第五三話 俺の為に
人生の教訓 パソコンのウィルス対策はちゃんとやろう。
変なメールは開かない。
バックアップは毎日とる。
今にも雨が降りそうな空。
遠くの空は真っ黒で、あそこだけ夜なのではないかと思った。
いつもの防波堤で、いつもの階段の三段目、隣には花が咲いたクローバー。
何もする事が無く、四葉のクローバーを捜すが、三つ葉ばかりで幸運はそこには無かった。
『…………うう』
だんだん寂しくなって来た、悲しくなって来た。
不安で胸が潰されて、自然と涙があふれて来る。
泣いたらまた怒られてしまう、嫌われてしまう。
涙の器がいっぱいになって、じわじわと滲み出る様に流れた。
『君子』
名前を呼ばれた、それだけで嬉しくて涙が引っ込んだ。
『何をしてるんだい?』
優しい声、大好きな声、完璧な声。
振り返る頃には、悲しい顔はどこかへ行って、自然と笑顔になれた。
だから満面の笑みを浮かべて、名前を呼んだ。
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「時子お姉ちゃん!」
眼を開けると真っ黒な空間が広がっていた。
それが夜の闇で化粧した天井だと気が付くのに、しばらく時間がかかった。
「……あ、ゆ……め?」
眼が夜の闇になれる頃には、自分の状況を正確に理解出来た。
ここは異世界ベルカリュース、ヴェルハルガルドのマグニ領。
「……そうだよ、夢に決まってるじゃん」
君子はなぜこんな夢を見てしまったのかと、酷く後悔してしまった。
どうして――今更こんな夢を。
「…………雨」
雨が窓を叩く音が聞こえる。
その雨音が、今はとても不快だった。
出来るだけ音を聞かない様に、頭から毛布を被る。
でも、雨の音も嫌な夢の事も消せなかった。
「…………お姉ちゃん」
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君子が異世界にやって来て十一カ月。
マグニは本格的な雨季を迎えようとしていた。
「随分降りますね……」
「そうですね、すっかり雨季になりましたね」
マグニの雨季は日本の梅雨に近い、湿気でじめじめとしていて、何日も雨が降り続くなんてざらである。
いつも通り朝食を食べていても、バケツをひっくり返した様な雨が降り続いていた。
「この時期はなかなか洗濯物が乾かないんですよねぇ」
「そうですね、前に日が出たのは三日前でしたね」
「本当に、洗濯物が溜まって山の様になってます、双子はそれで登山するし」
「それは……邪魔ですね」
人は少ないが、部屋の数が多いマグニ城は、洗濯物が多い。
なるべく効率よく洗濯を済ませたい、しかしこうも雨が続くと溜まる一方である。
「ねぇキーコ、何かいい道具とかない?」
君子はいつも特殊技能で便利な道具を出してくれるので、アンネは洗濯物の山もどうにかなるかと思ってそう尋ねた。
「…………」
君子はスプーンを持ったままぼーっとしていた。
掬ったスープが全てお皿に落ちているのに、全く気が付いていない。
「……キーコ、キーコ!」
「ふぇっ……あっ、何ですかアンネさん」
「どうしたのキーコ、ぼーっとして」
「えっ……いえ、何でもないです」
なんでもない訳がない、何だか今日の彼女は様子が可笑しい。
君子はスプーンを置くと、立ち上がった。
「ごめんなさい……なんだかちょっと疲れてるみたいで、部屋に戻ります」
「えっ……でも、全然食べてないけど」
「お腹空いてないんです……」
君子は幽霊の様に生気のない顔でそう言うと、ふらふらと歩き出した。
テーブルの上の朝食は全く手が付けられていない、アンネは不安になって、部屋まで一緒に行こうする。
「キーコ、だいじょう――」
君子が倒れた。
俯きで倒れた君子は、まるで棒切れの様に力が無い。
何が起きたのか分からず固まってしまったアンネの意識が再び戻ったのは、ギルベルトが駆け寄ってからだった。
「キーコ!」
「……うっ、うぅ」
抱き上げると君子の体がとても熱い、苦しいのかうなされている。
明らかに正常な体調ではない。
「大変、すごい熱です!」
「医師に連絡します!」
アンネは何か冷やす物を捜しに、ヴィルムは医者を呼びに部屋を飛び出した。
ギルベルトは、不安そうに声をかけ続ける。
「キーコ、おいキーコぉ、しっかりしろぉ!」
他に何も出来ず、ただそれしか出来なかった――。
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全身真っ白な服に身を包み、頭から白い布を被った集団がマグニ城に出入りしていた。
彼らは王族専門の医療集団で、この国の最高レベルの医療を身に着けた、まさに医学のスペシャリストである。
「リラ熱病……ですか?」
「発疹の形状と色から察するにまず間違いないかと」
「でも……、あの病気は赤ん坊がかかる物では無いのですか?」
リラ熱病は、雨季に発生する病気だが、大人になると抗体が出来てかからなくなる。
一七歳とはいえ、君子は十分成長しているはず、今更この病気にかかるなんてあり得ない。
「それはベルカリュースの人間の場合です、彼女は異邦人ですからそもそも抗体が存在しないのです」
「…………治るのでしょうか」
「薬は注射しました、が何せ異邦人ですから何とも……」
ベルカリュースでは、異邦人は非常に珍しい存在。
医学のスペシャリストである彼らも、異邦人がどんな病気にかかり、どんな薬を処方すればいいのかは分からないのである。
「自分の耳は再生出来て、病気は治せないんですねぇ~」
「えっ……」
かなり小柄な医師が、不思議そうな口調でそう言った。
確か、以前君子が死にかけていた時にも、来ていた気がする。
「コラ……やめないか」
「でもぉ、気になるじゃないですか~、この世界の医学では失った体は再生できないのですよぉ~、彼女を研究すれば我々の医学は進歩出来るのですよ~」
医学のスペシャリストであるが、同時に医学の狂信者である事を忘れていた。
以前も君子の耳が再生した時は、大変だったのだ。
「……彼女は王子のお気に入り、下手な考えを起こしたらどうなるか分かっていますよね?」
「もっもちろん……、コラお前なぁ」
「でも先輩~」
狂信的な後輩の頭を叩くと、まだ話の分かる先輩は申し訳なさそうにヴィルムを見る。
「もちろん……我々は王族の方々の為に誠心誠意尽くします」
「なら……よろしいのですが」
「病気には治癒魔法が効きません、今は薬を服用して定期的に様子を見るしかありません」
薬が効けば、熱も下がるはず。
今は、薬が効く事を祈る事しか出来なかった。
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「……キーコ」
ギルベルトは、ベッドで横になっている君子の手を握っていた。
熱に魘されて苦しそうな彼女の顔を、心配そうにのぞき込んでいる。
「ギルベルト様そろそろお部屋にお戻り下さい、熱病がうつると大変です」
この熱病は赤ん坊がかかる物であって、成人したギルベルトが感染する可能性は低いが、もしもの事があってはならない。
自室へ戻る様に促すのだが、ギルベルトは君子から離れようとしなかった。
「ギルベルト様……」
「キーコ、大丈夫だよな」
豆粒の様な汗をかいて魘されている君子。
このままずっと苦しんだままなんじゃないかと、心配しているのだ。
「不老不死にする前に……、死んだりしねぇよなぁ」
「…………今は、キーコの体を冷やしてやるのが肝心です」
ヴィルムは手袋を外すと、温くなった水桶に指を入れる冷気を送った。
そして君子の額に乗せられているタオルを取ると、水に浸けて絞る。
「特に首元を冷やすべきでしょう」
「……あぁ」
ヴィルムは君子の首元の汗をぬぐうと、額にタオルを当てる。
「キーコが起きた時は直ぐに水を飲ませて下さい、また後で様子を見に参ります」
ヴィルムは床をもぞもぞと移動していたスラりんを抱き上げると、部屋から出て行く。
退出する彼にも眼をくれず、ギルベルトは心配そうに君子の手を握っていた。
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気が付くと、真っ暗な空間にいる。
暗闇のせいで空間がどこまで広がっているのか分からない。
遥か彼方なのか、それとも目の前にあるのだろうか。
「…………あれ」
ここは何処なのだろう、皆はどこに行ったのだろう。
「……みんな、どこ」
一人は寂しい、一人は嫌だ。
あてもなく、この真っ暗な空間を彷徨っていると――人影があった。
「あっ……ギル!」
いつの間にか遠くにギルベルトが立っていた。
彼だけではない、ヴィルムにアンネにベアッグにブルスにユウにラン、更にはアルバートにフェルクスにルールアもいる。
いつも通りの楽しい空間がある、君子は急いで駆け寄ろうとしたのだが――。
「どこに行くんだい、君子?」
懐かしい声が、呼び止めた。
心臓の鼓動が速くなって、息が荒くなる。
「あっ……」
振り返るな、と頭のどこかから聞こえた気がしたのだが、もう体は振り返っていた。
栗毛のロングヘアに、シミのない真っ白なワイシャツにネイビーのミニスカート。
そしてその上に、薔薇の様に真っ赤なロングコートを羽織った少女。
「お……お姉ちゃん!」
久しぶりの姉の姿に、君子は手を伸ばして急いで駆け寄るのだが――。
『オマエガ、――ネバ、カッタンダ――』
「ひっ――」
恐ろしい声が聞こえて、君子は足を止めた。
恐る恐る辺りを見渡すが、声の主はいない。
変わりに――。
「ひゃう……、みっ、水?」
さっきまで何も無かったのに、君子の膝くらいの水がこの空間に溜まっている。
水かさはどんどん増えて腰の高さになり、あっという間に君子を飲み込んだ。
「んっ……んんっ」
膨大な水の中で、必死にもがいて姉の姿を捜す。
しかし、水は君子をどこまでも押し流してしまう。
大量の水にあらがう事は出来ない、無力な君子はただ永遠にどこまでも流され続ける事しか出来なかった。
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「――コ、キーコ!」
眼を開けると、そこにはギルベルトの顔があった。
不安そうにこちらを見つめる彼の顔は、今まで見た事が無い物だ。
「……ぎ、る?」
酷い喉の渇きだ。
がらがらの声のせいで、上手く喋る事が出来なかった。
「キーコ……、大丈夫かぁ?」
辺りを見渡すと夜なのか真っ暗で、雨が窓ガラスを叩く音が聞こえる。
なぜ夜になっているのか、状況が飲み込めない。
「良かったずっとうなされてて、眼ぇ覚まさねぇし……熱下がらねぇし……」
ギルベルトは今にも泣きそうな顔でそう言うと、握っていた君子の手を頬に当てる。
この時、ようやく君子は自分の手をギルベルトが握っていた事に気が付いた。
「そーだ、キーコに水を……」
言われた事を思い出して水差しを取るが、温くなっている。
確か彼は体を冷やす事が大切だと言っていた。
「あっ……待ってろ、直ぐに取って来るから」
ギルベルトは冷たい水を取りに行こうと立ち上がり、握っていた手を離すのだが――。
「だめ……」
君子が、ギルベルトの裾を掴んだ。
熱のせいで力が入らないのか、野ネズミの力よりも弱弱しいが、懸命に裾を掴んで離さない。
「行っちゃ、やだ……、一人にしないで……」
いつもの君子なら絶対にそんな事言わない、熱のせいで弱気になっているのだろうか。
戸惑っていると、君子は涙を流し始める。
「うっ……うえ、一人はヤダよぉ……」
「…………キーコ!」
ギルベルトは直ぐに抱き寄せると、頭を撫でる。
抱き寄せた彼女の体がまるで何かに怯える様に、小刻みに震えていた。
「……うっうう、うえ……」
「…………怖い夢でも見たのか?」
酷く魘されていたのは、熱のせいだけでは無かったのではないだろうか。
こんなにも怯えるのだから、よほど怖かったのだろう。
「……うん、嫌な夢だった」
ギルベルトが何度か撫でると震えが止まり、大分落ち着いて来た。
だが、どこかまだ何かに酷く恐怖している様子だ。
「……話したら、楽になるンじゃねーのか?」
「えっ……」
「あっいや……無理していう事ねーんだぞ」
いっそ吐き出してしまった方が、怖さも軽減されるのではないかと思ったのだが、怖かった事を話すのは嫌な事だろう。
ギルベルトは心配そうに見つめていると、君子は静かに口を開く。
「……昔の夢、だったんだ」
君子は、少し哀しそうな顔をした。
誰にも話さないでおこうと思っていた自分の話を――囁く様に静かに話し始める。
「私ね……お父さんがいないんだ」
「……死ンだ、のか?」
少し戸惑いながらも、何とか言葉をひねり出したギルベルトに向かって、君子は首を横に振って否定した。
「『血の繋がった人』はいるんだけどね、その人は認知してくれなかったの」
道ならぬ恋だったのか、それとも母とは初めからそれ以上の関係になる気は無かったのか、とにかく『血の繋がった人』と母は、結婚しなかった。
「だからお母さんは二人分働いてて、あんまり一緒にいられなかったんだ……」
「…………寂しくなかったのか?」
「お母さんとあんまりいられなかったのは哀しかったけど、時々お婆ちゃんが来てくれたし、それに……お姉ちゃんがいたから」
歳が離れた姉。
一番大切で、一番大好きで、一番の理解者だった。
仕事で母親の帰りが遅くてもどんなに辛くても、寂しくは無かった。
「お姉ちゃんはね私とは全然違うの、可愛くて美人だし、スポーツ万能で頭脳明晰でね、しかも巨乳で、漫画とかアニメの主人公みたいに完璧なの!」
モブで脇役の君子とは一八〇度違う、完全無欠のヒーローだった。
「私が一人でいると直ぐに来てくれて、一緒に北欧神話の本を読んだり、ドラクエをやったりしてくれたの!」
母がいなくとも寂しくなんて無かった。
父がいなくとも友達が少なくとも、何も問題ない。
ただ姉さえいれば――、それで良かったのだ。
「……良いねーちゃンなンだな」
「うん、すっごくいいお姉ちゃんなの」
君子は嬉しそうに笑みを浮かべてそう言ったのだが、直ぐにその笑顔は消えて今にも涙が溢れそうな、哀しそうな顔になる。
「嘘……本当はね、お姉ちゃんだったの……」
「だった……?」
なぜ過去形になったのか、意味が分からない。
ギルベルトに、その言葉の意味を告げる。
誰にも話すつもりは無かった、本当の事を――。
「お姉ちゃん、七年前に死んだの」
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君子はその日、川辺で一人座っていた。
その日は天気が悪くて、遠くの空が真っ暗だったのを覚えている。
いつも小川みたいなのに、その日はとっても流れが速くて全く別の川だった。
それが怖くて、涙が零れて来た時――。
『何をしてるんだい?』
いつもの大人びた笑みと一緒に、姉は現れた。
さっきまでの恐怖が嘘の様に無くなって、彼女がいるだけで笑顔になれる。
『お姉ちゃん!』
君子は姉に抱き着くと、一緒に川辺に座った。
さっきまで怖かった川の流れが今は怖くない、姉と一緒なら全然寂しくない。
嫌な天気だって関係ない、二人は大好きなファンタジーの話を飽きる事無く、ずっとしていた。
夢中になりすぎて、川の様子が可笑しい事に気付かなかった。
『君子、帰ろう』
姉の言葉を君子は拒絶した、もっとここにいたいとそう駄々をこねたのだ。
そんなワガママを言ったから、罰が当たったのかもしれない。
振動と共に、ゴゴゴっという音が聞こえる。
一体何が起こっているのか分からずにいると――、それはやって来た。
それは、鉄砲水だった。
まるで津波の様に、沢山の水がうねりながら川を下って来たのだ。
君子が知る由も無かったが、この時上流ではゲリラ豪雨が発生していた。
下流では雨は降っていなかったので気が付けず、危険を感じた時にはもう何もかも遅い。
君子は鉄砲水に呑み込まれてしまった。
大量の水にもみくちゃにされて、今何が起こっているのかさえ分からない。
ただ押し寄せる水に、流され続ける事しか出来なかった。
もう息が持たない、苦しくて意識が遠のく。
しかし、突然何か強い力に引っ張られて息が楽になった。
『君子!』
姉が君子を見つけ出し、岸へと押し上げた。
あの激流の中で君子を見付け出して更に助けるなんて、彼女にしか出来ないだろう。
『大丈夫か君子! 水を吐き出すんだ』
苦しそうに水を吐き出す君子の背中を押し上げて、河川敷の上へと避難させる。
無事な彼女を見て姉は安堵の笑みを浮かべた。
だが――。
流れて来た流木が、姉に激突した。
君子を少しでも避難させる為に、後ろから押し上げていたので、安全な範囲にいなかったのだ。
流されて来た巨木に吹き飛ばされて、鉄砲水の中へと呑み込まれる。
『お姉ちゃん!』
とっさに手を伸ばした。
しかし、そんな小さな手が一体何の役に立つというのだろうか。
君子が最後に見たのは、真っ黒な水に飲まれる姉の姿だった。
『あっ――』
それは本当に一瞬の出来事、まるで夢か幻覚の様で、現実に起こった事とは思えなかった。
怪物の様にゴウゴウと流れて行く水の流れを前にして、君子に出来る事など無い。
ただ、姉を呑み込んだこの濁流を眺める事しか出来なかった。
それから君子は駆けつけた大人によって保護された。
救急車やパトカーが来てとても大きな騒ぎになったのだが、放心状態の君子の記憶はとても曖昧で、あまりよく覚えていない。
祖母が直ぐに駆けつけて、警察官と何か話していた様な気もする。
君子も祖母を介して何か聞かれたのだが、もう覚えてない。
そんな時、慌てて母がやって来た。
どこか焦っている様子の母を見て、君子の意識が戻る。
直ぐに母に駆け寄って、姉が流されてしまった事を訴えた。
『お姉ちゃんが、お姉ちゃんが流されちゃったよぉ!』
まだ生きているかもしれない、姉はまるで漫画やアニメの主人公の様に、完全無欠なのだ。
あの濁流に流されても無事かもしれない、いや、そうに違いない。
君子は母に必死に懇願したのだが――。
パチンと言う音がした。
一体何が起こったのか理解が出来なかった。
正確には違う、理解などしたくなったのだ。
しかし左頬の痛みが君子に無理矢理、現実を突きつける。
『おっ、お母さん……』
君子は自分を叩いた母を見上げる。
その顔は憎悪に満ちていて、君子に対してその怒りを向けていた。
激高した母は、そのまま喚きながら君子の首を絞める。
突然の母の行動に、君子も周囲の人も反応出来なかった。
だから、彼女の言葉を遮る事は出来なかった。
『お前が、死ねば良かったんだ!』
母の暴力が怖くて、母が何を言っているのか所々分からなかったけれど、その言葉だけははっきりと聞こえた。
そして同時に君子は理解した。
いやむしろなぜ今までそう考えなかったのか、姉は母と同じで綺麗で可愛くて、そばかすの不細工な自分とは全く違うのだ。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。
母が愛していたのは、姉だけだった事を――。
母は、君子を愛してなんかいなかったのだ。
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「お姉ちゃんは、結局見つからなかったの」
せめて遺体があれば良かったのだが、幾ら下流を捜しても見つからなかった。
きっと海まで流されてしまったのだろうと、幼い君子は思った。
「お母さんとは、それから会ってない」
最後に見たのは、パトカーでどこかへと連れて行かれる母だった。
祖母に何度母の事を訪ねても、詳しい事は教えてはくれなかった。
ただ、幼いながらも母は自分とはもう会ってくれない事は理解できる。
「当然だよね……私のせいでお姉ちゃんが死んだんだから」
姉と君子、どちらを大切に思っているかなんて、考えなくても分かる事だ。
あの日川になんかいかなければ、ワガママを言わずに家に帰っていれば、姉は死ぬ事は無かった。
「……それから、キーコはどーしてたンだ」
いつもより静かなトーンで尋ねたギルベルトに、君子は寂しそうに答えた。
「ずっとお婆ちゃんに面倒見て貰ってた……、でも異世界に来る前に持病が悪化して病院に入院する事になって……、それからはずっと一人だったの」
「…………キーコ」
君子はいつの間にか目尻に涙を溜めていた。
幾らぬぐい取っても、涙は勝手にあふれて来る。
「当然なんだよ、私のせいでお姉ちゃんが死んじゃったんだもん……、私だけ幸せになるなんていけない事なんだもん」
自分の様なモブの脇役のせいで、完全無欠の主人公だった姉が死んだ。
だからせめてもの償いだと思って、決して目立たず、決して浮かれず、モブはモブらしく脇役の人生を送っていた。
それでいいと思っていた、それが自分の罪滅ぼしなのだと思った。
「でも……この世界に来て、ううん、ギルに会って全部変わっちゃった」
異世界に来てからの君子の人生は、それまでの物とは全く違う。
「……すごく、『今』が楽しい、毎日が楽しくて嬉しくて、仕方が無かったの」
魔法が当たり前の世界、今まで御伽話でしか存在しなかった異種族がいる。
ずっと望んでいた世界、まさに理想郷の様な場所だった。
「……私のせいでお姉ちゃんが死んだ事を忘れちゃうくらい、楽しかったの」
自分の罪を忘れてしまうくらい、毎日が幸福だった。
自分は、幸せになんてなってはいけないのに――。
「だから……この熱はきっと罰なの」
異世界に来て、贖罪を忘れた事に対しての罰。
熱の苦しさは、全て罪の重さを表している。
いっそこのまま――裁かれてしまった方がどれだけ楽だろう。
罪人は涙を流しながら、心の底から罪を嘆いた。
「私なんて……、生まれて来なければ良かったの……」
あの日、あの時、死ぬべきだったのは姉では無く――自分。
自分さえいなければ、皆幸せになれたのだ。
「私がいなければお姉ちゃんは死ななかった、お母さんはいなくならなかった……みんな私のせいなの……」
もうこれ以上罪を重ねたくない、誰にも迷惑をかけたくない。
人を不幸にしか出来ない自分なんて――、このまま死んでしまいたい。
しかしそんな罪深い君子を、ギルベルトはしっかりと抱き寄せる。
嘆き苦しみ迷う彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。
「ンなわけ、ねーだろう」
「……えっ」
「死ンでいいわけねぇだろう、生まれて来なくていいわけねーだろう」
君子はギルベルトを一生懸命見ようとするが、涙のせいでぼやけてしまう。
しかし彼の口調からは、その優しさが感じられた。
「キーコは、俺の為に生まれて来てくれたンだ!」
それは初めてかけて貰った、肯定の言葉だった。
生きている事を否定された事はあっても、肯定された事は初めてだ。
「お前は、俺と一緒にいてくれる為に生まれたンだ」
「ギル……」
「……お前が先に俺を肯定したンだ、それなのに……そンな風に言うンじゃねぇ」
ギルベルトはそう言って君子の頭を撫でる。
暖かくて優しくて、それはまるで大好きな姉と重なった。
そんな事をされたら涙腺が言う事を効かなくなる、沢山の涙が溢れ出た。
「うっ……うえっ、うえぇぇぇ」
だが、その涙は先ほどの物とは全く違う。
悲しいから流れているのではない、この涙は嬉しいから流れているのだ。
「ありがとう……ギルぅ、ありがとぉ……」
君子はギルベルトの胸に抱かれながら、泣き続けた。
暖かくて、優しい涙を――。
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君子に回復の兆しがみられたのは、その日の昼。
薬がようやく効果を出し始め、夜には微熱まで下がった。
しかし細菌が完全に死滅するまでは安静が義務付けられ、結局完治を宣告されたのはそれから二日後の事だ。
「……ふぁ~、ねみぃ」
ギルベルトはソファで大きな欠伸をかいた。
まだ雨は降り続いていて、外に出る事も無く部屋で過ごす日々が続いている。
「ギルベルト様、その様に欠伸をするものではありませんよ」
「ふぁ~あ……なんか言ったか?」
人の話を全く聞いていないギルベルトに、ヴィルムは呆れる。
するとドアがノックされて、アンネがやって来た。
「うふふっ、おはようございます」
なにやら嬉しそうに笑うアンネを、不思議に見つめていると――君子がやって来た。
ようやくベッドから起き上がれる様になったのだ。
「おはようございます、ヴィルムさん」
「……もう加減はよろしいようですね」
「はい、心配をかけてすいませんでした」
謝罪とお礼をすると、君子はまっすぐソファへ向かって、ギルベルトの隣に座った。
何気ない、いつもの光景なのだが、以前と違うのはその距離だ。
隣と言っても、握りこぶし二つ分くらいの間は空いていたのに、今はほとんどその間は無く密着していると言っても過言ではない。
「もう、大丈夫か?」
「うん……心配かけてごめんね」
「けけっ、そっか!」
君子が笑みを浮かべてそう返すと、ギルベルトも笑顔になる。
「一時はどうなるかと思いましたが、いつも通りに戻ってなによりです」
もし重篤な病気だったらどうしようと思ったが、完治して何よりだった。
これからは、君子の健康面に十分気を配らなければならないだろうと、ヴィルムが考えていると――。
「何言ってるんですかヴィルムさん、ぜんっぜんいつも通りじゃないですよぉ!」
なぜか、アンネがぷりぷりと怒りながらそう言った。
ヴィルムの眼には、いつも通りに戻ったと思うのだが、一体どこが悪いというのだろうか。
「もう、ヴィルムさんは本当にこういうの疎いんだから……」
「……はあ?」
全く言っている意味が理解できなかった。
ヴィルムが不思議そうに首を傾げていると――。
「雨が上がりましたよ!」
君子が雲の切れ間からほんの少し姿を見せた青空を指さす。
太陽と青空を見るのは、本当に久しぶりの事だ。
君子は窓を開けると、バルコニーへと出た。
雨でぬれた土と草木の匂いがするが、清々しくすっきりとした気持ちにさせる。
「……ふぁっ、虹だ! 虹が出てる!」
見ると、遠くの空に大きな七色の橋が出ている。
ベルカリュースの虹も、元の世界と変わらず七色の様だ。
「ギル、虹だよ!」
「ああ、虹だな」
ギルベルトもバルコニーに出て来て、虹を眺めた。
久しぶりの青空は本当に澄んでいて、美しく綺麗だった。
「……ギル、ありがとね」
「……おう」
それが一体何のお礼であるかは、聞かずとも分かった。
ギルベルトは君子の肩に手を回すと、そのまま自分の胸へと引き寄せて、寄り添わせる。
何気ない、いつもの光景でどこにも悪い所も可笑しな所も無い。
だが一つだけ変わった所があるとすれば、君子が頬をほんのりと赤く染めて、まんざらでもない、はにかんだ笑みを浮かべていたという事。
それは、少しだけ二人の距離が縮まった事を意味していた。
長く続いた雨と一緒に、長く苦しんでいたもやもやが止んだ気がした。
自分を必要だと言ってくれる人がいるというのが、こんなにも嬉しくて、こんなにも恥ずかしくて、そしてこんなにも胸がドキドキするなんて――。
この気持ちの名前を、君子まだは知らなかった。




