、我らが創造神に反逆した罪です」
「はっ反逆? わっ私そんな事してません」
「まだ言い逃れをするのですか、強情な人間の娘です」
冤罪極まりない、君子は何とか弁論を試みようとするのだが、ララァがその小さな指で指しながら言った。
「アナタは一〇〇年の時間遡行をしたではありませんか」
「じっ時間遡行?」
遡行、という事はつまりさかのぼるという事。
時間をさかのぼるという事はつまり――。
「たっ……、タイムスリップ、ですかぁ……」
それこそ正にフィクションの中のフィクション。
ただでさえ混乱している君子の脳みそは、更なる負荷を受けて暴走する。
「たっ、タイムスリップうううっ! えっうそっ、そっそんな、オタクの夢みたいな事しちゃったんですかぁ私ぃ!」
普通の状況ならば到底信じられないが、目の前には幼いギルベルトがいる。
そっくりさんだとしても似すぎていた。
これはララァの言う通り、君子はタイムスリップしたという方がしっくりくる。
「……ようやく罪を自覚しましたか、では処刑いたします」
「ちょっちょっとぉ待ってくださぁい! わっ私、タイムスリップするつもりなんて全然なかったんですぅ!」
「……つもりも何も、アナタは現にこの時代にいる、それだけで罪です」
「そっそれは、とっ突然コレが光って……気が付いたらここにいて……」
「……光った?」
ララァはふと床に転がっている宝玉のペンダントを見る。
「これは、導きの宝玉……エルフの絶滅と共に消失したと思っていましたが……まさか欠片が残っているなど」
とても驚いた様子のララァは、近づいて宝玉へと触れる。
「既に力を失っていますね……」
「ちっ力?」
「アナタ、何も知らずにコレを持っていたのですか?」
ただエルフが由来の物だから、所持していただけである。
「……コレは、導きの宝玉と言って、迷える者に道を指示してくれる神の至宝」
そう言われてみると、確かそんな事を露天商が言っていた気がする。
「黒髪に黒目、アナタ異邦人ですか?」
「えっはっはい……」
「ならば納得です、この宝玉は神が異邦人の為に造ったと言われる物、扱えるのは異邦人か管理者であるエルフのみ、この導きの宝玉が迷えるアナタを時間遡行させたのでしょう」
「まっ……迷える」
確かにこの先どうすればいいのかとか、色々考えていた気はする。
でも、だからと言って何も一〇〇年前に飛ばさなくてもいいとは思う。
「状況は理解できましたね、では処刑しましょう」
「ちょっちょっとぉ待ってくださぁい、わっ私別に一〇〇年前に来たくて来たんじゃないんですよぉ、それなのに処刑なんてあんまりですぅ!」
いうなればこれは事故の様なものなのだ。
それなのに処刑と言うのは、少々行き過ぎである。
「確かに言われてみれば情状酌量の余地がない訳でもありません」
「でっでしょう……」
「ふむ、折角時間を改変しようとする不届き者が現れたと思ったのに……残念です」
なんだか理由は分からないが、このララァという妖精は処刑したかったようだ。
そんな軽い感じで処刑されるのは、君子だって御免だ。
「……あっ、わっ忘れてた! ぎっギルっ」
妖精ララァの登場ですっかり忘れていた、君子は気を失っているギルベルトを見る。
一〇〇年後の彼からは想像つかない程みすぼらしい服を着て、粗末な小屋にいる。
(……一体どういう事なんだろう、ギルはヴェルハルガルドの王子様なんだよね)
ここは到底お城とは思えないし、一体何がどうなっているのか分からない。
でも、今自分が抱き上げているギルベルトの体重がとても軽くて、このまま放っておけば餓死してしまうかもしれない。
(ギルへの恐怖が消えた訳じゃないけど……、このままほっといたら、このギルが死んじゃうもん……見捨てるなんて出来ない)
君子は立ち上がると、幼いギルベルトをベッドへと寝かせる。
その様子を見たララァが怪訝な顔をした。
「アナタ……まさかその子供を助けようとしているのではないでしょうね?」
「えっ……だっだってほっといたら死んじゃう……から」
「いけません、アナタは本来この時代にはいてはいけない人物なのです、そのアナタがこの子供を助けるという事は本来の歴史を変える事なのですよ」
一〇〇年前のギルベルトを助けるという事は、本来の歴史に干渉する事になってしまう。
それは万物の創造神への反逆に値するのだ。
「神の造りし時空を改変した場合、例え導きの宝玉によって時間遡行したとしても、アナタを処刑しなければなりません」
「そっ……そんな」
「歴史を変えれば、その分この世界を歪める『時空震』が出て、ベルカリュースという世界が崩壊してしまう可能性があるのです、アナタは神が造りしこの世界を、そんな子供の為に滅ぼすおつもりですか?」
「べっ、ベルカリュースの崩壊?」
この世界が壊れてしまうのは嫌だ、だがそれだとこの幼いギルベルトを見捨てなければならない。
ここがどこだか知らないが、人気はなく助けてくれる人はいなさそうだ。
処刑は怖い、怖いけれど――ギルベルトが餓死する所なんて見たくない。
「ごめんなさいララァさん! 私ギルを見捨てるなんてできません!」
「お待ちなさい!」
ララァの制止も聞かず、君子は急いで台所へと向かう。
台所は物が散乱していているのだが――どれも、食べ物を物色した形跡だった。
「……これ、全部ギルがやったの?」
調理をせずに食べられるものは、片っ端から食べた跡がある。
空っぽのジャムの瓶や、塩漬けの保存食、更には小麦粉の入った袋が開けられて、小さな手で粉を掬い取った跡まで残っている。
「……生の小麦粉まで食べるなんて」
とにかく何かギルベルトに食べさせさせなければ、食材を探すがほとんどギルベルトが食べてしまっていて、在るのは小麦粉と調味料くらいだ。
「ええいっ、こうなったらやってるぅ!」
君子は料理の知識をフルで行使して、料理をはじめた。
「…………」
ララァはそんな彼女の姿を、黙って見つめていた。
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何かいい匂いがする。
しばらくぶりに、違う匂いを嗅いだ。
意識はまだまどろみの中だったが、空腹の胃袋はこの唾液腺を刺激する香りに素直に反応して、起き上がる。
なぜベッドに寝ているんだろう、それにこの匂い。
台所から物音がする、誰かが近づいてくる。
ギルベルトはとっさに、その人物を呼んだ。
「――母ちゃンっ!」
しかし、現れたのはスープ皿を持った君子だった。
「あっギル、良かった目が覚めたんだね」
「……うっ」
見知らぬ女に、幼いギルベルトは警戒している様子だった。
よくよく考えると、このギルベルトは君子を知らないのだ、普段ならありえない反応でちょっと傷つく。
「あっ……あの、えっとぉ御飯作ったよ、食べ……よ?」
小麦粉に水を加えてこねた物を、スープにぶち込んだ料理。
(中華料理のガーダースープとすいとんの間みたいな料理になってしまった)
卵がないので、塩ベースのスープに食品棚にあった乾燥させたハーブを加えた物である。
本当に何もないので、こんな物しか作ることが出来なかった。
(ベアッグさんから食べられるハーブを聞いておいて良かったぁ)
いつどんな知識が役に立つのか分からないものだ、これからはもっと様々な情報にアンテナを張っておかなければならないと心から思った。
「…………」
幼いギルベルトはテーブルについたものの、出された小麦粉のスープを睨みつけていた。
確かに、戦時中の様なお粗末な御飯だが、持てる知識を総動員して最大限美味しく仕上げたつもりだ。
「あっあの……、えっとぉ……一応食べられる……よ?」
冷静に考えると知らない女が急にご飯を作ったら、君子だって警戒するかもしれない。
しかしギルベルトの腹の虫が再び警鐘音ならした。
胃袋に意識が敵わなくなったのか、ギルベルトはスープを口へと運ぶ。
「…………」
「どっどう、かな?」
今度はすごい勢いでスープをかき込み始めた。
本当にお腹が空いていたようで、一生懸命食べている。
(そういえば、ギルと初めて会った時もお腹が鳴ってたっけ)
あの時は、ギルベルトがスコーンを喉に詰まらせてとても大変だった。
このがっつく所なんて、大きくなっても変わらない。
「えへへっ……」
「……なンで笑うンだよぉ」
「えっ……えっとぉ、ギルといると楽しくって……つい」
知らない女に突然笑われたら不快だ、失礼な事をしてしまったと君子は反省した。
とりあえずご飯を食べてくれて良かった、餓死の心配がなくなったので、ギルベルトに気になっている事を質問する。
「……あの、ヴィルムさんはどうしたの?」
「誰だよ、ソイツ」
「ふぇっ、知らないんだ」
よく考えると、ギルベルトとヴィルムがいつ会ったとかは知らない。
そもそもここはマグニなのだろうか。
(……うーん、よく考えると私、ギルの事ちゃんと知らない)
ヴェルハルガルドの王子でマグニの領主で、野菜が嫌いでワガママって事くらいしか知らない。
一〇〇年前のギルベルトという事は、七〇歳という事になる。
魔人の七〇歳が異邦人にするとどれぐらいかは分からないが、こんな子供が一人でいる訳ない、きっと保護者がいるはずだろう。
「あっ……じゃあ、お父さんはどこにいるの?」
ギルベルトやヴィルムとの会話に、父親つまり魔王帝は何度も出て来た。
この国の王様なのだから、知らないはずはない――と思ったのだが。
「父ちゃンなンか、いねぇ」
「へっ?」
可笑しい、一〇〇年後のギルベルトは、間違えなく自分の父親は魔王帝だと言っていたのに、それがいないというのは一体どういう事なのだろう。
(あれぇ……可笑しいなぁ、ギルはヴェルハルガルドの王子なのに)
まさかの回答に困ってしまった、父が駄目なら――。
「じゃあ、お母さんは?」
「…………っ」
「……ギル?」
急にギルベルトは黙ってしまった。
そう言えば、さっき君子の事を『母ちゃん』と呼んだ。
母親と間違えてしまったという事なのだろうか。
「お母さん……、どうかしたの?」
「――――っ、うっさいンだよぉ!」
ギルベルトは声を荒らげると、椅子から飛び降りて君子を家から追い出そうと押す。
一〇〇年後の彼に比べれば力なんて込められていないも同じなのだが、突然激高した事に驚いて、君子はされるがまま家の外へと突き飛ばされてしまう。
「ひゃっ――」
しかしその時、足が急に動かなくなった。
まるで下半身だけ別の生き物になったかのように、ビクともしない。
まさかこれは――。
「刻印……?」
君子には一〇〇年後のギルベルトが書いた刻印がある。
時間遡行した事によって、君子の所有権がこの時代のギルベルトに移ったのだ。
だがそんな事このギルベルトが知る筈がない。
「おまえには関係ないだろぉ、どっか行けよぉぉ!」
顔を真っ赤にして必死に叫ぶギルベルトの眼には、涙が浮かんでいた。
何か尋常じゃない雰囲気を感じる、胸が苦しくて、チクチク痛む。
「ギル……、お母さんどうした……の?」
「……うっ、ううっ母ちゃンは……、帰って来ないんだぁ」
「お母さんが……いつから帰ってないの? どこに行ったの?」
「うっううぅわっ分かンない、分かんないンだぁ」
可笑しいと思ったのだ。
ギルベルトがいるこの粗末な家にはあるものは全て二人分あった。
二人分の椅子、二人分の食器、二人分の生活の痕跡。
一緒に暮らしている人がいた筈なのに、ギルベルトが餓死寸前の空腹状態になる訳がない。
同居人――つまり保護者である母親に、何かがあったという事だ。
「うっううっ、母ちゃン、母ちゃああン」
ギルベルトは涙をポロポロとこぼして、いなくなった母を呼んでいた。
その姿は、君子の知るギルベルトとは全く違う。
このまま放っておいてはいけない気がした。
どうしてかは分からないけど、心がそう言っていた。
意識よりも体が先に動いていた。
「来ンな! 来ンなよぉぉ!」
ギルベルトは近づいて来た君子を小さな手で何度も殴る。
ただ怖くて仕方がなくて、小さな拳を何度も振るう。
しかし――君子はそんなギルベルトを抱きしめる。
「あっ……」
自分ではない、他人のぬくもりが伝わって来る。
数日ぶりの温かさ、優しく包み込む。
「泣かないで……泣かないでギル」
君子はギルベルトの涙を拭う。
こんな涙をギルベルトには流して欲しくない。
「私がお母さんを探してあげる、だからもう泣かないで」
この温もりには敵意がない。
その言葉には嘘がない。
優しさに抱きしめられたギルベルトは、今度は嬉しくて泣きだした。
肩を震わせてなく小さな体を、君子はいつまでも抱きしめていた。
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日が暮れる頃になってようやく泣き止んだギルベルトは、疲れて眠ってしまった。
君子はそんな彼をベッドに寝かせて、自分はその寝顔を眺めている。
(……お母さんが帰って来なくて、怖くて悲しかったんだろうなぁ)
ひもじくてたまらなくて、家じゅうの食べ物を漁ったのだろう。
考えただけで、君子の心も苦しくなって来た。
(お母さんが帰って来ないのは……嫌だよね)
君子は、今のギルベルトを過去の自分に重ねていた。
片親で仕事が忙しかったから、一人で帰りを待っていると、本当に帰って来るのか不安になる時があった。
ギルベルトの頬に残る涙の跡を、君子はそっと拭ってやった。
「全く、アナタは人の話を聞いていたのですか?」
そう言ったのは、ララァだった。
いつの間にか姿を消していたので、てっきりいなくなったのかと思ったのだが、どうやら違うようだ。
すっかり忘れていたが、歴史を変えたらこの『時間』の管理者であるララァに処刑されてしまうのだった。
(……まっまさか私、今から処刑されるんじゃ)
それは困る、これからギルベルトの母親を探さなければいけないのに。
何とか命乞いを試みようと、詰まっていない頭をフル回転させる。
しかし君子よりも先に、ララァが口を開いた。
「……今の所、アナタは本来の歴史を変えていないようです」
「えっ……」
「歴史が変われば『時空震』が観測されますが、今の所ソレがありません」
「ふぇっ……それってどういう事なんですか?」
「ワタシが推測するに、アナタはアナタ自身が歪めた歴史を自分で元の状態に近い物に戻したのでしょう」
それはつまり、一〇〇年前に移動して来た時の歪みの様なものを、ギルベルトを助けるという選択をした事によって、君子自身が本来の歴史に近い物に修正した、という事なのだろう。
それによってララァのいう『時空震』は起きなかったのだろう。
「『時空震』が起きず、世界になんの支障もないのでアナタの処刑は見送る事にします」
「よっ……良かったぁ、ありがとうございますララァさん」
これでギルベルトの母親を探しに行けると、安堵する君子。
しかしララァは厳しい口調で言う。
「ですが、アナタが少しでも『時空震』を引き起こそうとした場合は、『時間』の管理者の名の元に処刑いたします」
「もっ……もちろんです、きっ気を付けます」
君子だって殺されたくない、母親の捜索は十分気を付けて行わなければならない。
「あっ……そう言えばまだ名乗ってませんでしたね、私、山田君子って言います、皆からはキーコって呼ばれてますけど……」
「……別に名前などどうでもいいですが、時間遡行という大逆をしでかした者の名です、覚えて置きましょう、永久に」
これはとんでもないブラックリストに登録されてしまった気がする。
君子は苦笑いを浮かべながら、ベッドのギルベルトへと近づく。
(……可愛いなぁ)
まるで天使の様な寝顔、一〇〇年後の姿なんて想像できない。
(どうして私、こんな時代に来ちゃったんだろう……)
ララァの話が本当ならば、これは導きの宝玉が君子に道を示したという事らしい。
だが、この一〇〇年前のギルベルトに会う事が、どう道を示す事になるのか、まだ分からない。
でも、色々嫌な事があった元の時代から離れられたせいか、あの虚脱感がない。
何かやるべき事がある方が気が紛れるからちょうどいい。
(ギルのお母さん、見つけてあげられたらいいなぁ……)
君子は窓の外の月を眺めながら、小さなギルベルトを優しく撫でるのだった。




