第二四話 愛しき弟子だ
君子まさかの出番なし!
エルゴン王国。
その国境沿い、エンラ平原。
「矢を放てぇ、敵を近づけるなぁ!」
エルゴンの指揮官は抜き身の剣を振りながら、そう号令を出す。
その狙いは空を縦横無尽に飛び回るワイバーンの群れ、だがそれはただの群れではない、その一匹一匹に兵が乗っており、地上から放たれる矢が届かない距離へと上昇する。
ワイバーンを矢で落とす事は不可能。全身堅い鱗で覆われていて運よく比較的柔らかい腹などに当たったとしても、それは奴らにとっては引っ掻かれるくらいの事でしかない。
「魔法部隊、展開!」
修道着の上から胸当てを着込んだ僧兵達が、弓兵の合間を縫ってやって来る。
そしてそれぞれ、手に持っている杖を掲げると、様々な色の魔法陣が展開された。
「撃てぇ!」
号令共に、風、水、炎、雷、様々な魔法が射出されて、ワイバーンへと激突する。
翼をもがれ、腹を抉られ、爆炎に飲み込まれ、竜兵がまるで羽虫の様に大地に落下する。
矢は利かずとも、魔法は十分通ずる。
「何としてでもここに食い止めろ! この先に行かせるなぁ!」
この先には砦があり、重大な拠点である。
もしもこの先に進ませれば、どうなるかなど眼に見えていた、指揮官は何としてでもここで食い止めたかった。
現に、弓の牽制と魔法による攻撃で、敵の数を確実に減らしている。
数はこちらの方が多い、焦らず着実に敵を討っていけば、必ず勝機は訪れる。
指揮官はそう考えていた。
「隊長、アレを!」
部下が指差した上空を見ると、一匹のワイバーンがすごい勢いでこちらへと飛んで来た。
首を下げ、降下しつつ速度を上げると、ワイバーンは指揮官達の上空をかする様に飛び去っていく。
驚き戸惑う彼等の前に――それは降り立たった。
真っ先に眼に飛び込んできたのは紅い服、そして怪しく光る額の黒い角。
腰には子供くらい大きな剣を下げている。
それは、紅の魔人だった。
「なっ!」
単身で魔人が乗り込んでくるなど正気の沙汰としか思えない。
しかし指揮官はさっき飛び去っていったワイバーンの鱗の色を思い出して、より驚いた。
「灰色の鱗のワイバーンは上位種……指揮官に与えられる駿馬のはず……」
ワイバーンは鱗の色によってその希少性が決まる。
黒に近い色の鱗ほど強く速い。しかしその分通常のワイバーンと比べて出産率が低く、数千分の一の確率で生まれてくる。
灰色の鱗のワイバーンと言うのは、王族、あるいは将官クラスの者でないと騎乗を許されていない物だ。
指揮官は、目の前に現れたギルベルトが、将官クラスの者であると悟り、彼さえ討ち取れば敵軍が総崩れになると、そう理解した。
「単身で挑むとは愚かな! 弓兵、奴を射殺せ!」
上空を狙っていた周囲の弓兵が、紅の魔人へ矢を放つ。
指揮官の号令の元数一〇の矢が、彼へと襲いかかる。
「――っ」
しかし紅の魔人は腰の剣を引き抜くと、踏み込みながらそれを振った。
黒い刃は矢を両断し、風圧だけでも幾つもの矢が飛んでいく。
絶対に射殺す為に放った矢が、全て叩き落とされた。
「まっ魔法兵!」
炎、風、雷が同時に放たれ、紅の魔人へと襲い掛かる。
矢よりも圧倒的に早く、避ける事も不可能。
全力の一撃が炸裂し、爆音と共に煙が立ち上った。
「フハハハハハハハッ! 悪しき魔人を討ち取ったぞぉ!」
三型の魔法を三発、消し炭だって残らない。指揮官が高らかに叫び、歓喜する。
しかし、爆煙から現れたのは、漆黒の刃。
巨大な漆黒の刃は立ち上る煙を切り裂き、その隙間から無傷の魔人が現れた。
アレだけの威力の魔法を、たった一本の剣だけで防いだというのか――。
並みの剣ならば、折れるか変形して使い物にならなくなっているはずなのに、その剣は無傷の黒い刃を見せつけるかの様に、陽の光を反射していた。
「ばっ馬鹿な!」
狼狽する指揮官、魔人はその隙を見逃さず素早く距離を詰めると、先ほど魔法を放った僧兵へと剣を振り下ろした。
「――があぁっ!」
黒い刃は、肩から胴にかけてを引き裂くと、そのまま隣にいた僧兵を真一文字に斬った。
更に魔人は僧兵へと、その凶刃を振り下ろしていく。
「まっ、魔法が使える者を狙っているのか!」
大砲がないこの戦場では、竜兵に対して有効打を与えられるのは、魔法のみ。
この魔人は、魔法が使える兵、つまり僧兵だけを確実に仕留めているのだ。
「くっ止めろ、剣で斬りかかれぇ!」
魔法がなければ竜兵に立ち向かえない、とにかく僧兵が全滅する前に、この魔人は倒さなければならない。
指揮官がそう命令しながら、自分も剣を構える。
相手がどんなに強かろうと、多勢に無勢で斬りかかれば勝てる、そう思っていた時――彼の目の前に一匹のワイバーンが現れた。
赤い鱗を持つその竜は、大きな口を開けて、鋭いその牙を見せつけている様だ。
「えっ――」
指揮官がその意味を理解した時には、竜の喉の奥の暗闇だけしか見えなかった。
ワイバーンは指揮官を食い千切った。
胸から上が無くなった指揮官が崩れ落ちる。
それを平然とした表情で見ていたのは、ワイバーンに跨る初老の男。
「……ギルベルト殿下、将がこの様に一機で動くものではありませんぞ」
下あごの牙だけが長く突き出ていて、耳も斜め下に長い魔人だった。
毛量が少なくなった白髪をどうにか結い上げているが、風格は歳を感じさせない力強さと、冷静さが垣間見える。
「マリノフか……ヴィルムとブルスはどうしてる」
マリノフと呼ばれた男は、跨るワイバーンの頭を小突いた。
ワイバーンは食んでいた物を吐き出すと、怒られた事を悟って項垂れた。
「ヴィルム殿は左翼で、騎乗兵達を指揮しております、ブルス殿は歩兵と共に後方にて、その剣を振るう時を、今か今かと待っておりますよ」
「そうか、ならヴィルムにこのだっせぇ服着てる魔法使いを潰す様に言え、ワイバーンの数を減らしたくねぇ、この平原を取ったら、一気に次の砦を攻め落とす」
「かように急がずとも良いのでは、砦攻めはなかなかに手ごわいですぞ」
「だからワイバーンを減らしたくねぇんだ、戦力がある今の内に砦を落とす」
「……よろしい判断ですぞ、次の砦は堅牢で規模も大きい、援軍を呼ばせる隙を与えず迅速に攻めるのが、吉です」
このマリノフという男は、魔王帝がギルベルトに与えた、将官の一人である。
長きにわたり戦場を渡り歩き、現在活躍する将達の師を務めた事もあるほどの実力者。
彼は時にギルベルトを試す様な事を言いながら、彼の器を図っているのだ。
ギルベルトが将として相応しいかどうかを――。
「いいから、マリノフはヴィルムとブルスに連絡しておけ、俺はあのだせぇ魔法使いを潰したら、中央を連れていく、お前は左翼をまとめて進め」
「御意」
ギルベルトはグラムをしっかりと握ると、指揮官を失い統率が取れなくなった兵士達へと追撃を行った。
戦場は、あまりに一方的だった。
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ハルドラ 王都ハルデ。
街はずれに一軒の家がある、一見は廃墟の様でとても人が住む様な場所には見えない。
この家に物凄い魔法使いが住んでいるという事は知っているが、その姿を見たものはあまりいない。
だからこの家は本当に廃墟なのではないかと疑う者もいる。
しかし最近、この家を出入りする人が目撃される様になった。
「部屋が使えないとはどういう事ですか!」
ハルドラ屈指の魔法使いであり白魔法の権威である、魔法使いラナイ。
彼女は海人、凛華、シャーグと共に魔法使いクロノの家にいた。
「こんな狭い部屋で寝泊まりしろと言うのですか! 一番大きい弟子の部屋は!」
四人は魔法使いクロノの元で修業をする事になったのだが、部屋が二部屋しかなく、しかもどちらもベッドを二つも置けば窮屈になってしまうほどの狭さだった。
「あの部屋は物置にした」
「はぁ! 弟子の部屋を物置にする奴がいますか、普通!」
「教わる事は何一つないと言い放ち、白魔法だけ覚えて勝手に出て行った弟子がいると、弟子の為に部屋を取っておくというのも嫌気がさすと思わないか?」
複数の視線がラナイへと向けられるが、彼女は視線をそらした。
「お前が魔王を倒せないで帰って来た癖に城で寝泊まりしたら、白い目で見られると言うから、わざわざ部屋を用意してやったのだ、嫌ならせいぜい白い目で見られればいい」
「うっうぐぐっ」
「分かったら魔法の授業に入る」
四人は魔法の基礎的な知識から学んでいる所なのだが――既に有数の魔法使いであるラナイにとって、この様な初歩の初歩など今更学ぶ必要のない物だ。
「こんなものとっくに理解していますわ、強くなるには強い魔法を覚えるのが一番、最強の魔法を伝授なさい!」
「……ラナイ、お前それが弟子の態度かぁ?」
シャーグも呆れるほどの大きな態度だった。
どこの世界でも技の伝承というのは、師が弟子を認めた時であり、長い時間をかけて修練した者にされる物。この様に強気で、脅迫まがいでいう物ではない。
「ラナイ、お前はその初歩が出来ていないからCランクという、格下の相手に負けるのだ」
呆れたように言葉を返したのは、四人の前に立つ魔法使いクロノである。
四人はこの魔法使いの弟子となり、ヴェルハルガルドに行く為の修業を始めたのだ。
「なっ……なんですって、アレはあの半魔人が近接攻撃をするからで、魔法ではワタクシの方が圧倒的に勝っておりました!」
「相手が魔法しか使わないと思い込んだお前が悪い、実戦とは必ずしも教科書通りやられるものではない、勝った者が強者、それが実戦だ」
平たく言えば勝てばいいのである、それが魔法によるものだろうが、庭の柵によるものだろうが、どっちでもいいのだ。
「そもそも白魔法は他の魔法に比べて大きすぎる弱点がある」
「そっそんな事、光こそ至高の魔法――っ」
「光と闇は、打ち消しあう性質がある、どんなに白魔法が強くとも闇に触れた瞬間双方共に砕け散ってしまう、ワシは言ったはずだぞ、光に頼りすぎるなと」
現にラナイの魔法は威力が強いにもかかわらず、アンネの弱い魔法と相殺された。
光と闇は他属性には有効でも、対の存在には圧倒的弱さを見せる。
「光魔法しか覚えず、もう教えてもらう事は無いと言って、ワシの前から去ったお前の力量は、所詮この程度なのだ」
「ぐっ……」
最もな事を言われて、とりあえず黙った。
「クロノさん、私もっと強くなりたいんです、もっと強い魔法を教えて下さい!」
ラナイには申し訳ないが、早く強くなってハルドラと君子を救いたい。
だから凛華は、より強い魔法を覚えたかった。
「…………その前にまず必要なのは知識だ、知を持つ者こそ戦局を見極められ、より勝利に近づく事が出来る、その為に魔法の基礎から教える」
この世界に来て四ヶ月あまり、魔法の存在は知っていたがそれをより具体的に知るのは初めての事だった。
「まず最も基本的な魔法、属性魔法だ」
「属性……魔法?」
「最もポピュラーであり様々な魔法の基本として扱われる、これが全部で八つある……ラナイ」
クロノに振られて、とても嫌そうにラナイがそれを答えた。
「風、雷、光、炎、水、地、闇、氷……ですわ」
「そうだ、これらは俗に色魔法とも呼ばれ、それぞれ色で呼ばれる、ラナイ」
「……ムッ、風が緑、雷が紫、光が白、炎が赤、水が青、地が黄、闇が黒、氷が藍」
「氷って藍色なんですか?」
「実際の色ではない、魔法陣の色で呼ばれるからこうなるのだ、色さえ覚えれば魔法陣を見ただけで何の魔法か解る様になる」
魔法の属性というのは戦闘の際、戦況に大きく影響する。
故に、魔法を知るというのは色を覚えるという事に繋がるのだ。
「黒、藍っと……アレ、私の『爆裂』はどれに入るんですか?」
「凛華の魔法は爆発系の魔法に入る、これは八属性に該当しない魔法で、一般的には補助魔法などと呼ばれている」
「補助……私補助で戦ってたんですか?」
「いや、補助と言っても『爆裂』は十分な威力を持っている、あくまでも八属性に該当しない為、その様に呼ばれているだけだ」
八属性が主として扱われるのは、扱いやすいからであり、それなりに難しい爆発系の魔法を初めからできる者はそうそういない。
初めから全く意識せずに、『爆裂』の魔法を使えた凛華はそういう意味でも規格外の存在で言える。
「魔法には必ず法則がある、火が燃える事にも法則があり、物が凍る事にも法則がある、その法則を自在に操る為の魔法陣であり詠唱だ、魔法は知識を知りそれを理解し、それを考え実行する事が必要なのだ」
「なるほど、魔法は科学なんですね!」
「そうだ……魔法と、魔法によって引き起こされた現象を司るのが、魔法使いだぞ凛華」
凛華は理科の授業と同じ様に、それらの言葉を紙にメモを取る。
その姿は学生その物なのだが――同じ学生である海人は居眠りをしていた。
「……ちょっと海人ぉ、寝てるんじゃないわよ」
「ん……あ~、だってよぉ俺物理嫌いなんだぁ」
海人は、運動神経は抜群だったが勉強の方はそうでもない。
だからまるで学校の勉強の様な魔法の話は、心地よい子守歌の様に聞こえるのである。
「所詮脳筋馬鹿か……」
クロノはそう呟きながらシャーグを見下ろす。
机に突っ伏し、いびきをかいて寝ている姿は非常に間抜けだ。
「シャーグの様な馬鹿に、魔法という高度な技術を理解できるはずがありませんわ、こんな事無駄ですわよ」
「……仕様がない奴らだな」
クロノはため息をつくと、杖を取ると歩き出した。
「座学はここまでだ、実技に移る」
四人はクロノに連れられて、外へと出た。
この辺はハルデの中でも空き地ばかりで、クロノの家以外は何一つない。
「クロノさん、どこに行くんだよ」
「ハルデにこんな場所あったんだな」
暮らしていたシャーグさえも知らないほどの街はずれ、すぐそこにはボロボロになった赤いレンガの城壁がある。
「ここで、実戦の修業をしてやる」
「おいおい、俺は戦士だぞ? 魔法使いに教わる事なんてないね」
シャーグはハルドラ一の戦士と名高い男、その剣の腕前には自信がある。
魔法使いという、魔法ばかりで家に閉じ籠って訳の分からない研究ばかりしている奴らに教わる事など何もない。
「魔法はともかく、剣の修業は俺達勝手にやれるから、あんたは凛華達に魔法でも教えてやってくれよ」
「そ~そ、魔法使いは魔法だけやってればいいんだよ」
そう言って、いつも通り二人で組み手をしようとする海人とシャーグ。
しかしクロノは杖で思い切り地面を突いた。
一度背を向けた二人も、それに驚いて振り返るほどだった。
「…………ならば、試そうか」
「えっ?」
「何を?」
首を傾げる海人とシャーグを無視して、クロノが杖を掲げると空間がねじ曲がり、そこから一本の剣が出て来た。
「宙から剣が!」
「……空間魔法ですわ、高度な技を魔法陣も詠唱もなしで……」
悔しそうにラナイが補足した。
剣は宙に浮かんでいて、クロノが杖を振るうと切っ先が海人とシャーグの方を向く。
「剣を抜け」
「なっ……何言ってんだ、魔法使いが剣で戦える訳ないだろう」
クロノは魔法で剣を浮かせているだけで握ってさえいない。
剣の術を磨き続けて来たシャーグと、その教えを受けた海人の相手になる訳がない。
結果は目に見えている。
「ふっ……負けるのが怖いのか?」
「なんだと……」
「そうだろうなぁ、魔法使いに剣で負けたとなっては、皆にどんな陰口を叩かれる事か……何ならお前が杖で戦ってもよいのだぞ?」
安っぽい挑発、誰だってそれぐらい分かるはずなのに、シャーグは戦士としての誇りを侮辱され、そんな判断もつかないくらいに怒っていた。
だからそれに応える様に、剣を抜いてしまう。
「カイトは退いてろ、こんなチビ俺独りで十分だ」
「シャっシャーグさん!」
海人が止める間もなく、魔法使いと戦士の剣での戦いが始まってしまった。
真っ先に動いたのはシャーグ、踏み込みながら新品の剣を振り下ろす。
力、速さ、共に申し分ない、魔法使い所かその辺の剣士さえも受け止めきれず、吹き飛ばされるほどの一撃だった。
魔法で浮いているだけの剣では相手になどなる訳がない。
「シャーグ!」
流石にまずいと、ラナイが叫んだ。
しかしもう遅い、シャーグの本気の一撃がクロノに向かって振り下ろされた。
誰もがシャーグの勝利を確信し、クロノが剣と共にぶっ飛ばされるのを想像し目を背ける。
勝負は、何もかも一瞬で決着がついた――。
弾かれた剣は、弧を描きながら地面に突き刺さった。
そして勝者の剣が、敗者の喉元へと突き付けられる。
「どうした、もう終わりか?」
フードの奥の顔は、嫌味な笑みを浮かべていた。
シャーグは得物を弾き飛ばされ挙句、喉元に剣を突き付けられるのを、ただ茫然と見ている事しか出来ない。
何が起こったかなど、理解する暇もなかった――。
「いっ……今、何が起こったんだよ」
「分かんない、全然見えなかった」
シャーグが剣を振り下ろしたと思った次の瞬間には、喉元に剣があって、シャーグの新品の剣は地面へと突き刺さっていた。
理解など、する暇など与えてはもらえない。
「魔法使いと侮らぬ事だな、剣を持たぬからと言って、剣で戦う術を知らぬ訳ではない」
クロノは杖振ると、シャーグの喉元に突き付けられていた剣が離れた。
「力だけで押し切れると思ったら大間違いだぞ」
「……はっ反則だ、魔法で何かしたんだろう! 姑息な魔法使いのやりそうな事だ!」
戦士が剣で魔法使いに負ける訳がない、きっと何か魔法を使って卑怯な手を使ったに違いない。
しかしそんな負け惜しみは、賢人の一喝によって吹き飛ばされる。
「愚か者! お前は己が力に慢心している、そうやって魔法使いに剣は使えないと思い込んでいるから、剣を弾き飛ばされるのだ!」
確かに魔法使いは多くが家に閉じこもって研究をしている、現にクロノも大半は家の中で過ごしているが、かと言って剣を扱えない訳ではない。
魔法使いは剣を扱えない、シャーグの勝手な思い込みによってこの勝負に負けたのだ。
「ふん、魔法を舐めているからこんな事になるのです」
「ラナイ、お前もだぞ!」
更にクロノの説教はラナイへと矛先を向けられる。
「半魔人やらメイドやらCランクやら、お前は相手を見た目やランクで図る悪い癖がある! 半魔人やメイドを勝手に自分より劣っていると考え、Cランクという格下の相手に敗れたのだ、貴様も慢心している!」
アンネとの勝負で負けたのは、ラナイが彼女を半魔人と甘く見ていたのが原因である。
シャーグの悪口など言えた物ではない。
クロノの説教は更に続き、最後に海人と凛華へと向けられる。
「そして最後にお前達は根本的に知識も技量も足りていない、いくら特殊技能で人の倍の経験を得られたとしても、お前達には基礎が圧倒的に足りていない!」
ほんの数ヶ月前まで高校生をしていた二人に、実戦の経験などある訳がない。
紅の魔人ギルベルトに負けた大きな要因は、二人の戦局を理解する為に必要な知識と、剣術や魔法を使いこなしていない事にあった。
二人の問題は、あまりにも初歩的な物だ。
「よって、それぞれに課題を出す」
「課題……?」
まるで夏休みの宿題の様だが、言い渡されたのはそんな生易しい物ではなかった。
クロノが杖で地面を突くと、土が盛り上がり膨らんでいく。
ボコボコと音を立てながら、土塊は人の形へと変じた。
大きさは一メートルと六〇センチほどで、ちょうど人間大の人形が二体。
「これは土人形だ」
土人形は製作者の魔力によってつくられる、忠実なる僕。
魔法使いが傀儡として用いる物で、意思は無く、主人の命令をきく土塊に過ぎない。
「これを倒してみよ」
「こいつを?」
二人は目の前の土人形を見る。
石の剣に土の鎧はどれも脆そうで、簡単に倒せそうだった。
「余裕余裕、ちゃっちゃと倒してやるからな!」
クロノが杖を振ると、土人形達は電源が入った様に全身に力が入った。
「まずは海人からだ」
「おう、すぐ終わらせてやるよ」
「……、では始め」
静かな合図と同時に、海人は動いた。
まずは海人が素早く間合いを詰めると、土人形へと剣を振るう。
一切の無駄のない、シャーグの教えを守った完璧な一撃。
「はああああっ!」
振り下ろそうとした時、土人形は動き出し同じ様に剣を振るう。
放たれた一撃はぶつかり、金属がかち合う嫌な音が響く、このまま鍔迫り合いになる――事は無かった。
海人は、打ち負けてそのまま吹き飛ばされた。
「ぐあっ!」
着地する事もままならず、そのまま地面に打ち付けられる。
「海人!」
「カイト!」
驚愕する三人。海人はこの数ヶ月のシャーグとの修業によってだいぶ強くなっていた。足腰もしっかりとして来たし、たかが土人形に打ち負けるなんてありえない。
「……話にならんな」
海人を見下ろしながらクロノがそう呟く。
フードの中の眼はどこか呆れた様子で、それはとてもムカつく物だった。
「もっ、もう一回だ!」
海人は立ち上がると、剣を構えて土人形に向けて剣を振り下ろす。
しかし即座に反応した土人形によって吹っ飛ばされてしまう。
何度やっても、土人形を倒す事が出来ない。
「ちっ……ちくしょお」
相手は土と石のはず、それなのに全く歯が立たない。
「海人は終わりだ、凛華」
「はっはい……」
海人を心配しながらも、凛華は相手の土人形を見る。
やはり強そうには見えないのだが、それでも海人の二の舞にはなるまいと、始めから本気で行く。
「始め!」
クロノが合図し土人形が動き出した瞬間、凛華は杖を構え、その先に魔法陣を展開していた。
山吹色の魔法陣が一段と光り輝き、凛華は渾身の魔力を込めたそれを放った。
「『爆裂』」
光が土人形に当たり、爆発が起こる。
凄まじい光と共に爆風が土人形を襲う。
「……やった」
凛華は爆煙を見つめながらそう呟いた、アレだけの威力を喰らえば、土塊など吹き飛んだだろう。
「……いや」
しかしクロノがそう呟くと、土煙の中から影が見える。
現れたのは、一欠けらの土もなくしていない、全く無傷の土人形だった。
「そっそんな……無傷」
全力で放った一撃、『爆裂』は間違えなく当たっていたのに――。
海人と凛華は、全く攻撃が効かない土人形を見て、二人はある事を思い出した。
幾ら剣を振るっても、幾ら魔法を放っても、全く効かなかったあの魔人。
「……ギルベルト=ヴィンツェンツは、もっと強いぞ」
二人はクロノを見た。いつも通りのすまし顔が、この時ばかりはむかつく。
だが彼の言う通り、この土人形はギルベルトを彷彿とさせるほど強い。
「海人の土人形は攻撃をA+相当に、凛華の土人形は耐魔をB-相当に設定してある」
「A+なんて、俺よりも強いだろう! 無理だそんなの!」
「B-は詠唱が必要な四型で倒せるのですよ、リンカは三型しか使えないのに!」
修行とは言えかなり設定が強すぎる、海人と凛華が相手にするにはかなり難しい。
もっと難易度を下げなくては、これではまるで歯が立たないだろう。
「レベルは下げぬ、そもそも海人の土人形は迎撃するだけで、凛華の土人形においては何もしない、ただ立っているだけだ……こんな敵他にいないぞ?」
確かに土人形達は自分から攻撃をしてこない、もし実戦と同じ様に攻撃をされたら海人も凛華も既に死んでいただろう。
「シャーグにラナイ、お前達が助力する事も助言する事も禁ずる、剣術の稽古をつける事も、新たな魔法を教える事もな」
「そんなの無茶苦茶だ!」
「師匠、それでは二人は土人形を倒す事が出来ませんわ!」
こんなもの師がやる事では無い、素人にナイフを持たせて猛獣を狩れと言っているようなものだ。
「破ればお前達は破門だ、ヴェルハルガルドで勝手に殺されて来ればいい」
「……なんて奴だ、血も涙もないのかあんたは!」
「……変人だとは思っていましたがまさかここまでとは、失望しましたわ!」
シャーグとラナイの言葉など、クロノにとってはどうでもいい外野の言葉に過ぎず、相手にもされない。
「いいよ……シャーグさん」
「大丈夫……ラナイさん」
それぞれ師にそういうと、二人は武器を取る。
そして再び土人形に挑むのだった。
結局、夕方まで力の限り技を放ったが土人形を倒す事は出来なかった。
何度斬りかかっても弾き飛ばされて、何度魔法を放ってもまるで効かない。
ギルベルトに負けて以来、二度目の敗北感が二人を襲う。
シャーグもラナイも、そんな彼らを励ます事しか出来なかった。
「今日はこれで終いだ、続きは明日にする」
クロノがそう言って杖を突くと、土人形達はそれぞれ体育座りをして丸くなり、動かなくなった。
「洗濯を取り込め、それから夕飯の準備をしておけ」
「えっ、俺達がやるのかよ!」
全力を出してへとへとだというのに、そんな雑用までやらされるなんて、これでは体の
良い召使の様な物だ。
クロノは様々な文句を無視して、一人自宅へと戻って行ってしまった。
「く~~ムカつく、あのすまし顔……いっぺんフードを引っぺがしてやりたいですわ」
「全くだ……流石はラナイの師匠殿、まるで悪魔だな」
「何か言いましてぇ、シャーグぅ?」
明らかに杖を鈍器として使用する気のラナイ、その殺気を感じ取ったシャーグは海人を連れて一刻も早く逃げる。
「さ~~行くぞカイト、急いで洗濯を済ましてしまおう!」
「あっこら待ちなさい!」
怒るラナイから逃亡し、先にクロノの自宅(廃墟)へと戻ると、洗濯物を取り込み始めた。シーツを抱えながら、シャーグは海人へと話かける。
「カイト……さっきの土人形なんだけどな」
今ならクロノはいない、シャーグなりに対土人形のとの闘いの攻略点を見出したので、それを伝えようとしたのだが――。
「駄目だよシャーグさん、助言したら破門になっちまう」
「だっだが……いくらなんでもアレは」
海人には強すぎる、そう言おうとしたのだが、沢山の洗濯物をシーツの上に重ねられてしまって、無理矢理話を止められてしまった。
「駄目だって、破門になっちまったら魔王にも紅の魔人にも勝てなくなる、俺は絶対ハルドラも山田も助けるんだ、悔しいけどクロノさんの弟子を辞める訳にはいかないんだ」
「カイト……」
「安心してくれよ、俺こう見えて夏休みの課題は一応終わらしてたんだぜ」
三一日にだけどな、と付け足しながら笑う。
海人はまだ諦めてなどいなかった。本当にこの意志の強さには脱帽だ。
シャーグは助言を諦めて、最後のシーツを取り込んだ。
「遅いですわよ、早くそれをしまってきなさい」
「あれ……ラナイさん、凛華は?」
木製のドア(なんかキノコ生えてる)を開けると、ラナイだけがいた。
てっきり一緒にいるかと思ったのだが、凛華の姿が見えない。
「リンカなら、晩御飯を作っていますけど?」
「えっ……あいつが?」
家の中から、なんだかよく分からないが酸っぱい匂いが漂ってくる。
海人は全身の血の気が引いていくのを感じた。
人間の三大欲求は二つ満たされると幸福を感じるらしい。
つまりその三つの欲求は生きていく上でとても大切で、それをないがしろにされるというのは、人生そのものを滅茶苦茶にされるのと同義であるという事だ。
「…………なんだ、これ?」
海人は目の前の皿、より正確には紫色の謎の液体が盛り付けられた皿を見てそう言った。
「スープよ、見て分かんないの?」
「どこの世界に紫色の液体をスープって呼ぶ国があるんだよぉ!」
例えあったとしても、肉だか魚だか野菜だかよく分からない、黒い物体が浮いた物をスープとは呼ばないだろう。
「…………」
クロノは目の前にある皿に杖を向ける、すると杖の先とスープが黄緑色に光って消えた。
「…………可笑しい、魔法で解毒をしたのに毒が消えない」
「毒なんて入ってないですよ、失礼ですね」
「おめぇの料理が食材に失礼だよ!」
糧になった命が可哀想で仕方がない、こんな得体のしれないスープの材料にされる為に生まれて来た訳ではあるまい。
シャーグとラナイも、顔をひきつらせたまま反応に困っている。
しかしこんな最終兵器を作った本人はニコニコしていて、その罪の自覚はない。
「どーぞ召し上がれ!」
その笑顔に押されて、それぞれスプーンを持つのだがなかなか口に出来ない。
静寂の後、口に運んだのはクロノだった。
「くっクロノさん!」
その味の一番の被害者である海人が心配する中、クロノはしばらくの無言の後、スプーンを置いた。
「…………海人、シャーグ、二人とも食べ盛りだろう、ワシの分も食っていいぞ」
「「なっ!」」
クロノは自分の皿を二人の方に押す、しかし二人もこんな物一人前も要らないのでノーサンキューである、両者一歩も譲らぬ攻防が始まった。
その時、木製のドア(なんかキノコ生えてる)がノックされる、一番近くにいた凛華がドアを開けると、身なりの良い兵士と共に、ハルドラ王が入って来た。
「火急に話したい事があって来たのだが……食事時ならば出直した方がよいか?」
「構わんぞバルドーナス……そうだ、勇者がわざわざその手腕を振るった料理だ、せっかくだ食べてゆくが良い」
国王にこんな物を食べさせるなど考えられない、ハルドラが滅亡してしまう。
「やめろぉ、陛下にこんなもの食わせてはいけない!」
「真の魔王に殺されるぅ!」
こんな事でハルドラを滅亡させてはいけない、海人とシャーグは全力でスープを奪い取ると、それをかき込んだ。
口の中に酸っぱくて苦くて甘い、不可思議な味が広がって、その味のあまりの破壊力に泡を吹いて倒れた。
「……だっ大丈夫か、カイト、シャーグ」
バルドーナスは、ぐったりとしている二人にそう言葉をかけた。
「それで、何の用だバルドーナス」
「…………実は、隣国エルゴンの話だ」
エルゴン、それはハルドラの北に位置する王国。
罪する国と呼ばれ、正義と伝統を重んじる国民性で評判だ。
「二週間前エルゴンにヴェルハルガルドが侵攻したのだ」
「エルゴンに!」
「ヴェルハルガルドが!」
仇敵ヴェルハルガルドの名を聞いて、海人と凛華の眼の色が変わった。
「あの国が複数の軍を動かしているという話は聞いた事があったが……まさかエルゴンを攻めるなんて」
「エルゴンに出した使いが、その軍を率いている将を調べて来たのだ」
「将……将軍の事か」
バルドーナスは深く頷くと、その続きを言った。
「それは紅い服を纏い、黒い刃の大剣を扱う、二本角の魔人だそうだ」
海人と凛華、二人の脳裏に全く同じ男の姿が浮かぶ。
ゴンゾナを滅ぼし、大切なクラスメイト連れ去って行った、憎き敵――。
「……ギルベルト=ヴィンツェンツ」
チリシェンで負けた時の事が、鮮明な映像として蘇る。
「そうゴンゾナを滅ぼしたあの魔人が、エルゴンに侵攻してつい先日砦の一つが落ちたらしい」
「馬鹿な、エルゴン兵の強さは本物だ……それがたった二週間で砦まで落とされるなんて」
軍事力だけ見ればハルドラ以上かもしれないエルゴンが、魔王でもない魔人の手によって滅ぼされていくのは、かなりの恐怖だった。
「なら、俺達がエルゴンに行こう!」
「そうよ、紅の魔人、ギルベルト=ヴィンツェンツを倒さなきゃ!」
正義感の強い二人の勇者は、力強くそう言った。
「駄目だ」
しかしその言葉は一人の賢人によって潰される。
「なっなんでだよ、こうしてる間にもエルゴンの人達があの魔人に殺されてるんだぞ!」
「早くしなきゃ、エルゴンが滅んじゃいますよ!」
「……お前達程度の力量の者が戦場へ行った所で何の足しにもならん、行くだけ無駄だ」
「んなっ――」
Bランクの二人はハルドラでは将軍並みの力量を持っている、しかしそれをクロノは役立たずと言い放ってみせたのだ。
「お前達はハルドラを救いたいのか? それともエルゴンを救いたいのか? 一体どっちなのだ」
「そんなのハルドラを救いたい、でもエルゴンだって見捨てたくない!」
「……二兎を追うものは一兎も得ず、そんな考えではどちらも救えぬぞ」
今の海人と凛華の力量ではギルベルトには遠く及ばない。
エルゴンを救いに向かった所で、返り討ちに合うのが目に見えている、それではハルドラを救うという本来の目的さえも成し遂げる事は出来ないだろう、そう言っているのだ。
「エルゴンを切れ、あの国とお前達は縁がないだろう」
「……でもなんの罪もない人達が酷い目に合ってるんだぞ、見捨てられるもんか!」
「情に流され本来の目的を忘れる様では何の意味もないぞ、その為には犠牲だって必要だ」
「――――っ、だから山田も見捨てたのかよ!」
海人は机を思い切り叩くと、怒鳴った。
相手がいかにすごい魔法使いで、あの選択が結果的に良かった事だとしても海人は納得なんてしていない。
「…………アレは、必要な選択だった」
「――っ、ああそうかい! あんたは血も涙もない、冷酷な人間なんだな!」
吐き捨てる様にそう言うと、海人は玄関の戸を乱暴に開けた。
「ちょっと海人、どこ行くのよ!」
「散歩!」
「海人ぉ!」
凛華も彼の後を追って外へと出る、大人達はその姿を黙って見送った。
「…………クロノ殿」
「あの実力では魔王もギルベルト=ヴィンツェンツも倒せない、今は力をつける時だ」
「だが……、もしもエルゴンに進行している軍がハルドラに牙を向けたら……」
「……ギルベルト=ヴィンツェンツは、ワシとの誓約によってハルドラには入国出来ない、この国に軍を向けるなど有り得ない」
「しかし……もしも兵だけで進軍してきたら……」
ただでさえ西から魔王が攻めているのだ、その上北からも攻められてはハルドラに未来はない、国王は不安でたまらないのだ。
「ふっ、所詮はエルゴンの心配ではなく、我が身可愛さと言った所か……」
「そっ……それは……」
痛い所を突かれた様子で、バルドーナスは顔を背けた。
そんな彼に、クロノはどこか表情の読めない顔をする。
「元は同じ国でも、バラバラになれば他国と同じか……」
「――師匠!」
ラナイは立ち上がって、クロノを睨みつける。
その顔は今まで見た事ないほど鋭く、怖い物だった。
「…………我等はシャヘラザーンと同じになる訳にはいかぬのだ」
「ふっ……ワシには真実を隠し、子供を騙している様にしか見えるがな」
「騙してなどいません!」
声を荒げるラナイ、このままだとクロノに掴みかかってしまいそうな彼女をシャーグが抑えて座らせる。
クロノはポンテ茶の入っていたカップに口を付け、喉を潤す。
「海人と凛華には才能がある、しかし芽が出ないかもしれないな」
「なに?」
首を傾げる三人、クロノはカップを置きながら静かに口を開いた。
「…………種が自ら花を咲かせる意志がなければ、地中で腐るしかない」
「海人」
平原では、海人が一人座り込んでいた。
空には満天の星が輝いていて、美しい天の川も見える。
「……悔しいな、力がないのがこんなに悔しいなんて」
「…………海人」
なんと言葉をかければいいのか分からない。
凛華は知っている、海人が一度決めた事を絶対に曲げない事を知っている。
ハルドラを救う、君子を助ける。
そう決めたら絶対にそれをやり切る、そういう奴だ。
しかし今、彼は壁にぶち当たっていた、強くて大きな壁が立ちはだかっている。
「目的の為に切り捨てるなんて俺には出来ない……山田を見捨てるなんて絶対に嫌だ」
チリシェンでギルベルトに連れていかれる君子を見た時、海人は物凄い敗北感を味わった。煮えたぎった鉄を飲まされる様な、苦しみと悔しさを感じた。
「あいつは……他人の事なんてどうとも思ってねぇんだ」
「……それは」
何か言いたかったが言葉は浮かばなかった。
それは凛華自身も、海人と同じ様に思っているという事に他ならない。
しばらく一人にさせてやるべきだろう。
海人だって馬鹿ではない、クロノの言い分が正しい事だってわかっている。
しかし彼の子供の部分が、納得を拒んでいるのだ。
「…………星、綺麗だね」
「……そうだな」
「もう寒くなったから……早く帰って来なさいよ」
凛華は海人のぶっきらぼうな返事を聞いて、来た道を戻っていた。
「リンカ、カイトは?」
シャーグに尋ねられて、凛華は首を横に振ってこたえた。
あの様子ではもう少しかかるだろう。
「そうか……俺とラナイは、今夜は城へ行く、来たくなったらいつでも来い」
「うん、分かった」
あんな話の後では、二人も居辛いのだろう。
凛華は三人が乗った馬車を見送ると、家の中に入った。
ランプの明かりはついているが、クロノは自室に戻ったのか姿が見えない。
凛華も自分の部屋に戻る、しかし、少し戸が開いている部屋がある事に気が付いた。
「……アレ、この部屋」
確か物置にしたと言っていた部屋だ、何度か開け様としたがその時は鍵がかかっていた。
どうして開いているのだろう、気になって体が自然とそちらに向く。
戸惑いながら戸を開け、月明かりを頼りに部屋を見渡す。
机とベッド、そして暖炉と本棚があるだけで、物置と言うにはあまりにも物がない。
「…………ノート?」
机の上にあったのは、見覚えのある日本の文具メーカーのノートだった。
こんなもの異世界にある訳がない、これはもしかして――。
「……明かりくらい、つけたらどうだ」
ドアの所にクロノが立っていた。
凛華が驚いていると、杖を振ってランプに明かりをつける。
本棚の近くに母校の制服がかけられていて、机の上には三色ボールペンがあった。
「……これって」
「…………君子の物だ」
『複製』の能力を使えば、日用品も簡単に作り出す事が出来る。
君子は特殊技能を使って、この部屋で快適な異世界生活を送っていたのだ。
「君子は勉強熱心だった……」
手に取ったノートの後ろには、『山田君子』としっかり名前が書かれている。
なんだか本当に君子らしかった。
「……この部屋」
「全て……君子がいた時のままにしてある……馬鹿らしいだろう」
「そんな事……」
クロノは、ベッドについたしわを見つめる。
ちょうどあの日、君子が使ったままにされているベッドだ。
「……この部屋をなくすのは、君子が帰って来る場所を消す様な気がしてな……どうしても出来なかったのだ」
「クロノさん、君子ちゃんの事……」
切り捨てた人間の部屋を、こんな風に大事にとっておくだろうか、そんな事する人間なんかいない、見捨てた人間の事をこんな風に大切に思っている訳ない。
クロノはフードで表情を隠しながら、静かに答える。
「……ヴェルハルガルドの方がな、ハルドラよりも医療技術は進んでいるのだ」
大国と呼ばれるヴェルハルガルドは、医療の面でもハルドラを抜きん出ていた。
ずっと高度な医術と治療魔法を持っているのだ。
「ハルドラの医術では君子は救えない、だがヴェルハルガルドの、それも王家専門の術者ならば或いは可能だったかもしれない」
「……じゃあ、君子ちゃんを紅の魔人に渡したのは……君子ちゃんを助ける為?」
「…………確証はない、助かる保証もない、だが右耳のピアスが一つ欠けていたからな」
王族のピアスについてクロノは知っていた。
しかしそれが君子につけられていたという保証などどこにもなかった、右耳が千切られていたのは偶然で、ピアスは別の女性につけられていたのかもしれない。
だがそれでも、クロノはそれにかけたのだ。
「なんで……なんでその話してくれなかったんですか!」
ずっとハルドラの為に海人と凛華を助け、その為に君子を犠牲にした様な言い方をしていたのに、本当はその逆。
「ワシは確証のない賭けをしたのだぞ、それは見方によっては君子を見捨てた事と同じだ」
「そんな事無い、全然違いますよ!」
全く違う、同じなんかじゃない。
彼は君子の事を本当に大切に思っているのだ、あの取引で苦汁なめたのは海人達だけではない、クロノもまた悔しくて堪らなかったのだ。
クロノは強く否定してくれた凛華に小さく微笑んだ。
「この部屋の事ラナイには言うなよ、あいつが知ったらきっと奪い取りに来るからな」
「……あははっ、クロノさんは君子ちゃんの事、本当に大切なんですね」
いつも何を考えているのか分からないクロノだが、凛華はこの時だけは何を考えているのかはっきりと分かった。
彼は柔らかな笑みを浮かべながら、答える。
「ああ、最も愛おしき弟子だ」
ランプの暖かな光が照らす部屋を、二人は見渡していた。
そこにいた少女の面影を、いつまでも見詰めていた。




