第一八話 このままでいいんだ
マグニ城に見慣れない者達が出入りしていた。
全身白い服に身を包み、同じ様に白い布を頭から被った集団。
はたから見るとまるで布が歩いて居る様に見えるが、そうではない。
彼等はれっきとしたヴェルハルガルド王家専門の主治医であり、この国の最高の医学を身に付けた、高度な技術を持った医療集団。
彼等は三人でベッドを囲んでいた。
ベッドは部屋の中心に移動され、その下には黄緑色に光り輝く魔法陣が展開されている。
「生きとし―――――癒やしの光」
「――――万物の―――――――やわらかな風」
「―――――――生物―――――――――――慈愛」
彼等は同時に言葉を唱える、しかしそれは一つの文章を三人で読む事によって、時間を短縮する多重詠唱呼ばれる魔法の技術。
これにより馬鹿みたいに長い詠唱が必要な魔法や、長時間連続して詠唱しなければならない魔法を比較的難易度を下げて行える。
今唱えているのは数ある魔法の中でも難易度が高く、沢山居る魔法使いでも使える人間はごくわずかという、治療系魔法の詠唱。
そしてその魔法をかけられて居るのは、ベッドに寝かされている瀕死の君子だった。
君子を連れ戻してから丸二日、ぶっ通しで治療魔法をかけ続けているが、未だに意識が戻らない。
全身の傷は癒え、外傷はないのだが意識不明の状態が続いて居た。
「のべ五〇時間連続で治療魔法をかけましたが、今の所意識の回復は見込めません」
ヴィルムは医療集団のリーダーに容体の報告を受けていた。
医療についての知識はないが、此処まで時間が掛かると言う事は、かなり難航しているというのだけは解った。
「キーコは、助かるのでしょうか……」
「……何とも言い難い、異邦人は魔人や獣人ほどの生命力は持ち合わせておりませんから、あと一日治療が遅れて居れば、手遅れになっていたでしょう」
治療魔法は実に高度な魔法で、多くの攻撃魔法が様々な発展を遂げる中、あまり研究開発がされていない。
理由は高度で難しいからの一点に尽きる。
対象の生命力を活性化させて治癒能力と再生能力を一時的に高めるのが、治療系魔法の効果であり、君子の様に生命力自体が低下している場合は効きにくくなるのだ。
「呪いによって削り取られた生命力が活性化しない限り、彼女の回復は難しいです」
「……そう、ですか」
「せめて意識が有れば、生きたいと言う意思で生命力が上がる事も有り得るのですが……あの様子ではそれも望めません」
ヴェルハルガルド最高の医療をもってしても、一人の少女を救う事も出来ない。
布で覆われて居ても、その顔が悔しさで満ちている事は容易に解る。
そして自らの無力さを恥じながら、どうしようもないこの悔しさを言葉に乗せる。
「……彼女が助かる事があるなら、それは神の奇跡としか言い様がない」
「…………ギルベルト様」
ヴィルムは君子の部屋に居た。
椅子にも座らず床に膝をついて、彼女の手を握りしめている。
今は治療していた魔法使い達もいない、九人体制で行っていたとはいえ、この二日ろくな休憩も取らずに治療し続けていたのだ、並みの魔法使いならばとうに魔力切れを起こして死んでいただろう。
だがろくに休んでいないのはギルベルトも同じ、君子を取り戻してから一睡もしていないし、食事もまともに食べていない。
このままでは彼も衰弱死してしまいそうな勢いだった。
「せめて睡眠だけでもとって下さい……このままではギルベルト様まで具合を悪くしてしまいます」
「…………」
しかし答えは返ってこない。
ただいつ止まっても不思議ではない、浅い呼吸の君子を見下ろすだけだった。
「ギルベルト様」
「…………の」
ヴィルムの言葉を返した彼の声は小さくて、いつもの明るさは無い。
聞き返すとようやく聞き取れる音量になった。
「……キーコの耳、なくなっちまった」
それはカルミナに千切り取られた右耳の事だ。
王族のピアスには呪いが掛かっていて、付けた本人しか外す事が出来ない。
ギルベルトの意思ともいえるピアスを奪い取るには、君子の耳を傷つけるしか方法がないのである。
「…………もう、付らんねぇのか」
ギルベルトは手の中にあるピアスを見ながら言った。
奪い返したピアスだが、それを付けて欲しい女性はもう付ける事が出来ない。
「……ギルベルト様、恐れながら言わせて頂きますと、今回の一件は貴方の軽率な行動が招いた結果ですよ」
本当に悪いのはカルミナだが、彼女をこんな行動に駆り立てたのは、ギルベルトが立場をわきまえずに君子にピアスを贈ったせいだ。
せめて婚約を解消してからにすれば、君子がこんな事になる事はなかっただろう。
状況と立場を理解せずに、無理矢理こんな行動をしたギルベルトにも責任は有る。
「ああ、解ってる」
素直に自分の非を認めた彼に、ヴィルムは驚く。
てっきり何か言い返すかと思ったのだが、どうやら君子の事は本当にショックだったらしい、少し言い過ぎたかもしれないと後悔した。
「……キーコが眼を覚ましてほしい、キーコとまた話がしたい、キーコに笑って欲しい、今はただ……それだけだ」
回復どころか、いつ状態が悪くなっても可笑しくない。
たったそれだけの願いなのに、今はそれも叶わなかった。
「……お気持ちは解りますが今はどうかお休み下さい、このままではギルベルト様まで具合を悪くしてしまいます」
「…………」
「キーコに何かあった時は直ぐにお知らせいたします……、ですからどうかお休みになって下さい」
ヴィルムの説得もあってか、ギルベルトは名残惜しそうに君子を見ると、立ちあがった。
「キーコになんかあったら直ぐに呼べよ……」
「もちろんでございます」
最後にもう一度君子を見ると、ギルベルトは部屋から出て行った。
そしてヴィルムも彼の後に続いて、部屋から出て行く。
しかしこの時、二人は気が付かなかった。
彼女の眼から一筋の涙がこぼれていた事を――。
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「うっうえっ、うう……」
「アンネ……泣くんじゃねぇよ」
ベアッグは泣き止まないアンネを、ひたすら慰めていた。
「私のせいで、私がキーコを一人にしなければっ、あっあんなあんな事されなかったのに」
耳を千切られて、体中に擦り傷を負って居た君子の姿が、目に焼き付いて離れない。
二日間ずっと治療魔法をかけられているのに、状況が回復しないのは、その症状がかなり重篤だと言う事を物語っている。
あのパーティの時、どうして君子から離れてしまったのだろう。
なぜ君子が狙われるかもしれないと疑わなかったのだろう。
どれだけ後悔しても足りない。
「アンネ、お前のせいじゃねぇよ、お前はハルドラまで行ってキーコを連れ戻して来たんだ、こんなボロボロになって……」
包帯だらけのアンネを攻める者が一体どこに居ると言うのだろう。
もしそんな心無き者が居るのなら、この爪でこま切れ肉にしてやる。
「でもっでもぉ、このままっこのままキーコが死んじゃったら……わぁたし、わぁたしぃ」
「……キーコしんじゃうの?」
アンネよりも不安そうな声でそう言ったのは、ユウだった。
吃驚している二人に向かって、更にランが続ける。
「キーコしんじゃうの? もうおはなしできないの?」
「ユウ、ラン」
「ヤダよぉ、キーコしんじゃったらヤダよぉ」
「キーコしんじゃうのイヤダぁ、イヤダよぉ」
「わっ……私だってヤダぁ~、キーコが死ぬのは嫌ぁ~」
ユウとラン、そしてアンネも大声で泣き始めて、最早ベアッグ一人の手では事態を収集出来なくなってしまった。
「おっおい泣くなってぇ……」
うろたえるベアッグ、すると三人の泣き声がよほどうるさかったのか、ヴィルムがやって来た。
「……ベアッグ、どうしたのですかこれは?」
「あっああ……いえ、皆キーコが心配なんですよ」
心なしかヴィルムも悲しそうな顔をしている様に思えた。
「ヴィルムさん、キーコしんじゃうの」
「キーコしんじゃうの、ヴィルムさん」
「今、治しているんです、まだ死ぬとは決まった訳ではありません」
「キーコなおるの?」
「どしたらなおる?」
「…………、皆が会いに行けば治るかもしれません」
今まで出入り禁止だったのに、突然面会の許可が出るなんて、ベアッグとアンネはその言葉の真意を理解した。
君子の病状は深刻なのだろう、だからせめて生きている間に会わせてあげようとしているのだ。
「……そんな」
アンネの眼に涙が滲み出る、するとユウとランが彼女の手を握る。
「アンネ、キーコのおみまいいこっ!」
「アンネ、キーコにあいにいこうよ!」
言葉の真意が解っていない、ユウとランはアンネの手を引っ張って君子の元へと行こうとしていた。
二人は自分達が会いに行けば君子が治ると本当に思って居て、無邪気な笑顔を浮かべる。
この笑顔に本当の事なんて言えなかった、だから滲んだ涙を拭うと頷く。
「えぇ……お見舞い行こうか、きっとキーコさみしがってるから」
「ベアッグさんもいこ!」
「み~んなでおみまい!」
無邪気な笑顔に連れられて、三人は外へと出る。
顔にどうにか笑顔を貼り付け、この悲しみを必死に隠すのだった。
「ふぁ、ブルスさんだ!」
「わぁ、ブルスさんだ!」
階段を上がっていくと踊り場でブルスと会った。
彼はカルミナを都まで連行していたのだが、どうやら帰って来たようだ。
「双子にメイドに、ベアッグにヴィルムではないか……こんな大人数で何をしているのだ」
「おみまいするんだよ」
「げんきしいくんだよ」
「見舞いだと……」
「うん、ブルスさんもいこー」
「ブルスさん、いこーいこー」
「そうよね、キーコはブルスさんの事大好きだもんね、きっと元気になるわ」
「ふざけるな! 俺の元気が無くなるわ!」
しかし嫌がるブルスの販路運は全て流され、双子ががっしりと腕を掴む。
「キーコをげんきしにいこー」
「ブルスさんもげんきしよー」
「おっおいコラ、止めろぉ!」
流石に自分の三分の一以下の身丈の子供を傷つける様な真似は出来ず、押しの強い二人によって君子の元へと強制連行させられた。
もしかすると生きている彼女を見るのはこれで最後になるかも知れない。
余計な希望を与えて双子を騙す事になるかも知れない。
それでも、今会っておかなければ絶対後悔する。
(キーコ……)
アンネは、例え言葉を交わす事が出来なくても、彼女に謝ろうと決めていた。
許して貰えなくてもいい、息がある内に彼女に謝罪したい。
「キーコ、おみまいきた!」
「キーコ、げんきあげる!」
双子が勢いよくドアを開けて、ブルスを中へと引きずりこむ。
いくらなんでも騒々しいにもほどがある、君子に意識がないとは言え病人である、注意しようとアンネも続けて部屋へ入った。
しかし、双子はなぜかベッドの前で立っていた。
あの勢いならば君子に跳びついても不思議はなかった、それにブルスまで無言で立っている。
「ユウ、ラン……どうしたの?」
この二人がじっとしているなんて、気味が悪い。
アンネの問いに、二人は同時に答えた。
「「キーコ、いないよ」」
君子が居るべきベッドはもぬけの殻だった。
人が寝ていた形跡は有るのだが、肝心の彼女だけがいなくなったベッドだけがあるだけ。
「なっなんで……」
驚き戸惑いながらも、毛布をめくり確認せずにはいられなかった。
毛布の中には君子に着せたネグリジェだけがある。
だがそれは脱いだと言うよりも、服だけ残して君子が消失したようだ。
「…………全員キーコを探しますよ!」
皆唖然とする中、どうにか言葉をひねり出したヴィルム。
彼の言葉でどうにか意識が戻って来た面々は、君子の捜索を始める。
とはいえあの状態で動きまわる事は不可能のはず、ならばなぜ君子は居なくなったのか。
誰かが連れ去ったのだろうか、だとしても今は刻印の効果は復活しており、ギルベルトが定めた範囲、つまりこの城から出る事は出来ない。
ならば君子は必ずこの城の中にいる。
皆城の中を捜しまわる、普段使ってない部屋、クローゼットの中、人が隠れられそうな場所は全て探した、しかし君子は見つからない。
医療集団にも声をかけたが、彼等も知らない。
とにかく城の中をくまなく探したが、誰も君子を見つけられなかった。
「……一体、何がどうなってるの」
アンネが戸惑いながら呟いた。
だが彼女にかける言葉がない、君子の消失の原因はヴィルムにも解らないのだから――。
「…………」
ヴィルムは深呼吸をすると、口を開く。
「ギルベルト様の所へ、行ってきます……」
「えっ……でもヴィルムさん」
この事をギルベルトに報告すればどうなるか、想像する事は容易い。
幾らヴィルムとは言え、本気で怒った彼を止める事など出来る訳がなかった。
「仕方がありません、むしろこれ以上報告が遅れれば余計に怒らせるだけです……爆発は少ない方が良いでしょう」
これは彼の命にも関わる事だ。
だがどうやっても隠し通せる訳がない。
ならば、被害が少しでも小さく済む内に報告するしかないのだ。
「……逃げる準備をしておきなさい」
そう言い残して、ヴィルムはギルベルトの部屋へと向う。
その足取りは重く、後姿は緊張していた。
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君子の意識は虚ろな空間で、昏睡と覚醒を繰り返していた。
体を動かす力は無く、本当に微かに瞼を開ける事しか出来ず、誰もその小さな目覚めに気が付いた者はいない。
(…………あれ、ここどこだろう)
微かに見えるのはどこかの部屋の天井、一体自分はどうしたのだろう。
凄く怖くて、思い出したくもない夢を見ていた気がする。
自分はどれくらい寝ていたのだろう、早く起きなければと思い体を動かそうとしたのだが、動かない。
間違えなく上半身を動かそうとしているのだが、体はベッドに横たわったままだった。
(なんで起きられないの……あれ? 手も動かない)
起きるどころか手も動かす事も出来ない。
まるで金縛りにでもかかった様だが、彼女は知らないのだ彼女には体を動かすだけの生命力が残っていない事に――。
(……手が温かい)
誰かが手を握っている、視界は本当に狭くてろくに見えないが、微かに見えるのはギルベルトの悲しそうな顔。
(……ギル、なんでそんな顔してるの?)
いつもみたいに笑いながら無理矢理抱っこしてくれればいいのに、どうして今はそんな悲しそうな顔をして手を握っているのだろう。
すると視界にヴィルムが映った、ギルベルトの隣にやってくると何か話し始めたのだが、聞こえない。
こんなに近くに居るのに、声だけが遠くて、ぼんやりとしか解らなかった。
しばらく二人に何かを話すと、ギルベルトが立ち上がった。
手を離して、ドアの方へと歩き出してしまう。
(あっ……待って、待ってよぉギル)
行かないで、そう必死に叫んでいるのに、ギルベルトには届かない。
口から声が発せられていないので当然なのだが、彼女は自分の声が出ていない事が解っていないのだ。
(待ってギル、お願い、行かないで!)
体は動かず、夢のせいで怖くて仕方がない、誰かが傍に居て欲しい。
一度こちらを見ると、そのまま部屋から出て行ってしまった。
(いやだ……一人は嫌だよぉ、ギル、ギルぅ!)
戻って来て欲しい、また手を握って欲しいのに、ギルベルト帰ってこない。
それどころかヴィルムまで、退出してドアを閉められてしまった。
(……ギルなんで、こんなに呼んでるのに、なんで無視するの)
なんであんなに自分にすり寄って来て、名前を呼んで抱っこして笑ってくれて、あんなに楽しそうにしてくれたのに――。
胸が締め付けられる様に痛い、今すぐにでも駈け出して、ギルベルトを追いかけたいのに、体は動かない。
(……ギルも、私が不細工だから嫌いになったの?)
そばかすに眼鏡で、全然可愛くない顔。
可愛くて綺麗で、煌びやかな主人公とは程遠い、普通で平凡な脇役。
(私が、そばかすの眼鏡で、低身長で貧乳だから……だからギルは無視するの? だから笑ってくれないの? だから傍に居てくれないの?)
主人公の隣にいていいのはヒロインだけ――。
モブで脇役の君子は言葉を交わす事もおこがましい。
そんなの、君子が一番良く解っていた。
でも今は独りぼっちが寂しくて堪らなかった。
(私が、私がそばかすも眼鏡もなくて、背も高くて胸も大きかったら……ギルは無視しない、可愛くて綺麗なヒロインだったら……傍に居てもいい?)
悲しくて涙が一筋こぼれた。
目尻から頬を伝った涙はほんの一滴、あっという間に乾いてしまうだろう。
誰もこの涙に気がつく事は無く、君子の意識はまた閉ざされて、今度は二度と覚めることない眠りにつく。
――はずだった。
涙が乾く前に、その現象は始まり、そして終わりを迎える。
ものの数分の出来事で、誰もこの様な変化が起こって居るなど夢にも思わなかった。
君子の体が黒い靄へと溶けて行くなど、誰も夢にも思わなかった。
(あれ、私……また寝ちゃったんだ)
君子は頬の涙の跡を拭いながら、自分が再び眠りに落ちていた事に気が付いた。
「……てっ、手動く!」
驚きと同時に、がばっと勢いよく起き上がった。
さっきとは違う、ちゃんと体が動く、しかも物凄く軽い。
「あ……なぁんだ、さっきのは全部夢かぁ」
やけにリアルな夢だった、本当に体が動かなくなったのかと思って心配してしまった。
しかし体は確かに軽いのだが、胸が重い。
それになんだか体の節々に違和感があって、変だ。
「寝過ぎて体が可笑しくなっちゃったのかな?」
とりあえず、自分の姿を確認しなくては、君子はベッドから降りて姿見の方へと向かう。
随分寝ていた様なので、きっと寝癖がボンバーでとんでもない事になっているに違いない、はずだったのだが大きな鏡に映ったのは――。
「あれ、誰?」
艶のある真っ黒な髪、白雪の様な白い肌はすべすべで一つのそばかすもない、薄い唇は薔薇の様に真赤で、手足は枝の様に細く、腹周りにも余計な肉など何一つ無く、スレンダーだった。
そして何よりもかつもくするべきは、その胸部。
手からこぼれ落ちるほどの大きな一品が、取り付けられていた。
鏡に映っていたのは、巨乳の美少女だった。
まるで漫画やアニメの世界のヒロインの様な女の子が、そこには居た。
「えっ……なんでここにポスターが?」
君子が首を傾げると、その少女も首を傾げる。
全く同じタイミングで同じ角度、寸分の狂いもない。
「えっ……えっ?」
手を振ってみたり横を向いてみたり、アイーンをしてみたりするが、鏡に映る少女はやはりそれと全く同じ動きをする。
これだけの動きを真似る事なんて、出来る訳がない。
「まっまさか……」
君子は恐る恐る右手を動かす、そして左胸を揉んでみた。
それは間違えなく、本物の感触。
自分の関東平野では味わう事の出来なかった、富士山の手触りとボリューム。
「ふぁっ……はっはああああ、まっマシュマロだぁ、でっかいマシュマロが胸にくっついて居るううううううう!」
同じ女で有るはずなのに、エロい中学生の様な反応をしてしまった。
だが、彼女の一六年の人生の中には、巨乳という二文字は存在しなかったのだからいた仕方あるまい。
「…………そばかすもない、ていうか顔が変わってるよ……えっ整形?」
そんなお手軽に全身整形手術が出来る物なのだろうか、それにこの顔も体も、整形特有の弄った感じがしない、ナチュラルその物。
「まっまさか世界のどこかいるとされる、ヒロインの神が私に頬笑みを下さったのか?」
どんな神でも構わないが、これほどの状況神の技としか言い様がない。
改めて、まじまじと鏡を見つめる。
「……すっすげぇ可愛いじゃねぇですか」
これこそ漫画とかアニメのヒロインで居そうな美少女。
きっと十人中十人が可愛いと言う、完璧なヒロイン。
「てっ……自分に見惚れてる場合じゃない、これやっぱり変だよぉ、だっ誰かに相談しなくちゃ!」
とにかくなんでこんな事になってしまった訳を、誰かに教えて貰いたい。
君子は意を決すと、恐る恐るドアを開ける。
「……誰なら教えてくれるかな」
誰も居ない廊下を見渡して、左右どちらに行くべきか考える。
ヴィルムなら冷静な判断でこの状況を解析してくれそうだが、君子の視線はふと別の方へと向けられる。
(……ギル、私の事嫌いになっちゃったのかな)
さっき無視されたのはきっと夢か勘違いだ、そう信じているけれど、なぜか不安で仕方がない。
一度心に湧いた不安は簡単にぬぐい去る事は出来なくて、確かめずには居られなかった。
だから、足は自然とギルベルトの部屋へと向いてしまう。
(…………ギル)
弱く小突く様にドアをノックした。
しかし返事はなくて、この無音の時間が怖い。
「ぎっギル……入るよ?」
ゆっくりとドアを開けると、いつもと何も変わらないギルベルトの部屋があった。
そしていつものソファに彼の姿を見つけた。
「……ぎ、る?」
ソファに仰向けで横になって、眠っている。
随分深く眠っているのか、君子がこんなに近くに来ても起きない。
(……寝てる)
思えば初めて会った時も眠っていた。
それにしても良く眠っている、これなら上に乗っかっても気がつかないのではないだろうか、なるべく体重をかけない様に上に乗っかってみる。
(うわ、おっ起きない……ていうか私明らかに細くなってるよね? 四〇キロあるのかな)
体重も激減しているからきっと気がつかないのだろう。
眠っているギルベルトを起こすのはなんだか悪い気がするが、今はこうして傍に居たい。
いつも通り、ギルベルトの上に寝そべった。
彼が起きるまでなら、きっと許してくれるだろう。
(ギル……この顔みたらなんて言うかなぁ)
今なら、ギルベルトの傍にいても見劣りなんかしない。
ちゃんと主人公とヒロインに見える。
この姿なら隣に居られる、傍にいても誰も何も言わない。
(早く起きてよギル……)
君子はギルベルトの胸に顔をすりよせて、彼が起きるのを待った。
可愛くなった自分を褒めてくれる事を願って――。
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ヴィルムはギルベルトの部屋へと向かっている。
最悪自分はここで命を落とすかもしれない、運が良くても大怪我を負うかもしれない。
それほど怒ったギルベルトは手のつけ様がないのだ。
だが刻印によって君子の反応を識別できる彼なら、見つける事が出来るかもしれない。
望みがどれくらいあるか解らないが、今は祈るしかない。
どうか見つかってくれと――。
「……ギルベルト様」
ノックをするが反応がない、もう一度するがやはり返事がない。
眠っている様だ、ヴィルムは出来るだけ静かにドアを開ける。
「ギルベルト様、至急お話したい事があって――」
ドアの先にあるのは、いつものギルベルトの部屋。
お気に入りのソファの上に寝っ転がり、彼は眠っている。
何の変哲もない日常の風景だったはずなのに――そこに異物が紛れていた。
ギルベルトの上に、黒い靄が乗っかっていたのだ。
あの時見た、黒い靄。
ケルベロスを一蹴したあの靄が、彼の上にいる。
ヴィルムは言葉を失った。
アレはたしかクロノの結界に閉じ込められ、君子から切除されたはず。
それがなぜ、今ここに居る。
「ギルベルト様!」
急いで剣を抜いた――アレの正体が何なのか完全には解っていない。
どうすれば倒せるのかも解らないが、このままではいつ奴の凶刃がギルベルトへ振われるか解らない。
ギルベルトを、主を助けなければいけない、勝算など関係無くヴィルムは剣を構える。
しかし――そんな彼を引きとめたのは、その主であった。
「やめろ」
短い制止命令。
ギルベルトは目を覚ましている、それなのになぜあの黒い靄の接近を許している。
あんな得体のしれない物を上に腹の上に乗っけていられるのだ――。
「ギルベルト様、早く離れて下さい! それに剣は効きませぬ」
魔法なら或いはと思ったが、アレを倒せそうな高度な魔法はヴィルムもギルベルトも使えない。
圧倒的な不利、とにかく離れるしか出来ないのだが、ギルベルトは距離を取るどころかその黒い靄に手を伸ばした。
攻撃ではない、何かを掴み上げ引き寄せる。
「……戻れ」
そして短く命令する、ヴィルムにではない、その靄へと言っている。
「戻れ」
復唱すると、黒い靄が蠢く。
それはまるでギルベルトの言葉を拒絶している様に見えた。
「戻れ!」
黒い靄は言葉をかけられる度に、蠢きその形状を変えて行く。
草原でケルベロスを殺した時とは様子が違う、人の言葉を理解して反応している。
「違う!」
更に強い口調。
黒い靄は霧散して、空気中へ溶ける。
まるで言葉によって、浄化されるかのように――。
そしてギルベルトは思いを乗せた言葉を突きつけた。
「俺は、元のままがいいんだ!」
思いのこもったその言葉は、黒い靄へと突きささる。
それがとどめとなって、黒い靄はちぎれて空気中へ霧散して溶けて行く。
靄は消えて行くと、その中から人の指が出てくる。
足が見え、胴が見え、胸が見え、そして顔が見えた。
それは君子だった。
探していた少女は、まるで黒い靄から生まれたようだ。
黒い靄が完全に剥がれると、支えを失って倒れる彼女をギルベルトが優しく受け止めた。
この状況にヴィルムだけが取り残されている。
「……なっ、なぜ、キーコが」
黒い靄から君子が出て来た、それとも黒い靄が君子になったのか、意味が解らない。
異世界ベルカリュースでも、こんな事はあり得ない。
剣を収めると、ギルベルトに抱きしめられている君子を見る。
思案を巡らせて、この状況を少しでも解析しようとしている彼とは違い、ギルベルトは自分の服を脱ぐとそれで君子を包んだ。
「――むっ」
そしてヴィルムを睨みつける。
君子が裸だったので、それを隠したのだ。
(……全く興味はないのだが)
そもそも裸うんぬん以前に様々な疑問があって、それどころではなかった。
だがギルベルトはその疑問に対してまるで興味はない様で、君子の右耳へと触れる。
カルミナに千切られた耳は傷一つなく元通りに戻っている。
(そんな、これは回復の域をはるかに超えている……再生の域ではないか!)
切断された部位を繋ぐ事はかろうじて可能だが、欠損した部位を復元修復する事はどんなに医療技術が発展していても不可能な事だ。
それなのに、君子の体はある一点を除いて完全に復元されている。
「…………」
懐から何かを取り出すと、君子の右耳へとあてがった。
それはカルミナから奪い返した金色のピアス。
ギルベルトの思いそのものと言えるこれを、右耳のピアスホールに付けた。
生えて来たのなら存在しないはずのピアスホール、しかし彼女の右耳には間違えなくギルベルトが空けたものと寸分も違わない穴が空いている。
まるでギルベルトが言った通りに、元のままに戻った様に――。
「ヴィルム、アンネに着替えを持ってこさせろ」
「はっはい、かしこまりました」
どうやら本当に裸を見られたくない(と言うより独り占めしたい)らしく、煙たそうにそう言う。
ヴィルムは部屋から出る前に、もう一度君子を見る。
寝息を立てて眠っている彼女は危篤状態ではない、ただの睡眠であり、素人目にももう心配ないと言うのが解る。
(一体、何がどうなっているのか……)
部屋を後にするヴィルム、しかしその間際君子を本当に大事そうに抱きしめるギルベルトの姿が目に入った。
「このままでいいんだ……俺はこのままのキーコがいいんだ」
そこにはいつもの横暴な王子などどこにもいない。
ただ大切な人を抱きしめる、一人の男がいるだけだった。




