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地味女子ですが、異世界来ちゃいました!  作者: フランスパン
鮮血継承編
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第九一話 ……お願いします





 君子が食人鬼(グール)になって五日。

 蝙蝠に噛まれてから実に七日が過ぎ、その間君子はろくに食事を摂っていない。

 普通の食事を食人鬼(グール)の君子は全て拒み、水も飲めない。

 君子は病気になって、何も食べられないという事にして、一部の限られた使用人以外は近づく事が出来なくしているが、流石に食事を摂らない事に使用人も疑問を持ち始めて来た。

「キーコが食人鬼(グール)にぃ!」

 大声を上げたベアッグの口を、アンネとシャネットが塞いだ。

「(駄目ですよベアッグさん! この事がバレたら大変な事になるんですよぉ!)」

「(わっ悪い……つい)」

 食人鬼(グール)というのは無差別に人を襲う怪物、故に発症した者は必ず殺すのが常識だ。

 ギルベルトの事しか食べられないとはいえども、危険な存在に違いはない。

 バレれば君子を殺せと騒ぎ出す者もいるかもしれない、絶対にこの事は外部に漏らしてはならないのだ。

「そんな……、よりによって王子しか食べられないなんて……」

 食事を摂らない君子を心配したベアッグが、アンネとシャネットに詰め寄ってどうにか聞き出したのだが、とんでもない事を聞いてしまった。

 流石のベアッグも王子であるギルベルトを料理などできない。

「それで……キーコの様子はどうなんだ」

「……キャトリシアさんの話だと、ギリギリの所らしいです」

 それは君子の事だけではない、君子に血を与えているギルベルトの方もだ。

 この五日間で、君子の食欲はより旺盛になった。

 与えれば与えるほど食人鬼は空腹感が強くなり、より血を求めるようになる。

 つい先日までは普通の状態でいる君子の割合が多かったのだが、今は赤目の食人鬼(グール)でいる方が多くなってしまった。

 しかし、ギルベルトの血を求めるだけあげる訳には行かず、常に喉が渇き腹が減っている。飢餓で暴れ出し、ギルベルトの血を求める彼女の姿は見ていられない。

「キーコさん、どんどん痩せていっているんです……もう自分一人ではまともに立てないのです」

 それどころか体を起こすことも出来ない、どんどん弱っていく君子をアンネもシャネットも見ていられなかった。

「酷いわよ……酷すぎるわよ、キーコは何も悪い事なんてしないのに、こんな血も涙もない呪いをかけるなんて……」

 君子が一体何をしたというのだ。

 彼女は普通の女の子だ、異邦人でも異種族に決して差別したりしない優しい子。

 それなのに、そんな優しい君子によりよってギルベルトを殺させるような事をするなんて、あまりにも非人道的。

「どうして……キーコに、あんな酷い事をするのよぉ」

 アンネは涙をぽろぽろと流していた。

 一番の親友があんな事になっているのに、何もできない自分がふがいない。

「アンネ、なんでないてるの?」

「なんでないてるの、アンネ?」

 ユウとランが、泣いているアンネの足にしがみ付いて来た。

 二人とも心配そうにアンネを見上げる。

「キーコ、ビョーキになってかなしい?」

「キーコ、いたいいたいなのかなしい?」

 双子は君子の状態を何も知らない。

 食人鬼になってしまった事も、ギルベルトの血を飲まなければ生きていけない事も、今衰弱死寸前だという事も――。

「キーコはユウとランにもとんでけしてくれるんだよ」

「キーコもいたいのいたいのとんでけすればなおるよ」

 状況を何一つ分かっていないからそんな事を言えるのだろうが、双子は小さいなりに悲しそうなアンネを励まそうとしてくれているのだ。

「アンネないちゃダメ」

「キーコないちゃうよ」

 二人の言う通りだ、君子は必死に食人鬼(グール)の呪いと戦っているのに、アンネが泣いている場合ではない。

 アンネは涙を拭うと、双子をしっかりと抱きしめた。

「そうよね、泣いてちゃだめよね」

「アンネわらったほうがいい」

「そしたらキーコもわらうよ」

 双子の小さな手が、アンネの頬に残っていた涙を拭った。







************************************************************






「……駄目だ」

 ヴィルムは食人鬼(グール)の呪いについて情報を集めていた。

 医療で君子を救えない今、頼れるのは呪解の出来る魔法使いだけなのだが――、この異例とも言える高度な食人鬼の呪解が出来るほどの実力を持つ魔法使いが見付からない。

「一体誰が、キーコにこんな呪いをかけたんだ」

 呪いをかけた者を見つければ呪解を出来る可能性がある。

 だがヴィルムには、食人鬼(グール)の呪いをかけるほどの力量のある呪術師に見当がつかない。

 もしそんなレベルに到達している呪術師がいるのならば、それはかなり有名な人物に違いない。

「こんな異例ともいえる呪いを一体どうやってかけるというのだ……」

 専門家とは言えないが魔法の基礎ならばヴィルムにも分かる。

 この呪いはその基礎にはまるで当てはまらない。

「そもそも……これは本当に魔法なのか?」

 敵の情報があまりにも少なく、その正体どころか影にもたどり着かない。

 いつも冷静沈着なヴィルムも君子の現在の状況を見せられては、とても落ち着いてはいられなかった。

 こちらは後手に回りすぎている、未だ君子の呪いを解く糸口も見付かっていないのだ。

 考え込んでいたせいか、ギルベルトの薬の時間を過ぎている事に気が付かなかった。

 急いで薬と水を部屋へと運ぶ。

 キャトリシアの薬はいわゆる造血剤、本来は貧血の患者に用いるものだが、君子に血を与えているギルベルトもこの薬を処方している。

「ギルベルト様、失礼いたしま――」

 ノックをして部屋に入ると、ギルベルトがソファの横で膝をついて苦しそうに座り込んでいた。

「ギルベルト様!」

 息が荒くかなり辛そうだ。

 やはり君子に血を与え続けて、限界が近いのだろう。

 ヴィルムは肩を貸すと、ギルベルトをソファで横にする。

「ギルベルト様、もうこれ以上血を抜くのはおやめ下さい……」

 君子を生かす為には、ギルベルトの血を与えるしか方法がないが、君子が生きて行く為に必要な血の量と、ギルベルトの体内で生成される血液の量が明らかに釣りあっていない。

 このままではギルベルトは失血によって死んでしまう。

「駄目だ……、キーコに血を……」

「しかし、このままでは貴方が死んでしまいます!」

 ヴィルムは声を荒げる。

 彼にとってギルベルトは大切な主人だ、もう七〇以上仕えていて、誰よりも優先すべき人物だ。

 いくら君子の為とはいえども、これ以上ギルベルトが弱っていく所を見てはいられない。

「いい……、俺よりもキーコが」

「ギルベルト様、貴方が死んでしまうとキーコも死んでしまうのですよ、それでは意味がないではありませんか」

 君子を生かす為には、ギルベルトが死んではいけないのだ。

 このままギルベルトが死んでしまっては本末転倒。

 今はギルベルトが体力を取り戻す事を優先するべきだろう。

「だめだ……、それじゃキーコ……が」

「…………ギルベルト様」

 貧血気味だったギルベルトは、そこで気を失ってしまった。

 ヴィルムは毛布を掛けると、ギルベルトの部屋を後にする。

「このままでは、ギルベルト様が……」

 いつ死んでも可笑しくない状況に、ヴィルムは拳を握った。

 ギルベルトは自分の命よりも君子の事を優先する、自分が死ぬと解っていてもそうするだろう。

 ヴィルムの足は自然と君子の部屋で止まった。

 用があった訳ではない、ただ何となくここで足が止まってしまったのだ。

「…………」

 このところ、君子は食人鬼(グール)になっている時以外は眠っている。

 今は静かなのでおそらく寝ているだろうから、ノックをせずに部屋の中へと入った。

 寝室で寝かされている君子は、明らかに五日前よりもやつれている。

 もうずっとギルベルトの血以外は口にしていないのだから当然だ。

「…………キーコ」

 ギルベルトも君子も、共に限界。

 それなのになにも出来ない自分が、悔しくて仕方がなかった。

「…………ヴィ……ルム、さん」

 弱弱しい声、それはベッドで眠る君子の物だった。

「キーコ、起きていたのですか」

 ヴィルムは真っ先に瞳の色を確認した、いつも通りの黒色を見て安心する。

 どうやら今は普通の君子の様だ。

「キャトリシアを呼びましょうか?」

 彼女は君子を治療すべく、ほとんど寝ずに様々な文献を調べたり人に聞いたりしていて、今もすぐ隣の部屋で調べ物をしている。

「いい……です、大丈夫」

 君子の声は今にも消えてしまいそうなくらい小さい。

 それが彼女の残りの命を表しているようで、とても怖かった。

 君子は更に弱弱しい声で続ける。

「この呪い、解けるんです……か?」

「それは……」

 ヴィルムは言葉に詰まった。

 嘘をつくべきなのか正直に言うべきなのか悩んでしまった、その無言の間で君子は悟った。

「…………無理なんですね」

「キーコ、私もキャトリシアも何とか食人鬼(グール)の呪いを解く為に調べています、辛いでしょうがギルベルト様も貴方の為に頑張っています、どうか諦めないで下さい」

 君子がどれだけ我慢しているかは十分理解している。

 だが呪解の方法がない今、ヴィルムはそんな言葉をかける事しかできなかった。

「ヴィルムさん……お願いがあるんです」

「……私に出来る事なら」

 それを聞くと君子は少しだけ微笑んだ。

 そしてしばらく間を開けると、弱弱しい声で続ける。





「もしもの時は……私を殺して下さい」





「なっ……」

 ヴィルムは言葉を失った。

 予想しなかった言葉に戸惑う彼を、君子は虚ろな目で見る。

 生気のない黒い瞳は、どこか赤みの混じった色をしていた――。

「自分で分かるんです……もうそろそろ限界だって、いつ正気を失って化物になるか分からないんです」

 体だけではない、既に精神も限界を迎えている。

 空腹が酷くなるにつれて、君子の精神は食人鬼(グール)に食い尽くされてしまいそうだった。

「そうしたら……私、ギルを……ギルを殺しちゃう……」

 完全に食人鬼(グール)になってしまえば、君子はこの空腹を満たす為にギルベルトを食いに向かうだろう、きっと骨一つも残さずに彼を食べる。

 そんな事、君子は望んでなどいない。

「私、ギルを食べたくないんです、殺したくなんてないんです……、そんな……そんな事するくらいなら……私はいっその事……」

「キーコ……」

「ヴィルムさんは、ギルの補佐官だから……、ギルを一番に考えてるから………だから、こんなお願いはヴィルムさんにしかできないんです」

 君子だって解っているのだ、ギルベルトを食い尽くせば自分が死んでしまう。

 しかし自分が死ねばギルベルトは助かる、だからこんな頼みをしているのだ。

 ヴィルムはギルベルトの補佐官、何よりも誰よりもギルベルトの事を優先する。

 ギルベルトの命を脅かす君子は、いわば『敵』。

「……痛いのは嫌なんで……、なるべく痛くしないで下さい」

「…………キーコ」

 いつもは鈍感なヴィルムにも分かるくらい、君子は無理をして言っている。

 手が震えていて死を恐怖しているのは目に見えて分かる。

 だがそれ以上にギルベルトを殺してしまう事が怖いのだろう。

 君子が優しい子だというのはもう十分理解している。

 人に迷惑をかけるくらいなら自分を犠牲にするという事も知っている。

 実際この方法ならば、確実にギルベルトを救う事が出来た。

 ギルベルトと君子の二人が死ぬか、君子一人が死ぬか――。

 主人を守る補佐官の立場からして、どちらを取るかなど決まっていた。

「…………分かりました」

 それは氷の様に冷たい声、感情の読めない表情で言い放たれた。

 だが君子は安堵したのか、小さく微笑んだ。

「ありがとうございます……、ヴィルムさん」

 無理をして微笑んでいるのは分かる。

 だがヴィルムは、ギルベルトの為にその提案を受け入れる事しかできなかった。

 例えそれが非道な物であっても、一人の少女を犠牲にするしかできなかった。






************************************************************






 某所。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋。

 そこで卓上用の水晶玉を見下ろすのは、悪女アルテミシアである。

「ふふっ、随分持ちこたえている様ね」

 もっと早く食人鬼(グール)となって、ギルベルトを食い殺すと思っていたので、君子の精神力には驚いている。

 だが、それもそろそろ限界が来るはずだ。

 血液だけでは食人鬼(グール)の食欲を満たす事は出来ない。

 限界に達せば必ずギルベルトを襲うはずだ。 

「この娘がギルベルト=ヴィンツェンツを殺す前に、補佐官に殺されるのはまずいのではありませんか?」

 君子にギルベルトを暗殺させようとしているのに、ヴィルムが君子を殺してしまっては何の意味もない。

 レーダンの問いに、アルテミシアは平然と答える。

「王族のピアスは冗談半分でつける様なものではないわ、アレをつけた女は例え庶民であろうとも王族と同じ待遇を許される、アレはそう言う権力を持たせるもの」

 それだけギルベルトは君子に対して本気だという事だ。

 愛する人が死ねば精神的なダメージは計り知れない。

 それだけでも十分な揺さぶりになる。

「流石アルテミシア様です、あの邪魔者がいなくなればアルテミシア様はこの国の王妃になられ、我がジェルマノース家の吸血鬼(ヴァンパイア)がヴェルハルガルドの支配者になれますね」

「そうねレーダン、始祖の様に吸血鬼(ヴァンパイア)こそが最強の種族になれるわぁ」

 アルテミシアはそう言って笑う。

 だが笑っているのは口元だけで、眼はむしろ冷静だった。

「魔人風情が、いつまでも調子に乗るんじゃないわよ」






************************************************************






 それから更に二日が過ぎ、君子が蝙蝠に噛まれて八日。

 その間ギルベルトの血しか口に出来ていない。

 だがギルベルトが限界に達して、キャトリシアがドクターストップをかけた。

 これ以上採血すれば、命に関わる。

 食人鬼(グール)の呪いを解く方法の糸口もなく、刻一刻と二つの命が失われそうになっていた。

「……駄目ニャ、いくら探しても食人鬼の呪いを解く方法が見つからニャい」

 医学的にも魔法的にも調べてみたが、見つからない。

 それどころか君子に施された特別な食人鬼の呪いをかけた犯人を見つける事さえも、全くできていない。

 せめて術者が分かれば呪解の方法も分かるかもしれないなのだが――。

「……打つ手なし、ですか」

 やれる事は全てやった、それでも見つからない。

 こんなに自分の無力さを悔いた事はない。

 ヴィルムの視線は、ソファで眠っているギルベルトへと向けられる。

 どれだけベッドで寝るように言っても、君子が心配でゆっくり眠ってなどいられないらしく、ソファから動こうとしない。

「…………」

 ヴィルムの脳内に、君子のあの言葉が蘇る。

 もちろんヴィルムだってそんな事はしたくない、しかしこのままではギルベルトも死んでしまう。

 ヴィルムはリピートされるその言葉を振り払った。

「ニャーは悔しい、王子はキーコの為にこんなになってるのに……その二人を救えニャいニャんて……」

 医者としてキャトリシアはとても悔しいのだ。

 君子はあんなに辛そうなのに、何もしてあげられない。

「ニャーは最低な医者ニャ、無力な医者ニャ!」

「キャトリシア……貴方のせいではありませんよ」

 実際彼女がいなければ、ギルベルトはもっと深刻な状態になっていた。

 ギルベルトが死なず君子が生きられるギリギリのラインの血液を抜いていてくれたから、二人も今日まで生きていられたのだ。

 決して彼女は無力などではない、だが状況はあまりにも悪い。

「もう……選択の時なのかもしれません」

 打つ手がないこの状況に、ヴィルムもキャトリシアも黙ってしまった。

 そんな静寂の時を破ったのは、眠っていたはずのギルベルトだ。

「だめ……だ、キーコは……しな、せるな」

「ギルベルト様……」

「俺はいい、キーコを……キーコを死なせるな」

 そんな事言っても、ギルベルトはもう限界だ。

 無理をして立ち上がろうとする彼を、ヴィルムとキャトリシアが抑える。

 それに集中していたからだろうか、二人は気が付かなかった。

 ドアを開ける『彼女』に――。

「ぎ……るぅ」

 弱弱しい声。

 今にも消えてなくなってしまいそうなのに、ヴィルム達の背筋が凍った。

 今最も来てはいけない人物が来てしまったからだ。




「キーコ……」




 ドアにもたれかかるようにして、君子が立っていた。

 いつものおさげに制服という姿ではなく、白いネグリジェに真っ黒な髪が垂れ下がるその姿はいつもの君子とはまるで違う。

 ギルベルトの血液しか口にしていない君子は空腹の限界を迎えていた。

 飢餓が理性を越えて、彼女の中にあるのはただの欲望だけ――。

「ギルぅ……」

 俯いているせいで、髪の毛で瞳の色が見えない。

 弱弱しく名前を呼ぶ君子を、ヴィルムは警戒する。

「おなかすいたもうずっとだよ……、喉も乾いたの、カラカラで干からびちゃいそうなの……ねぇギルぅ」

 甘えた声を出す君子、食人鬼(グール)になっていた時は獣の様な唸り声しか出せなかったはずなのに、今は言葉を紡いでいる。

 今の君子はどっちなのか見定めようとしていると、顔を上げた。

 黒い髪の隙間から、瞳が見えた。

「――黒?」

 いつも通りの君子の瞳、それは正常である事を表している。

 ギルベルトの血肉でしか生きられない怪物ではなく、ただの異邦人の娘としての証明。

「そんな……まさか、呪いが解けたのか!」

 元々不可解な呪いであった、術者が何か加減を間違えて解けた可能性だってある。

 二人とも助かる、そう心の底から安堵した。

「待つニャ!」

 キャトリシアが叫んだ瞬間。

 君子の黒い瞳が赤みを帯びる、まるで滲みでるかのように――黒から赤へと変わった。

 それは絶望の色、ほんの一瞬だけ抱いた希望をぶち壊す、最悪な色――。





「うぐあああああああっ」





 それは咆哮。

 腹を空かせた獣が獲物を狩る為に己を鼓舞させるようなそんな感じ。

 もはやそこには、見知った少女の姿など無かった。

「ああああああああああああっ!」

 絶叫しながら、君子はギルベルトに向かって走る。

 己の飢えを満たすために彼を食い尽くすつもりなのだ。

「くっ――」

 ヴィルムは反射的に剣を抜こうとした。

 主人を守る為の行動で、彼の意識がなかった。

「止めろぉヴィルム!」

 だからギルベルトのその言葉を停止命令として脳が受け取り、剣を抜こうとした手を止めてしまう。

 そして――止める間もなく、獣は獲物へと牙をむく。





 君子がギルベルトの首筋に噛みついた。





「ぐっぐああああああああ――――っ!」

 激痛。

 食人鬼(グール)となり顎の力が強くなった君子の牙は、ギルベルトの皮と肉を貫きその下の血管へと突き刺さった。

 痛みから悲鳴を上げるギルベルト。

「ギルベルト様!」

「王子殿下ぁ!」

 このまま血を吸われれば、ギルベルトは失血死する。

 急いで止めなければ、ヴィルムがすぐに君子を引きはがそうとしたのだが、それをキャトリシアが止める。

「駄目ニャ! 今無理矢理引き離したら肉まで食い千切って大変な事になるニャ!」

「しかし、このままでは!」

 ギルベルトが死んでしまう、慌てるヴィルム。

 そんな騒ぎを聞きつけて、アンネとシャネットがやって来た。

「あっ、きっキーコ!」

「ひっ――キーコさんっ!」

 ギルベルトの首に噛みついて血を啜る君子を見て、悲鳴を上げる。

 君子が完全に食人鬼(グール)になってしまった、ヴィルムもキャトリシアも、アンネもシャネットも、悲しみとショックで言葉を失っていた。

 しかし――。

「き……こぉ」

 ギルベルトは君子を抱きしめる。

 首筋を噛まれ血を啜られていても、彼にとっては怪物ではなく君子なのだ。

 発症してから君子に触れるどころか会う事も出来なかったのだ。

 彼が彼女を抱きしめられるのは、血を吸っているこの時だけ――。

「……うっうう、きーこぉ」

 ギルベルトは激痛に耐えながら、君子を弱弱しく抱きしめる。

 本当はもっと力いっぱい抱きしめたいのに、もうその力さえも今の彼には残っていないのだ。

 その姿に、胸を締め付けられるような思いだ。

「ん……あっ」

 しばらく血を啜っていた君子が、ゆっくりと首筋から牙を抜く。

 どうやらずっとギルベルトの血しか飲んでいなかったせいで、胃袋が小さくなっていたらしく、肉を食べる前に一時的に腹が満たされたようだ。

 傷口から滲み出て来た血を、君子は丁寧に舐めとっていて、ご馳走の味を噛みしめていた。

「ギルベルト様!」

「王子っ!」

「王子様!」

 すぐにヴィルムとキャトリシアが、ギルベルトを君子から引き離し、アンネとキャトリシアも心配そうに様子を窺う。

 元々限界だったというのに、かなりの血を吸われた。

 かろうじて生きてはいるが、危険な状態だ。

「急いで処置するニャ!」

 ひとまず治療魔法で傷口を塞ぐ、これ以上の失血は許されない。

「ギルベルト様っ、ギルベルト様しっかりしてください」

 今にも意識を失いそうなギルベルト、一度目を閉じてしまったらもう二度と起きないような、そんな恐怖にヴィルムは襲われた。

「……あっ、ぎ……る?」

 皆の視線は声の主――君子へと向けられる。

 ギルベルトの血を飲んで腹が満たされた君子は、口元にギルベルトの血を垂らしながらぼーっとしていたのに、今は少しだるそうに見えるが意識がしっかりとしている。

 眼の色だって赤ではなく、元の黒に戻っていた。

「……あれ、私なんでギルの部屋に」

「……キーコ」

 食人鬼(グール)ではない、元の君子に戻っている。

 君子は自分がなぜギルベルトの部屋にいるのかも、なぜ皆が心配そうにギルベルトの方に集まっているのかも、何もかも分からないのだ。

 さっきの出来事など、何一つ記憶にないのだ。

「……ギル?」

 しかしすぐに君子にも状況が理解できるようになった。

 ギルベルトが首筋に怪我をしていて、キャトリシアがその治療をしているのだ。

「えっ……ギル、怪我したの?」

 どうしてそんな所を怪我したのか、君子には分からなかった。

 だからそう尋ねただけなのだが、皆の視線は恐怖と哀れみが入り混じったもの。

 どうしてそんな目で自分を見るのか分からない。

 その時口元に違和感があった、何かで濡れている気がする。

 ふと手で拭ってみる。

「――――血?」

 赤い水ではない、これは血だ。

 いくら探してみても君子には傷がない、これは君子の血ではない。

 だってこれは――とても美味しそうな匂いがする。

「あっ……あああっわっ、私……」

 君子は全てを理解してしまった。

 どうしてギルベルトが怪我をしているのかも、どうして皆がそんな目で見るのかも、全部なにもかも理解してしまった。





「私が……やったの?」





 恐れていた事が起こってしまった。

 あれほど我慢していたのに、ギルベルトを襲ってしまった。

「あっ……あああっ、ああああああっ――――」

 食人鬼になっても、君子は君子なのだ。

 ギルベルトを傷つけてしまった事にショックを受けている。

 久しぶりに見るギルベルトは、いつもの元気いっぱいで逞しい彼とは違って、とても痩せていて、今にも死んでしまいそうなくらい弱っていた。

 君子に血を与えているから、君子がギルベルトを食べているから、彼はこんな事になっているのだ。

「キーコ……」

 蹲り自分が犯してしまった罪に震える君子。

 食人鬼の呪いを受けていても、ただの女の子なのだ。

 その罪に耐えられる訳がなかった。

「ヴィルムさん……お願いします」

「……キーコ」

「もう我慢ができないんです、次は本当にギルを殺しちゃいます……だからお願いします」

 震えながら頭を下げる君子の姿は、胸が苦しくなるほど見ていて辛い。

 君子が悪くない事は分かっている、しかしそれでもギルベルトを守る為――ヴィルムは剣を抜いた。

「ヴィっ、ヴィルムさんっ!」

「何をするのです、ヴィルムさん!」

 剣を抜くヴィルムを、アンネとシャネットが恐怖に怯えながら見つめる。

 この状況で剣を抜く、その意味が分からない。

 いや分かりたくなんてなかった。

「…………」

 抜き身の剣を構えて、ヴィルムは君子へと近づく。

「駄目ニャ、ヴィルム殿!」

 ヴィルムは本気だ、本当に君子を殺そうとしている。

 彼はギルベルトの補佐官、彼を守る為だったらどんなこともする。

 それが例え、何の罪もない少女を殺す事だとしても――。

「ありがとうございます……ヴィルムさん」

 君子は今から自分を殺すというのに、そうお礼を言った。

「ごめんね……ギル」

 そして心からの謝罪を言うと――、眼を閉じて下を向いた。

 ヴィルムが振り下ろす剣が上手く首をはねられる様にと、振り下ろされる剣を見ない様にする為だ。 

 君子の決意を見て、ヴィルムは剣を振り上げる。

「すいません……キーコ」

 そう罪のない少女に謝罪をすると――剣を、振り下ろす。

 君子を殺させる訳には行かない、しかし止めたくてももう体は動かなかった。

 大好きな君子の死を黙って見ている事しかできない。

 無力なギルベルトは、ただ声を張り上げる事しかできなかった。 

「止めろぉヴィルム!」





 怒号が部屋に響き渡る中――その凶刃は振るわれる。










「えっ……」

 怒号が消えた頃、そんな驚愕の声がした。

 それを言ったのは、ギルベルトでもアンネでも、シャネットでもキャトリシアでも、ましてやヴィルムでもない。

「な……んで?」

 戸惑いながら、君子は自分の真横に振り下ろされた剣を見る。

 ヴィルムはその知識もすごいが剣の腕だって一流だ、それなのに外すなんて考えられない。

「……出来る訳、ないでしょう」

「えっ……」

 ヴィルムの言葉に君子は顔を上げる。

 同時に彼の手が震えている事に気が付いた。

「貴方を殺すなんて……出来る訳がない」

 もう一年半以上、君子は皆と生活をして来たのだ。

 初めはただの小娘かと思ったが、今はかけがえのない存在になっている。

 殺さなければならないと分かっていても、共に過ごした日々がそれを邪魔する。

 補佐官失格だとしても、ヴィルムにはどうしてもできなかった。

「何か、他に方法がある筈です……呪いを解く方法だって何か、何かある筈です」

 それは限りなく少ない可能性だった。

 この呪いが、誰によってかけられたものなのかさえも分からない。

 呪解が絶望的だというのは、誰の眼にも明らかだ。

 しかしそれでも、君子を殺せない程ヴィルムは彼女に情が移っていた。

「ヴィルム……」

 君子を殺さなかった事に、ギルベルト達は安堵した。

 まだ可能性はあるかもしれない、皆はそう希望を持っている。

 ただ一人を除いては――。

「そんな訳……ないですよ」

「……キーコ」

 君子はもう本当に限界なのだ。

 今こうやって正気を保っていられるのはギルベルトの血を飲んで、一時的に満腹になっているから。

 また腹が空けば怪物になって、今度こそギルベルトを殺してしまう。

 そんな自分を――君子が許せるわけがなかった。





 バチバチバチっ。





 火花が散る音がした。

 なんの音だか分からなかったが、君子の手を見た瞬間に理解した。

 君子の手には一本のナイフが握られていた。

 彼女にナイフを持たせる訳がない、これは君子が特殊技能(スキル)によって造り出した物。

 その証拠に魔力で作った時に出る電流を帯びている。

「他人にこんな酷い事頼むなんて、私は最低な奴ですね……」

「キーコ……よしなさい」

「自分のことなんだから……、自分でどうにかしないといけないですよね……」

 震えた声でそう言うと、ナイフを自分の首元へと向ける。

「やめなさい……やめるんです」

 ヴィルムは君子のナイフを奪い取ろうとするが、一歩でも近づけば彼女は自分の首へそれを突きつけるだろう。

「ダメだ……、やめろ……」

 ギルベルトが弱々しい声でそう言ったが、そんな声では止められない。

 もうだれにも迷惑をかけたくない、だから君子は自ら死を選ぶ。

「キーコぉっ!」

 ギルベルトの悲鳴と共に、君子は喉へとナイフを突き立てる――。




 しかし、ナイフは掴み取られた。




 刃を覆う手、その力があまりにも強くてピクリとも動かない。

 ヴィルムでもない、ギルベルトでもない。

 一体誰――君子は戸惑いながら振り返る。

「……ある、ばーと……さん」

 君子の後ろには、いつのまにかアルバートが立っていた。

 彼がナイフを掴んでいるせいで、死ねない。

「ダメっ離して下さい、早く死なないとギルをっギルを食べちゃうっ!」

 どうして彼がいるのかなんて考える事も出来ない、ただ一刻も早く死ななくてはならないのだ。

 ナイフから手を離させようと暴れるが、アルバートの力は強くてピクリとも動かない。

「今ニャ!」

 その時、ギルベルトの治療を終えたキャトリシアが、君子へと右手を向ける。

「『睡魔(スリープ)』」

 黄緑色の光が溢れ出てきて、とたんに君子は眠気に襲われる。

「あっ……」

 麻酔でも打たれた様な強烈な眠気に抗う事は出来ず、君子は崩れ落ちる。

 床に倒れる寸前に、アルバートが彼女を受け止めた。

「アルバート……」

 ギルベルトは君子が無事だったので、安堵の溜め息をついた。

 他の者も安心したのだが――。

「これは一体どういう事だ」

 アルバートはこの異常な状況に、ただ驚き戸惑う事しかできなかった。





************************************************************






 君子は、ギルベルトの部屋から遠い客間に運ばれ、今は魔法によって眠っている。

 血を吸われたギルベルトは、ソファで横になりキャトリシアの治療を受けていた。

「キーコが、食人鬼(グール)?」

 アルバートと共にやってきたルールアは、この状況に言葉を失った。

 食人鬼(グール)の呪い、話に聞いてきた事はあるが実際に見るのは初めてだ。

 しかもギルベルトの血しか飲めないなど、聞いたことが無い。

「えっ……治るのよね? 大丈夫よね?」

「…………」

 無言の間が、事の深刻さを表していた。

 ルールアも、君子とは良き女友達と言えるくらいの仲だがこんな仕打ちを受ける様な子ではない。

「誰がこんな事したのよ……、やった奴は分かってるんですか!」

「……今のところ見当もつきません」

「そんな! こんな呪い出来る奴なんてそうそういるもんじゃないでしょう」

 これだけの呪いが出来る呪術師となると、かなり限られる筈だ。

 その筋を辿れば、すぐに見つかるはずだ。

「むしろこんな特殊な物を出来るほどの力量を持つ呪術師がいないのです……」

「そんな、他にいないんですか! 食人鬼(グール)の呪いをかけられる奴は!」

「いない事はないです……、例えば吸血鬼(ヴァンパイア)ならば可能です」

「――――っ!」

 それを聞いてルールアはアルバートの方を見てしまった。

 吸血鬼(ヴァンパイア)と聞いて一番に思い浮かぶのは、アルテミシアだ。

「しかし吸血鬼(ヴァンパイア)だからと言って、これほどの呪いをかけることが出来るとは思えません」

「そうニャ、コレはとてつもなく高度な呪い……普通の吸血鬼ではかける事はできないニャ、それにキーコは吸血鬼(ヴァンパイア)に恨みを買う様な事はしていないはずニャ!」

「それは……」

 言葉に詰まった、果たしてアルテミシアの名前を出していいものかと。

 ルールアは、視線だけでアルバートを見た。

 彼の判断を仰ごうと思ったのだが、何かをヴィルムに感づかれてしまう。

「……何か知っているのですか、アルバート様」

「あっ……」

 ヴィムルは完全に疑っていて誤魔化せないだろう、もうこれ以上は黙ってはいられない。

「じっ実は――」

 ルールアが全てを話そうと口を開いた。

 しかし――。




「いや、何も知らない」




 アルバートは、きっぱりとそう言った。

 何も知らないはずはない、アルテミシアならば吸血鬼(ヴァンパイア)で君子を恨む理由もある。

 今現在もっとも怪しい人物のはずなのに――なぜかアルバートはそれを隠す。

 母親を好いている様には思えなかったのに、何故かばう様な事をするのか、ルールアには分からなかった。

 アルバートが、きっぱりと否定してしまったのでルールアは何も言えなかった。

「そうですか……、これで本当に手がかりがありません」

「……まずいニャ、このままだとギルベルト王子もキーコも二人とも死んでしまうニャ」

 君子に血を吸われたギルベルトは、点滴による投薬でなんとか命を繋いでいるが、今まで君子に血を与えていたせいもあって本当に危険な状態だ。

 現にアルバートがいると言うのにいつものように殴って来ない、もうその体力さえもないのだ。

「これからはキーコに監視をつけます、あの様子だと、目を覚ますとまた自殺をこころみるでしょうから」

「……、もうその体力もないかもしれないニャ」

 ギルベルトの血はもう与えられない、そうなれば君子はどんどん弱っていく。

 ギリギリ体力が残っていた時なら、ギルベルトを襲ったり自殺を試みるたりもできるだろう。

 しかしもう、それもできなくなる。

 残された時間はあまりにも少なかった。

 その場には重苦しい空気に包まれていた。








************************************************************







 アルバートは君子の元へと向かった。

 ルールアとフェルクスが一緒に向かっているのだが、その間一切喋らない。

 この無言がルールアには心臓を握りつぶされるくらい苦しかった。

 部屋に入ると、アンネとシャネットがベッドの横で泣いていた。

「キーコ……」

「あっ、アルバート王子様」

 二人とも君子の手を握っていた。

 食人鬼(グール)になってギルベルトを襲ってしまった君子の苦しみ、それを思うと悲しくて仕方がないのだろう。

「……すまないが、席を外してくれ」

 君子が心配だが、王子であるアルバートの命令に逆らう事は出来ない。

 アンネとシャネットは、名残惜しそうに君子の手を離すと部屋を後にする。

「ルールア、フェルクス、お前達もだ」

「アルバート様……」

「え~、出ていくのかぁ?」

 空気が読めないフェルクスを連れて、ルールアは退室する。

「良いから来なさいよっ」

「なっなんでだよお~ルールア~~」

 嫌がるフェルクスを無理矢理引きずって行った。

 静かになった部屋で、アルバートは君子を見下ろしている。

 九日前に会った時よりも明らかに衰弱していて、誰の眼にも危険な状況であるのは一目で分かる。

「…………キーコ」

 アルバートは君子の手を握る。

 脱水状態のせいか、かさかさで細くなってしまっていた。

 アルバートの知っている君子とは全く違う。

(…………私のせいだ)

 誰がこんな事をしたのか、アルバートにはすぐに分かった。

 君子に食人鬼(グール)の呪いをかける様な卑劣な事をするのは、たった一人しかいない。

(……私がキーコからピアスを取らなかったから、キーコは食人鬼(グール)に……)

 ギルベルトを殺す為の道具として使おうとしている。

 しかもどうやっても君子だけは絶対に死ぬという、凶悪な手段で――。

(私がキーコとの絆を失う事を躊躇ったからこんな事に……)

 アルテミシアがどんな事をして来たか、アルバートはそれをよく知っていた。

 知っていたはずなのに、君子と離れるのが嫌だったというそれだけの理由で、あの時君子の優しさに甘えてしまった。

 なんて愚かだったのだろう、少し考えればアルテミシアが強硬な手段に出ることぐらい分かっていたはずだ。

 いや、アルバートはそれを理解した上で考えない様にしていたのだ。

 君子とずっと一緒にいたい、そう思ったから――。

「…………あ、るばぁ……さん」

 かすれそうな声が聞こえた、アルバートは君子の顔を覗く。

 うっすらだが瞼が上がっていて、そこから赤みを帯びた黒い瞳が見えた。

「キーコ……」

 キャトリシアの魔法が解けたのだろう。

 推測通り、もう君子にはギルベルトを襲いに行く体力も自殺をする体力さえも残っていない。

 息をして生きる事だけで精いっぱいなのだ。

 アルバートは君子の額を撫でる、温もりをもっと感じたいのに体温が低い。

 今にも冷たくなってしまいそうで、怖かった。

「……すぐに医者を呼ぶ」

 呼んだ所でどうにもならないが、医者がいるだけでこの恐怖が幾分かはマシになる。

 ベッドから離れようとしたアルバートを、弱弱しい手が引き止めた。

「まって……アルバートさん」

「……キーコ」

 弱くて手を握られている感覚はほとんどない。

 アルバートは悲しみを押し殺して、床に膝をついて君子が話しやすいように顔を近づけた。

「スティラの花……明日、ですよね……」

 アルバートがルーフェンに来たのは、明日一緒にスティラの花の開花を見る為だ。

 とても楽しみで一日前に迎えに来てしまった訳なのだが、まさかこんな事になっているなんて夢にも思っていなかった。

「しかし……キーコ」

 こんな状況では、とても一緒に花を見る事は出来ない。

 そう言おうとしたのだが――。

「連れてって下さい……シューデンベルに……」

「…………」

「約束したから……、一緒にスティラの花を見ようって……だから連れてって下さい」

「だが……キーコは」

 こんな状態でシューデンベル領に行くのは危険すぎる。

 スティラの花を見るのは来年だって出来る、今は君子の命の方がずっと大事だ。

 渋るアルバートに、君子は弱弱しく続ける。

「良いんです……遠い所に、ギルが来れない遠い所に……連れて行って下さい」

 そこまで聞いてようやく理解した。

 君子はどうしてもスティラの花を見たいのではない、少しでもギルベルトの元から離れようとしているのだ。

「ギル……優しいから、きっとまた私に……、でももう私は限界だから」

 ギルベルトならどんな状況でも君子を優先する。

 あんなに死にかけだというのに君子を生かす為に血を抜きかねない。

 だから、君子はギルベルトから離れて、一人で衰弱死をしようとしているのだ。

「ヴィルムさんにお願いしたんですけど……駄目だったんです」

 もう自殺をする体力が残っていない君子は、自分を殺す手伝いをアルバートにさせようとしているのだ。

 しかもよりによって、餓死という選択をしようとしている。

「アルバートさん……お願いです、私を遠くへ連れて行って下さい」

 それがこんな状況でなければ一体どれほど嬉しい言葉か。

 君子はアルバートが好きで最後の時を過ごす為に選んでくれた訳では無い。

 ただ他人に迷惑をかけないよう一人で死ぬ為に、アルバートに懇願しているのだ。

「こんな事……アルバートさんにしか、お願いできないんです」

 残った体力で、君子は必死に笑顔を作った。

 今にも消えてしまいそうな弱弱しい笑顔を前にして、アルバートの何も言えなかった。

 ただ君子の手を握りながら、小さく頷く。

「……ありがとうございます、アルバートさん」

 そして彼女は安心して、そうお礼を言うのだった。




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