第三四話 大切な人の為に
アルバート騒動のこぼれ話的なかんじです!
君子が、シューデンベル城から戻った翌日。
マグニの城にはいつも通りの日常が戻って来たはずなのだが――、ギルベルトはイライラしている。
いつも通りソファに寝っ転がりながら、ポテチを食べているのだが、貧乏ゆすりをして眉間にしわを寄せていた。
「……ギルベルト様、はしたないのでお止めください」
「何しようが俺の勝手だろう!」
ヴィルムが注意してもギルベルトは止めない、むしろ余計に酷くなる。
どうやら物凄く機嫌が悪い様だ、こういう時は何を言っても無駄。
ヴィルムは本に眼を通しながら、考え事をする。
(うむ……やはり黒い靄についての記述はないな……)
シューデンベルで、再び出現した黒い靄と、それで出来た人形。
ヴィルムはそれについて再度調べ直していた。
おそらく、君子の特殊技能と関係しているのだろうが、造形の特殊技能の中でもあの現象は普通ではないだろう。
(……『複製』の特殊技能はもともと資料が少ないと言うのに、『設計者』に進化して余計に分からなくなった……)
特殊技能『設計者』。
『複製』が進化した特殊技能、『設計者』は、『固有』と呼ばれる前例のない能力だ。
このベルカリュースで、君子しか持っていない稀な特殊技能。
それ故に、何の情報もない。何も分からない。
(キーコは覚えていない様子でしたが……一度問いただしてみるのもいいかもしれない)
ヴィルムは本を閉じ、残りの考察は君子が起きてから尋ねようとそう考えていた。
(ギルベルト様はまだ怪我が完治しておりませんし、しばらくはエルゴンに行く事は出来ないだろう)
数日はマグニで絶対安静と言われ、こうやってゴロゴロと過ごしている訳なのだが、今はなぜか物凄く機嫌が悪い様だ。
朝食の前にポテチを要求して、先ほどからずっと食べている。
なんと言うか、腹が減ってるというよりはやけ食いだ。
「ギルベルト様……何をそんなにイライラなさっているのですか?」
「イライラなンかしてねぇ」
ぶっきらぼうに答えるギルベルト。
やはりイライラしている、ヴィルムは更に続ける。
「何かご不満でもおありなのですか?」
「不満なンてねぇって言ってンだろう!」
どうやらそうとう機嫌が悪い様だ、ヴィルムには理由が分からない。
「……キーコも無事に帰って来たというのに」
「無事なンかじゃねぇ!」
君子はシューデンベル城で良い待遇を受けていた様で、きちんと食事も与えられていたし、服だってシルクの上質な物を着せられていた。
怪我だってしていないし、特段問題は無いと思うのだが、ギルベルトはそれが気に入らないらしい。
怪我以外で何をされたかというと――。
「あっ、キスですか」
「…………」
どうやら図星の様だ。
なんとギルベルトはたかがキスで、こんなにイライラしているのだ。
「一つや二つのキスが何だというのですか」
「……うっせぇ」
「ギルベルト様、ヴェルハルガルドの王子とあろう者が、その程度の事で心を乱すのは、王子の威厳にも関わる事ですよ」
「うっせぇっつってんだろう!」
声を荒げて、とても怒っているギルベルト。
たかがキスだが、ギルベルトにとって大切な事、それをヴィルムは全く理解していない、呆れてため息を付くばかりである。
ヴィルムがそんな風に呆れていると――。
「おーじさま、ちゅーする?」
「ちゅーするの、おーじさま」
双子がソファの脇にちょこんと立っている。
一体いつの間にここにいたのだろうか、小さすぎて気が付かなかった。
「ユウ、ラン……貴方達、なぜこの部屋に?」
「ベアッグさんがポテチもってけって」
「アンネがキーコのとこいってるから」
二人はそう言って山盛りのポテチのお皿をテーブルに置く。
ベアッグのポテチは絶妙な固さと塩加減で、一度食べると本当に止まらない最高のジャンクフードに仕上がっている。
そのせいなのか、双子の口の周りにつまみ食いした、ポテチの食べカスが付いていた。
「おーじさまちゅーする?」
「ユウとランちゅーする?」
「やめなさい、ギルベルト様は今機嫌が悪いのです」
余計に怒らせでもしたら困る、ヴィルムは早く二人を帰そうとするのだが、子供の好奇心は旺盛で、更にギルベルトに尋ねる。
「なんでおーじさまおこってる?」
「おーじさまなんでおこってる?」
「……ギルベルト様は、キーコがキスされて怒ってるんです、ほら早く帰りなさい」
「キーコちゅーしたの?」
「ちゅーしたのキーコ!」
子供は正直すぎる、ギルベルトは更に苛立ちを募らせる。
貧乏ゆすりが更に酷くなり、ポテチを口にかっこむ量が増えた。
これはそろそろ爆発するかもしれない、ヴィルムが双子をつまみ出そうとする。
「おーじさまも、ちゅーすればいーじゃん」
「キーコに、ちゅーしちゃえばいーじゃん」
とんでもない事を言い出した。
そんな単純な話ではないのだが――。
「ちゅーしちゃえば……?」
「ユウとランもちゅーするよ」
「うん、いっぱいちゅーする」
双子の言葉を聞いて、ギルベルトはポテチを掴んでいた手を離して、ソファから起き上がる。
「そうだ……俺もキーコにキスしちまえばいーンだ!」
アルバートにキスされてずっとムカムカしていた。
キスされてムカつくのなら――自分もしてしまえばいいのだ。
「……えっ?」
ヴィルムはその驚くべき短絡的に、唖然とした。
一体どこをどうしたらそう言う結論にたどり着くのか、ただただ驚いていた。
「そうだ、俺もキーコにキスしちまえばいいンだ! なンだよ、簡単じゃねぇか!」
「ちゅーする、ちゅーする~」
「ちゅーする、ちゅーする~」
ギルベルトは鼻息を荒くしてすっかりやる気である。
双子の応援もあって、最早ヴィルムの手では止められない状況になった。
すると、ドアがノックされた。
朝食を食べる為に君子がやって来たのだ、その瞬間ギルベルトは、まるで獲物を狩る獣の様な眼付きに変わり、彼女の唇を狙う。
「おはよ~~」
しかし、やって来たのは仏だった。
より正確に言うと、仏面マスクを被った君子。
セーラー服に仏面という、日本でも奇怪な姿は、ここ異世界はベルカリュースではそれはそれは恐ろしい姿に見える。
「なっ」
あまりに予想しなかったモノの登場に、ギルベルトは固まった。
アレだけのやる気が一瞬でどこかへとすっ飛んだ、それほど強いインパクトがあった。
「…………キーコ、貴方何をやってるんですか」
固まっているギルベルトの代わりに、ヴィルムが口を開いた。
すると大仏が静かに答える。
「分かったんです、そもそも顔グラも存在しないモブの脇役である私が、素顔を晒して生きていていいはずがないんですよ」
「……はい?」
「だからこれからは、顔を隠して慎ましく生きて行こうと思います」
帰って来た途端何をするかと思えば、訳の分からない事を言う。
ある意味君子が帰って来た感じがあるのだが、それにしたってこのマスクは酷い。
「訳の分からない事を言ってないで、早く取りなさい」
「やめてあげて下さいヴィルムさん」
マスクを無理矢理取り上げ様としたヴィルムを止めたのは、意外にもアンネだった。
いつもなら君子の暴走を止めてくれるというのに。
「キーコはまだ、この間の事を引きずってるんです!」
「この間の事?」
「だから……そのアルバート王子に……」
「ああ、キスですか」
「ひゅぎょっ!」
その言葉は心に突き刺さり、君子は壁に寄りかかって、嘆いてしまう。
「ヴィルムさん、なんでそんなにきっぱりと言うんですか!」
「なぜです、たかがキスでしょう?」
「たったかが! たかがキスって何なんですか!」
別に怪我を負わされた訳でも何でもないのだ、それなのになぜそんなに過剰反応するのかが、夢のない男ヴィルムには分からない。
そんな彼に乙女アンネが怒る。
「キスですよ、キス! 無理矢理キスなんてされたら、誰だって嫌がるに決まってます! キスは女の子にとって、特別なんですからねぇ!」
「……そう言う物ですか?」
「そう言う物なんです! とにかく今はキーコをそっとしておいてあげて下さい」
アルバートに無理矢理奪われたキス、それがトラウマになってあんなマスクをつけている様だ。
君子が可笑しな事をするのは何時もの事だが、アンネがこうやって声を荒げるのだから、無理矢理キスされるのは本当に不快な事らしい。
これは彼女の言う通り、少し様子を見た方が良いのかもしれない。
と思ったのだが――。
「ふっ、ふっふざけんなぁぁぁっ! こんなもンとれぇ!」
ギルベルトはそんな乙女の気持ちなど無視である。
沸き上がる欲情のままに君子の唇を奪いたい、マスクを無理矢理剥ぎ取る。
しかしマスクの下から現れたのは、能面であった。
より正確に言うならば、女性の面、小面である。
これも異世界はベルカリュースには存在しない物、そのあまりの奇怪さとまさかの二重の仮面、予想しなかった事にギルベルトはズッコケて、その驚きを表現した。
「なっなンだとぉ……」
一体どれだけ顔を晒したくないのだろうか、どうやらキスされた心の傷はかなり深い。
ギルベルトは小面の衝撃が強すぎて、しばらく立ち上がれそうにない。
結局彼女の仮面を取り上げる事は、誰にも出来なかったのであった。
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「ベアッグさんのご飯は、やっぱり美味しいですね~なんかすごく懐かしく感じますぅ」
たった二週間だと言うのに、とても懐かしく感じた。
ベアッグの料理は君子にとっておふくろの味になりつつある。
しかし、そんな食事は――。
「……キーコ、食事の時くらいその仮面を外したらどうなんですか」
小面のせいで台無しである。
君子は食事の時でさえ仮面を外そうとはしなかった。
能面がフルコースを食べるというのは、言葉で現しがたいシュールな光景だ。
「大体その仮面は何ですか、正直恐怖を覚えるのですが」
「私の故郷の伝統芸能で使うお面です、若い女の人をかたどってるんですよ」
故郷の、という事はやはり特殊技能で造った物の様だ。
ならば一つ気になっていた事を問う。
「……キーコ、貴方の特殊技能が変わったという話はしましたね」
「はっはい、たしか『設計者』……ですよね」
「いざ使ってみて、前と変わった所はありましたか?」
「ん~~特に、変わってない気がします……」
『設計者』は『複製』と同じ造形の特殊技能。
想像した物を魔力で造るという部分ではどちらも変わらないので、正直、特殊技能が変わったという実感は薄い。
「貴方の特殊技能は『固有』なんです、情報が何一つないので、どんな些細な事でも変化があったら報告して下さい」
ベルカリュースに生きる、全ての生物に宿ると言われる特殊技能。
その数は数え切れないほどあり、一口に特殊技能と言ってもその能力は多種多彩。
戦闘でその真価を発揮するものもあれば、日常生活でしか使えないものもあれば、全く使えないものも存在する。
そしてその中でも稀なのが『固有』の物、おそらく『設計者』の資料を特殊技能が専門の学者に送れば、飛び跳ねて喜ぶ事間違えない。
「……それと、黒い靄と聞いて……何か思い当たる事はありますか?」
「ふぇっ……黒い靄ですか?」
幾ら文献を漁っても何の手掛かりも分からない、あの謎の黒い靄。
アレは君子が出したモノ、彼女のなら何か知っているかと思ったのだ。
しかし、全く思い当たる所は無い様で首を横に振る。
「よく分かんないです……その黒い靄って言うのがどうかしたんですか?」
「…………いっいえ、思い当たる事がないなら結構です」
君子が知らないとなると、余計にアレの謎は深まるばかりである。
今度、もっと古い文献などを漁ってみた方が良いだろう。
「はいっお話しはこれくらいで、食後の飲み物はどうしますか?」
アンネはそう言って、話を終わらせると食後のお茶を運んで来た。
「あっじゃあ私コーヒーで」
君子は、今の気分で何気なくそう言ったのだが――。
「ごっ……ごめんなさい、こっコーヒーはなくて……」
「ふぁっ、そっそうだったぁ!」
ヴェルハルガルドは基本的に紅茶が主流。
コーヒーは希少で都市部でなければ流通していないのだ。
「ごっごめんなさい、アルバートさんの所じゃコーヒーばっかり飲んでて」
シューデンベル城はマグニよりもずっと都会、城にしかいなかった君子は知らないが、近くに栄えた城下町があるのだ。
一方マグニは一面森のど田舎、とてもコーヒーは流通出来ない。
「うっ……ううぅやっぱりシューデンベルの方が良かったのねキーコ、こんな、こんな田舎のマグニじゃ、駄目なのねぇ……」
「ちっ違うんです、そういう訳じゃないんですぅ! わっ私アンネさんの淹れてくれた紅茶飲みたいなぁ~、アンネさんの紅茶は本当に美味しいですぅ~」
全力でフォローする君子だが、既に遅い。
アンネは泣きながら錯乱する。
「うえ~ん、本当はシューデンベルの方が良かったんだわ~、マグニじゃダメなのね~」
「違いますってアンネさ~ん!」
泣くメイドを懸命にフォローする小面のセーラー服と言う、シュールを一段飛ばしくらいで飛びぬけた光景がそこにはあった。
ヴィルムは呆れてため息を付くのだが、一人ふてくされていたギルベルトは全く違う。
(……キーコ、アルバートのクソ野郎の方が良いのか……)
シューデンベルの方が都会だし、アルバートの方が金も持っているし、女にもモテるし、何よりも強い。
ギルベルトが彼に勝ったのだって、『傷を付けられたら勝ち』というハンデを貰っていたからだ。
あんなかすり傷、実戦だったら怪我にも入らない。
本当の所、ギルベルトよりアルバートの方が、何を置いても優れている。
(…………)
視界に入ったのは、右耳の銀色のピアス。
ギルベルトの金色のピアスよりも、ずっと強く輝いている。
(あんなクソ野郎に負けてたまるか!)
金や力だけではなく、キスまで先を越された。
もう一刻の猶予もない、早く君子にキスをしなければならない。
(ぜってー、キーコにキスする!)
ギルベルトは、戦いの時以上の闘志を燃やすのだった。
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夜、君子が仮面をつけている事以外、特に何も変わらない一日が過ぎた。
夕食も終わり、君子は沐浴をする為に部屋へと戻り、ヴィルムはギルベルトが寝る準備の為、ベッドメイキングをする。
(結局、黒い靄は分からずじまいか……アレだけの異形ならば、何らかの文献に乗っているはずなのだが……『固有』だからか? いやキーコは『複製』の時点で靄を出していた)
あんなにインパクトのあるモノ、見たら絶対に忘れないし、ヴィルムだったら何らかの形で後世の為に残しておく。
『設計者』の特殊技能の産物と言う訳ではないし、ますます訳が分からない。
(……まさか、文献も残っていないほど古代のモノ……なんて事は無いか)
幾ら考えても無駄だ。
『思案者』の特殊技能を持っているせいか、ヴィルムは様々な事を考えてしまう。
今度こそ考えるのを止めよう、そう決めて掛け布団を綺麗に直し終えた、後はギルベルトを寝巻に着替えさせるだけなのだが――。
「……ギルベルト様?」
ついさっきまでソファで寝っ転がっていたのに、いつの間にかいなくなっていた。
閉めたはずのドアが少しだけ開いている。
「…………まさか」
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ギルベルトは慎重にドアを開けていた。
自分の部屋ではない、君子の部屋のドアである。
隙間から中の様子を窺い、誰もいない事を確認してから侵入する。
君子は毎日沐浴をして、身体を自分で洗う。
そう自分で身体を洗うなら――仮面は邪魔なはず。
風呂上がり、油断してる瞬間を狙うのだ。
作戦としては、風呂からあがって来た君子が仮面をつけ直す前に、唇を奪う。
最早強姦寸前なのだが、ギルベルトはそんな事全く気にしない。
とにかくキスさえできればいいのだ、キスさえ。
「ンっ……」
何かが、もぞもぞ動いていると思ったら、テーブルの上にスラりんがいた。
どうやらおやつを貰ったらしく、皿の上のクッキーを黙々と食べている。
食べる事が生きる目的生物は気楽でいい物だ。
しかし、そんな食べる事に夢中なスラりんは、自分がお皿を徐々に動かしている事に気が付かず、皿はテーブルから大きく突き出て、重力に逆らう事なく――落下した。
「いっ――――」
ゴトンっとすごい音が響く。
君子が『造形者』で造った、プラスチックの皿だったので割れはしなかったのだが、大きな音だったので、沐浴中の君子が気が付いてしまった。
「(やっべっ!)」
浴場からこちらの部屋に出てこようとする音がする。
ギルベルトはとっさにベッドの下へと隠れた。
「……なんの音?」
君子が浴場から出て来た、ギルベルトの位置では足元しか確認出来ない。
「あっスラりん、落としちゃったの?」
どうやら沐浴は終わった様で、君子はスラりんを拾い上げると、椅子に座ってくつろぎ始めた。
ここからでは背中しか見えないが、どうやら髪の毛をタオルで拭いている様だ。
意識はこちらには向いていない、今ならチャンスだ。
「…………」
ギルベルトはゆっくり、物音を立てない様に君子へと近づく。
ベッドから這い出て、抜き足差し足忍びで背後へと迫る。
そして、君子の肩を掴んで一気に引き寄せた――。
のだが、振り返ったのは小面だった。
なんと、君子は仮面を付けたまま風呂に入っていたのだ。
小面の何とも言えない眼と視線が合う、その時の恐怖と言うのは言葉で表せないほどだ。
「わあっ! びっくりしたぁ、ぎっギル……どうしたの?」
突然肩を掴まれ驚く君子、しかし小面の仮面が邪魔で、彼女のびっくりした顔を見る事は出来ない。
この変な仮面のせいで――。
「こっこんのぉぉぉぉ~~、いっ、いい加減にしろおおおおおお!」
「ひょっひょわああああああああっ!」
キスする気満々だった、ギルベルトの怒りが爆発した。
小面を掴むと、それを引っぺがそうと力を込める。
「いつまでこんなもンつけてンだよぉ! 取りやがれぇ!」
「やっヤダぁ! 離して~」
君子は必死に抵抗して、椅子から立ち上がるとギルベルトの魔の手から逃れ様と、部屋中を動き回るが、彼は全く力を緩めず仮面を剥がそうとする。
「ヤダっ離してってばぁ~、モブの脇役の顔グラがぁ~」
「なに訳の分かンねぇ事言ってンだ!」
後ろ歩きで逃げていたせいで、ベッドに足を引っかけて、君子は倒れた。
すると同時に仮面が取れて、彼女の素顔が露わになる。
(――よしっ!)
剥ぎ取った小面を投げ捨てた、もう邪魔をするものは無い。
このまま君子の唇を奪うだけ、ベッドに倒れた彼女へと顔を近づける。
「――っ!」
しかしその瞬間、ギルベルトは驚いた。
ベッドに倒れた君子の顔には、眼鏡が無い。
考えてみればあんな仮面を眼鏡の上から付けられる訳がない、しかもアルバートに治して貰った今、彼女には眼鏡など必要ないのだ。
だからたれ眼で可愛らしい彼女と、眼があってしまった。
(あっ――)
眼鏡じゃなく、たれ眼が可愛くて、どうしようもなく愛おしい君子。
ギルベルトの鼓動が速くなって、心臓が小刻みに動いて、すごくドキドキする。
そして同時にある衝動が、沸き上がって来た。
(――キス、したい)
先ほどまでは、アルバートにされたから、先を越されたのが癪だったから、君子にキスがしたかった。
でも今は違う、君子がすごく可愛くて、愛おしくて、心の底から彼女にキスをしたいと思ったのだ。
アルバートなど関係ない、ただ可愛くてどうしようもなく愛おしいから、キスをしたい。
「…………」
ギルベルトはこの欲望に身を任せた。
ただ本能のままに、唇を近づけたのだ。
「うっ、うえっ」
しかし――その本能の衝動的な行動を止めさせたのは、君子の泣き声だった。
彼女は眼から沢山の涙をこぼして泣いている。
その声が、涙が、ギルベルトを停止させた。
「……きっ、キーコ?」
一体どうして、そんなに泣いているというのだろうか――。
「うっうえっ、だってだってぇ……きっキス、初めてだったんだよぉ」
それは突然奪われたファーストキス。
道具の様に、思いやりも、優しさもなく、一瞬でされた。
「初めては結婚式の誓いのキスって……決めてたんだもん」
永遠の伴侶となる男性にして欲しかった。
あんな風にではなく、もっとロマンチックに、もっと優しく大事にして欲しかった。
「初めてのキスは、大切な人の為に取って置きたかったんだもん」
大切な人。
いつか現れるであろう旦那様になる人と、このファーストキスをしたかった。
大好きだから、愛しているから、その人の為に大事に取って置きたかったのだ。
「うっうえっ、もう、お嫁にいけないよぉ~、うわ~ん」
君子は思い描いていた平凡な人生も送れないと、嘆き悲しみ、声を荒げて泣く。
だがそんな彼女の両肩を、ギルベルトはしっかりと掴んだ。
「おっ、俺は気にしねぇぞ!」
「ふぇっ?」
声を荒げて、ギルベルトが言う。
一体どういう意味なのか分からず、固まる君子に、彼は更に続けた。
「俺はお前が誰とキスしてたって、全然気にしねぇ! そンな事ぜっんぜん気にしねぇ!」
「でっ……でも、私」
「大事なのは気持ちだ! あんな気持ちのこもってねぇキスなんて数になンか入る訳ねぇだろう!」
そうだ、あんな犯罪紛いのキスが数になど入る訳がない。
肝心なのは気持ち、両方の心が通じ合った時にするキスにこそ、本当に意味があるのだ。
ギルベルトは先ほど自分がしようとしていた行為を棚に上げて、そう言った。
「ほっ……本当?」
「ああ、そーだ! あンな気持ちがこもってねぇキスなんて、数なんかに入らねぇし、俺はぜんっぜん気にしねぇ……だからおめぇも、いつまでもいじけてんじゃねぇよ」
いつまでもあんな仮面などつけてないで、とっとと忘れてしまえばいいのだ。
あんなキス、数になんて入らないのだから――。
「……そっか、そう……だよね」
ギルベルトの必死の説得もあって、君子はそう納得した。
ベッドから起き上がると、眼に溜まった涙を拭う。
そして――励ましてくれたギルベルトへと、微笑んだ。
「ありがとう、ギル」
眼鏡がなく、涙のせいもあってかいつもよりずっと色気のある微笑み。
それがギルベルトの心を揺さぶる。
(ぐあっ……かっ可愛い)
再び沸き上がるキスしたいという欲望。
しかしあんな事言った手前、絶対にそんな事出来ない。
ギルベルトは君子から視線を逸らすと、この欲を必死に抑えながら言う。
「きっキーコ……お前、眼鏡かけろ」
「へっ……でも、アルバートさんに治してもらって――」
「いいから、眼鏡かけろ! 俺の前ではずっと!」
そう眼鏡のないたれ眼の君子がどうしようも無く愛おしくてたまらないのだ、眼鏡さえかければいつも通りに戻るのだから、こんな衝動にも駆られない。
君子はギルベルトがあまりにも必死に言うので、首を縦に振る事しか出来なかった。
「うっうん……分かった、眼鏡かける」
「わっ、分かればいいンだよ……」
ギルベルトはなるべくたれ眼で可愛い君子を見ない様に、部屋から出て行った。
ドアを閉めると、寄りかかってそのまま座り込んでしまう。
思い出すのは、君子の言葉。
――大切な人の為に、取って置きたかったんだもん。
初めてのキスをその大切な人の為に取って置いた。
とっても大事なファーストキスを、大切に取って置いたのは――。
「……俺の、為?」
それは勘違いも甚だしいのだが、ギルベルトは勝手に解釈してしまう。
君子は自分の為に初めてのキスを取って置こうとしてくれていた、それが奪われたからあんな風に、とっても悲しそうに泣いていた。
それが――嬉しくてたまらない。
表情筋がどうにかしてしまったのか、顔が勝手ににやけてしまう。
更に鼓動がどんどん速くなって、心臓が今にも破裂しそうなくらい脈打っている。
血の巡りが良くなったせいか、顔が熱をもって、ちっとも冷めない。
「…………」
キスをしていないのだが、君子の大切な人は自分、それを聞けただけでもう十分。
あれ以上君子の顔を見てしまったら、もう心臓がどうにかなってしまいそう。
ギルベルトは、耳まで真っ赤になった顔を手で覆い隠した。
「……可愛すぎるだろう、畜生めぇ」
そして、誰にも聞こえない様に、小さくそう呟いたのだった。
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「……ギル、一体どうしたんだろう」
何か用があって来たのかと思ったのに、あっと言う間に帰ってしまった。
結局、何がしたかったのだろうか――。
「……ギルが気にしなくても、しょうがないのに」
未来の旦那様の話であって、ギルベルトが気にしなくても仕方がない。
「…………」
君子は胸を押さえた。
心臓が小刻みに脈打って、ほっぺたがちょっぴり熱を持っている。
ギルベルトが気にしなくても仕方がないのに、あの言葉がとても嬉しかった。
「なんで……ドキドキしてるんだろう」
言葉がずっと耳に残っていて、ドキドキが止まらない。
ちょっぴり赤く染まった頬の熱は、一向に下がらないのだった。
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翌日、ヴィルムは機嫌が良くなったギルベルトを見て驚いた。
「ギルベルト様……」
「ン、なんだヴィルム!」
鼻歌を口ずさんで、ずっと笑っている。
昨日とは一八〇度違う、ここまですんなり変わると、逆に怖い。
「ギルベルト様……まさか本当にキーコにキスをしたのですか?」
機嫌がこんなに良くなったという事は、キスをした以外に考えられない。
ヴィルムが恐る恐る聞くと、ギルベルトは少し自慢げに答えた。
「けけっ、ヴィルム肝心なのは気持ちなんだぜ」
「……はい?」
「気持ちがこもってねぇキスなンて、数に入ンねぇンだよ」
「…………はぁ」
正直キスはキスで、気持ちなんて関係ないと思うのだが、せっかく良くなったギルベルトの機嫌をわざわざ悪くする必要はない。
ヴィルムは何も言わずに、黙る。
するとドアがノックされて、君子がやって来た。
「おはようございます」
「キーコ、貴方……」
君子は小面を付けておらず、代わりにいつもの眼鏡をしていた。
確かアルバートが視力を回復させたので、裸眼で見える様になったと言っていたのに、なぜわざわざ眼鏡をかけたのだろう。
「キーコ、眼鏡してない方が可愛かったのに……なんでまた眼鏡しちゃうのよぉ」
アンネはちょっと残念そうに頬を膨らませながら言った。
正直ヴィルムも眼鏡は無い方が良いと思う。
「えへへっ、なんかやっぱり眼鏡が無いと落ち着かなくて……」
「え~もったいない、眼鏡はやっぱりやめましょう、王子様も無い方が良いですよね!」
「コレで良いンだ、コレがキーコなンだ!」
アンネはギルベルトの賛同を得ようと、そう尋ねたのだが、彼はきっぱりと言い放った。
可愛い方が喜ぶと思っていたので、アンネもヴィルムは顔を見合わせて驚く。
ギルベルトは、眼鏡をした君子を見つめると、納得した様に、深く深く頷いた。
「……コレで、キーコが帰って来たな!」
制服に眼鏡におさげ、アルバートに連れ去られた二週間前と全く同じ格好。
そんないつも通りの彼女を見て、微笑むギルベルト。
そんな彼を見ていたら君子も自然と笑みがこぼれた。
二人はソファに座ると、いつも通り他愛ない雑談を始める。
この何気ない日常が、一番うれしい。
マグニに、ようやくいつも通りの日常が戻って来たのだった。
第二章(?)はこれで終わりです。
一部だいぶ設定が変わりましたが、どうにか描き上がりました。
第三章(?)は主人公が変わります!
舞台は一〇〇〇年前のマグニ、伝説になったある異邦人の物語です。
しかし、プロットを見直すので、しばらく間が空くかと思いますが、気長にお待ちいただければ幸いです。




