第六六話 ……お姉ちゃん
聖都動乱編、そろそろ折り返しでございます。
聖都から追われて、五日が経った。
そろそろ目的地であるドレファスの港に着く頃なのだが、問題が二つ。
一つは、もう飲料水が底を尽きたという事。
樽の中には一滴の水も残っていない、陸に着く頃には全員仲良く干物になってしまうだろう。
何とか水を補給したい所だ。
もう一つは――君子の事。
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「……アンネ、キーコの様子は?」
「駄目です……私もルールアさんも、部屋に入れてくれないんです」
あの日、エルゴンとの戦争の話をした時から、君子は部屋にこもって出てこない。
部屋と言っても物置同然の場所で、あまり衛生的に良くないのだが、彼女はいくら呼び掛けても出て来てはくれなかった。
「完全に籠城ですよ……、というか、なんであの子はバカ王子が将として進軍しているって知っただけで、あんなに泣いてるの? 普通は喜ぶところでしょう?」
例え魔王でなくとも一軍の将になるという事は、喜ばれる事だ。
軍事国家であり力こそ全てであるヴェルハルガルドでは、将と言う地位は皆の憧れ、それなのに君子は戦争の話を聞いて泣いた、それが軍人であるルールアには理解できないのだろう。
「……キーコの国は、七〇年以上戦争をしていないそうです」
「七〇年! うそ……信じられない」
ヴェルハルガルドなら軽く六ヵ国は攻めているだろう。
それくらいヴェルハルガルドでは戦争は当たり前の事なのだ。
「戦争が日常ではないから……将が名誉な事とは思えないのでしょう、いえ……そもそも戦う事、敵を倒す、人を殺すという事に対して、嫌悪感を抱いているのでしょう」
「戦う事に嫌悪……、異世界って随分暢気な所なのねぇ」
「王子様の様子は、どうなんですか?」
「…………恐ろしいほど落ち込んでいます、あんなギルベルト様は初めて見ます」
「ですよね、よりによってキーコにあんな……」
エルゴンの軍人が気絶するほどの覇気を、まともに受けてしまったのだ。
普通の少女である君子には、他に例えようのない恐怖であろう。
君子の中の価値観と、異世界側の価値観が違うというのは、かなり大きな問題だ。
ヴィルムは薄々それを感じ取って、彼女にエルゴンの事を知られない様に細心の注意を払っていたというのに――。
「……ハルドラの餓鬼共めぇ、余計な事を」
ヴィルムは怒りをあらわにしていた。
彼がここまで感情を見せるのは珍しい、だがそれもそうだろう、ギルベルトにとって君子は命よりも大事なもの、彼女との絆は最も大切。
それをぶっ壊された今、約定を反故にしてでもそれ相応の報復をしたいぐらいだ。
「だって、あんまりですよぉ……王子様は、キーコが先に死んじゃうのが嫌だから、キーコを不老不死にする為に頑張ってるのに……」
「……ならいっそ、キーコに不老不死にする為に戦争してるって言えばいいんじゃないの? あの子だって長生きしたいに決まってるんだし、むしろ喜ぶんじゃない?」
「…………いいえ、それは止めた方がいいでしょう」
「えっ……でも」
「キーコは、他人に迷惑をかける事を異常に気にしています、もし……キーコの為に国を滅ぼそうとしていると知れば、それこそどんな拒絶をするかわかりません」
君子はいつだって他人を気にしていた。
思えば仕事がしたいと言った時、彼女はするなと言っているのにメイドの仕事をした。
自分のせいで誰かが困ったり傷ついたりするのを、異常なほど嫌っているのだ。
「じゃあ、どうすれば……」
「何とか……説得を試みましょう」
「……出来るんでしょうか?」
「…………やるしか、ありませんね」
ヴィルムはそう答えると、君子が立て籠もっている部屋へと向かって行った。
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君子は真っ暗な部屋で寝ていた。
いや眠っているわけではない、ただ横になるだけで睡眠はほとんどとれていない。
(…………ずっとここにいたら、迷惑かなぁ)
こんな所で閉じ籠っていてはいけない、もう何度もアンネとルールアが呼びに来てくれたのだが、どうしてもここから出られなかった。
(……まだ、ギルが怖い)
あの時のギルベルトの顔が、脳裏に蘇る。
何度も消そうとしても、すぐに恐怖と一緒にあの怒りに満ちた目を思い出す。
いつもの笑顔でも、優しい顔でもない、君子の知らないギルベルト。
(……全部嘘なのかなぁ、私にかけてくれた言葉も全部嘘なの?)
海人と凜華の言う通り優しいギルベルトは虚像で、本当の彼は戦争で人を殺すとても怖い人なのだろうか――。
(もう……どっちが本当なのか、わかんないよぉ)
もういっそこの暗闇に溶けて何も考えなくて済むようになりたいと願う。
だが人間が溶けたりするはずもなく、ドアがノックされた。
アンネとルールアはさっき来たばかり、まさかギルベルトが来たのだろうかと思っていると――。
「……キーコ、私ですヴィルムです」
久しぶりに彼の声を聴いた気がする。
ギルベルトをアルバートと一緒に引きずって行ってから、一度も会っていなかった。
君子は、一応ドアへ近づく。
「出て来なくていいです、そのままでいいので話をさせて下さい」
「…………」
「キーコ、貴方にエルゴン……つまり戦争の事を話さなかったのは私が提案した事です」
「…………、私を騙してたんですか」
「そういう訳ではありません」
「私の特殊技能で作った武器で、戦争をする為ですか」
海人達が言っていた、ギルベルトの狙いは君子が特殊技能で造り出す武具の数々、だから優しくしているのだと。
「ヴィルムさんは、タラリアとステータスが見れる眼鏡を、もっと造ってくれって言いましたよね、ソレは戦争に……人を殺す為に使っていたって事ですよね、ギルは……ギルはその為に私を――」
「それは違いますキーコ!」
声を荒げる君子に、ヴィルムはいつもよりも強い声で否定した。
脚色せず静かな口調で、そのままに話す。
「それを提案したのは、私です」
グラムを筆頭に、君子が作る武器は強力な力を持っている。
それを軍事転用しようと考えたのはヴィルムであってギルベルトではない。
「ギルベルト様は貴方の特殊技能を利用しようとした事はありません……、騙していたのは私の方です、貴方が非難すべきは私です」
「……でもギルは、人を殺してるんですよね」
例え戦争に君子の武器を使う気がなかったとしても、ギルベルトがエルゴンの人間を殺しているのは変わりない。
君子にとって、彼が人を殺しているという事自体が怖いのだ。
「…………キーコ、ギルベルト様は正直王子としての地位が低いです、先のない王子、暴力を振るう厄介者の王子として、貴族や軍内部にも疎まれています」
ギルベルトは王族の中でも厄介者として扱われている。
アルバートのように支持する者はなく、マグニという辺境の地に追いやられ、魔王になると言えば、人々に後ろ指をさされる。
「この国では、兵を率いる将になるという事は、大変に名誉な事なのです」
魔王帝ベネディクトの目的は、ベルカリュースの支配である。
他国から領土を奪う将は、魔王帝から全幅の信頼を寄せられているという事。
それが例え、地位の低い王子であったとしても、将となれば話は別。
「貴方には……信じられない事かもしれませんが、王族として地位の低いギルベルト様でも、魔王になれば嘲笑っていた者達を見返す事が出来ます、この底辺から抜け出す事が出来るのです」
これだけ豪華な生活をしているギルベルトが、王族の底辺だとは君子には信じられない。
それに、例えそうだとしても戦争をする理由になるとは思えなかった。
「……キーコ、ギルベルト様は貴方を騙していたわけではありません、確かに戦争については貴方には話しませんでしたが、ソレは貴方に余計な心配を掛けたくなかっただけです」
「…………でも」
そう言われても、君子はすぐには受け止めきれない。
やはり人を殺しているという事は怖い。
それに疑心暗鬼になっている彼女は、ヴィルムの言っている事も信じられない。
「……キーコ、なんと言われて仕方がありませんが、ギルベルト様が貴方に向けていた笑顔、言葉、そして想いは全て本物です、絶対に嘘ではありません……どうかそれだけは理解してください」
君子の心中を察したヴィルムは、それ以上は何も言わなかった。
まだ君子自身が混乱しているので、今何を言っても無駄だろう。
ヴィルムはそれだけを言い残して、去って行った。
「…………」
ヴィルムはああ言っていたが、やはりまだ全てを信じる事は出来なかった。
何が嘘で、何が本当か、もう分からなくなっていたのだ。
ギルベルトは、君子の中で本当に大切で特別な人だったのに、彼は自分を騙していたかもしれない。
君子にとっての中心が、またなくなってしまった。
姉の時と一緒だ、彼女の基準が、中心がまたなくなってしまった。
「…………どうしたらいいのか、分かんないよぉ」
酷い喪失感が、君子を押し潰すだけだった。
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君子がギルベルトと不仲になった事で、船の雰囲気は一気に悪くなった。
誰もが不安がるこの状況を、唯一喜んでいたのは海人達である。
「君子ちゃん、魔人とは距離を取ってるみたい」
「良かったな……あのまま魔人にずっと利用されてたら、山田がどうなるか分からなかったもんなぁ」
君子が洗脳されていて、特殊技能で強い武器を作らされていると思い込んでいる二人は、コレが彼女の洗脳を解く突破口だと本気で思っていた。
いや二人だけではない、シャーグとラナイもである。
「本当によくやったな、コレであいつらの企みは阻止されたって事だ」
「えぇ、敵の戦力の増加を防ぐ事が出来て本当に良かったですわ」
君子がギルベルト達にかどわかされて、強力な武器を造り続ければ、いつかはその武器がハルドラを脅かすようになることは眼に見えている。
早い段階でそれを止められた事は幸運といえよう。
「……でも、大丈夫ですか? 魔人達が報復をしてこないでしょうか」
ロータスはそう不安気に言った。
彼の言う通り、ヴェルハルガルド側にとって君子は大切な武器製造機。
ソレが言う事を効かなくなれば、当然その原因を作った海人達に復讐を試みるだろう。
陸の上ならいざ知らず、ここは船上である。
逃げ場がないし、何より海にでも投げ捨てられたら助かりっこない。
「まぁ向こうも聖章がこちらにある限り、むやみに手を出してこないだろう」
「でも……やっぱりちょっと軽率だったんじゃ……」
「何言ってんだよロータス、魔人共の企みを一つ潰せたんだ、ここは喜ぶ所だろう」
「ロータスは心配性だなぁ、それにあのまま山田が騙されたままでいいわけないだろう」
確かにそれはそうなのだが、ロータスはまだ不安そうだ。
しかし海人達はそんな事気にしないで、話を更に進める。
「コレで、あとは山田を連れて帰る手立てを考えるだけだな」
「でも……それが一番の問題よね」
君子はギルベルトの刻印によって、行動範囲を定められている。
連れ出す事は出来ないし、彼女を自由にするには彼女がギルベルトよりも強くなるか、ギルベルトが刻印を消すか、あるいはギルベルトが死ぬかの三つである。
「キーコが強くなるのはまず不可能でしょう、それにあの紅の魔人が自分から刻印を消すとは到底思えませんわ」
「となると……ギルベルト=ヴィンツェンツの死か」
「でも……一応共同戦線を張ってるわけだからなぁ、卑怯な魔人ならともかく、ハルドラが約定を反故にするのはまずいぞ」
あくまでも正義はハルドラにあるのだ。
そんなだまし討ちの様な事は出来ればしたくはない、それにこれは一応巡礼の旅でもあるのだ、神の名を汚すような事は控えたい。
そうなると、正直お手上げである。
「何とかして君子ちゃんをハルドラに連れていきたいんだけど……」
皆思案を巡らせるが、良い案は浮かばなかった。
それでもしばらく考えていると――ドアがノックされた。
まさかヴェルハルガルドの魔人が報復にやって来たのだろうか、五人に緊張が走る。
十分に警戒してドアへ近づくと、開けずに外の者へと声をかける。
「……誰だ?」
「この船の『浪』です」
警戒しながらドアを開けると、右手に青いバンダナをした魔人の『浪』がいた。
「ちょっと良い知らせがあって、一応ハルドラの巡礼者さん達にも伝えるべきだと思ってさ」
「良い知らせ?」
首を傾げるハルドラの面々に向かって、『浪』の男は――。
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「……島、ですね」
ヴィルムは甲板から、遠くに浮かぶその島を見つめていた。
聖都ほど大きくはなく、比較的小さな島なのだが緑に溢れていて、非常に自然豊かだ。
「驚いたな、てっきり聖都しか島はないと思っていたぞ」
「地図にも載っていない島……ですか」
ヴェルハルガルドは北にしか海に面する領地を持っていないので、南の海の常識は知らないが、それでも海面に突出した岩山ではなく、緑豊かな島が見逃されていたというのは正直驚きである。
「……お前はどうするべきだと思うヴィルム」
「……正直、例え幻であっても水を補給させてもらいたい所です」
今補給できなければ、本当に脱水で全員死ぬだろう。
皆、慢性的な喉の渇きに悩まされている、例え蜃気楼か何かであっても水を補給しておきたい。
「ルールア、周辺に敵の気配は?」
「ありません、海魔も海賊も無し、静かなものですよ」
「では、水汲みの人選を決めるとしましょう」
誰を行かせるべきか悩んでいると、ベアッグが声をかけて来た。
「ヴィルムさん、ひとつ提案なんだが……キーコを連れて行ってもいいか?」
「キーコを……ですか?」
「あぁ、この『浪』さんと相談したんだが、狭い船にずっといるとやっぱり気持ちまで暗くなるだろう? だから、少しキーコを陸に上げたいんだ」
確かに船酔いで苦しんでいたし、陸に上がれば気持ちに変化が起こるかもしれない。
ベアッグの隣にいた右手に青いバンダナを巻いた『浪』が、口を開く。
「俺はサバイバルの心得があります、こういう状況に慣れてますし、役に立ちますので連れて行って下さい」
「それはちょうどいい……なら、お願いしましょう」
「よしなら決まりだ、キーコに声かけてきます」
ベアッグはルールアと共に、足早で船室へと戻って行った。
「……皆、キーコの事を思っているんですね」
「当たり前だ、ソレなのに全くバカベルトといいバカドラといい……アレではキーコが傷つくだけだ」
「……おっしゃる通りです、アルバート様」
そんな話をしていると、噂のハルドラの面々がやって来た。
その姿を見て、アルバートとヴィルムは顔をしかめる。
「うわっ、本当に島だ」
「コレで飲み水の問題は解決ね」
「……そんなに水が欲しければ、ここで下船して下さってかまいませんよ」
悠長な彼らにヴィルムは強い口調で言う。
そんな風に言われては海人と凜華も黙ってはいられない。
「なんだと、てめぇ!」
「私達が聖章を持ってるのよ、聖章がないとドレファスを越えられない癖に!」
「キーコに関わるなと言ったはず、ソレなのにあらぬ事を吹き込んで……」
「何があらぬ事だ、全部本当の事だろう!」
「そうよ、君子ちゃんを利用してた癖に!」
「悪しき魔人の企みを誰が見過ごすものですか!」
「悪しき魔人とは笑わせる……それなら人間は極悪か?」
相変わらずの売り言葉に買い言葉、利害が一致したから協力したものの、ソレは大きな間違いだった。
彼らは何一つとして利益を生まない、本気で始末しようかと思ったのだが――――君子がやって来た。
アンネとルールア、そしてベアッグと双子も一緒だ。
「キーコ……」
「君子ちゃん!」
「山田!」
海人と凜華は君子の姿を見て、歓喜の声を上げる。
しかし彼女は――。
「…………」
二人の姿を見ると、何も言わずに目を逸らしてしまう。
部屋から出て来たとは言え、まだ彼女の顔には恐怖と不安の色が残っている。
まだ、完全に立ち直った訳ではないのだと思っていると――。
「…………あっ」
ギルベルトがやって来た。
彼も『覇気』を使ってしまった後ずっと落ち込んでいて、部屋から出て来なかった。
アレから初めて二人は会ったのだが――。
「ひっ――」
君子は短い悲鳴をあげると、逃げてしまう。
そして島に上陸するための小舟へと行ってしまった。
「……キー、コ」
ギルベルトは悲しそうにうつむくが、彼女の後を追おうとはしなかった。
いつもの彼からは考えられない程大人しく、部屋へと戻って行ってしまう。
「ギルベルト様……」
ヴィルム達は心配そうにその後姿を見つめるのだが、海人達は――。
「やったな、完全にあいつを警戒してるぜ!」
「これでもう奴らの好きにはさせないわよ」
もう、これで君子はギルベルトとなれ合う事はない。
しかし心配性のロータスは、彼らとは違う。
「でもキーコさん、僕らに近づこうとはしませんでしたね……」
本当に洗脳が解けているなら、君子は仲間であるハルドラの面々の所に来てもいいはずなのだが、彼女は近づくどころか声もかけてくれなかった。
「まだ洗脳が完全に解けていないのかもしれません……、時間が経てば正気に戻りましょう、今は彼女をハルドラへ連れて帰る方法を考えるべきでしょう」
下手に島に上陸して、置いていかれたら堪ったものではない。
ヴィルムなら、本当にやりかねないので、ここは部屋で作戦会議と決め込む。
ソレなら彼らの後ろ姿を、ヴィルム達は心底憎々しく睨みつけていた。
「……私はギルベルト様についています」
「キーコは任せて下さいヴィルムさん、アタシとアンネが付いてますから」
「そうですね、ルールアの特殊技能は正確なので大丈夫でしょう……」
「ユウもいるよ!」
「ランもいるよ!」
「……いやぁ、餓鬼共がどうしても外に出たいってうるさいんで、ルールアさんが海魔も海賊もいないって言うし、荷物持ちついでに連れて行こうかなぁと……」
「うん、キーコとしまであそんでくるよ!」
「うん、キーコとたくさんあそぶんだよ!」
君子も双子の明るさに触れれば、もしかすると落ち着くかもしれない。
ヴィルムはため息をつくと、渋々了承する。
「そうですね……今はキーコの気持ちの整理がつくまで、こちらは何もできません」
「ヴィルムさん……」
「どうか、よろしくお願いしますよ」
こうして、地図にない島の探索が始まったのである。
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島はジャングルだった。
道なき道を歩く、先頭は自ら志願した『浪』の男。
剣で生い茂る草木を刈り、後方の皆が歩きやすいように道を作ってくれる。
とても手慣れていて、サバイバルの心得があると言うのは嘘ではないようだ。
「あんた、『浪』にしておくの勿体ないわね、ヴェルハルガルド軍に就職しない?」
「冗談止めてくだせぇよ、俺みたいな国籍のない奴にやらせる仕事なんて、とんでもない事ばっかりでしょうに、分かってんですからね!」
「あら、ばれた?」
「もーからかわねぇでくだせぇよー、軍人の姉さん」
だいぶジャングルの奥へと入って来た、しかし行けども行けども同じ景色、水など一滴も見当たらない。
本当にこの島に水源はあるのだろうかと、諦めかけていると。
「あっ、あったあった!」
『浪』の男は歓喜の声をあげると、一本の木へと近づく。
太いツタが巻き付いてとても痩せこけているただの木、特段変わった所はなくなぜ彼が喜んでいるのか理由が分からなかった。
「その木がどうしたんだ?」
「いや、木じゃなくてこっちのツタですよ」
「ツタ?」
男は首を傾げる、一同の前でその太いツタを木から取ると、剣で切った。
すると、断面から水が溢れ出て来た。
「わっ、なっなにこれ!」
「この辺は今は乾期で、雨は滅多に降らねぇんで普通の水源は干上がってるんですよ」
聖都やドレファスなどの南半球は今まさに乾期、雨所か普通の水源もカラカラに干上がる、その為乾期の水調達の方法が、このツタである。
「これは、皮の下が海綿みてぇになってましてね、雨期の間にたっぷり水を蓄えて雨の降らない乾期を乗り切るんでさ」
『浪』の間では水ツタなどと呼ばれていて、流浪の旅をする彼らにとって力強い味方なのだ。
井戸のある土地に根付くものには、ツタから水が取れるなど信じられない事だ。
「よしっ、じゃあ手分けして水を取るぞ」
それから全員でツタを探して水を取り、どうにか乗組員全員が陸地に行くまで十分な量を採取することが出来た。
「ふう……まさか水を取りに来て、木を切ることになるとはな」
「ほんとね、でもこれで何とか陸まで持つわね」
命に関わる問題が解決して、皆の表情に明るさが戻ったのだが――君子の表情はやはり暗い。
陸に上がれば、少しは気持ちが変わるかと思ったが、そう簡単にはいかない様だ。
そんな彼女を心配して、アンネは隣に寄り添い積極的に声をかける。
「ほっほら見てキーコ、綺麗な花が咲いてるわよ!」
「…………」
「あっほら、綺麗な羽根の鳥もいるわよ!」
「…………」
しかし君子は全く返事を返してくれない、俯いたまま。
そんなくらい彼女に、双子がはなしかける。
「キーコ、おーじさまとケンカしてるの?」
「おーじさまとケンカしてるの、キーコ?」
「ちょっちょっとあんた達!」
余計な事を言って、これ以上落ち込ませないかと心配しているアンネ。
「……うん、ちょっとね」
表情は暗いが、双子が子供だからか答えてくれた。
状況など何も知らない双子は、純粋に二人に仲直りして欲しくて続ける。
「なんでケンカしてるの?」
「…………ギルが、私に嘘ついてたの」
「おーじさまなんでウソつくの?」
「なんでおーじさまウソつくの?」
「……分かんない、でも……でも全部嘘だったの」
「そっ……それは違うわキーコ!」
アンネは声を張り上げえてそれを否定した。
彼女の声を聴いて、作業をしていたルールアとベアッグ、そして『浪』も手を止めてしまった。
「違うわ……王子様はキーコを騙そうとなんてしてないわ」
「……じゃあ、なんでギルはずっと私に隠れて戦争をしてたんですか、やましい事がないならそうしてるって言えばいいじゃないですか」
「確かに言わなかったけど……、でもそれはキーコに心配を掛けたくなかったからよ」
アンネは、ギルベルトがどれほど君子を大切に思っているか知っている。
確かに嘘はついたが、決して騙そうとしてついた物ではない。
君子はギルベルトに騙されたと思っているだろうが、ソレは彼女の事が好きでずっと一緒にいたいからだ。
それなのに、そのせいで嫌われるなんて理不尽にもほどがある。
誤解を解こうと思ってそう言ったのだが、君子には全く別の物に聞こえた。
「……アンネさんは、ギルが戦争をしてるのを知ってたんですか?」
アンネは知っていた、ヴィルムから教えてもらい、留守中の君子の安全と彼女に知られない様に細心の注意を払っていた。
だが、今の君子には、アンネのこの行為も――裏切りに思えてしまう。
「やっぱり……みんな嘘だったんですか、皆で私を騙してたんですか……」
「ちっ違う……そっそうじゃなくて――」
「――違くないじゃないですかぁ!」
アンネの言葉を遮った君子は両目に涙を浮かべ、今まで見た事ないくらい感情を表に出していた。
それは、騙されていた事に対する怒りと、ギルベルトに対する恐怖と、そして信じていたものに裏切られた悲しみが混じった表情。
「もう……ギルも皆も、榊原君も凜華ちゃんも……、もう誰も信じられない! 私は何を信じればいいんですかぁ!」
「きっ……キーコ」
誰も君子に何も言えない。
なんて言えば彼女の誤解を解けるのか、誰にも分からないからだ。
あるいはもっと時間があれば、良い言葉が見つかるかもしれなかった。
けれど――神や運命といった存在は、そんな時など与えてはくれない。
「危ない!」
激高する君子の耳に、突然そんな言葉が聞こえる。
誰が言った言葉なのか、一体何が危ないのか、分からない。
でも――次の瞬間、ソレは視界へと飛び込んできた。
側面から海魔が襲い掛かって来た。
「――えっ」
気がついたら、巨大な真っ赤なハサミを持つカニがいた。
ソレが君子に向かってハサミを振り下ろす――。
「だああっ!」
誰もただ驚愕する事しかできない中、『浪』の男ただ一人が動いた。
茫然とする君子を突き飛ばし、振り下ろされるハサミを剣で受け止める。
「ぐうぅぅぅっ」
しかし、ソレはとても重く強い一撃。
いくら腕っぷしに自慢がある『浪』とはいえ、正規の軍人に比べればその腕は劣る。
とても防ぎきれず、男はふっとばされてしまった。
「『浪』のおじさん!」
アンネはホルスターにしまってあるジャマダハルを急いで引き抜くと、刀身に雷をまとわせその一撃を放つ。
「『放電撃』」
まばゆい光と共に、雷が海魔を貫いた。
絶命し崩れ落ちる海魔、しかしあまりに予想しなかったことに皆その姿を見下ろして唖然とした。
特に驚いていたのは、ルールアである。
「そっ……そんな、アタシの特殊技能はちゃんと発動してるのに!」
彼女の能力は、海魔が半径十キロに入れば絶対に察知できる。
認識阻害魔法を使える魔法使いならいざ知らず、ただの海魔が近づいて来れば絶対に分かる。
ソレなのに、この海魔はこれほど接近してきたというのに全く分からなかった。
「キーコ、大丈夫!」
アンネは君子に駆け寄ると、彼女の無事を確認する。
「わっ、私は……あの人が助けてくれたから」
『浪』が気付かなければ、君子は死んでいた。
急いで恩人の下に駆け寄る、海魔に吹っ飛ばされて木に激突した彼は、右腕を抑えていた、苦しそうだ。
「大丈夫!」
「情けねぇ、腕をやられた……うっ」
とても痛そうだが、治療が出来なかった。
船まで行けば、回復薬があるからどうにか出来るかもしれない。
「とにかく船に戻らないと、まだ海魔がいるかも……」
彼の治療もかねて、急いで船に戻るべきだ。
アンネはそう思って提案したのだが、既に遅い。
ジャングルの鬱蒼とした茂みに目をやると――赤く光るいくつもの眼が、こちらを見つめていた。
「まさか……そんな」
既に四方を取り囲まれていた、これほど近くまで来ているのに気が付かないなんて――ありえない。
ルールアの特殊技能は命やエネルギーを感知する物。
一匹ならば見逃す可能性もあるが、これほどの数が分からないわけがない。
突然の命の危機に、誰もが驚き戸惑い――そして恐怖する。
カニの海魔が、大きなハサミを打ち鳴らし威嚇したのが始まりの合図となり――最悪の鬼ごっこは幕を上げた。
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一方出来るだけ島の近くに停泊した船では、ギルベルトが酷く落ち込んでいた。
ソファに座っているが、いつもの様に踏ん反りかえる訳ではなく、借りて来た猫の様に大人しく、どこかおびえながら身を小さくして座っている。
「…………キーコ」
脳裏に浮かぶのは、『覇気』に当てられて苦しむ姿と、さっき甲板であった時の怯えた表情の彼女――。
(嫌われた……、どうしよう……どうしよう……)
あんなに苦しめて泣かせてしまった。
君子が弱くて脆いのは知っていたから、ガラス細工を扱うように優しくしていたのに、あの時はつい力が入ってしまった。
だが何よりもギルベルトが傷ついたのは、君子が彼に対して『畏れ』を抱いていた事。
『覇気』は自分に『畏れ』を抱いているものに、効く。
今まで君子はギルベルトを怖がった事なんてなかった、ましてや彼女は彼を『特別』だと言ってくれたのだ。
ソレなのに今は――怖がっている。
(謝らなきゃ、許して貰わなきゃ……、仲直りしゃなきゃ)
苦しめた事を謝罪して、許しを請わなければならないのだが――君子はギルベルトを見ただけで逃げて行った。
そんな彼女になんといって謝ればいいのか、分からない。
「……キーコぉ」
うずくまり、恐怖に震えるギルベルトは、普段の彼を想像できない程の落ち込みようだった。
「…………いつまでうじうじしているつもりだ、このバカベルト」
アルバートがギルベルトを睨みつける。
いつもの彼ならばここで怒って、感情のまま殴り掛かるだろう。
ソレが出来ない程、今のギルベルトは精神的に落ち込んでいる。
「……全く、キーコに『覇気』を使う奴があるか、貴様のせいで私までキーコに避けられているではないか」
ギルベルトだけではなく、この船の全員を避けている。
はっきり言って、とんだ二次被害だ。
「早くキーコに謝罪をして、この下らぬ騒動をどうにかしろ」
「…………ンなこと俺だって分かってる」
「分っている奴が、こんな所でうじうじする訳がないだろう、『覇気』というのは、『畏れ』つまり恐怖を増幅させるのだぞ、お前はキーコが元々抱いていた恐怖を倍増させたのだ……キーコはお前に掴みかかっていたあの時以上に、恐怖を抱いているという事だ」
君子は海人や凜華の様に、戦いに身を置いてはいない。
むしろ無縁の生活で、憎悪や殺意に耐性など無く、それをよりによって一番信頼していたギルベルトに向けられてしまったのだから、怖がるのも無理はない。
「……分かってる、分かってる……けど」
あの怯えた君子の眼が、怖い。
怖がられた事が、嫌われた事が怖くて、謝罪するどころか、会う事も怖い。
また避けられるのが怖い、また泣かれたら怖い。
だから――何もできない。
「…………この臆病者、お前がうだうだしているなら、私がキーコを貰っていくぞ」
「――っざけンな! キーコは俺の所有物だ!」
ギルベルトは立ち上がって声を荒げる。
余裕そうなアルバートを睨みつけるのだが、ここで強気になっても意味がない。
「……その威勢をキーコの前でも発揮しろ、馬鹿者」
二人の仲が悪くなるのは得だが、あんな風に怯えている君子を見るのは嫌だ。
アルバートとしては、さっさと謝罪をして、彼女が元の状態に戻った所をかっさらっていきたい。
「……うっ」
最もな事を言われて、ギルベルトは言葉を失った。
しかし、なんと謝ればいいのか分からず、ギルベルトは項垂れる。
そんなうじうじとした彼を、アルバートはぶん殴ってやろうと拳を握ったのだが――。
ドーンという衝撃音と共に、船が揺れた。
「っ……なっなンだ!」
「……アレはっ!」
アルバートは、窓から外を見て驚愕した。
海魔の大群が、船へと攻めて来たのだ。
巨大なアメフラシが、船へと体当たりして沈没させようとしている。
「馬鹿な、ルールアは海魔がいないと言っていたというのに!」
ルールアの特殊技能は正確だ。
それに彼女はアルバートに忠実で、嘘をつくような者ではない。
つまりこれは、正確なレーダーを持っているルールアも気が付かなかった襲撃という事になる。
「……キーコが、危ない!」
ギルベルトはソファに立てかけていたグラムを掴み取ると、急いで甲板へと向かう。
アルバートも雷切を手に取ると、その後を追う。
狭い廊下を走る二人に、ヴィルムが合流した。
「ギルベルト様、アルバート様! 一体この揺れは!」
「海魔だ、海魔がこの船を攻撃している」
「馬鹿な……ルールアの特殊技能は正確なはず……」
ヴィルムは索敵魔法を展開するが、やはり海魔の反応はない。
しかし間違えなく海魔が襲い掛かってきている。
「馬鹿な……これは一体」
索敵魔法が通用しないなどありえない、そんな事が出来るとしたら、気配を消す特殊技能か、あるいは認識阻害魔法の二つしか考えられない。
しかし特殊技能の場合は、この大群全てがソレを保有していないと可笑しい。
つまりこれは――認識阻害魔法による、妨害。
「……何者かが、意図的に海魔の存在を分からなくしているという事か!」
一体どこの馬鹿野郎がそんな事をしているのか、ヴィルムは思案を巡らせようとしたが――目の前にいる海魔の大群がソレを拒んだ。
海魔は島からも出てくる、つまり――君子達が向かった島は海魔の巣窟となっているという事。
水を探しに行ったメンバーでまともに戦えるのは、ルールアとアンネだけ。
しかし二人だけで、海魔を相手に出来る訳がない。
「まずい……、急いで助けに行かないと」
だが聖都の時とはわけが違う。
彼女達がいるのはジャングルの奥深く、更に島と海という二方向からの襲撃は、救出をあの時以上に困難にしていた。
「くっ――」
ギルベルトは手すりをまたぐと、船から飛び降りた。
岩場に着地すると、急いで君子の下へと向かうのだが――彼の前を海魔の群れが塞ぐ。
「退け!」
グラムを引き抜くとアメフラシを両断するが、すぐに別の海魔が道を塞ぐ。
海魔をいくら倒しても、全く数が減らない。
「このクソ魚類どもぉ!」
それはまるで、君子の所へ行かせない様にしているみたいだった。
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「はっはっ……」
君子は必死に走っていた。
後ろには海魔が群れとなって追いかけてくる。
少しでもスピードが落ちたら、海魔の餌食なってしまう。
だからベアッグも双子も、必死に走る。
「早く、急いで!」
殿をつとめるルールアの怒号が、もう限界の彼らの足を無理矢理動かす。
立ち止まれば死、油断すれば死。
普段戦闘とは全く無縁の彼らに、大群の海魔から逃げ通す力などない。
Aランカーがいる船に向かうどころか、むしろ島の内部へと追い詰められている。
「あっ、あそこ!」
先頭を走っていたアンネが指さしたのは、岩山の小さな隙間。
岩と岩の間に出来た小さな隙間で、果たして奥がどうなっているのか誰にも分からない。
でも、このままでは海魔に追い詰められるのは眼に見えた事、少しの可能性に賭けて――皆その隙間へと入った。
「あっ……」
中は思った以上に広く、高さが八メートルはあろうかという巨大な空間だった。
どうやらここは洞窟の様で、かなり奥の方までこの空間が広がっている。
「はっ……はぁ、皆無事、ですか」
君子は、皆を見る。
ベアッグも双子もアンネもルールアも、そして『浪』も生きている。
しかし海魔に囲まれた時、活路を創る為にアンネとルールアは必死に戦い既に魔力も体力も限界が来ようとしていた。
ベアッグも双子も、息が上がっていて辛そうだし、『浪』の男も怪我を負っているせいでとても苦しそうだ。
そんな心配をしていると、先ほど入って来た隙間へと巨大な海魔が体当たりをして来た。
洞窟全体が揺れ石や小石が落っこちて来て、皆頭を守ってうずくまる。
「うわ~ん、こわいよぉ」
「こわいよぉ、うえ~ん」
ユウとランは、泣きながら君子にしがみついて震えている。
今目の前で起こっている事が現実の事だと思えなくて、ただ呆然と洞窟へ侵入しようと海魔達を見ていた。
「…………ここに入って来るのも、時間の問題ね」
ルールアは、振り返って全員の状態を見る。
ほとんどが非戦闘員で、怪我人もいる。
絶望的な状況、ルールアの頭に全滅の言葉が過ぎった。
「…………アルバート様、申し訳ありません」
眼を閉じて主人へと謝罪をすると、立ち上がって全員を見下ろす。
「今から、二手に別れるわ」
「えっ……二手?」
「そう、ここで海魔と戦う班と、キーコと一緒に逃げる班よ」
「なっ……、何を言ってるんですか」
「キーコ、あんたが死んだらアタシはアルバート様に合わせる顔がないわ……」
アルバートの部下として、彼の好きな人ひとり守れなかったとあれば、軍人失格である。
なんとしてでも、君子だけは絶対に守らなければならない。
「アンネ、悪いけどあんたは残って貰うわよ」
「もちろんです、私だってキーコにもしもの事があったら、王子とヴィルムさんに合わせる顔なんてありません」
「そう……悪いわね」
「待ってくれルールアさん、俺も残るぞ」
「……ベアッグさん」
「俺は料理人だが、コレでも獣人の端くれ……なぁにちょっとなら役に立てるさ」
海魔と戦い、君子達が逃げる時間を稼ぐならば、人数は多いに越した
戦うと言ってくれてもアンネはメイドでベアッグはコック、軍人であるルールアと違い、主人の為に玉砕するなんて酷だが、今は他に手立てがない。
ルールアは心の底から申し訳ないと思いながら、君子に向き直ると口を開く。
「キーコ、あんたは船に逃げるの……あのバカ王子の事信じられないかもしれないけど、あそこにはアルバート様もヴィルムさんも、それにまぁハルドラの連中もいるし、使えないけどフェルクスもいるわ、あんたを守ってくれる人がいる……だから船に行って」
「るっルールアさん……」
穏やかな顔で言っているが、コレではまるでお別れだ。
「軍人の姉さん、それなら俺が彼女を船に連れていきます……、こんな腕でも逃げるくらいなら出来る」
「……そう、正直ジャングルの道にも慣れてるあんたの方がいいわ」
「任せて下さい、絶対にこの子を送り届けますよ」
『浪』の男は、腕の痛みを堪えながらそう言った。
「さあ、早く逃げましょう」
「でっ……でも」
『浪』に手を引かれても、君子は動けなかった。
三人を置いていけない。
「キーコ、うるさいだろうけど双子を頼むぜ」
「後から絶対追いつくから、先に行ってて」
ベアッグとアンネがそう言って、逃げる事を促す。
「あっアンネさん、ベアッグさん……」
ほんの数日前まで、とても楽しい異世界での生活を送っていたのに、それなのになぜ今はこんな怪物に追い詰められているのだろう。
死という恐怖が、ただでさえ追い詰められていた君子へと襲い掛かる。
(なんで……なんでこんな事になってるの……)
ここに三人が残れば、どうなるかなんて君子にもわかる。
皆に死んで欲しくない、自分も死にたくない。
(誰か……、助けて)
君子は震えながら助けを求める。
「早く、早く逃げないと、海魔が来ますよ!」
『浪』が君子の手を引っ張って無理矢理連れていく。
洞窟の入り口は、海魔の体当たりで崩壊寸前だった。
(……ぎっ、ギル)
ギルベルトの姿が脳裏に浮かんだが――。
(だっ……駄目、ギルは駄目)
君子は騙していた彼を信じられない。
ヴィルムもアルバートも、エルゴンの事を教えて来た海人も凜華も、皆信じられない。
誰も信用できない、誰にも助けを求められない。
(……誰なら、助けてくれる? 誰なら信じてもいいの?)
誰なら自分を裏切らないだろうか、誰なら本当に頼ってもいいのか――君子は考える。
もう嘘をつかれるのは嫌だ、騙されるのは嫌だ。
だから、君子は強く願い、思い浮かべる。
嘘をつかず、騙さず、大切に扱ってくれて、強くて、絶対に守ってくれる、まるで漫画やアニメの主人公の様な――――完璧な存在を。
轟音と衝撃と共に、岩が砕ける。
大きな岩の欠片が、七人へと降り注ぐ。
「きゃっ」
「わぁっ」
「うおっ」
アンネ、ルールア、ベアッグは、海魔の体当たりの衝撃によって吹っ飛ばされる。
彼らの後ろにいた、双子と『浪』、そして君子に、大小さまざまな石が落ちて来た。
「うわぁぁぁん」
「うえぇぇぇん」
ユウとランは、恐怖から蹲る。
「うおっ」
『浪』の男は頭に石が当たって、倒れた。
『ギシャアアアアアアア』
立っているのは君子ただ一人。
海魔がそんな彼女を標的にするのに、時間はかからなかった。
誰も何もできない、彼女に襲い掛かる海魔を止められない。
抵抗も出来ず、ただ眼を閉じて怖いものを見ない様にすることしかできない。
「――――」
君子の最後の言葉はあまりにも小さくて、誰も聞き取れない、誰にも届かない。
そして――無力な君子に向かって、無情にも海魔の毒牙が振るわれた。
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しかしその時――空間を割くような、火花がはじける音がした。
同時に、瞼の裏からでも強い光と分かるくらい明るい光と強い衝撃が拡散していく。
「ひゃうっ!」
君子は衝撃で足がもつれてすっころんでしまった。
一体何がどうなったのだ、海魔はどうしたのだろうか。
恐る恐る――目を開ける。
まず見えたのは洞窟の入り口から差し込む陽の光。
まるで天使の梯子の様に美しく幻想的だ。
そして次に見えたのは、誰かの人影。
(……誰?)
ルールアでも、アンネでも、ベアッグでもない。
さっきの強い光のせいか、目がまだ完全に見えない。
必死にその影の正体を見極めようとしていると、徐々に目が慣れて来た。
栗毛のロングヘア、シミのない真っ白なワイシャツにネイビーのミニスカート。
そしてその上に、薔薇のように真っ赤なロングコートを羽織った少女。
「あっ」
その姿を見紛うはずがない。
その姿を忘れるはずがない。
だって彼女は――。
「あっ……あぁ」
眼から涙が滲んできた。
それは裏切られた事への悲しみでも、死への恐怖でもない。
『再会』の喜びの涙。
君子は、七年ぶりに『彼女』を呼んだ。
「……お姉ちゃん」




