後宮は魔窟です
目を開けると、そこには美しい格子の天井があった。
「麗珠様! 目が覚めたのですね」
静芳が涙ぐみながら覗き込んでいるのを見て、麗珠は自分が寝台に横になっているのだと理解した。
静芳がいるのだから朱宮の自室かと思いきや、見覚えのある光景はどう見ても龍蛍の部屋だ。
「何で、ここに?」
ゆっくりと体を起こそうとするとあちこちが痛いが、思い当たる節がありすぎて痛みの原因は特定できない。
「麗珠様は攫われたのですよ? 後宮で最も安全な場所に置きたいと陛下が考えるのは、当然でございます」
差し出された器に入っていた湯冷ましを一気に飲み干すと、ようやく生き返った気がする。
すると、器を受け取った静芳はその場に平伏した。
「私が離れたせいで、麗珠様を危険に晒しました。本来ならば何よりもあなたの身の安全を優先すべきところ。私の判断の誤りです。どんな処罰でも受け入れます」
「い、いいよ。とりあえず立って、ね?」
麗珠に促されて立ち上がりはしたものの、静芳はずっと頭を垂れている。
重めの仕え方だとは思っていたが、さすがに謝罪も重い。
「私の命で離れたんだし。それに、結構な数に囲まれたから、静芳がいても事態は変わらなかったと思うわ」
「結構な数、と申しますと。三十人くらいでしょうか」
おずおずと尋ねる内容が、おかしくはないか。
麗珠が指と視線で湯冷ましのおかわりを頼むと、静芳は素早く用意を始めた。
「そんな団体様がうろついていたら、いくら何でも見つかるでしょう。しっかり数えてはいないけれど、五人くらいかしら」
「それでしたら、剣を持っていなければ問題ありません」
湯冷まし入りの器を差し出しながら返ってきた答えが、何だかおかしい。
「どういう意味?」
五人になら追いかけられても逃げ切れる脚力がある、ということだろうか。
実際、明鈴も女官も足が遅くてアレだったので、それはありがたい。
「互いに素手の格闘でしたら、五人程度は何とかなります」
予想外の返答に、麗珠は湯冷ましを噴き出した。
「暁妃ともあろう方が、はしたないですよ」
てきぱきと拭いてくれるのはありがたいが、爆弾発言を放置しないでほしい。
「何なの、それ。どういうこと?」
後宮で姫に仕える女官が、何故素手で格闘とか言い出すのかわからない。
すると、麗珠が噴いた水を拭き終えた静芳が、にこりと微笑んだ。
「陛下の即位より十年。今でこそ平穏ですが、当初はその寵を得ようと各家が暗躍いたしました。もう当時の面子はそれほど残っていませんが……若気の至りですね」
「いや、暗躍って何。若さで何をしていたの」
確かに即位当初は四家それぞれが我が家の姫を皇后に、と気合いが入るのもわからないでもない。
だが、暗躍という言葉はおかしくはないか。
「久しぶりに動いたかと思えば、虫やら蛙やらをばらまいて。可愛らしいものですね」
穏やかな笑みがかえって怖い。
異母姉が朱宮の主だったこの十年、一体何があったのか……知りたくはない。
「そ、それで、静芳は無事みたいだけれど。明鈴とあの女官は?」
「青家の姫共々無事です。麗珠様に申し訳ないと泣いておりましたので、ならば鍛えよと叱咤激励いたしました。もうしばらくすれば、使い物になるかと」
「待って。使い物って何」
どんな叱咤激励なのか気にはなったが、静芳は笑みを湛えたまま白い紙を差し出した。
「これは、手紙?」
中を確かめると、朱家当主である麗珠の父からだ。
既に到着したが、花琳が後宮に入れないので早く退出しなさいという内容だ。
「龍蛍が断りの連絡を入れてもこれということは、やっぱり花琳を朱宮に置くことにしたのよね?」
「そんな馬鹿なことがありますか!」
「――ああ、目が覚めたのですね」
のんきな美声と共に姿を現したのは浩俊だ。
影官として皇帝の補佐をしているのは知っているはずなのに、静芳が不満そうな顔をしているのは何故だろう。
「女性の寝起きに伺うのは失礼かと思いましたが、ちょっと急ぎなもので」
「裸じゃあるまいし、気にしないわ。それよりも急ぎって何?」
「気になさってください。陛下以外の男性にそのようなお姿を」
「でもちゃんと服を着ているわ。腕と膝を丸出しよりはいいと思うのよね」
うっかりこぼれた失言に慌てて口を押さえるが、時すでに遅し。
「……その件に関しましては、後ほどゆっくりとお伺いしますね」
静芳の輝く笑みに、麗珠はただうなずくことしかできない。
そういえば「沓を脱がない」という約束も早々に破ったし、これはもうお説教待ったなしの予感だ。
「そ、それで、何?」
「起きられるようでしたら、すぐに身支度をしてください。ちょうど全員揃うところです」
浩俊の微笑みは龍蛍と同じ麗しさ。
それなのに少し怖いと感じたし、静芳の笑みが更に怖い。
――後宮は、魔窟。
麗珠は忘れかけていたその言葉を、しっかりと噛みしめた。
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そろそろ終盤!
もうひと光り来るのか、蒙古斑!
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