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地味女子ですが、異世界来ちゃいました!  作者: フランスパン
アルバート編
29/100

第二七話 オワタ




 マグニ城は嫌悪な雰囲気に包まれている。

 理由は、ギルベルトの兄アルバートが、突然やって来た事だった。

「このクソ野郎、ここは俺ンちだ、とっと出てけ!」

 ギルベルトは怖い形相で怒鳴るのだが――。

「ふっ、父上から授かった物だろう」

 アルバートに冷静な口調で言い返される。

 同じ顔の二人が、睨み合っているこの状況で、我らが君子さんは――。

(ぎっ銀髪のロン毛男子様なんて、何ソレめっちゃ萌えるじゃねぇですか!)

 この殺伐とした状況でそんな事を考えていた。

 周囲の事などまるで無視して、妄想の世界へとトリップする。

(えっ兄、銀髪と金髪のイケメン兄弟って何ソレ、美味し過ぎるでしょうぅ、ていうかギルお兄さんいたのぉぉぉ、しかも見事にタイプが違う! これってアレだよね、乙ゲーだよね、ていうか乙ゲーじゃん!)

 イケメンの二人は、乙女ゲームの攻略キャラクターにしか見えない。

 君子の頭の中は、二人の王子を巡る、陰謀渦巻く異世界ラブファンタジーが展開されていて、会話の内容なんてまるで入って来ない。

「アルバート様」 

 ワイバーンを竜舎に戻していた、ヴィルムとブルスが遅れてやって来た。

「お久しぶりで御座います」

「ああ」

「所でどの様な御用でしょう、ギルベルト様はただいま出先より戻って来たばかりで、朝食もとっておりません、お話ならまた後日改めてという形にして頂きたいのですが……」

 トリップしている君子とは違い、ヴィルムはこの張り詰めた空気を感じて、そう言った。

 朝食をとっていないというのは本当で、それになんの連絡もなく来るという事は断られても仕方がない事、むしろ早急に帰って欲しいというのがヴィルムの願いだ。

「お茶も出さないなんて、サイッテーだなぁ!」

 しかしそんな願いをぶち壊すのは、品のない男の声。

 振り返ると、二人の男女が立っていた。

 男は、深紅の髪を短く切りそろえ、軍服は黒を基調としており、金の刺繍と釦がつけたられている高級な物なのだが、それを無残にも着崩していて、品格は皆無。

 軍服を着ているからかろうじて軍人だと分かるが、それがなければその辺のごろつきと大差ない男だった。

「アルバート様はお客様なんだぞ、ちゃんとオモテナシしろ! って……オモテナシって表が無いから裏って事か?」

「アンタちょっと黙ってなさい!」

 首を傾げて考える男の脛を、女が蹴っ飛ばした。

 しかしその女の足は、人間の物ではなく猛禽類の鋭い爪を持った鳥の脚。

 更に肩から生えているのは腕ではなく、広げれば優に三メートルを超えるであろう純白の翼だった。

 女は真っ白なボブショートの髪を翻すと、ヴィルムの方を向く。

「申し訳ありません、突然来たのにこの馬鹿が大きな態度を取ってしまって」

「なぁなぁ、それでオモテナシって裏なのか?」

 突然騒がしくなったロビー、ヴィルムがため息をつくと、アンネがお茶を持って来た。

「王子様……それにヴィルムさんにブルスさん、こっこの方々は?」

 お茶を取りに行っている間に、主が帰って来ただけではなく、見慣れぬ人々がいるのだ。

 驚き戸惑っているアンネが持って来たお茶を、男が平然と奪い取る。

「そうそうお客様にはお茶だろ~~、……ってにげぇっ!」

 これは君子の為に入れた緑茶、ポンテ茶よりも苦いその味は刺激的だったのか、噴き出してしまう。

「なんだコレぇ、毒だ、毒が入ってるぅ!」

 騒ぐ男は正直うるさくて堪らない、一分でいいから黙って欲しいものだ。

「用事というほど大した物ではない……が話はある、私は寛大であるからお前が食事をとる時間くらいは待ってやる」

「あンだと、このクソ野ろ――」

「客間で待たせて貰おう、行くぞフェルクス、ルールア」

 アルバートは一方的にそう言い放つと、勝手に客間へと向かって行ってしまう。

 ヴィルムはそんな彼らを見て小さくため息をついた。

「アンネ、客間にお茶をお願いします……」

「はっはい……分かりました」

 アンネは何が何だか分からないがとりあえず、言われた通りお茶を出す為、もう一度台所へと向かっていった。

 嵐の様な奴らが過ぎ去って行って、ひとまず静かになったロビー。 

 だが、ギルベルトは不機嫌そうな顔で、妄想の世界にトリップしている君子を見下ろす。

「……あのクソ野郎と俺を見間違えたのかぁ」

「えっ……いっいやっあの」

「キーコぉぉぉっ!」

「やっちょっと、自分で歩くってばぁ、小脇に抱えないでぇぇぇ」

 妄想から現実に引き戻された君子は、そのまま無理矢理抱っこされて、OLの鞄の様に小脇に抱えられるのだった。





「よりによって、アルバート様と見違えるとは……」

 ヴィルムは呆れた様子で、遅い朝食とお茶とデザートを用意していた。

 ポテトサラダにステーキ、そしてメルヌ村の新米を炊いたご飯。

 デザートにはベアッグお手製甘さ控えめのプリン。

「だっ、だってぇ聞いてないですよ、ギルにお兄さんがいるなんて!」

「アルバート様は、ギルベルト様の上のお兄様で、二〇しか離れていないんですよ」

「二〇歳って……」

 そんな二歳差くらいの、軽い感じで言われても全然ピンと来ない。

 しかし兄の話をされて、ステーキを食べるギルベルトの機嫌が悪い。

「あんなクソ野郎の話なんてすンな、飯がまずくなる!」

「……そして、大変に仲が悪いんです」

「なるほど……」

 歳が近い男兄弟の仲が悪いのは、どこの世界でも一緒の様だ。

「そう言えばお兄さんなのに、どうして角が無いんですか?」

「アルバート様とは異母兄弟です……と言うより王族は全員母親が違います」

「いっ異母おおおおお兄弟ぃぃぃ!」

 その単語に君子の耳は大いに反応する、腹違いの兄弟なんて美味し過ぎる設定だ。

 ただでさえ銀髪のロン毛と言うだけで美味しいのに、そんな設定まであるなんて、オタク女子君子さん的には萌えのジャブを、美味しく喰らった感じだ。

「ギルベルト様は魔人ですが、アルバート様は母親が吸血鬼(ヴァンパイア)の半魔半吸血鬼です」

「ヴァぁぁぁぁぁぁぁっ、吸血鬼(ヴァンパイア)ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 イケメンの銀髪ロン毛で異母兄弟、しかも半分吸血鬼なんて、ジャブの後にフック喰らい更にボディブローまで喰らった様なものだ。

 美味し過ぎる設定はクリティカルヒットして、君子の体力を削る。

「ヴィっ……ヴィル、ムさん、やっやめて下さい、萌え死にさせる気ですかぁぁぁ!」

「…………はい?」

 これ以上そんな美味しい設定を頂いてしまったら、妄想が暴走して萌え禿げて死んでしまう。

もう一ヵ月分の萌え設定をご馳走になった、しばらくはこの萌えで自給自足出来る。

「それで……あなたはアルバート様と、何を話していたんですか」

「へっ……、あっそうでした、私魔法が使える様になったんですよ!」

 君子は美味しい設定で噴き出した涎を拭くと、先ほど成功させたばかりの魔法を使う。

「『浮遊(フライ)』」

 灰色の魔法陣が展開されて、カタカタと小石を動き一五センチほど宙に浮かぶ。

 君子は無い胸を張ってギルベルトとヴィルムへと見せつけた。

「どうですか、これで私も魔法使いですよ!」

「…………」

 ヴィルムが、人の座っていないソファに右手を向けると、灰色に光る。

 するとソファは七〇センチほど宙に浮いた。

 しかも君子が持ち上げた小石よりも、圧倒的に高く持ち上がりそのまま上下左右に素早く動かす。

「………一型の魔法というのは、魔力Eランクでも扱える、非常に初心者向け初歩の初歩で、補助魔法しか使えない私でもこの通り詠唱と魔法陣を破棄して行えます、要は呼吸と同じくらい簡単という事です」

「こっ呼吸って、息するよりずっと難しいですよぉ!」

「術式と魔力操作に理解があればこんなもの、数十分のレクチャーで扱える様になります」

 君子が数日かかったというのに、このクールイケメンヴィルムは涼しい顔で言い切る。

「じゃっじゃあ……ギルも使えるの?」

「めんどくせぇから魔法は嫌いだ」

 ギルベルトの魔力はB、これは結構強い魔法使いの魔力量に相当する。

 君子は魔力がなく強い魔法が使えない、しかしギルベルトは魔力があるが、魔法の術式やらなんやらが面倒だから使わないだけであって、両者には大きすぎる違いがある。

「うぅぅ、せっかく出来る様になったのにぃぃぃ」

「第一物を浮かせるというのは単なるものぐさです、この程度の小石は手で拾った方が早いでしょう……そんな事の為に魔力を消費するのは、よほど魔力が有り余っている魔法使いか、浅はかな怠け者だけです」

 びっくりさせられると思ったのに蔑まれた、物凄くショックである。

 異邦人である君子にとって、魔法は浪漫の塊の様な物なのだが、異世界はベルカリュースの人々からすれば日常的な物で、物を浮かせる程度では誰も驚きはしないのだ。

 しょんぼりしながら自分のお茶を飲むと、ギルベルトはステーキに添えてあった人参を端に寄せ残している。

「あっギル、また人参残してる!」

「だって……まじいンだもん」

 ポテチのお陰でどうにかポテトサラダは食べられるようになったのだが、まだ彼が食べる物には偏りがある。

「この人参甘くて美味しいんだよ、せめて一つは食べなきゃ駄目だよ!」

「でもぉ……」

 鼻が良いギルベルトには、野菜の青臭さと言うのが苦手なのだろう、君子が感じない人参独特の風味が嫌なのだ。

「スラりんだって、好き嫌いしないで食べてるんだよ!」

「……皿まで食べますからね」

 余計な投げ槍が入った、だが君子にも作戦の一つくらいある。

「人参食べられたら私のプリンあげる、それなら食べられるでしょう?」

 嫌いな物食べた後好きな物食べて口直しする作戦、である。

 君子も好きな物を最後に取っておいて、嫌いな物から片付ける事によって苦手だったグリーンピースを克服したのだ。

「良いのか!」

「人参食べてからだけどね」

「ううぅ……」

 ギルベルトはしばらく悩んだ様子だったが、ベアッグ特製のプリンはとても美味しい、だからしぶしぶフォークを人参に突き刺すと、それを口へと運ぶ。

「頑張ってギル!」

「うっううううううううううう――――あぐっ!」

 勢いに任せて口へと押し込む、咀嚼もそこそこにほとんど丸のみの状態で、胃袋へと納めた。

「ギル偉いよ、よく食べられたね! はい約束のプリン」

「どっ……どんなもンでぇ……」

 ギルベルトは真っ青な顔で強がると、甘くて美味しいプリンを吸い込む様に食べて、口直しをする。

 こうやって嫌いな物も食べる様になったのは最近の事だ、君子が少しずつ言い聞かせて食べられる野菜の種類と量を増やして行った。

(次はどんな野菜を食べさせようかな……)

 君子が次の料理をどうしようかと悩んでいると――、ドアがノックされた。

 するとアンネが申し訳無さそうに入って来る。

「あの……お客様が――」

「おいヴィルムぅ、アルバート様をこ~~んなに待たせるなんて、サイッテーだな!」

 深紅の髪の男が、アンネを突き飛ばして部屋へと入って来た。

 いちいち声がうるさい男を、ヴィルムは非常に煙たそうに見る。

「……フェルクス静かにしなさい、王子の御前だという事が分からないのですか」

「ぷっ、何言ってんだよぉ今は朝なんだから午前に決まってるだろう、そんな事も分かんねぇのかぁ~」

 フェルクスと呼ばれた男はにやにやと笑い、ヴィルムはため息を付く。

 明らかに彼とは関わりたくないという空気を醸し出している。

「ヴィルムぅオレ様と勝負しろ! あん時のオレ様はサイッテーだったが今はちょ~~サイッコーだ! ぜ~~って~~勝てる!」

「……あんなのただの遊びの様な物でしょう、貴方はもうアルバート様と言う王子の補佐をする軍人なのですから、その言葉遣いと低レベルな思考をどうにかしなさい」

「歯垢? オレ様ちゃんと歯磨きしてるぞ!」

 ヴィルムは頭を抱えると、先ほどよりも重く深いため息をついた。

 これはもう本当にどうしようもない。

「コラぁフェルクス、ヴィルムさんに迷惑かけるなぉ!」

「無駄無駄ぁ~今のオレ様はサイッコーなんだ、きかねぇよ、ルールアぁっ!」

 両腕が翼の女がやって来て脛を蹴るのだが、全く効いていない様でフェルクスはケラケラと笑っている。

ルールアと呼ばれた女性は般若の様な顔で睨みつけるのだが――。

「貴方も大変ですね、ルールア」

 ヴィルムがそう声をかけた瞬間、ルールアは般若の様な顔から、まるで菩薩の様な穏やかな表情へと一瞬で変わった。

「いっいえ、これが仕事ですから~~」

 先ほどよりも一オクターブほど声が高く、どこか体をもじもじさせながら、さりげなくヴィルムとの距離を詰める。

「ヴィルムさんの毛並み、今日もとてもいいですね、きゃっ!」

「……どうも」

 そんな両手で口を隠しながら恥ずかしがられても、氷の魔人であるヴィルムは毛並みと言われた所でピンと来ないのであった。

「ふっ、相変わらず寂れた城だな」

「アルバート様……」

 アルバートが口元に笑みを浮かべながら、そう言って部屋へと入って来た。

 瞬間ギルベルトの表情が強張り、明らかに敵意を持って彼を睨みつけている。

「父上から頂いた城をここまで駄目にするとはな」

「…………キーコ、お前は向こうに行ってろ」

「えっ? でっでも……」

「アンネ、キーコを連れてけ」

「はっ……はい、行きましょうキーコ」

彼の表情にはいつものお気楽さはない、どこか真剣で張り詰めた空気を纏っている。

 君子はアンネに連れられるがまま、スラりんが入ったバックを取ると、ドアへと向かう。

「…………」

 アルバートの前を通ると、まるで何もかも見透かした様な灰色の眼が、こちらをじっと見つめる、その眼はあまりにも美しく、直視する事もままならない。

 だから君子は足早にその場を立ち去る。

 しかし、アルバートは彼女の後姿をいつまでも見つめていた。





************************************************************





 台所に半ば追いやられた君子は、ポテチをつまみながら雑談をしていた。

「なんか、とんでもない事になったわね……」

「はい……アンネさんは、ギルにお兄さんがいる事知ってたんですか?」

「王子が何人かいるのかは知ってたけど、見るのは初めてだったわ……だからあんなに似ているなんて知らなかったわ」

 おそらく顔だけ見せられたら、判別できないくらいに似ているだろう。

 それにしても気になるのはギルベルトのアルバートへの態度だ、兄弟なのだからあんな風に怒らなくてもいいのに。

(……ギル、何を話してるんだろう?)

 どうして自分を追い出したのかは分からない、だがあんなに仲の悪い兄とどんな話をするのか、気になった。

(…………年末年始の集まりの話かな?)

 もしかしたら年賀状の話とかもしちゃうのかもしれない、そんな悠長な事を考えながら、君子はみんなとお茶を飲みながらポテチをつまむ。

「俺は帝都で見習いコックしてた時に話だけ聞いた事があるぞ」

「そうだったんですか!」

「おう、出来のいい王子として結構有名だった、皆次に魔王になるのはアルバート王子に違いないって、そう噂していたもんだ」

 市井にまで話が広がっているなんて、とんでもない有名人の様だ。

 王族と言うのはもしかしたら現代日本で言うアイドルに匹敵するくらい、人気が高いのかもしれない。

「そんなにすごい人なんですか……」

「俺は飯を作る事しか能がねぇから、どれぐらいすごいか分からねぇが、魔王確実なんて言われるくらいだ、きっと才ある人なんだろうさ」

 同じ王子でも、ギルベルトとアルバートでは大きく差がある。

 それなのにあんな態度を取ってしまうなんて、モブ君子痛恨のミス。

「どうしよう、私ギルと見間違えて馴れ馴れしい態度を取っちゃいましたよぉぉ!」

「だっ大丈夫よ……キーコはアルバート王子の事を知らなかったんだし、あんなに似てるんだもん、間違えたって仕方ないわ」

 アンネだって、ギルベルトがあの場にいなければアルバートを主と勘違いしてしまいそうだった訳だし、ましてや他の王子の存在を知らなかったのだから、仕方がない。

 しかし彼女の励ましを無に返す様な言葉は、ステレオの様に左右から聞こえた。

「ユウ、まちがえられるのいやかも」

「ラン、まちがえられるのいやかも」

 それは与えられた仕事をさぼり、ポテチを食べる双子だった。

 二人ともおんなじ顔で左右から君子を見つめる。

「コラ、ユウにラン、余計な事言うんじゃないの! 大体あんた達は服で分かるから間違えられないでしょう!」

 せっかく励ましたのにと怒るアンネに、双子は彼女をおんなじ顔で見つめて言う。

「きょうはユウがランだよ」

「きょうはランがユウだよ」

「えっ?」

 まさかの返答に戦慄が走った。

 今日はメイド服の方がユウで、執事服の方がランだというのか――。

 服を取り換えるなんて、そんな馬鹿な事に一体何の意味があるのだろう。

「やっやっぱり、間違えるのは最低なんですよぉ、どうしましょうアンネさん、私モブの脇役の分際で、あんな萌え設定の塊みたいな人に馴れ馴れしくしちゃいましたよぉ~、謝らなくちゃ、誠心誠意謝罪しなければ!」

「きっキーコ、落ち着いて」

 取り乱した君子をアンネは必死に落ち着かせようとするが、モブキャラクターがメインキャラクターに粗相をするなど絶対にあってはならない事である。

「わっ私、ちょっと謝ってきます!」

「えっちょっちょっとキーコぉ!」

 君子は立ち上がると、急いでアルバートがいるギルベルトの部屋へと向かった。





************************************************************





 一方、ギルベルトの部屋。

 アルバートは一人用のソファに腰かけながら、出された紅茶を飲む。

 その姿は王子としての気品に溢れ、まるで映画のワンシーンの様だ。

 しかしギルベルトは、ソファにだらしなく座りながら、貧乏ゆすりをしている。

 到底王子とは思えない、その辺のチンピラの様で、ヴィルムもこれには頭を抱えていた。

「……ふっ、相変わらずだな、ヴィルムも大変だろう、こんな馬鹿のお守りなど」

 アルバートは口元に小さな笑みを浮かべると、紅茶の入ったカップを置いて、足を組む。

 ただそれだけの事だというのに、動作の一つ一つがまるでお芝居の様だ。

「補佐官を決めたあの日、お前がまさかこんな奴を選ぶとはな」

 数十年以上昔の話を、今更されるとは思ってもみなかった。

 ヴィルムが無言で返すと、アルバートは更に続ける。

「……軍内部でも名家として名高い、フレイ家の次期当主であったお前を、誰もが召し抱え様とした、しかしお前は落ちぶれたこいつを選んだ……誰もが驚いたものだ、この私を含めてな」

「ご冗談を……、こんな歳になって居場所が無くなった、ただの軍人で御座います」

「お前が私の所に来なかったから、仕方なくフェルクスを雇ったのだ」

「おうっ、オレ様は強いからな~~、オレ様で良かっただろうアルバート様!」

 後ろに立つフェルクスが高笑いをしながらそう言う、しかしアルバートはそんな彼に視線さえも向ける事無く、ヴィルムを真っ直ぐに見る。

「だが、お前もそろそろ現実を見ただろう? そんな馬鹿の下についた所で先は無い、お前の能力を最大限に発揮できる所に納まるべきだとは思わないか?」

 現在の主がいる前で堂々と勧誘するなど、なんという大胆な行動だ。

 言葉の意味を理解したルールアはなぜか喜びを押し殺した様な表情を浮かべ、理解できないフェルクスは首を傾げて眼を点にしている。

 ヴィルムは意味を完璧に理解した上で答えた――。

「大変ありがたいお誘いですが、ギルベルト様は私が仕えるべきお方です、他の方の下に付く気はありません」

「残念だ、お前がいればもっと早く魔王になれるのだがな……」

「んな話どうだっていいだろう、何の用だ、くだらねぇ用事ならぶっ飛ばすぞ」

 イライラしているギルベルトが、乱暴にそう言う。

 アルバートは、相も変わらず王族としての気品が無いギルベルトを見て、呆れて鼻で笑うと、ようやく肝心の本題に入った。 

「エルゴンに侵攻しているらしいな」

 やはりその話か、とヴィルムは思った。

 ギルベルトがマグニの城に移ってから全く接触が無かったにも関わらず、わざわざこうやって会いに来たのだ、よほどの事だと思ったが予想は悪い方で当たった。

「地位もなく期待もされず、こんな田舎のマグニに捨てられ食い潰されるだけだった愚図が、突然兵を率いて将の真似事をすれば……誰だって不審に思う」

 軍事国家ヴェルハルガルドでは、一軍を率いる将になるのはとても名誉な事で、この国にいる強者共は将軍――つまり魔王になる事を夢見ている。

 その為ならどんな事でもやる、そんな野心家共が日夜様々な策略を巡らせ、ライバルを蹴落としているのだ。

(アルバート様もまた魔王の地位を狙っている……ギルベルト様のこの突然の台頭を黙って見ている訳には行かないだろう)

 



 アルバート=ルシュファン・ヴェルハルガルド。

 ベルカリュースでも数が少ない吸血鬼(ヴァンパイア)の血を継ぐ、半魔半吸血鬼。

 しかも政界、軍内部にも顔が効き、その実力は現魔王にも匹敵する、次期魔王確定、魔王将も夢ではないと言われるほどだ。

 まさに王族のエリート、異母兄弟であるギルベルトとは全く何もかも正反対だった。

 アルバートは、出来の悪い弟であるギルベルトが突然、一軍の将という花形に就いたのが許せないのだろう。

(……当然だ、エルゴンでギルベルト様が率いているのは二〇〇〇の兵、数万の兵を率いる魔王の足元にも及ばないとしても、一ヵ月で五つの砦を落とした功績は大きい……次期魔王候補として大きく注目され始めて来た)

 今までギルベルトは周囲からは見向きもされない、暴力沙汰を起こす厄介な王子として評判だったのだ、それが突然将として軍を与えられ着々と国を攻め落としているとなれば、もう誰も無視できない。

(エルゴンの第一防衛線を突破し、エルゴン侵攻の基盤が出来上がって来て、これからより一層の進軍を目指していると言う所で、よりによってアルバート様の妨害が入るとは)

 魔王の座に就きたい野心家達が、何らかの妨害が入るかもしれないとは思ったが、まさかしょっぱなから、こんな大物がやって来るなど思いもしなかった。

 ヴィルムが何とか言いくるめ様と言葉を選んでいると、先にギルベルトが返答する。

「俺が何しようと俺の勝手だろう、クソ野郎」

 なんという暴言だろうか、ヴィルムが何とかこの場を収めようとしているのに、肝心のギルベルトはそんな事まるで興味ない、少しはこっちの気持ちも分かってもらいたい物だ。

「ふっ……勝手ではないな、お前の様な馬鹿が魔王の座に就けばこの国は間違えなく終わる、偉大なる父上の国をお前の様な愚弟のせいで滅ぼさせる訳には行かないな」

「けっ……あの親父の事なんて知るか、俺は俺のやりたい様にやる、なんと言われ様がてめぇには関係ねぇ、分かったらとっとと帰れ!」

 一方的に会話を切り上げる、さっさと帰して君子との時間を過ごしたいのだが――アルバートは、嫌味のある小さな笑みを浮かべる。




「不老不死が、欲しいらしいな」




 それを聞いた瞬間、ヴィルムもギルベルトも眉をひそめた。

 ギルベルトが進軍した理由は、魔王帝ベネディクトから君子を不老不死にする為の方法を教えて貰う為だ、しかしその事を知っているのは、ごく一部の者だけだ。

「てめぇ……その話どこで聞いた」

「父上に聞いたら話して下さった、誓約までさせられたと愚痴をこぼしておられたぞ」

「あのクソジジイ……っ!」

 まさかとんでもない所から情報が漏れた物だ。

 こんな事なら誓約に、機密厳守も含ませておけば良かった。

「魔人の寿命で不老不死など要らないだろう……なぜそんなものを欲しがる?」

「てめぇには関係ねぇ」

 ギルベルトは顔を背けて、それ以上何も悟らせない様にするのだが、そんな彼をアルバートはあざ笑う。

「あの小娘、随分気に入っている様だな」

 それは君子の事だ、使用人でもない彼女は明らかにこのマグニの城に不似合いで、異質な存在、気にならない方が可笑しい。

「あンだと……てめぇ」

「まさかピアスをアレほど堂々とつけさせておいて、隠し通せると思っているのか?」

 ピアスの意味を知っている者が君子を見れば、ギルベルトの思いは手に取る様に分かる。

 しかも君子は自分から異邦人と言った、ここまで情報が多ければつなげる事は容易。

「お前は寿命の短い異邦人を愛し、あの女を不老不死にする為にエルゴンを攻め落とそうとしている…………そういう事だろう」

 ギルベルトはそれに、悔しそうに舌打ちをして返す事しか出来なかった。

 話す前から全て分かっていたのだろう、全て理解した上であえて尋ねたのだ。

「あんな小娘の為に一国を攻め落とそうなど、愚の極みだな」

「ンだとぉ」

「何なら私が噛んでやろうか? そうすれば国を落とすまでもなく不死になる……自我を失い血肉を漁る食人鬼(グール)にな――」

「黙れ!」

 ギルベルトは言葉を遮った。

 アルバートを睨みつける彼の眼は、さきほど以上に殺気を宿し、本当に怒っている。

「それ以上言いやがったら……ぶっ殺すぞ」

「…………ふっ冗談だ」

 ギルベルトを見下す様に、口元に笑みを浮かべる。

 灰色の美しい瞳が、まるでギルベルトをおちょくるの様に、真っ直ぐ見つめていた。

 部屋の空気が最高に悪くなった時――コンコンと、弱弱しいノックの音が響く。

「しっ……失礼しま~す」

 やって来たのは君子とアンネだった、なぜ戻って来たのかギルベルトが厳しい表情で口を開く。

「キーコ、なんで来たんだよ」

 あんな話の直後では、ギルベルトが警戒するのも無理はない。

 だが君子がそんな事を知る由もなく、申し訳無さそうな表情で言う。

「ごっ……ごめんなさい、でっでもすぐに出てくから……」

 君子はそう言うと、だらしなく座っているギルベルトの元ではなく、気品溢れるアルバートの元へと近づく。

「……なんだ」

 彼の視線に少し怯えるが、どうにか呼吸を整えて言った。

「あっ……アルバート、王子様、さっさっきは馴れ馴れしい態度を取ってしまって、申し訳ありませんでした!」

 頭をこれでもかというぐらい深々と下げて謝罪する君子。

 見事に腰が四五度に曲がった最敬礼をする、彼女をアルバートは黙って見つめる。

「わっ私みたいな奴が見間違えるなんて、身の程をわきまえないにもほどがありますぅ、本当に、申し訳ありませんでした!」

「…………」

 一体何しに来たかと思えばどうでもいい事だ、しかしモブで脇役の君子にとっては重要で、何なら土下座をしてもいいくらいである。

 アルバートは君子を見ると、視線をギルベルトに移す。

「んな奴に謝んな……いいからもう戻れ」

 アルバートにぺこぺこと頭を下げている君子を見て、ギルベルトは余計にイライラしていた。

 君子はギルベルトの物、他の男としゃべる事さえ彼の勘に障るのだ。

「…………ふふっ」

 アルバートは笑うと、視線を君子へと戻す。

 なぜ笑うのだろう、君子が恐る恐る頭を上げると、灰色の眼が彼女を見ていた。




「気に入ったぞ……貴様」




「へっ?」

 それは許すのか許さないのか、一体どちらなのだろうか。

 戸惑う君子へ、意図が分からない笑みを向ける。

「ギルベルトの物にするのは、惜しいぞ女」

 アルバートはそう言いながら、君子へと手を伸ばした。

 瞬間、ギルベルトがソファから立ち上がる。

「逃げろ、キーコ!」

 テーブルを踏み越え、君子の前へと行くと彼女を庇う様にアルバートと向かい合う。

 一体何が起こっているのか分からない君子を無視して、腰に吊ったグラムを引き抜いて、構えた。

「アンネ、キーコを連れて逃げなさい!」

「はっ、はい!」

「えっうえぇ!」

 ヴィルムに言われ、アンネは君子の手を引く。

 そしてろくに状況も理解できないまま、二人は部屋から出て行った。

「酷い物だ、ただ気に入ったと言っただけだろう」

「キーコは俺の所有物(もん)だ、名前だって書いてあンだ! てめぇなんかにくれてやるか!」

刻印(ネーム)まで書いたのか、よほどの執着だなぁ」

 アルバートはグラムを向けられているというのに、眉一つ動かさない。

 まるで子供でも相手にする様な、そんな余裕が彼にはあった。

「だが……、そういうものほど、奪い甲斐があるという物」

 その人を小馬鹿にする嫌な笑みが、怒りをより燃え上がらせる。

 ギルベルトはグラムの柄に力を込めると、アルバートへと振り下ろした。




************************************************************





「あっ、アンネさん、なっなんで逃げるんですか!」

 連れられるまま階段を駆け下り、ひたすらギルベルトの部屋から遠くへと逃げる。

「分からないわ、でもヴィルムさんが逃げろって言うんだから、遠くへ行けるだけ行くわよ!」

 ヴィルムは嘘や冗談でそんな事を言うような人ではない、彼が逃げろと言うのだから、これはよほどの事態なのだ。

 玄関を出て庭を突っ切りとにかく走る。

「はっはあっ……でっでも、ちょっと早い」

 運動会のかけっこも持久走もビリの彼女には、アンネの走りは早すぎる。

 すぐに息が切れて脇腹が痛くなる、手を引かれているとはいえもう走れない限界だ。

「もっもう駄目――」

 その時、後方から爆音と共に光が瞬いた。

 振り返ると、一条の光――紫色に輝く雷が四階の窓ガラスを突き破っている。

「あっ――」

 あそこはギルベルトの部屋だ、なぜあそこで雷が発生したのか意味が分からない。

 君子に理解をする暇などない、空から何かが落ちて来る。

 太陽の逆光でただの黒い点の様にしか見えないソレは、芝生の上へと打ち付けられた。



「ぎっ、ギルっ!」



 それが何だか分かった瞬間、君子は我が眼を疑った。

 殴られた跡や、切り傷、更には雷の火傷、酷い怪我を負い無残にも横たわっている。

 大トカゲを倒すくらい強いはずのギルベルトが、ボロボロにやられていた。

「くっ……そがぁ」

 体を起こそうとするが、怪我が体力を奪い、まるで力が入らない。

 グラムを持つ事さえもままならないギルベルト、君子はアンネの手を振りほどくと急いでギルベルトの元へと走る。

「ギルっ!」

 早く手当てをしなければ、そう思って近づくのだが――。

「ふっ、他愛ないな」

 アルバートが四階から降りて来た。

 ギルベルトはあんなに怪我をしているというのに、アルバートは傷を負う所か、息も切らしておらず、髪も服も乱れてなどいない。

(なっなんで、ぎっギルって強いんだよね? それなのになんでこっこんな事に)

 具体的にどれくらい強いのかなど知らない、だが大トカゲを倒し大蛇をぶっ飛ばした力は本物で、この城で一番強いのは彼なのではないかと考えていた。

 しかし今、そんなギルベルトがボロ雑巾の様にされている。

 目の前にいる、アルバートの手によって――。

「貴様ぁぁぁぁぁ、ギルベルト様に何ぉぉぉぉ!」

 騒ぎを聞きつけたブルスが、二階から飛び降りて、アルバート目掛けて突進した。

 この爪にその勢いを乗せ、渾身の力で襲いかかる。

 しかし――。

「ひゃっほおおおおおおおおいぃぃぃぃっ!」

 フェルクスがブルスをぶん殴った。

 巨体が宙を舞い、数メートル先へと吹き飛ばす。

「ぐぼぁ――――っ」

 地面にバウンドしてようやく止まったのだが、ブルスはその一撃で完璧にのされている。

 タフで頑丈で知られる獣人族が、たった一撃のパンチでやれるなど、通常では考えられない。

「アルバート様を襲うなんて、サイッテーだな! そして今のオレ様はサイッコー!」

 万歳をして勝利の雄たけびを上げるフェルクス、格好が阿保っぽいが強さは本物。

「ブルスさん!」

 強くてモフモフのブルスが一瞬でやられてしまうなんて、君子がただ驚愕していると、アルバートがこちらへと近づいて来た。

「きっキーコ!」

 アンネは君子を庇う様に後ろへとやると、右手を突き出していつでも魔法を打てる様にする。

「キーコはギルベルト王子の物です、それ以上近づかないで下さい!」

 しかしアルバートは止まらない。

 何を考えているのか分からない無表情で、こちらへと近づいて来た。

「おっ王子とは言え、容赦いたしませんよ!」

 アンネの役目は君子を守る事だ、例えその敵が王族であったとしても、彼女を守る為ならば牙をむいて見せる。

「青魔ほ――」

 魔力を込め、魔法陣を展開させる。

 アンネは目の前に集中し過ぎて気が付かなかった、上空から迫るその影に――。

「駄目よぉん」

 アンネは空を飛ぶルールアと視線があった。

 しかし次の瞬間には――趾に頭を掴まれていた。

 猛禽類の趾にがっちりと掴まれて逃れられる獲物はいない。

 一切の隙を与えずアンネを掴み上げると、空中で一回転し、その遠心力を乗せて放つ。

 



 アンネは、頭から思い切り叩き付けられた。




 なす術のないアンネは、受け身を取る隙も与えられなかった。

「あっ……アンネさん!」

 何が起こったのか理解が出来なかった、ただ一瞬の間にさっきまで目の前で立っていたはずのアンネが、芝生の上で倒れている。

 上空には、両の翼を羽ばたかせて優雅に舞うルールアがいた。

「メイドが、アルバート様にたてつくなんて、一〇〇万年早いわよ」

「きっ……きぃこ、にえてぇ」

 体がどこかの筋がいかれたのか、身体が全く動かない。

 アンネは何とか声を振り絞るのだが、目の前で皆がやられている所を見せられて、君子は怖くて仕方がない。

「あっ……ああ」

 自分もあんな風にやられてしまうのだろうか、そんな恐怖が君子を押し潰す。

 足がガクガクと震えて、逃げるどころか歩く事さえもままならない。

「くっギルベルト様、アンネ!」

 四階から飛び降りると、ヴィルムはこの惨状に驚いた。

 狙いは君子、何とかアルバートを彼女から遠ざけなければ――ヴィルムが特殊技能『思案者』を発動させる。

「させるかよぉ!」

 しかしフェルクスが殴りかかってその邪魔をする。

 ヴィルムは素早く回避すると、剣を抜いて斬りかかるのだが後方に飛んでそれを避ける。

「あん時の続きだ! 今度こそオレ様が勝つぞぉ!」

「くっ……氷結――」

 体内の冷気を引き出そうとした瞬間、今度はルールアが上空から鋭い脚の爪を向けて突進してくる。

 技を放てば頭を持っていかれる、ヴィルムは攻撃をやめて横へ飛んで避けた。

「ごめんなさいヴィルムさん、でもアルバート様の邪魔はしないで下さい!」

「イエエエエイっ、今のオレ様サイッコー!」

 二対一は流石のヴィルムも敵わない、二人の攻撃を受けて防戦一方、とてもアルバートを止める暇など無かった。

 だから、君子を守ってくれる者など、もう誰も残ってはいなかった。

「あっああ……」

 君子はガタガタと震え、怯える事しか出来なかった。

「…………」

 アルバートは君子へと右手を伸ばした。

(――なっ殴られる!)

 自分もギルベルトやブルスの様にボコボコにされるに違いない、君子はただ本能的に眼を瞑り、頭を手で守った。

 こんな紙の様に弱い防御に、意味なんてない。

 次の瞬間に襲い掛かるであろう痛みを耐える為、歯を食いしばるのだが、やって来たのはちょこんっと言うむずがゆさだけ。

「……えっ?」

 一体何が起こっているのか、恐る恐る眼を開けると、アルバートは彼女の鎖骨と左胸の間を、人差し指で突っついていた。

 それが何を意味しているのか、その真意が解らない。

 君子がそれを理解する暇もなく、アルバートは右から左に向かって、人差し指でなぞる。

 するとなぞられた所が、赤黒く光って、それは図形の様な絵の様な、あるいは文字の様な――。

「へっ?」

 何が起こったのか理解できない、光は徐々に弱くなって消えた。 

 前にもこんな事があった気がする、一体何時、どこで――。

「…………」

 アルバートはそれ以上何もしない、拳を振り上げ様とも蹴り飛ばそうともしない。

 暴力が振るわれないと解ると、足の震えも小さくなってどうにか動けるくらいになった。

「ぎっ……、ギル~~っ!」

 だから大怪我をしているギルベルトの元へ、早く手当てをして上げなくちゃ、そう思ったのだが――。

「ぎょわっ!」

 突然足が動かなくなった、まるで下半身だけ別の生き物になってしまったかの様だ。

(えっ……なんで、なんでギルの所に行けないの?)

 今まで刻印(ネーム)のせいでギルベルトの傍から離れられなかった、だから君子が彼の傍に行けないなんて事は一度だって無かった。

 君子は制服の中を覗き、左胸に書いてある刻印(ネーム)を確認する。

 この数ヶ月、当たり前の様に眼にして来たのだが、今胸に刻まれているソレはギルベルトの物とは違う。

 左胸に新たに刻まれたのは、アルバートの刻印(ネーム)



 君子は、アルバートの所有物になったのだ。




「えっ……ええええええっ!」

 状況がまるで理解出来ない、なぜアルバートが自分に刻印を書いたのだ。

 何かの間違いだと思いたくて、刻印をごしごしと擦ってみるが全く落ちない。

(ぎっギルの刻印(ネーム)があったのになんで上書き出来るのぉ! ていうかなんで刻印(ネーム)を書いてるのアルバートさぁぁん!)

「キっキーコ」

 ギルベルトは君子の元へと行こうとするが、身体が動かない。

 だからアルバートに捕まる君子を、ただ見ている事しか出来なかった。

「やっ……ギっギルぅ、ギルぅっ!」

 君子はアルバートの手を何とか振りほどいて逃げようとするのだが、力が強くあっという間に引き寄せられてしまう。

「ギルっ、ギルぅ!」

 必死に助けを求めるが、彼女を助けられる者は誰もいない。

 アルバートは軽々と抱き上げると、口元に小さな笑みを浮かべて言う。

刻印(ネーム)は強者が書きかえる事が出来る、知らなかったのか?」

 そんな事知らない、知る訳がない。

 君子を抱き上げたアルバートは、ギルベルトを見下す様に鼻で笑うと、そのまま歩き出した。

「えっへっ……へぇっ?」

 すると一匹の灰色の鱗のワイバーンが降り立つ。

 ギルベルトのワイバーンよりも大きくて、乗っかっている鞍の色も違う。

 驚き戸惑う君子を抱きしめたまま、アルバートはそのワイバーンへと跨った。

「帰るぞ、フェルクス、ルールア」

 そう言って手綱を引くと、ワイバーンは大きな翼を広げて羽ばたく。

 恐怖が電流の様に全身を駆け巡る。

「ギルっ、ギル! 助けてギルっ!」

 離れなくては、ワイバーンから一刻も早く降りなくてはいけないのに――アルバートの力は強くて、びくともしない。

 ワイバーンは君子を乗せたまま、空へと舞い上がる。

 あっという間に上昇して、何もかもが小さくなっていく。

 ブルスもヴィルムもアンネも、慣れ親しんだマグニの城、そしてギルベルトも――。

 何もかもが遠くなってしまう。

(なっ何コレ……なんでこんな事になってるのぉ?)

 アルバートは何も言わない、何が起こっているのか全く状況が呑み込めない。

 ただ一つ理解できた事は、刻印(ネーム)を書きかえたアルバートはギルベルトを余裕で倒せるくらい強くて、君子はその所有物となってしまったと言う事。

 それはつまり、状況がより一層悪くなったと言う事――。

 君子は冬の晴れた空を見ながら、ふと思う。



(……オっ、オワタ)





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