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この謎が解けますか? Re...  作者: 『この謎が解けますか?』 企画室
永遠
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時の果ての殺人 第二章「事件の拡大」

 それから少しして、二人を残して姫奈が建物から出ると、そこで光沢がパトカーにもたれかかって待っていた。無言で近づくと、すぐに携帯電話を差し出してくる。

「警部からだ。嬢ちゃんと話したい事があるらしい。話すならパトカーの中でな」

 一瞬躊躇したが、姫奈は黙ってそれを受け取り、パトカーの後部座席に乗り込んで耳に当てた。

「遅くなりました」

『海江田警部、お疲れ様です。御旧友との再会はどうでしたか?』

「……まだ、どう考えたらいいのかわかりません。それよりも、話というのは何ですか?」

 そう問い返すと、一里塚はある程度予想された答えを返してきた。

『光沢さんからの報告を受けて、少し探りを入れました。海江田警部の小学生時代の仲良し七人組についてです』

「……やっぱり調べたんですね」

『気になりましたから。ただ、震災の時に何があったのかは海江田警部の口から伺うしかありませんが』

「話せ、と?」

『お願いできますか?』

 姫奈は一瞬目を閉じた。そして、ここまで来ればもう話すのが一番であろうと考え、姫奈は十三年前のあの日、自分たちに何があったのかを話した。紅美の発案で彼女の家に泊まる事となり、その夜、あの大震災が起こって紅美の家が崩落した事。そしてその後、仲良し七人組はバラバラになって今の今まで全員の生死などがわかっていなかった事などである。

『……なるほど、海江田警部にはそんな過去があったんですね』

「正直なところ、私の記憶は震災直前、寝る前にみんなでお喋りして電気を消したところで終わっています。次の記憶は地震の一週間後に病院のベッドの上で目覚めるところから始まるんです。だから、地震の起こったその瞬間に何があったのかは私にもよくわかりません。それで、一里塚警部は何を掴んだんですか?」

 その問いに、一里塚は淡々と答える。

『まず、例の長平樹里亜の部屋から押収した卒業アルバムを改めてチェックしました。集合写真の中に、確かに海江田警部を含む七人の名前と顔が確認できます。ただ、この集合写真は震災前に撮影されたもので、アルバム自体も震災前にすでに完成していたものですから、実際にここに写っている生徒たちが震災後に卒業できたかどうかや彼らの生死まではアルバムからはわかりませんでした』

「えぇ。そんなに簡単なら私が自力で調べています。そのアルバムは私も持っていますから。アメリカに引っ越した後で当時の小学校の担任がわざわざ送ってくれたんです」

『でしょうね。念のため、兵庫県警にも問い合わせをしてみましたが、震災直後のデータはあまり残っていないそうです。まぁ、それもやむを得ない話でしょうが』

 そう言ってから、一里塚はこう続けた。

『ところで、乃木坂先生はその辺りについてどう言っていましたか? 例えば、あなた以外の六名の生死についてとか』

「……少なくとも、奈々の話で二人の行方はわかりました」

 そう言うと、姫奈は江花紅美が震災で死んでいた事と、朝島玲於奈が山口消防庁のレスキュー隊員になっていて、ついさっき奈々の手引きで再会した事を報告した。

『そうでしたか……となると、残るは塩賀美智子と米内涼香の行方ですね』

「一里塚警部は、私の友人たちが今回の事件に関係していると思っているんですか?」

 その問いに対し、一里塚は口調を超える事無くこう言った。

『少なくとも今回、長平樹里亜については行動に怪しい部分があります』

「怪しい部分、ですか?」

『実は、先程広島県警から連絡がありましてね。一週間前、東広島市で模型店の店主が殺されるという事件があったそうなんですが、その被害者となった模型商が長平樹里亜のかつての恋人で、しかも事件当日、長平樹里亜と思しき人物が現場付近にいたという複数の目撃証言が確認されているとの事です。これにより、広島県警側は長平樹里亜がこの模型店商殺しに何らかの関係があるのではないかと疑い、行方を追っていたそうです』

「え……」

 思わぬ話に、姫奈は絶句していた。

『広島県警の話では、彼女は五年前に東広島市に姿を見せていて、三年前に引っ越しています。彼女が山口に来たのは三年前という事ですから、時系列的にもこれで合致しています。彼女が山口に来る前に東広島にいたのはほぼ間違いないでしょう。問題は、なぜ彼女が一週間前の模型商殺しの当日に東広島にいたのか。そして、その約一週間後になぜ殺されてしまうような事になったのかという事です。今はとにかく、彼女の情報がほしい。ですから、被害者とつながりが深いと思われるかつての親友から話を聞きたいと思うのは当然でしょう』

「話を聞きたい、だけですか?」

『今のところはそれ以上他意はありません。あくまで「今のところは」ですが』

 一里塚はそのような言い回しをした。

「でも、奈々も玲於奈も樹里亜には会った事がないと……」

『それ、本当でしょうかね』

 姫奈の反論に、一里塚は思わぬ事を言った。

「……どういう意味ですか?」

『先日ここに赴任した海江田警部はともかく、残る三人は少なくとも年単位で同じ山口県内にいたわけです。その状況で、乃木坂先生やその朝島というレスキュー隊員が被害者と一度も接触した事がないという話は、どうにもできすぎているような気がするのです。まぁ、広い山口県内ですから全くあり得ない話とは言えませんが』

「考え過ぎだと思います」

 姫奈は反射的にそう言っていた。

『まぁ、私もそうであってほしいとは思います。正直、私自身海江田警部のご友人を疑いたくはありませんので。ただ、もう一つ捨ててはおけない情報があります』

「何ですか?」

『組対の増木警部がようやく山陽小野田の被害者・石清水に関する簡単な経歴を調べてきてくれました。相手が相手なのでかなり強引な手段も使ったようですが、先程報告をしてもらえましてね。その中に少し気になる経歴があったんです』

「経歴?」

『えぇ。岩清水が天橋組直系の鳩舟組に所属したのは今から九年前。ですが、その鳩舟組に入る九年前までは別の街にいた事が発覚しました』

「別の街というのは?」

 それに対する一里塚の答えに、姫奈は戦慄した。

『神戸です』

「え……」

『正確には十五年前から九年前までの六年間です。西暦で言えば一九九三年から一九九九年まで。神戸市内にあった闇金に勤務していました。この闇金は一九九五年の震災でビルそのものが崩壊し、その後事務所を移したものの資金繰りがうまくいかなくなって倒産しています。という事はつまり、彼も阪神大震災の被災者だったわけです』

 続く一里塚の言葉はどこか厳しいものになっていた。

『被害者二人が双方ともにあの震災の被災者だった。少なくとも私は、この事実が偶然とは思えないのですが、海江田警部はどう思われますか?』

 姫奈は、答える事ができなかった……。


 ……同時刻。関門海峡かんもんかいきょうを挟んだ向こう側、福岡県福岡(ふくおか)博多(はかた)駅近くの某ホテルの一室。

 真っ暗な部屋に、テレビの明かりだけが光っている。テレビでは、隣県・山口で起こった二つの殺人事件について改めて報道がなされていた。

『……山口市内のアパートで発見された女性の遺体に関して、山口県警は遺体の身元をこの部屋に住む長平樹里亜さんと断定しました。長平さんは首を絞められた形跡があるという事で、警察は長平さんが何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いと見て捜査をしています。また、同日山陽小野田市の山中で発見された遺体について、警察は広域指定暴力団天橋組直系鳩舟組幹部の石清水康義氏であると断定しましたが、捜査関係者の情報によればこの石清水氏と長平さんの間につながりがある可能性があるとの事で、警察は二つの事件に関係性がないかを慎重に調べているとの事です。では、次のニュース……』

 そこまでアナウンサーが喋ったところで、いきなりテレビの電源がブチッと切られた。瞬間、部屋は一気に静かになり、同時に明かりが消えた事により暗闇がその場を支配する。

 そんな中、ベッドに腰かけているこの部屋の主は、何も映らないテレビを暗闇の中でじっと見据えながら、なぜか拳をギュッと握りしめていた。

「…………」

 その瞬間、テレビの近くにセットされたデジタル時計の数字が「00:00」と変わり、同時に日付が一日進む。今、山口から遠く離れたこの福岡の地で、誰も何も知らない状況で、何かが大きく動き出そうとしていた……


 一月十八日金曜日午前九時。山口県警本部の刑事部捜査一課。姫奈は朝早くにこの部屋を訪れていた。

「ご苦労だったね。着任早々事件とは、運がいいのか悪いのかわからんが、まぁ、これも仕事だ。慣れるしかない」

 自分の席に座りながら正面に立つ姫奈を見てそう言って苦笑しているのはこの部屋の主……すなわち、捜査一課課長補佐である姫奈の直属の上司である山口県警刑事部捜査一課長の内沢功補うちざわこうすけ警視だった。十一月の山口県警の混乱で現山陽小野田署署長の多賀目警視が捜査一課長を退任した後、急遽県警捜査一課長の座を引き継いだ人物である。

 実はこの男が捜査一課長の座に就いたのはこれが初めてではない。現場叩き上げの刑事として長年県警刑事部捜査一課に勤務した後で三年ほど前まで県警捜査一課長に就任。その後多賀目に後を引き継いで米軍基地のある岩国(いわくに)市を管轄する岩国署の署長に栄転になっていたが、十一月の山口県警の混乱で多賀目が退任した後に混乱状態の刑事部を立て直す人材が必須という事になり、大野塚県警本部長の判断で一課長としての経験がある彼が急遽県警捜査一課長へ復帰する事となっていた。経験者という事でどこか落ち着いた印象を見せる人物で、先日は刑事部長と一緒に他県へ出張していた事からこれが姫奈との初顔合わせになる。

「それはともかく、一里塚君から報告は受けているが、今回の事件の被害者の一人が君の友人だというのは本当かね?」

「本当です。問題があるなら、捜査から外れますが……」

「いや、構わんよ。何かあったら責任は私が負う。せっかくの初事件なんだから、私に構わず一里塚君と一緒に好きにやってみたまえ。何事も勉強だ。ただし、課長補佐として一応報告くらいは適宜入れるように」

 内沢は気楽な様子でそういう。

「わかりました。今後ともよろしくお願いします」

「あぁ。それと、たった今、広島県警から刑事が二人派遣されてきている。例の東広島の模型商殺しについて捜査協力をしたいとの事で、大野塚本部長も了承した。今、本部長に挨拶に行っている。終わり次第、君も山陽小野田署の捜査本部に戻ってくれ」

「同行しなくても?」

「今日は本部に刑事部長も顔を出すそうで、彼らは刑事部長と一緒に行くらしい。まぁ、他県警同士、色々詰めておく事もあるんだろう」

「了解です」

 そう言いながらも、姫奈の表情はどこか晴れない様子だった。


 同時刻、同じく山口市内にある山口地方検察庁。その玄関口に、なぜか一里塚が姿を見せていた。受付近くで待っていると、やがて奥の方から四十代前半くらいのブラウンのスーツに鋭い目をした男が駆け寄ってくる。

「お待たせしました。昨日に引き続き申し訳ありません」

 男はそう言って頭を下げる。

「いえ、こっちも仕事ですのでお気になさらずに。それより、公判の様子はどうですか、板垣(いたがき)検事?」

 そう聞かれて、男……山口地検検察官の板垣統一郎(とういちろう)検事は頭を上げた。彼は数ヶ月前に起こった銃密売人・所沢篤殺害事件……通称「耳なし芳一殺人事件」において所沢を殺害した犯人の公判担当検事で、今までに東京地検や大阪地検といった都市部の検察庁に所属していた事もあるというかなりのベテラン検事だった。ここ数日は何度か担当刑事である一里塚に公判で証言してもらっている状態だった。

「正直、ピリピリしていますよ。ただでさえ被告人が所沢を殺して銃器の密輸ルートを潰していますから、それによる被害を受けた天橋組の関係者が傍聴によく来ています。奴らが暴発しないように警備員も厳重警戒態勢でしてね。おまけに、ここに至って事件前に所沢と取引していた石清水が殺されたという事で、奴らもかなり殺気立っている様子です。もしかしたら、所沢の件が今に至るまで尾を引いているんじゃないかという事でしてね」

「やはりそれが問題になっていますか」

「えぇ、この状態のまま裁判を継続すべきではなく、天橋組の状況がある程度収まるまで公判を一時中断すべしと弁護側は主張していますが、こっちとしてはそんなわけにもいきません。何しろ、捜査で押収された所沢の密輸した銃器類は公判資料としてすべて検察で保管しているんです。これがある限り天橋組が行動を抑える事はないでしょうし、裁判が長引けば奴らが被告人への報復処置へ出たり、一縷の望みをかけて押収した銃器類を奪い返そうとしたりするかもしれない。ですから、そうなる前に少しでも早く判決を確定させて被告人の命を守り、同時に押収した銃器類を溶解処分する必要があります」

「確か、銃刀法違反事件や薬物事件などで判決が確定した場合、未使用で押収された銃器や薬物は溶解処分できるんでしたね。もちろん、殺人の凶器に使われたなどという場合は引き続き保管が必要ですが」

「そうです。天橋組の事件に対する執着をなくそうと思ったら、もうそれしか方法はありません。そうしないとこの事件は本当の意味で終わらないというのが検察の一致した意見です。なので、我々としては一刻も早く石清水の死の真相を明らかにしてもらいたいところなのですが」

「全力を尽くしています。私としても、このまま裁判が停滞する事は許せませんので」

 一里塚の答えに、しかし板垣は厳しい表情でこう続けた。

「何にせよ、次の公判は一週間後です。こちらのわがままではありますが、できればそれまでに決着はつけてもらいたいですね」

「善処はします。が、確約はできません」

 一里塚としてはそう言う他はない。

「まぁ、そうでしょうね。とにかく、よろしくお願いしますよ。それと、次の裁判でもあなたの証言を聞かせてもらう事になると思いますので、その打ち合わせをさせて頂きたいのですが……」

「もちろんです」

「では、早速ですが別室で打ち合わせを……」

 と、その時、不意に板垣の携帯が鳴った。板垣は訝しげな表情で携帯を取り出す。

「失礼」

 そう断ってから、板垣は携帯を見やる。どうやらメールだったようだが、やがて小さくため息をついて何やら軽く操作すると、おもむろに一里塚に頭を下げた、

「すみません。別件の裁判でどうもトラブルがあったようでして、急遽そちらに行かねばならなくなってしまいました。せっかく来て頂いたのに申し訳ありませんが、打ち合わせは後日という事でも構いませんか?」

 板垣はチラリと受付正面の時計を見ながら言った。それに対して一里塚は小さく頷く。

「構いません。いつ伺いましょうか?」

「そうですね……三日後の午後七時なら空いていますが、どうでしょうか?」

「わかりました。ただ、捜査の進展次第でこの予定もどうなるかはわかりませんが……」

「結構です。今回はこちらのわがままですので、その時はその時でこちらが時間を作ります。では、これで」

 そう言うと、板垣は速足でその場を後にした。残された一里塚は検察庁の建物を出ると、そのままどこかに携帯をかける。

『光沢です』

「私です。今、検察庁を出ました。これからそちらに向かいます」

『早かったですね』

「板垣検事に急用が入ったようで、公判の打ち合わせは後日に回すという事です。とはいえ、所沢の事件の裁判はなかなか難航しているようですね。石清水の事件が公判に影響を及ぼさないかを心配しているようでした。検察は、あの大量に押収した密輸拳銃を一刻も早く処分したくて仕方がないようです」

『確かに、あれがある限り天橋組は手を引かないでしょうからね。検察にとってはいつ暴発するかもわからない爆弾以外の何物でもないという事ですか。こっちも前途多難ですな』

「ひとまず、こちらの一件は検察に任せるつもりです。我々は目の前の事件に全力を注ぎましょう。それで、何か新たにわかりましたか?」

 一里塚の問いに、光沢はこう答えた。

『山陽小野田市内にある石清水の自宅マンションへの家宅捜索、及び周辺住民への聞き込みを行いました。とはいえ、相手は暴力団員ですからね。近隣住民との付き合いは皆無で、それらしい証言も得られませんでした。ただ、奴の自動車はマンション地下駐車場に駐車したままでした。地下駐車場の出入り口に防犯カメラがありますが、確認したところ事件当夜にその車が出入りした形跡は認められません』

「つまり、自分の車を使ってはいないという事ですね。となると、予想通りあの現場までは犯人の車で行った可能性が高いという事になりますか」

『同感です。それと、家宅捜索の結果ですが……ちょっと妙なものが見つかったんです』

「妙なもの、と言うと?」

『箪笥の中のスーツのポケットを調べたところ、コンビニのレシートが見つかったんです。購入品はサンドイッチとお茶なので多分軽食を購入した際にポケットに突っ込んだんでしょうが、問題はそこに書かれていた日時と場所です』

「何と書いてあったんですか?」

 その問いに対し、光沢は厳しい声で答えた。

『日付は東広島の模型商殺しのあった一月九日の前日の一月八日。そして場所なんですが……店舗名が「ファミリー・イレブン倉敷(くらしき)四丁目店」となっていました』

「倉敷というと……岡山ですか」

 唐突に出てきた思わぬ地名に一里塚は首をひねる。

『そのようです。どうも石清水は殺される一週間ほど前に岡山に行っていたようなんです』

「これだけなら偶然という事も考えられますが?」

『もちろんです。ただ、もう一人の被害者である長平樹里亜の自宅も改めて調べた結果、部屋に散らかっていたゴミの中から一枚のチケットが見つかりました。しかもその日付は石清水同様の一月八日です』

「何のチケットですか?」

『それが、大原美術館の入館チケットなんです』

 この言葉に、一里塚は目を光らせた。

「倉敷にある世界的に有名な美術館ですね。戦時中、この美術館があるために米軍が空襲を躊躇したと言われているほどの」

『倉敷を代表する観光地です。つまり、彼女も同じ日に倉敷を訪ねている事になります』

「二人は愛人関係だったはずです。倉敷に行っていた石清水が彼女の部屋に持ち込んだチケットがそのまま放置されていたという可能性はありませんか?」

 一里塚は慎重に尋ねるが、光沢もそれは想定していたようだった。

『そう思ってチケットの指紋を調べましたが、長平樹里亜の指紋しか検出されませんでした。ふき取った形跡もなく、指紋の付き方にも不自然なところはありませんので、これはもう彼女自身がチケットを購入して使用したと考えるしかありません。それに、その翌日は模型商殺しの当日。その日、彼女が東広島市にいたのは広島県警の報告通りです』

「前日に倉敷にいた彼女が翌日に東広島市に寄った……なるほど、辻褄は合いますね」

『彼女のいたスナックに聞いたところ、問題の一月八日と九日は彼女のシフトがない日で休日だったという事です。つまり、彼女が岡山や広島に行っていたとしてもおかしくはありません。そして、少なくとも八日の倉敷行きについては、岩清水と二人で行っていた可能性が高い』

「……ならば、九日の東広島行きについても、石清水が東広島に同行した可能性が浮上してくるというわけですか。まぁ、それについては広島県警に調べてもらうとして……問題は目的ですね。特に八日の岡山行きの目的が重要になってきます」

 そう言ってから一里塚はこう尋ねた。

「問題の一月八日に、岡山県下で何か事件は起こっていませんか?」

『もちろんそれを考えて岡山県警に問い合わせをしましたが、今のところめぼしい事件は県内では発生していないそうです』

「そう簡単には行きませんか」

 一里塚がそう呟いた時だった。

『ただ、一つ収穫がありました』

 光沢はおもむろにそんな事を言った。

「収穫、ですか?」

『えぇ。実は、岡山県警に問い合わせを行った時に、念のために問題の七人組の名前を言ってみたんです。まぁ期待半分、何かわかればいい程度だったんですが……これがまさかの大当たりでした』

「まさか、県警が名前を知っている人間がいたんですか?」

『そうです』

 一里塚の顔が少し緊張する。

「誰ですか?」

『塩賀美智子です。岡山県警は彼女の名前を知っていました。ただ、それがかなり厄介で……』

 そこで光沢の歯切れが少し悪くなる。塩賀美智子は確か、姫奈の話ではいつもポニーテールをしていて習い事が大変そうだったという少女である。ピアノのコンクールで賞をもらった事もあるようだという事だったが、奈々の話では進学予定だった公立中学に進学せず、地震後に消息を絶っているとの事だった。

「県警が名前を把握している時点で話が穏やかではありませんが……一体、どんな状況なんですか?」

 その問いに対し、光沢はゆっくり答えた……。


 その三十分後、一台のパトカーが山口地検の前に到着した。後部座席には山口県警本部から乗ってきた姫奈の姿が見える。一里塚はそれを確認すると、そのまま後部座席の姫奈の隣に乗り込んだ。

「出してください」

 そう言うと、運転していた警官がパトカーを発進させる。

「すみませんね。わざわざ寄ってもらって」

「いえ、私もどうせ捜査本部に行くところでしたから」

 姫奈は少し硬い口調で答える。そんな姫奈に対し、一里塚は何気ない口調で問いかける。

「確か、一課長に会いに行っていたんですよね。どうでしたか?」

「……器量の広い人みたいですね」

「えぇ。実力は保証できます。岩国署署長時代に一緒に捜査をした事がありますが、的確な指示を出す優秀な人でした」

「一里塚警部が誉めるというのも珍しいですね」

「褒め言葉と受け取っておきましょう」

 そう受け流しながら一里塚は苦笑する。それに対し、姫奈は一応報告しておく。

「さっき広島県警の捜査関係者が来ていました。この後、岩佐(いわさ)刑事部長と一緒に捜査本部に顔を出すみたいです」

「そうですか。いよいよ本格的に合同捜査になりますね。果たして鬼が出るか蛇が出るか」

「……何か私に言いたい事があるのでは?」

 姫奈の言葉に、一里塚はとぼけた風に答えた。

「と言いますと?」

「話したい事があるから迎えに来させたんじゃないですか? 一里塚警部がそのような人だという事は学んだつもりです」

「……海江田警部の御旧友の一人、塩賀美智子の行方がわかりました」

 その一言に、姫奈は思わず一里塚の方を見やった。

「本当ですか?」

「えぇ、確かです。岡山県警への照会でヒットしたと光沢さんから連絡がありました」

「岡山って……どういう事ですか?」

 緊張した様子で尋ねる姫奈に、一里塚は淡々と答える。

「被害者の二人が、一月八日に岡山県倉敷市に行っていた事がわかりましてね。海江田警部も含めた七人の名前を出したところ、塩賀美智子の名前がヒットしたというわけです」

「ヒットしたって、美智子は今岡山で何を?」

 一里塚は一瞬黙ると、やがて重苦しい口調でこう告げた。

「あまりいい話ではありませんが……現在、岡山県警の警戒対象になっているあるグループがあります。まぁ、グループという言い方はしましたが一種の新興宗教団体のようなもので……その性質は、一言でいうとカルト教団です」

「か、カルト教団?」

 予想外の言葉に、姫奈は戸惑いを見せる。一里塚は言葉を続けた。

「教団名は『エスナ』。由来についてはよくわかりませんが、エスナ神とかいう教団独自の神の名前から来ているようです。信者数は約五百人で、本部の所在地は倉敷市郊外。しかしとにかくトラブルが多い団体で、信者に対するお布施の強要や近隣住民との軋轢、インチキまがいの祈祷などによる詐欺行為、さらには修行と称した信者への暴行行為や薬物の使用など数々の違法行為が疑われていて、現在県警の監視対象になっているそうなんです。もっとも、現時点では明確な証拠を挙げられていないので県警側も慎重な内偵調査を行っているところのようですが……その教団の教祖の名前が、塩賀美智子という若い女性だそうです」

「美智子が……カルト教団の教祖、ですか?」

 思わぬ話に、姫奈は絶句した。とても、小学生時代の彼女からは想像もできない話だった。

「もっとも、教団の中では『神原天成かんばるてんせい』と随分格好つけたような名前を名乗っているようですが、岡山県警の内偵調査で最近になってようやく正式な身元が判明したそうです。もっとも、教祖になるまでの経歴はまだ調査中のようで、もしこちらで彼女の経歴が割れれば岡山県警側も非常に助かると言っていました。捜査本部に写真を送ってくれるとの事ですので、向こうについたら見てもらえますか?」

「それは……もちろん見ますけど……でも信じられません」

 一体、震災の後彼女に何があったというのか。姫奈には何が何だかわからなかった。だが、一里塚はさらに気が重くなるような話を続ける。

「さて、言ったように被害者二人は一月八日に岡山県倉敷市を訪れています。そして、その倉敷市にはカルト教団の教祖であり、さらに言えば被害者の一人である長平樹里亜のかつての友人である塩賀美智子がいた。これ、果たして偶然だと思いますか?」

「……何が言いたいんですか?」

 姫奈は少し怖い表情で一里塚に尋ねる。が、一里塚は意に介さないように言葉を続けた。

「問題の『エスナ』ですが、最近信者拡大のために他県への進出を考えているらしいというのが岡山県警の情報です。しかし、このような組織が勝手に他県に勢力を広げるのはそう簡単な事ではありません。特に地元の暴力団がいるような場所では、下手な事をすれば抗争に発展しかねないからです。そうなれば不利なのは、武器のような対抗手段のないエスナ側でしょう。そして、岡山というのがまた絶妙な場所にありましてね。裏社会においては、隣県のうち兵庫は阪神地区を勢力下に抑える上林組、広島は杜若組、福岡は天橋組の勢力下になっています。そのすべてが警視庁の警戒する日本五大暴力団の一角を占める組織で、エスナ程度の組織が対抗できるような相手ではありません。かといって、人口が減少している山陰方面へ進出しても、こう言っては何ですが旨味はあまりないでしょう。そうなると、進出先の候補となってくるのは、天橋組と杜若組の間に位置するこの山口という事になってくるはずです」

「でも、山口には天橋組直系の石清水たち鳩舟組が……」

「それなんですがね、天橋組……特に山口に拠点を置く鳩舟組から見れば、岡山のカルト教団であるエスナは利用価値がある組織かもしれないんです。もし、エスナと手を組む事ができればそのまま鳩舟組及び上層組織の天橋組は岡山へ勢力を拡大する足掛かりを得る事ができ、そうなれば広島に本拠を置く敵対組織の杜若組を東西から挟み撃ちする事ができますから」

「あっ……」

 姫奈は思わずそう呟いていた。確かに、地理的にはそうなってしまうのである。

「それに、もしエスナが疑惑通り薬物に手を出していたとすれば、その薬物の独自の入手経路をエスナは持っている事になります。そして、薬物を入手できるという事は、そのルートを武器入手のルートへ転換する事ができるかもしれないんです。武器調達役を担っていたにもかかわらず密売人・所沢篤の死でそのルートを潰された鳩舟組からすれば、新たな武器調達ルートとしてエスナを利用する算段があったかもしれません。そして、幹部の石清水の愛人だった長平樹里亜は、エスナ教祖の塩賀美智子と友人だった。となれば……石清水が長平樹里亜を通じて塩賀美智子にコンタクトを取った可能性も捨てきれません。あるいは逆に、エスナの塩賀美智子から友人の長平樹里亜を通じて石清水に話を持ち掛けたのかもしれませんが……そこは調べてみないと何とも言えませんね」

 一里塚は真剣な口調で告げた。

「石清水たち鳩舟組及び上層組織の天橋組からすれば、岡山進出及び武器調達の観点からエスナは利用できる組織である。そしてエスナの塩賀美智子からすれば、岩清水と取引ができればエスナの山口進出への足掛かりにする事ができるし、岩清水の指導で武器密輸を成功できれば、エスナ自身も武装して警察や他組織への対抗手段ができる。両者とも利害は一致しています」

「何だか……話が大きくなってきましたね」

 姫奈としてはそう言うのが精一杯だった。

「つまり一月八日に被害者二人が倉敷に行ったのは、エスナの塩賀美智子に会って事の仔細を話し合うためだったとすれば、話の辻褄が合うんです」

「それはつまり……二人が殺されたのは、そのエスナとの協力話に関する事が原因という事ですか?」

 だとするなら、犯人の可能性が高いのは、この取引が成立してもらっては困る人間という事になる。そうなると第一容疑者として浮かんでくるのは、天橋組の勢力拡大を警戒する広島の杜若組だ。

 だが、一里塚は首を振った。

「現時点において、今の話は残念ながらあくまで私の想像に過ぎません。組対の増木警部の話でも、今のところ杜若組に表立った動きはないそうですしね。それに、翌九日に長平樹里亜が東広島市に足を踏み入れていた理由もまだわかりません。いずれにせよ、まだいくつかピースが足りないのは事実です」

「そうですか……」

「今、県警に頼んで八日時点の塩賀美智子のアリバイを確認してもらっています。おそらく、今日の捜査会議はこの辺が話の中心となってくるでしょう」

 とはいえ、それは姫奈にとってはあまり気の進まない話だった。樹里亜一人でもかなり辛かったのに、この上美智子まで事件に関与しているかもしれないとなると、やはり気分的にはいいものではない。

「辛いなら、捜査を外れてもらっても構いませんよ。あなたの立場ならそれができるはずです」

「……いえ、続けます。ここまで来てやめるなんてできません」

 姫奈は歯を食いしばりながらもそう言葉を振り絞った。それに気づいているのかいないのか、一里塚は口調を変えずに頷いた。

「海江田警部ならそう言うと思いましたよ。っと、そんな事を言っているうちに到着したようですね」

 一里塚がそう言った瞬間、パトカーは捜査本部の置かれている山陽小野田署に滑り込んだのだった。


 山陽小野田署の捜査本部は人員が増えていた。岩佐刑事部長と一緒に到着した山本、仲町の広島県警コンビが加わっていたからだ。一里塚と姫奈が到着してすぐに捜査会議が始まり、岡山県警への照会結果とエスナについての報告が光沢から行われた。

「ここへきてカルト教団まで出てくるとはね……はぁ、暴力団だけでも頭が痛いのに……面倒な事にならないといいんだがなぁ……」

 正面に座る男……山口県警刑事部長の岩佐孝晴(たかはる)警視正は疲れたようにそう言った。内沢同様、十一月の県警の混乱で当時の刑事部長が辞職に追い込まれたため、その空白を埋めるために他県から異動してきたのがこの男である。もっとも、前の役職は鳥取県警生活安全部部長というキャリア組の中では今一つパッとしないポストで、例の県警の混乱の教訓から上層部が無害そうな人間をこのポストに送り込んだのではないのかというのが県警内部での評判だった。実際、仕事ぶりもあまりパッとせず、捜査の大半を部下である内沢一課長に丸投げしている事が多かった。

 捜査本部長である多賀目署長はそんな岩佐部長を無視して光沢に問いかけた。引きずり降ろされたとはいえ、この男も元捜査一課長である。

「それで、問題の教祖の一月八日及び事件当日のアリバイはどうなんだね?」

「岡山県警から先程連絡がありました。結論から言えば、彼女自身が直接今回の殺人をしでかした可能性はないと言っていいでしょう。岩清水と長平の殺害実行日である一月十五日、倉敷のエスナ本部で大規模な集会があり、教祖である神原天成こと塩賀美智子もそこに間違いなく出席しています。五百人以上の信者、及び内偵中の岡山県警の捜査員がそれを見ていますから、彼女個人に犯行は不可能です」

「個人、ね。……部下を使えば可能という事か」

 多賀目がさすがの勘の良さを見せた。

「相手が集団組織である以上、その可能性は排除できません。ただ……そうなるとその殺害の動機がわかりません。もし犯人が彼女なら交渉の過程で何かトラブルがあったと考えるのが妥当ですが、仮にトラブルがあったとしても、武器調達係の石清水を殺せば五大暴力団の一角である天橋組を完全に敵に回す事になります。エスナの連中が、そのリスクを負ってまで石清水を殺す動機など……」

 確かに、いくらトラブルがあったとしてもエスナがそこまでの危険を冒す可能性は低い。

「難しいな……。動機があるとすれば広島の杜若組という事になってくるだろうが……」

 これには派遣された広島県警の山本が答える。

「現在、広島県下において杜若組の活動は沈静化しており、表だって事を荒立てるような方針にはなっていません。ここで天橋組の武器調達係を殺して、犯人が杜若組だとばれれば五大暴力団同士による裏社会最大規模の一大抗争が幕を上げるのは明白。今の杜若組は自分の勢力が潰されるリスクを冒してまでそんな事をするような状況ではありません。というより、その状況ならエスナを襲撃するか、あるいは最悪でも両者の橋渡し役になっている長平樹里亜を殺すだけで済み、岩清水まで殺すのはやりすぎです」

「となると、杜若組の可能性も低いか……」

 多賀目が呻く。光沢がさらに報告を続けた。

「なお、問題の一月八日に関しては塩賀美智子のアリバイは確認できませんでした。内偵中の捜査員によれば、お忍びでどこかに出かけていたようだと。もちろん、行先は非公開ですが」

「問題の二人に会っていた可能性が高いという事だな」

「これが、問題の神原天成こと塩賀美智子の写真です」

 そこで正面のスクリーンに彼女の写真が写し出された。そこに写っていたのはどことなく巫女を思わせる衣装に身を包んで何かに祈っている、濃い化粧をした女性だった。

「海江田警部、どうですか? あなたの知っている塩賀美智子さんに間違いはありませんか?」

 一里塚が静かに問いかけ、捜査本部の全員の視線が姫奈に向く。姫奈はその視線に一瞬ひるみそうになったが何とかこらえ、グッと気を引き締めて正面の写真を見やった。

 パッと見た感じは別人に見える。ごく普通の少女だった美智子しか知らない姫奈にとっては、スクリーンに映る女性はあまりにもかけ離れた姿に見える。だが……

「……間違いありません。私の知っている塩賀美智子さんです」

「ほぅ。この姿ではわからないと言うかとも思ったんですが、その根拠は?」

「確かに服装も雰囲気も全然昔と違います。でも……うまく言えませんが、昔の面影があります。多分、化粧を落として私の知っている少女時代の彼女を成長させたら、こんな顔になると思います」

「そうですか……しかし、直感だけというのは弱いですね」

 だが、姫奈は悲しそうに首を振った。

「今、思い出したんです。美智子は自身の一年前に、公園でジャングルジムから落ちて額に怪我をしていたんです。大した怪我じゃなかったけど、ちょっと傷跡が残って。この写真……確かにうまく化粧はしていますけど、この額の所に……」

 その言葉に画像がアップされる。額の部分、確かに化粧でかなり見えづらくはなっているが……

「……なるほど、確かに目立たない傷らしきものがありますね」

 一里塚の言葉に、姫奈は顔をそむける。本当は認めたくないというのが本音だった。

「そもそも、塩賀という名字自体が珍しいものです。これだけ共通点があって名前まで一緒となれば、もう疑う余地はないのでは?」

 光沢が補足する。が、多賀目はさらにこう問いかけた。

「だが、こんな姿の人間が出かければ目立つはずだが?」

「いえ、普段派手だからこそ、いざ化粧を落として普通の服に着替えれば人目を忍ぶ事は容易いと思います」

「確かにそうか……それで、問題はこの女が今どこにいるのか、だが」

 その多賀目の問いに、光沢は厳しい表情を浮かべた。

「それも岡山県警が調べてきました。結論から言えば、現在行方不明です」

「行方不明?」

「正確には、昨日我々からの情報提供を受けて県警側が改めて教団に探りを入れたところ、教祖の彼女が本部にいない事が発覚しました」

「教団が隠したか?」

「いえ、それが教団の幹部陣営も慌てていて、どうも教祖個人が勝手に消えたとしか思えないそうです。より正確には消えたのは昨日の午後三時以降。礼拝を終えて自室に引っ込んだのがその時間で、その一時間後に幹部が部屋を訪れたときには姿がなかったと」

「昨日の三時……確か、この捜査本部が設置された時間ですね。事件について捜査本部を設置した旨の記者会見が行われたのも同じ時間です。当然、その様子はテレビのニュースで流れたはずですね」

 一里塚がふとそんな事を言う。

「テレビのニュースでこの事件の事を知って姿を消した、と言いたいのか?」

「現状ではそう考えざるを得ないかと。問題はどこに消えたかですが……」

 と、ここで広島県警の山本が手を上げた。

「失礼、我々としては東広島の模型商殺しについて何か情報が得られればと思っているのですが、その点はどうでしょうか?」

「そうですね……その件に関して問題になるのは、被害者たちが倉敷で塩賀美智子と会った翌日の九日に東広島を訪れ、その当日に模型商の新浪南平が殺されているという事実です。状況的一度山口に戻ってから行ったとは考えにくいので、おそらく倉敷から直接行ったと推測され、そうなると石清水もそこに同行していた可能性が浮上してきます」

 そう言われて、山本は即座にこう言葉を続けた。

「今、県警に石清水の写真を送って改めて防犯カメラや目撃証言の再確認をしています。結果が出るまでもう少しかかると思います」

「ありがとうございます。さて、憶測で話を進めるのは危険ではありますが……仮に石清水も同行していたとした場合、問題は彼らが東広島市、というより新浪南平の元を訪れた目的ですね」

 一里塚の言葉に、山本も緊張した様子を浮かべる。

「話を聞く限り、その石清水という暴力団員の目的は所沢篤に代わる武器調達ルートの開拓です。倉敷でエスナの教祖に会ったのもそれが目的。となれば、新浪に会ったのもそれに準じる何かだったと考えるのが妥当でしょうな」

「新浪は長平樹里亜の元恋人です。となれば、塩賀美智子と新浪南平の立場は非常に似通っています。双方ともに長平樹里亜の知り合いであり、そして、おそらく石清水はそのつながりを利用して武器調達に関する何かをしようとしていたという事でしょう」

「しかし、東広島の被害者は単なる一模型商です。別に裏社会に通じているわけでもない。そんな人間相手に何をするというんですか?」

 仲町が眼鏡をずり上げながら聞く。

「本当にその新浪という模型商には何もなかったんですか?」

「かなり突っ込んで調べましたが、ごく普通の模型商です。あえて何か武器関連で関係ありそうなことといえば、模型商ですから仕事でモデルガンを作っていた事くらいですが……」

「いくら武器調達に困っていたからと言って、天橋組クラスの暴力団がモデルガンを買い占めるなんてそんな馬鹿な話はないと思います」

 仲町の言葉に山本が言葉を続ける。が、一里塚はしつこく尋ねる。

「そのモデルガン、実は改造したら実銃に変換できるという事は?」

「店内にいくつか飾ってありましたが、確かに外見的には素晴らしい出来だったものの、所詮はただの模型です。改造して実弾を発砲できるような構造にはなっていませんし、それどころかまかり間違ってもそんな事が起こらないように改造できないような工夫が内部になされているくらいでした」

「……さすがにこの線はないようだな」

 多賀目はそう結論付ける。が、ここで光沢がこう発言した。

「待ってください。模型店という事は、当然接着剤なんかでシンナーを使うはずでは?」

「まぁ、確かに使いますが……まさか、シンナーを違法に大量に入手するためという事ですか?」

 仲町が疑わしそうに言う。確かに、ちょっとインパクトとしては弱い。だが、一里塚がさらにこう続けた。

「もしくは、手先が器用な点を買ったとすればどうでしょうか? 例えば、何かの原版を彫らせていたとか」

 その言葉に山本が反応する。

「原版って……もしかして、偽札ですか?」

「新たな武器調達ルートの開拓には莫大な資金が必要なのは明白です。ですが、偽札を印刷できるとすれば話は別です。天橋組の資金源にもなりますし」

 だが、山本は難しい表情をしていた。

「どうでしょう……いくら腕のいい模型商だからと言って、世界最高クラスの偽造防止システムを誇る日本の偽札の原版を作るのは至難の業です。殺された新浪がそこまでの腕前だったかと言われれば……」

「難しいですか」

 意見が尽き、何とも言えない空気が広がる。会議は硬直状態に陥りつつあった。

「まぁ、いい。この件は広島県警の捜査待ちとしよう。ひとまず我々がやるべきなのは、失踪した塩賀美智子の行方を追う事だ。各々、捜査に出てくれ。」

 それでひとまず捜査会議はお開きになった。岩佐刑事部長はそんな中でため息をつきながら部屋を出て行く。この後、また県警本部に戻るらしい。

「さて、我々も動くとしましょうか」

 一里塚がそう言うと、光沢と姫奈は彼の元へ集まった。

「しかし、何を調べるつもりですか? 私には、もう手詰まりになりつつあるように見えるんですが……」

「この事件、鍵を握るのは海江田警部の御旧友だと私は考えています」

 姫奈の問いに対し、一里塚はそんな言葉を発した。

「私の友人、ですか?」

「えぇ。殺された長坂樹里亜はもちろん、その彼女を通じて石清水が取引していた可能性が高いのが塩賀美智子。すでに二人がこの事件に関係しているのは確実です。そして捜査関係者に海江田警部がいて、解剖の執刀医は乃木坂先生。同じ山口県下の消防庁には朝島玲於奈さんがいる……。まぁ、最後の三人は偶然かもしれませんが、ここまで重なると気になるところではありますからね」

「それは……私も全く気にならないわけではないですが……」

「いずれにせよ、問題の仲良し七人組のうち所在がはっきりしているのはこれで五人。残り二人のうち、江花紅美は阪神大震災で死亡しているという事ですから、そうなると私としてはもう一人の米内涼香さんの行方が気になるところです」

「一里塚警部は、涼香も事件に関与していると思っているんですか?」

「さぁ、そこまではまだ。ただ、調べてみる価値はあると考えています」

 一里塚の言葉に、しかし姫奈は厳しい表情でこう反論した。

「でも、どうやってですか。私も帰国してからそれなりに調べましたけど、結局見つからなかったという話はしたはずですが」

「えぇ、米内涼香については一朝一夕で何か結果を出す事は難しいと考えています。もちろん、手は打つつもりですが」

 その手というのも気にはなったが、今注目すべきはそこではない。

「では、何を調べるつもりなんです」

「もし、この事件に海江田警部の御旧友たちが関与しているとするなら、その七人の中の共通項を探るべきだと思っています」

 その言葉に、姫奈は少し戸惑った表情を浮かべた。そんなものはすでに自明な事ではないかと思ったのである。

「共通項というのは、同じ小学校の同級生で普段から仲が良かったという事ですか?」

「それも共通項の一つだという事は否定しませんが……私は海江田警部たち七人に対するもっと根本的な共通項を考えています」

 そう言うと、一里塚はこう告げた。

「全員が阪神大震災の被災者で、そして全員が震災当日、同じ場所で被害に遭っていたというこの一点です」

「え?」

 思わぬ事を言われて、姫奈は絶句する。一方、光沢は真剣な表情で考え込む。

「そう言われれば……確かにそれも一つの大きな共通項ですね」

「海江田警部の話では、問題の七人は震災当日に江花紅美の自宅でいわゆるお泊り会をしていて、そこで震災に巻き込まれたという事になっています。そして、その震災で七人組の一人が亡くなり、そして生き残った六人のうち五人がすでにこの事件に関与している。おまけにもう一人の被害者である岩清水も阪神大震災の被災者の可能性が高い。……これを偶然と考えるほど、私もお人好しではありませんよ」

 そう言って微笑む一里塚に、姫奈は何かゾッとするようなものを感じた。思わずきつい口調で言い返す。

「何を考えているんですか、一里塚警部」

「……昨夜、あなたから江花紅美が震災でなくなっているという話を聞いた後、もう一度兵庫県警に問い合わせをしました。今度は『江花紅美』という名前を明示した上で、です。震災で混乱していたとはいえ、氏名までわかれば兵庫県警も該当者の死亡状況を調べられるはずです。今、その結果待ちなのですが……」

 と、そこでタイミングよく一里塚の携帯が鳴った。一里塚は発言を中断して携帯に出ると、通話をスピーカー方式にして三人にも聞けるようにした。

「一里塚です」

『お世話になっています。兵庫県警の吉岡です。ひとまず、ご依頼の件の報告を』

 電話口からは四十代と思しき男の声が聞こえてきた。一里塚は落ち着いた口調でそれに応対する。

「今、あなたの事を話題にしていたところです。それで、先程の件、わかりましたか?」

『えぇ、今回は被災者の氏名がはっきりしていたので何とかなりました。確かに、震災の犠牲者名簿の中に江花紅美、及びその父親である江花七雄えばなななおの名前が確認できます。この二名が震災で死亡しているのは事実とみて間違いありません。死因は両名とも後頭部強打による挫傷。家屋の倒壊により瓦礫などで頭部を強打したと判定されたようです』

「こちらの調査では、現在二人は無縁仏として近隣の寺院に供養されているとの事ですが、遺族はいなかったんですか?」

 一里塚の問いに、しかし吉岡と名乗った兵庫県警の刑事は否定の返事をした。

『いえ、江花七雄には離婚した妻……つまり紅美にとっての実の母親がいて、こちらは震災後も存命です。もっとも、震災当時はすでに再婚しており、紅美に対する親権も放棄してすっかり縁は切れていたようですが』

「その別れた妻の名前はわかりますか?」

 一里塚にしてもれば当然の問いだったが、それに対する吉岡の口調はなぜか深刻なものだった。

『それがとんでもない大物でした。一里塚警部は「種ヶ崎由佐子(たねがさきゆさこ)」という名前をご存知ですか? 「種ヶ崎」は再婚先の名字ですが』

 その言葉に、一里塚の表情も厳しくなった。

「……確か、今の厚生労働副大臣の名前だったと記憶していますが」

『はい。再婚相手の名前は当時兵庫県議会議員だった種ヶ崎勝臣かつおみという男ですが、この種ヶ崎勝臣は阪神大震災で自宅が炎上して死亡。たまたま友人らと城崎温泉に旅行中だった由佐子は難を逃れ、夫の地盤を引き継ぐ形で震災直後の県議会議員選挙で初当選を果たして政界入りしています。その後、兵庫県副知事にまでなったあとで兵庫から衆議院選に立候補して当選し、現在は厚労副大臣にまで昇進。将来の閣僚候補とまで呼ばれている女性です』

「そんな大物が江花紅美の母親だと?」

 予想外の話に、当事者の一人である姫奈は完全に絶句している。だが、話はまだ終わっていなかった。

『というより、父親の方もかなりの大物ですね。震災で死去した紅美の父親である江花七雄も、種ヶ崎同様に当時の兵庫県議会議員でした』

「何ですって?」

 一里塚は反射的に姫奈を見やるが、姫奈は真っ青になって首を振る。

「し、知りません。忙しそうなおじさんだなぁとは思っていましたけど、まさか県議会議員だったなんて……」

 だが、吉岡の報告は止まらない。

『しかも種ヶ崎とは議会におけるライバル関係で、とにかく事あるごとにぶつかってばかりだったそうです。由佐子はそんな中で江花を裏切ってライバルの種ヶ崎に乗り換えた構図となります。後に政界に進出した事からわかるように、由佐子も相当権力志向の強い性格です。おそらく江花より種ヶ崎の方が出世の見込みがあると考えた上での離婚からの乗り換えだったのでしょうが、この時由佐子はとんでもない手土産を種ヶ崎にもたらしています』

「一体、何なんですか?」

『江花の汚職疑惑に関する証拠一式です』

 吉岡はとんでもない爆弾を叩きつけていた。

「汚職……ですか」

『具体的にはこうです。当時、神戸市内に「神戸第三建設」という会社がありましてね。主に建設鉱山用機械の製造・輸出を行っていた会社ですが、当時建設中だった明石海峡大橋の建設に使用されていた建設用機械の受注を得るために県会議員の誰かに賄賂を渡して圧力をかけたという噂があったんです。まぁ、最終的に受注そのものは失敗して他の会社が建設機器の提供を請け負ったんですが、これが本当なら当時独自の経済政策で急発展を遂げた神戸を揺るがす大スキャンダルです。で、種ヶ崎に寝返った由佐子がもたらした手土産が、江花がこの神戸第三建設の賄賂を受け取った証拠だったらしいんです。種ヶ崎はこの証拠を元に議会で江花を追求し、江花はかなりの劣勢に立たされていました。また、全国的に注目されていた明石海峡大橋絡みの汚職事件という事で、関係機関が極秘に江花に対する捜査を進めていたという記録も残っています』

「そんな事件があったこと自体、私も初耳ですが」

『当然です。事件が本格化する前に震災が発生し、当事者である江花はもちろん、追及役の種ヶ崎や賄賂元である神戸第三建設の幹部たちが根こそぎ死亡してしまいましたから。由佐子が種ヶ崎に渡したとされている証拠も火災に巻き込まれて議会に提出する前に炎上してしまい、実際の所それがどんなものだったのかは不明。また、神戸第三建設は震災で工場そのものが崩壊してしまい、幹部たちが死亡してしまった事もあって震災直後に倒産。震災の混乱と関係者がほぼ全員鬼籍に入ってしまった事、また完成間近だった明石海峡大橋絡みのスキャンダルを嫌う県側の方針も相まって、結局この件は震災後にうやむやのまま終わってしまっています。なので、警察関係者でもこの事件の事を知らない人間は多いはずです』

「そうですか……」

 まさかここに至ってあの明石海峡大橋に絡む政治スキャンダルが出てくるとは思っていなかったのだろう。さすがの一里塚も難しい表情を浮かべていた。

「政治絡みとなると厄介ですね。こうなるとその種ヶ崎由佐子に話を聞きたいですが、副大臣となるとそっちは警視庁へ照会する必要がありますが……ひとまずそれは置いておきましょう。他に何か情報はありますか?」

『もう一つ。兵庫消防庁に問い合わせた結果、江花邸における救出作業の記録が見つかりました』

「記録が残っていたんですか?」

『もちろん、街そのものが崩壊していてあちこちで救助作業をしなければならなかったあの状況でいちいち記録を残すような事は本来まずしないのですが、救助に参加した隊員の一人が震災中とはいえ記録は残しておくべきだと考えたらしく、後でちゃんと記録を残しておいたんです。もっとも、今の今まで消防庁の奥で埋もれていたようですが……今からその資料をファックスします』

「お願いします」

『こちらからは以上です。また何かありましたら連絡します。では』

 ここで電話が切れる。同時に、本部に設置されたファックスがうなりをあげ、いくつかの書類を吐き出した。

「海江田警部、少しお願いがあるのですが」

 ファックスされてきた書類を整えながら一里塚が言う。

「何でしょうか?」

「あなたは問題の江花邸がどのような構造だったのかを知る数少ない人間です。思い出せる限りで結構ですので、崩壊前の江花邸の大まかな見取り図を描いてもらえませんか?」

「見取図、ですか」

 なぜそんなものを描くのかよくわからなかったが、姫奈は承知して手近なコピー用紙に思い出せる限りの紅美の家の見取り図を描いた。十五分ほどでそれは仕上がり、それを一里塚に渡す。

「大まかですけど、多分それで間違っていないと思います。それで、一体なぜそんなものを?」

「これと見比べてみようと思いまして」

 そう言って一里塚が示したのは、先頬ファックスされてきた資料の中の一枚で、『要救助者発見場所詳細図』と書かれたものだった。どうやら、現場のどの地点で救助者が救助されたのかを示した地図らしいのだが、当然その紙の図には崩壊して瓦礫だらけになった状態での発見場所しか書かれていない。

「だから、これと照らし合わせれば、震災当時被災者たちが家のどの場所にいたのかが概ねわかるわけです」

 そう言いながら見比べていた一里塚だったが、不意にその目が光った。

「これは妙ですね……。海江田警部、確かあなたの話では、江花紅美の父親……つまり江花七雄は帰宅した後すぐに自室に引っ込んだという事でしたね?」

「え、えぇ。その通りです」

 その答えに、一里塚は書かれた見取図を指しながら告げる。

「江花七雄の自室はこの北東の角の部屋のようですね。海江田警部たち七人が就寝したという客間はここ……江花七雄の自室の正面に当たる北西の部屋です。しかし……兵庫消防庁の記録では、江花七雄の遺体が見つかったのは玄関すぐ横の南東の角にある仕事部屋の場所です」

「え?」

 姫奈は慌てて二枚の見取り図を見る。すると確かに、江花七雄の発見場所は崩壊した自宅の南東の場所だとはっきり明記されていた。見取図に従えばそこは七雄の仕事部屋であり、姫奈が最後に入っていくのを見た彼の自室である北東の部屋とは真反対の場所である。それどころか……

「待ってください、これ……紅美も同じ場所から見つかっているんですか?」

 そう、発見場所の地図を見る限り、もう一人の死者である江花紅美も父親の七緒と同じ仕事部屋のあった南東の場所から遺体が発見されているのである。

「いくら震災で自宅が崩壊したからと言って、人間の体がここまで離れた場所に移動するなどという事はあり得ません。となれば、このような事が起こるのは震災直前の時点で彼らがこの場所にいたからとしか考えられません。つまり震災直前、この二人は仕事部屋にいたと考えるべきなのでしょう」

 一体何がどうなっているのか姫奈にはわからなかった。だが、一里塚はさらに追い打ちをかける。

「それともう一つ……この発見場所には問題があります。いるべき場所にいない人間がまだ存在するという事です」

 そう言うと、一里塚はある名前を指さした。そしてその瞬間、姫奈は完全に言葉を失った。

『海江田姫奈』

 その名前が書かれているのは当然彼女が寝ていた北西の客間でなければならないはずだった。だが、実際にその名前が書かれていたのは全くの逆……家の一番南、問題の仕事部屋のすぐ横にある玄関周辺の辺りだったのである。

「嘘……」

「どうやら海江田警部、あなたは震災の起こった一九九五年一月十七日午前五時四十六分におとなしく客間で寝てはいなかったようですね。それにもう一人……」

 一里塚はその横を指さす。そう、姫奈の名前の横、ほぼ同じ場所からもう一人別の人間が救助された旨の記載がそこにはあった。その名前はこう書かれていた。

『米内涼香』

 その瞬間、姫奈は思わず一里塚の方を見やった。一里塚は真剣な表情で頷いている。

「これは、本格的に彼女の行方を調べなくてはならないようですね。あの震災の夜……江花邸で一体何が起こっていたのか。十三年前の真実を知る事が、今回の事件の解決につながるかもしれません。海江田警部、改めて聞きますが、あなたは震災時の記憶は存在しないのですね? 思い出すのは辛いでしょうし、ひどい事を言っているのは重々承知していますが、いかがでしょうか?」

 そう言われて、姫奈は頭に手を当てたが、やがて辛そうに首を振った。

「……すみません。私、本当に何も覚えていないんです。最後の記憶は客間でみんなとお喋りをして電気を消したところまでで、その次はもう地震の一週間後に病院のベッドの上で気づいたときの記憶なんです。私が玄関の所で助かったということ自体、十三年経った今日初めて知った話です」

「では、質問を変えます。その電気を消した時間というのは何時の事でしたか?」

 そう聞かれて、姫奈は顔をしかめながらもなんとか思い出そうとしていた。

「あれは……確か地震前日の午後十時頃の事です。寝る前に懐中時計を見た記憶があります」

「あの形見の時計ですね。では次の質問ですが、江花紅美の父親である江花七雄が帰宅したのはいつですか?」

「それは……その一時間くらい前だったと思います。客間の私たちに挨拶して、そのまま自室に戻ったはずです」

「一時間前という事は午後九時ですか。では、そこから寝るまでの間に彼は自室を出入りしましたか? 客間と彼の自室は近くですから出入りがあればわかったはずです」

「……いえ、出入りはなかったはずです。一里塚警部の言われたように、あれば気付いたはずですから」

「そうですか……」

 一里塚がそう言って何事かを考え込んだ……まさにその瞬間だった。

 突然、捜査本部に緊急無線の声が響き渡った。

『県警本部から各局! 県警本部から各局! 午前十一時四十五分頃、山口市内のマンション「クイーンズパルス山口」にて火災が発生したとの通報あり! 何かが爆発したとの目撃証言も入っている! 近隣捜査員は直ちに現場に急行されたし! 繰り返す……』

「マンション火災、ですか」

「物騒ですな。確か一週間前にも東京の高円寺(こうえんじ)でホテル火災があったばかりだというのに」

 姫奈と光沢がそれぞれそんな事を言うが、一里塚はなぜか厳しい表情をしていた。

「なぜでしょうね……妙に胸騒ぎがするのですが……私の気のせいならそれでいいのですが……」

 ……だが、図らずも一里塚のこの不安は的中してしまう事となる。それは、この事件が新たな局面に入った事を示す、盛大な合図となったのであった……。


 同時刻、山口市の山口駅近くにある二十階建てタワー型高層マンション「クイーンズパルス山口」の十五階から煙が吹き出していた。大勢の野次馬が押しかけている中、山口消防庁特別救助隊……すなわちレスキュー隊隊員の朝島玲於奈は緊張した様子で他の隊員と一緒に現場に臨場していた。先行する部隊長が臨場していた警察官や消防士たちに問いかける。

「状況は?」

「十五階から出火! 火の勢いはそれほどではありませんが、上の階に多くの逃げ遅れた住民が取り残されているようです!」

「非常階段は使えるか?」

「まだそこまで火は廻っていません! ただ、煙がかなり出ていて一酸化炭素中毒になる危険性があり、上層階の住民も煙のせいで逃げられないようです」

「わかった。住民の救助はこっちでやるから、引き続き鎮火を急いでくれ」

 隊長はそう言うと隊員たちに合図を送り、玲於奈たち隊員は防火服に防煙マスクという格好でマンションの中へと突入していった。高層タワーマンション上層階での火災なのではしご車による救助が難しく、レスキュー隊が直接救助する他ないのである。当然エレベーターは停止しているため、全員で非常階段を一段一段踏みしめながら上層階を目指す。と、ここで先行していた消火部隊から無線が入った。

『出火元は十五階の一五〇三号室で、爆発による出火の可能性大! 煙がひどくて視界は不良なるも、要救助者が十五階以上に多数存在する様子! 応援求む!』

 それから数分後、レスキュー隊はようやく出火元である十五階に到着した。非常口の入口はエレベーターホールの横に接続しているが、その扉の奥は煙が充満しており、非常口の所で放水をしている消火部隊もかなり苦戦しているようだった。

「ひとまず火はほとんど消えていますが、この煙です! 一刻の猶予もありません!」

 消火部隊の隊長の言葉にレスキュー隊の隊長が指示を出した。

「よし、まず十五階の救助を始めよう! 時間との勝負だぞ!」

 玲於奈は隊長に続いて十五階に飛び込んだ。エレベーターホールに飛び込むと、うっすらと廊下や扉が見えてくる。あちこちくすぶってはいるが、消火部隊の活躍で火の気はほとんどなくなっていた。隊員たちは手近なドアを次々破りながら、部屋の中を逐一確認していく。

「生存者一名確認! 救助を開始する!」

 いくつかの部屋で隊員の声が聞こえる。やはり、何人か逃げ遅れた人間がいたようだ。玲於奈も慎重に部屋を確認していくが、そのうち明らかに異常な部屋の前に到達した。ドアが根元から吹っ飛び、中が一際くすぶっている部屋……出火元の一五〇四号室だ。勇気を出して中を覗くと、確かに滅茶苦茶になっていて明らかに爆発があったようにしか見えなかった。これでは部屋の中に人がいたらひとたまりもないだろう。

「レスキュー隊です! 誰かいませんか!」

 中に呼びかけるが返事はない。が、玲於奈の目は、部屋の中心に転がっている何かを見つけていた。窓が割れて煙がそこから出ているため、廊下に比べると煙の濃度が薄い。それを確認すると玲於奈は躊躇することなく部屋の中に飛び込み、部屋の中心に近づいた。

「っ!」

 直後、思わず玲於奈は絶句していた。部屋の中心……そこには二人の人間がうつぶせに倒れていたのである。二人とも若い女性であるが、一人は右足の上に瓦礫が落ちていてピクリとも動かない。近づいて脈を診るが、こちらは完全に事切れているようだ。

 それを確認すると、玲於奈はすぐにもう一人の方に近づく。こちらは事切れていた女性と比べて少し派手な服を着ており、見た限りでは五体満足である。だが、爆心地にいたとすれば生存している可能性はかなり低いはず。そう思って脈を診ようとしたその瞬間だった。

「う……」

 不意に女性が呻き声を上げた。玲於奈の目に緊張が走る。

「大丈夫ですか!」

 声をかけると、その女性はうっすらと目を開けた。まだ息がある。ただ、状況から見てかなりの重傷だ。しかも先程は見えていなかったのだが、腹部からかなりの出血をしている。はっきり言って絶望的な容体だった。

 だが、それでも玲於奈は必死に叫んでいた。

「しっかりしてください! レスキュー隊です! もう大丈夫ですよ!」

 しかし、女性は再び目を閉じようとする。ここで意識を失ったらもうどうしようもない。玲於奈も必死だった。

「あなたの名前は! 名前を聞かせてください!」

 意識を失わせまいと玲於奈は必死に呼びかける。それが聞こえたのかどうか、女性はもう一度目をうっすらと開けると、かすれるような声で振り絞るように告げた。

「なつか……すず……」

 だが、それが限界だったらしく、そこで女性は力尽きるように意識を失った。だが、脈はまだある。とにかく一刻も早く病院に運ぶしかない。

「おい、大丈夫か!」

 と、仲間の隊員が何人か飛び込んできた。玲於奈は反射的に叫ぶ。

「生存者一名! 応援を頼む!」

 その言葉に、レスキュー隊員たちは即座に動いた。持ってきた担架に彼女を乗せ、そのまま非常口の入口まで運ぶ。とはいえ、このまま一階まで下ろしていては間に合わない。

「今、屋上に救助ヘリを要請した! 屋上へ運ぶぞ!」

 隊長の判断で、担架はそのまま屋上へと運ばれる事となった。それから二十分ほどかけて慎重に担架を運んで屋上に出ると、そこにはすでに救助ヘリが到着していたが、この時点で女性の脈はかなり弱くなっていた。

「急げ!」

 担架はヘリに乗せられ、そのままヘリは飛び去って行く。幸い、他に死者や重傷者はおらず、充満していた煙も徐々に薄くなっていって、火災そのものは収束しつつあった。

 だが、出火元となった一五〇四号室には、すでにこと切れていた女性の遺体が転がっていた。しばらくして安全が確認されると、山口県警火災調査部の刑事たちが次々と現場に踏み込んでくる。初めて部屋に踏み込んだ人間という事で、玲於奈も一五〇四号室で刑事から事情聴取を受けていた。

「すると、発見した時点であの女性はすでに亡くなっていたんですね?」

「はい。なので脈があったもう一人の女性の救助を優先しました」

「救助された女性は何か言っていませんでしたか?」

「意識がほとんどない状態でしたが、確か……『なつか、すず』というような事を言っていました。名前を聞いた上での返答ですので、おそらく彼女の名前かと」

 と、その時この会話を聞いていた同僚のレスキュー隊員が突然声を上げた。

「思い出した! あの要救助者、どこかで見たと思ったら……」

「知っているんですか?」

 刑事がその隊員に尋ねると、隊員は頷きながら告げた。

夏風涼なつかぜすずですよ。ほら、テレビなんかでよく活躍しているアイドル歌手の女の子。妹がファンで、写真を見た事があります」

「アイドル歌手、ですか」

 予想外の身元に刑事も玲於奈も戸惑う。が、その隊員はさらにこんな事を言った。

「そう言えば、妹の話だと昨日から福岡ドームでアイドル歌手の子が集まったコンサートが開かれていて、彼女もそこに参加していたはずです。でも、コンサートに出ているはずの彼女が何でこんなところで……」

 と、その時遺体を調べていた別の刑事が叫んだ。

「所持品の中に運転免許証がありました! 顔写真とも一致します!」

「身元がこれでわかるな」

 刑事が少しほっとしたような表情を浮かべる。が、読み上げられた名前を聞いて、今度は玲於奈が絶句した。

「名前は塩賀美智子、二十五歳。本籍地は岡山県倉敷市……」

「えっ……」

 それは、あの震災でバラバラになってしまっていた仲良し七人組の一人の名前だった。もちろん、玲於奈は彼女がカルト教団の教祖をしていた事などこの時点ではまだ知らない。だからこそ、いきなりこの場で彼女の名前が出てきた事に驚いていた。当然、それを聞き逃す刑事ではない。

「どうかしましたか?」

「いえ、その……私の昔の友人の名前と一緒だったもので……」

 その言葉に、刑事が目を光らせて何かを聞こうとする。が、その前に別の刑事がさらなる報告をしてきた。

「瓦礫の中に女物のバッグを発見! 中に運転免許証が入っています! 写真を見るに、もう一人の搬送された女性の物のようです!」

「それならさっき身元は判明していただろう。確か、夏風涼とか……」

「いえ、名前が違います。アイドル歌手だというなら、そっちは芸名かもしれません」

「何だと?」

 続いて読み上げられた名前に、今度こそ玲於奈は顔を真っ青にさせた。

「本名は米内涼香、二十五歳。本籍地は東京都文京区……」


 三時間後の午後二時、山口中央大学の法医学教室のある建物に、一里塚、光沢、姫奈の三人が飛び込んできた。マンション火災の被害者の名前が塩賀美智子と米内涼香だと発覚した時点で事件は山陽小野田署の捜査本部が引き継ぐ事となり、塩賀美智子の遺体が運び込まれた山口中央大学に三人が駆け付ける事になったのだった。解剖室の前に行くと、そこにはベンチに座ったまま呆然としているレスキュー服の玲於奈と、そんな玲於奈の前で腕組みをして厳しい表情をしている奈々の姿があった。

「奈々、玲於奈!」

 姫奈が呼び掛けると、二人はハッとしたように顔を上げる。

「来たわね。一体何がどうなってるのよ。何で美智子と涼香がこんな事に……」

 奈々が問い詰めるが、姫奈だって何がどうなっているのかわからない。

「わからない。正直、捜査本部も混乱してる」

「でも、樹里亜があんな事になって、警察は二人の行方を掴んでいなかったの?」

「今朝になって美智子が倉敷にいる事まではわかったけど、涼香の方は本当に消息不明だったの。まさか、夏風涼の名前でアイドル歌手をやっていたなんて……」

 小学校時代に活発な剣道少女だった彼女を知っている姫奈たちからすれば、あまりにも予想外すぎる正体である。

「ねぇ、今、美智子が倉敷にいたって言ったけど、あの子倉敷で何をやっていたの?」

 玲於奈が急にそんな問いを発する。姫奈は一瞬一里塚の方を見たが、一里塚が頷くのを見てゆっくり答えた。

「こっちも信じられない話だけど……『エスナ』っていう新興宗教団体の教祖をやっていたみたい。しかも、事件直前に樹里亜と接触していた可能性が高くなっていて、今朝この情報が入ってから私たちも美智子の行方を追っていたの」

「エスナって……確か何回かニュースになっているあのカルト教団? 何で美智子がそんなところの教祖になってるのよ!」

 奈々が叫ぶが、何がどうなっているのか聞きたいのは姫奈も同じである。

「わからない……。ただ、一月八日に樹里亜が倉敷にいた美智子と接触していた可能性が高いのは確か。しかも、もう一人の被害者だった暴力団員の石清水と一緒に」

「樹里亜と美智子は大分前に再会していたって事?」

「そうかもしれない。それに、同じ部屋にいたって事は、美智子と涼香も大分前に再会は終えていたって事になるかもしれない。そして、それなら美智子を通じて樹里亜と涼香が顔を合わせていた可能性も否定できないわ」

「何だかなぁ……私たち三人がやっと再会したときには、向こう三人はもう再会した後だって事なのか……何がどうなってるのよ」

「……何だか、話が大きくなりすぎて、私、もう何が何だか……」

 奈々に続いて、玲於奈は少し疲れたようにそう言った。

「……美智子の解剖は奈々がするの?」

「えぇ。教授に無理を言って許可をもらった。せめて、最後くらい私が見送ってあげたいし。それに……事の次第じゃ、涼香も私の所に来るかもしれないし」

 その言葉に、姫奈は思わず玲於奈を見やった。

「どういう事?」

「……発見した時はまだ脈があったけど、それから屋上に運んでヘリに乗せた時点で、涼香はもう心肺停止状態だったの。私も今まで色々な現場を見てきたけど、あの状況から復帰できた事例は一度もないわ。まだ死亡診断は出ていないけど……正直、覚悟はしておいた方がいいかもしれない」

「そんな……」

 と、そこで奈々が呟いた。

「何にしても……あの時の仲良し七人組で無事なのは、ここにいる三人だけになっちゃったって事ね。本当に……何でこんな事に……」

 その場に重苦しい空気が漂う。と、その時一里塚の携帯が鳴った。ここは一般病棟ではなく解剖室なので携帯電話は許可されている。姫奈たちがそっちを向くと、一里塚はその相手について簡潔に答えた。

「福岡県警です。米内涼香さんは福岡のコンサートに出ていたという事ですので、その足跡を追うために捜査協力を要請していました。何にせよ、福岡にいたはずの彼女がなぜ山口にいたのかという謎を解かねばなりませんのでね。あなた方にも聞く権利はあるでしょう」

 そう言うと、一里塚は携帯をスピーカーにして相手の声が聞こえるようにする。すると、電話口の向こうから苦々しい声が聞こえてきた。

『おう、久しぶりだな。こうやって話をするのは何ヶ月ぶりだっけな』

「お元気そうで何よりです。例の所沢篤の事件以来ですね、三崎(みざき)警部」

 電話の相手は、数ヶ月前の所沢篤殺害事件……通称「耳なし芳一殺人事件」で一里塚ら山口県警と合同捜査を行った福岡県警刑事部捜査一課警部の三崎康夫(やすお)警部だった。久しぶりの邂逅となるが、今はのんびり挨拶している場合ではない。

『堅苦しい挨拶は抜きだ。仕事の話をするぞ』

「望むところです。それで、依頼した米内涼香こと芸名・夏風涼の足取りはどうなっていますか?」

『まず、夏風涼というアイドル歌手が福岡のコンサートに出ていた事は間違いない。複数のアイドル歌手による福岡ドームでのコンサートで、期間は一月十六日から一月十八日……つまり今日までの三日間だ。イベント関係者の話では、彼女は一昨日及び昨日のコンサートには問題なく出演しており、昨日コンサートが終了したと同時に予約したホテルに引き上げている。そしてこれが重要なんだが……今朝方福岡県警は、夏風涼の所属事務所から彼女の失踪届を受けていた』

「失踪届、ですか?」

 何やら不穏な話に、一里塚の顔も真剣になる。

『あぁ、今朝になってホテルの部屋から消えていたそうだ』

「誰かにさらわれた、という事ですか?」

『いや、部屋を調べたが強引に連れ去った形跡はなく、自分から出て行ったとうちは判断している。何しろ今日のイベント直前だからマネージャーたちはパニックになって、うちの県警に失踪届を出した。その矢先に山口で問題の火災だ。今、彼女のマネージャーたちがそっちへ向かっている。詳しい話はそいつらから聞いてくれ』

「もちろんですが……『たち』というのは?」

『なんでも、同じコンサートに出演していて仲の良かった同じ事務所のアイドルの子が同伴しているそうだ。それと、所属事務所の顧問弁護士も一緒らしい。山口で合流してそっちに行くそうだ』

「顧問弁護士、ですか。妙に動きが素早いですが」

 一里塚は不審げに言う。が、三崎は難しい声でこう告げた。

『いや、それがマネージャーの話だと、本来ならコンサート終了後に夏風涼はその顧問弁護士と面談をするはずだったらしい。つまり元々弁護士が来るはずだったんだが、事件を受けて急遽予定を変更したという事だそうだ。夏風涼は何か弁護士に相談事があったようだが、その内容までは聞き出せなかった。それもそっちで聞き出してくれ』

「わかりました」

『それでだな……うちに失踪届が出されていたアイドルの女の子が死んだって事で、うちの本部長も気合を入れちまってな。まぁ、失踪届が出された人間が他県で殺されてそのままお終いというのはこっちとしても沽券に係わる。だから、そっちに正式な捜査協力をしてはどうかというんだが、そっちとしてはどうだ?』

「異論はありません。情報はあればあるほどいいですから」

『なら話は早い。ひとまず、俺がそっちに行く事になりそうだ。福岡からなら一時間半くらいでそっちに行けるだろう。ま、所沢の事件以来だが、よろしく頼む』

「こちらこそ。それでは後程」

 そう言って一里塚は電話を切ると、姫奈を見やった。

「どう思いますか?」

「涼香がイレギュラーな行動をとったって事はわかりました。あと、弁護士と会談するつもりだったという情報が気になります」

「私もです。この辺は話を聞くしかありませんが……」

 一里塚はそう言って何事かを考える。

 と、その時だった。不意に奈々の携帯が鳴り響き、その場に緊張が漂った、奈々は震える手で携帯を取り出すと、それを耳に当てる。

「はい、乃木坂です。……はい……そうですか……わかりました、準備をしておきますので……それでは」

 会話は短かった。だが、携帯を切ったあとの奈々の表情で、その連絡が何なのか姫奈にもすぐにわかった。

「……たった今、山口中央大学付属病院に緊急搬送された涼香の死亡が医師によって宣告されたわ。不審死だから、私が解剖する事になる。……覚悟はしていたけど……重いわね」

 その瞬間、玲於奈は耐え切れなくなったのか手で顔を覆って嗚咽を漏らした。姫奈も泣きたいのは一緒だったが、立場上この場で泣く事はできない。歯をくいしばって耐えていると、奈々がポツリと呟くのが聞こえた。

「まったく……何で私が友達を三人も解剖しないといけないのよ……私、そんな事のために解剖医になったわけじゃないのに……」

 奈々の言葉が姫奈の胸に重く響く。そして、それは姫奈も友人三人……もしかしたら状況に不自然な点が出てきた江花紅美の件も含めれば四人もの友人の死の真相を暴かねばならないという事を、ある意味暗示する言葉となったのだった……。


 それから三十分後、付属病院から夏風涼こと米内涼香の遺体が解剖室に送られてきた。そして、姫奈は解剖室の前の廊下で、十五年ぶりに遺体という形で涼香と再会する事になった。

 ストレッチャーに横たえられた遺体は予想外に穏やかで、パッと見た限りは眠っているようにも見える。が、腹部からにじみ出ている大量の血痕やあちこちに残る焦げ跡が、彼女の死が尋常でない事を如実に示していた。アイドルだった事もあって顔つきはかなり綺麗になっているが、姫奈から見れば確かに昔の面影がかすかに残っているように見える。それが、姫奈の胸に重い気持ちを生じさせていた。

 そんな中、奈々は辛そうな表情をしながらも努めて冷静に告げた。

「では、解剖に移ります。立ち合いは?」

「俺が行く。警部、いいですか?」

 手を上げたのはそれまで黙っていた光沢だった。一里塚は頷く。

「お願いします。我々はこの後来るであろう米内涼香の関係者から話を聞いておきます」

「了解です。では」

 そう言って、奈々と光沢が解剖室に入ろうとした時だった。

「涼!」

 突然、廊下の向こうからそんな声が響いた。振り返ると、見るからに舞台衣装らしき服を着込んだ若い女性が血相を変えてこちらへ走ってくるところだった。そして、そのまま涼香の横たわるストレッチャーに駆け寄ろうとする。

「何で……どうしてこんな事に! 何でこんなところで死んでるのよ!」

 遺体に縋り付こうとする彼女を光沢と姫奈が懸命に押しとどめるが、彼女は諦めようとしない。衣装から見るに、どうやら先程の三崎の電話で来ると言っていた同じ事務所のアイドルの女の子らしいが、生憎姫奈は彼女を知らなかった。

「何するのよ! 邪魔しないでよ!」

「そういうわけにもいきません。あなたは?」

浮雲瑠衣うきぐもるい! この子と同じ事務所のメンバーよ! ねぇ、何でこんな事になったのよ!」

「それを今から調べるんです」

 一里塚が務めて静かに言うが、瑠衣の激昂は収まらない。

「調べるって何をするつもりよ!」

「司法解剖です。彼女は不審死ですので、死因特定のために解剖が必須となります」

「か、解剖って……冗談じゃないわ! 涼の体を切り刻むなんて!」

「しかし、しなければ事件を解決する事ができません」

「そんなの認めないわ! 今、事務所の弁護士と一緒に来てるから、何としてもやめさせて……」

「いい加減にしなさいよ!」

 と、突然誰かが瑠衣を怒鳴りつけた。その剣幕に瑠衣は思わず言葉を止める。誰が言ったのかと振り返ると、意外にも叫んだのは解剖医の奈々だった。

「みっともないったらありゃしない。こっちも仕事だから、おとなしくそこで待っていてくれる?」

「何よ、偉そうに! あんたに何の権限が……」

「頼むから静かにして。他の人の迷惑になるのよ、北麗香きたれいかさん!」

「……え?」

 今度こそ、瑠衣の表情が固まった。そして、少し声のトーンを下げながら震える声で尋ねる。

「どうして……どうして私の本名を知ってるの? 私、芸名しか名乗っていないのに」

「……すぐに我を見失うその性格、昔から変わっていないわね」

 奈々がそう吐き捨てた瞬間、解剖室から助手が声をかけた。

「乃木坂先生、準備が整いました」

「わかった。すぐ行く」

 だが、その言葉に目を見開いたのは他でもない奈々だった。

「乃木坂……もしかして、あんた、奈々?」

「そうよ。久しぶりね」

「な、あんたこんなところで何してるのよ!」

「何って、見てわからない? 今の私は法医学教室の解剖医なの。あなたと違って、私は芸能界をやめたから」

「解剖医って……何でそんな職業に……」

 何が何だかわからないのは他の面々だ。姫奈が恐る恐る聞く。

「えっと、どういう事なの?」

「彼女……本名・北麗香は私の子役時代のライバルよ。当時は同じく子役で、私が芸能界をやめた後も芸能活動を続けていたみたいだけど。でも、まさか涼香と同じ事務所だったなんてね。妙な因縁だわ」

 思わぬ繋がりに姫奈と玲於奈は絶句したが、しかし直後の瑠衣……否、麗香の反応はさらに思わぬものだった。

「ちょっと待って! 何で奈々が涼の本名を知ってるのよ」

「何でって、涼香は私の小学校時代の同級生よ。私だけじゃなくて、ここにいる二人もだけど」

「何ですって! そ、そんな……こんなところに答えがあったなんて……」

 麗香はそう言うと、なぜか呆然として三人を眺める。その反応は、どう見ても不自然なものだった。そして、それを黙って見ている一里塚ではない。

「失礼、県警捜査一課の一里塚と言います。今、『答えがあった』とおっしゃいましたが、それは一体……」

「あ……えっと……それは……」

「それは私が説明します」

 と、そこで別の声が響いた。振り返ると、廊下の向こうにビジネススーツを着た麗香より少し年上……おそらくは三十前後の女性が立っていた。

「あなたは?」

「失礼。彼女の事務所の顧問弁護士をしています、淀村伊織よどむらいおりと申します。以後、お見知りおきを」

 どうやら、三崎の言っていた顧問弁護士のようだ。だが、これに反応したのは、またしても奈々だった。

「もしかして……イオ先輩ですか?」

「そう言うあなたは奈々ちゃんね。久しぶり」

「奈々、知ってるの?」

 玲於奈が聞くと、奈々は頷いた。

「私が子役だった時代にアイドル活動をしていた、当時の事務所の先輩よ。アイドルとしての名前は『水上(みずがみ)イオ』。聞いた事くらいあるんじゃない?」

「確か、私たちが小学生の時にはやっていたアイドルグループのメンバーよね」

 姫奈が答えると、伊織が頷いた。

「えぇ。もっとも、引退した後は芸能界から身を引いて、こうして法律家になったんだけどね。まぁ、その縁でこうして芸能事務所の顧問弁護士をさせてもらっているんだけど」

 と、ここで一里塚が口を挟んだ。

「失礼ですが、説明というのは何でしょうか?」

「あぁ、失礼しました。実は、夏風涼こと米内涼香さんには以前からよく相談を受けていましてね。事情をよく知っているのです」

「事情とは?」

 続く言葉に、その場の誰もが絶句した。

「これはオフレコにしてほしいのですが……実は彼女、ちょっとした記憶喪失だったんです」

 思わぬ言葉に、誰もが言葉を失うが、一里塚だけは冷静に尋ね返していた。

「記憶喪失とは、どういう事でしょうか?」

「彼女は中学生以前の記憶がないそうなんです。覚えているのは『米内涼香』という本名だけで、それ以外の記憶が全くない。一番古い記憶は、大阪の孤児施設の厄介になって府内の中学校に通っているところだそうです。要するに、彼女は自分の過去が自分でもわからなかったんです。その後、彼女はスカウトを受けて芸能活動を始めたんですが、人気アイドルになった後も消えた記憶の事は気にしているようでした」

 伊織は衝撃的な話を続けていく。

「孤児院の園長の話では、十五年前の阪神大震災の時に倒壊した家から救助されたらしいんですが、その時点で記憶を失っていて、自分が誰なのかもわからくなっていたそうです。しかも頭部にかなりの重傷を負っていて、すぐに病院に運ばれたところまでは良かったんですが、震災の混乱のせいで彼女の発見場所がどこだったのかも判然としなくなってしまいましてね。まぁ、あの状況では救急隊員もいちいちどの場所からどの人物を運んだかを覚えていないのも無理はない話でしょうが」

 そう言うと、伊織は軽く首を振る。

「何にせよ、おかげで最初は彼女の身元がまったくわからない状態でしてね。最終的に紆余曲折の末に結局ボランティアに参加していた孤児院の園長先生の助力で彼の孤児院が彼女を暫定的に引き取る事になりました。もちろん身元が分かり次第家族の元へ戻すという条件付きで、園長先生は神戸市と協力して彼女の身元調べを続けていたそうですが、震災の混乱で身元調べはあまりうまくいかず、進展があったのは彼女が高校一年生になった時でした。ひょんなことから、彼女は自分の名前を思い出す事に成功したんです。それでようやく戸籍上の身元だけはわかりました」

「だから、彼女は本名だけは知っていたという事ですね」

「はい。ところが、身元がわかって家族に連絡を取ろうとしたところ、彼女の家族や親類は震災で全滅していた事が発覚しましてね。要するに、引き取り手が全くいない状態だったわけです。結局、彼女はその後も孤児院で生活する事となり、高校三年……孤児院を出る直前に芸能界デビューする事に成功しました。なので、彼女は知識として自分がどういう経歴の人間でどういう家族がいたのかは教えてもらっていても、具体的な小学校以前の経験や交友関係については全く覚えていないという状態だったわけです」

「そんな……」

 ある意味、あの震災に巻き込まれた七人の中でも、死亡した江花紅美を除けば一番残酷な話だった。同時に、今まで彼女の行方が全く分からず、また、彼女の方からも姫奈たちに連絡がなかった理由がこれではっきりした。だが、そんな中で一里塚だけはあくまで冷静だった。

「なるほど、彼女が記憶喪失だったという事はわかりました。しかし、それなら相談相手になるのは普通心療科医などの医療関係者のはず。弁護士のあなたが相談相手になっているというのはどういう事でしょうか?」

 その問いに対して、伊織はこう答えた。

「実は、ここ十三年間全く戻る気配のなかった記憶が、この一ヶ月の間に戻りそうな兆候を見せたんです。ただ、その戻りかけた記憶というのが問題で、彼女の所属事務所から私に相談がなされていたというわけなんです」

「問題というのは?」

「……そもそもの始まりは、昨年の十二月末のクリスマスの頃に、イベントで岡山に行ったときの事だったそうです」

 その「岡山」という言葉に、一里塚は顔を引き締める。岡山という事になれば、当然今回一緒の部屋にいたエスナの教祖・塩賀美智子の存在が嫌でも浮かんでくるからである。

「私は同行したわけではありませんからマネージャーからの又聞きになりますが、イベントそのものは簡単なものだったそうです。イベントは無事終了し、そのあと少し時間があったので彼女は自由行動に出かけたらしいですが……その後三時間くらいしてホテルに帰って来た時点で様子がおかしかったそうです。なぜか不安げな表情で黙ったまま部屋にこもってしまい、翌日以降もどこか表情に陰りが出るようになったという事だそうです。で、さすがにこれは仕事に支障が出かねないのでマネージャーが問い詰めたんですが……そしたら彼女は『クリスマス以降、身に覚えのない記憶が……なくしたはずの子供の頃の記憶が頭の中をよぎるようになった』と怯えながら訴えてきたんです。結局、きっかけまでは話してくれなかったようですが、『岡山で小学校時代の友人と名乗る人間に会った』と言うところまでは話してくれました。どうもそれで記憶が刺激されたようです」

 その言葉に一里塚は頷いた。その表現だと、その「小学校時代の友人」と言うのは間違いなく塩賀美智子の事であろう。つまり、二人は一ヶ月ほど前に岡山で再開していた事になる。一里塚はさらに質問を重ねた。

「怯えながら、という事はその取り返した記憶には何か問題があったんですか? 普通に考えれば地震の記憶かと思いますが」

「マネージャーも最初はそう思ったそうです。ところが、話を聞いてみるとどうもそうではないようで、さらに詳しく聞いてみるとどちらか言えば法的にかなり問題のある記憶だった事が発覚したため、これは医者や事務所では対処できないという事で私に話が回って来たんです」

「……なるほど、状況は理解しました。それで、その問題の記憶というものは具体的にはどのようなものなのですか?」

 一里塚のその言葉に伊織は少しためらうような仕草を見せたが、やがて決然とした様子でこう告げた。

「私が聞いた限りの話ですし、完全な記憶ではないという事はあらかじめご了承ください。その上で話すとこのような内容です。まだ小学生だった彼女は、なぜかは知らないが周囲が暗い場所にいる。その暗い場所の中にドアがあり、自分はそのドアから中をこっそりと覗いている。部屋の中も薄暗いが、かろうじて何人かの人間がいるように見える」

 そして、続く伊織の言葉に姫奈は戦慄した。

「そして、その暗闇の中で一つの人影が他の人影に何かを振り下ろしていて、しばらくしてその人影がその光景を覗いていた彼女に気付いて怖い表情で迫ってくる。彼女は必死に逃げようとして……そこでいきなりの衝撃と共に記憶がプツリと切れる。以上が、彼女……米内涼香の脳裏に最近浮かぶようになったという過去の記憶だそうです」

 この情報に、一里塚は少し考えた後、静かな声で自分の意見を述べた。

「随分抽象的な記憶ではありますが……ただ、これが『夢』ではなく『記憶』……つまり実際にあった事だとするならかなり問題ですね」

「えぇ。おそらく、最後にいきなり衝撃と共に記憶が切れたのは、その瞬間に地震が発生したからだと考えるのが妥当です。つまり、この記憶は十三年前に阪神大震災が発生したまさにその瞬間に米内涼香が体験した記憶そのものという事になります」

「同感です。それなら周囲が暗かったというのにも説明はつきます。あの地震が起こったのは一月十七日午前五時四十六分。時期的にこの時間はまだ暗いはずですから、子供の目からすれば暗闇というのは納得できます。問題は……彼女が目撃したものですね」

 その言葉に、姫奈は少し上ずった声を出した。

「人影が何かを振り下ろしているって……それじゃまるで……」

「誰かが何かで人影を撲殺している……殺人シーンそのままですね」

 一里塚のその言葉に、その場に戦慄が走った。伊織も頷く。

「はい。私もそれが何らかの殺人シーンである事は理解しました。つまり、彼女は震災直前に何らかの殺人を目撃した事になります。こうなると事務所としては医者よりも私に相談するのも無理はありません。実際に先週の一月七日、私は東京の高円寺にある芸能事務所で彼女と一度面談をしました。ただ、その記憶が何を意味するのかが、そもそもこれがどんな事件なのかは正直に言って私にはわかりませんでした。言ってしまえば、十三年前の震災の最中に起こった、記憶の中にしかない殺人事件の謎を解けと言われているようなものですからね。残念ながら、先週の面談では話を聞くのが精一杯で、それ以上彼女に何かしてあげる事はできなかったんです」

「にもかかわらず、あなたは今日二度目の面談に挑もうとしました。何か勝算でもできたんですか?」

 その言葉に、伊織は深く頷いた。

「たったこれだけの手掛かりからこの記憶の真相を暴き出すのは私には無理です。ですので、その道のプロにこの一件を依頼する事にしました」

「プロ?」

「以前の知り合いで、つい最近になって個人的に再会した人がいるんです。その人は真相を暴く事にかけてはおそらく日本一の腕前を誇る人で、私もアイドル時代に一度助けてもらった事があります。彼なら、こんな曖昧な情報からでも何かを掴んでくれるかもしれない。そう考えて昨日、彼の事務所を訪れてこの一件を解決してくれるよう依頼し、今日福岡で彼と一緒にもう一度彼女の話を聞く……はずだったんです。まさか、その直前に彼女が死んだなんていう連絡を受けるとは思いませんでしたけど」

 その言葉に、一里塚が珍しく訝しげな表情を浮かべて光沢と顔を見合わせた。何となくその「プロ」に心当たりがあったからだ。

「失礼、その真相を暴くプロというのは、一体どういう人物ですか?」

「どうもこうも……東京で探偵事務所を経営している方です。かつては警視庁で刑事をされていて、実はその時に私もお世話になりました。刑事を辞めた後は探偵として様々な事件を裏で解決していると聞きます。最近だと、昨日発覚した高円寺のホテル火災の最中に起こった殺人事件を解決したようですが……」

「もしかして、今その人物はここに?」

 一里塚が尋ねると、伊織は再度頷く。

「えぇ。今、病院の方で医者に話を聞いているようですが、もう少ししたらこちらと合流するはずと思います」

 そう伊織が言ったまさにその瞬間だった。

「あぁ、ここにいましたか。失礼、色々と話が長引きまして」

 廊下の向こうから、一人の男が姿を見せて伊織にそう声をかけた。年齢は四十歳を過ぎたところだろうか。くたびれたスーツにネクタイ、手に黒のアタッシュケースというどこぞの窓際サラリーマンと見間違いかねない風貌だが、その眼だけは全く笑っていない。そして、その人物がいかに恐ろしい人物であるのかは一里塚自身がよく知っていた。

 一里塚は少し表情を引き締めると、その男に呼びかけた。

「まさか……この段階であなたが出てくるとは思いませんでしたよ」

 そう言われて、男の方も伊織の後ろで足を止め、そして表面上は穏やかに挨拶する。

「そうか。この事件、君の担当だったか。まぁ、事件の発生場所が山口と聞いた時点で覚悟はしていたがね」

 そういう男に対し、一里塚は軽く姿勢を正すと、そのまま一礼して言葉を返す。

「十一月の県警の事件以来ですね……。お久しぶりです、榊原さん」

 一里塚の視線の先。そこには警察内部では「名探偵」の異名を持つ一人の男……元警視庁捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一さかきばらけいいちが苦笑気味に微笑んでいたのだった。


「あの……あの人は一体誰なんですか?」

 突然現れて一里塚と何事か情報交換し始めた中年サラリーマン風の男……榊原恵一を見ながら、姫奈は小声で光沢に尋ねていた。

「あぁ、そうか。嬢ちゃんは知らないんだったな」

「さっき淀村弁護士が、昨日発覚した高円寺のホテル火災での殺人事件を解決したって言っていましたけど、何者なんですか?」

 その問いに、光沢は淡々と答える。

「名前はさっき警部が言っていた通り榊原恵一、東京・品川で探偵事務所を開いている私立探偵で元警視庁刑事部捜査一課警部補。ただし、警察辞職前に彼が所属していたのは当時警視庁最強の異名を誇った捜査班でな。彼はその最強の捜査班でブレーンの役割を担っていた推理の天才……いや、『推理の怪物』だった」

「怪物……」

 思わぬ言い方に姫奈は絶句する。

「ある事情で十年くらい前に警視庁を辞職したが、その後もその推理力は衰えず、今でも警察からの依頼でいくつかの事件を解決しているそうだ。あの実力なら、高円寺の事件を解決したっていうのもあながち嘘じゃないんだろう。もっとも、名前を表に出したがる人じゃないから、何か事件を解決しても表向きは警察が解決している事にはなっているがな。ただ、業界の中じゃかなり有名だよ。十一月にうちの県警を舞台に起こった例の殺人事件があったろ」

「は、はい。一里塚警部が解決したと聞いていますが」

 というより、その際の県警の混乱のせいで姫奈はここに配属されたのだが、光沢は頷きながらもこう言った。

「あの事件は確かに警部が実際に捜査をして事件解決に貢献したのは事実だし、警部の推理が犯人を追い詰めるのき大きな役割を果たした事も間違いない事実だが、実は主だった推理を構築して犯人との直接対決で相手をその凶悪な論理で完膚なきまでに打ちのめしたのは、何を隠そうそこにいる私立探偵の仕業だ。あの事件は警部一人だけじゃなく、警部と榊原さんの二人がかりで解決した事件なんだ」

 まぁ、だからといって警部が三流だなんて事は全くなくって、あの人もあの人で立派な怪物だが、と光沢は付け加える。実際、所沢篤が殺された「耳なし芳一事件」は一里塚が単独で解決した事件である。

「そんな話は初耳ですが……」

「まぁ、表に出る話じゃないしな。警察もよほどの難事件でない限り依頼する事はない」

「でも、そんな天才二人なら対立しそうなものですが、あの二人は仲がよさそうですね」

 そういう姫奈に、光沢は少し苦笑気味に答えた。

「聞いた話だが、警部にとって榊原さんは推理の師匠という事になるらしい。当時警察に入庁したてで、まだ生意気な事を言っている駆け出しの準キャリアだった警部に捜査のイロハを叩き込んだのが、当時まだ捜査一課に在籍していた榊原さんだったって事だ。それ以来、警部は出世を度外視して現場を渡り歩くようになり、行く先々であの強烈な推理力で数々の事件を解決するようになったらしい」

「つまり……今の一里塚警部の性格の根幹を作った人という事ですか」

 何ともここへ至ってとんでもない人間が出てきてしまったものである。と、ここで一里塚と榊原の情報共有が終わったようである。

「なるほどね……なかなか大変な事件が起こっているようだ。だが、一里塚君の情報でこっちは淀村さんからの曖昧な依頼に光明が見えてきた」

「えぇ。何しろこっちは、米内涼香がどこで発見されたのか、また彼女が震災当時どこにいたのかを知っているわけですからね」

 つまり、問題の「記憶」がどこで発生したのかが、一里塚の情報からはっきりするのである。そして、それは当然彼女が震災直前にいた場所……江花邸という事になってくるであろう。

「しかし、兵庫消防庁にそんな地図が残っていたとはね……。だが、本人も名前を忘れていたはずの米内涼香の名前までしっかり載っているとなると少し妙だな」

「その点は後で兵庫県警に問い合わせをします。問題は、その米内涼香の記憶についてです」

 一里塚の言葉に、榊原も頷く。

「問題の江花邸では江花七雄とその娘である江花紅美が亡くなっていて、しかもこの二人は本来いるべきではない江花七緒の仕事部屋で遺体となって発見されている。死因は頭部打撲という事だが、もし米内涼香の目撃情報が正しいとするなら……」

 榊原の言葉を一里塚はつなげた。不自然な遺体発見場所と彼らの死因。それらの点から、榊原に言われる前から一里塚も少し疑っていた事だった。

「江花親子の死因は瓦礫による震災死ではなく、何らかの第三者による他殺だった……。あの震災の日、江花邸で殺人事件が発生していた。そう判断する他ありません」

 一里塚の言葉に、榊原は頷く。

「しかも、問題の見取り図によれば、米内涼香の発見されたのは寝ていた北西の客間ではなく南の玄関付近。となれば、仕事部屋のドア付近で犯行を目撃した彼女が、犯人に気づかれて逃げようとした瞬間に地震が発生し家の下敷きになった……と考えるのが妥当だろうな」

「まさかここへきて、十三年前の殺人事件まで浮上してくるとは予想外ですね」

 一里塚が渋面を作りながら呟く。

「そして、この事実が確かなら、ここに来て最重要になってくる人物がいます」

 一里塚はそう言うと、そのまま後ろを振り返って姫奈を凝視した。姫奈は戸惑う。

「わ、私、ですか?」

「はい。何しろ海江田警部、先程の見取り図によれば、あなたは米内涼香と同じ玄関のあった場所から救助されています。つまり、海江田警部はあの時、いかなる事情からか米内涼香と一緒になって仕事部屋での犯行を目撃し、そして米内涼香と一緒になって逃げようとしたところで震災に遭遇した可能性が浮上するのです」

「そ、そんな……」

 いきなり言われて姫奈は絶句した。後ろにいる奈々や玲於奈もどう声をかけたらいいのかわからない様子だ。

「でも、私本当に記憶がないんです! 何も思い出せない……」

「警部、もしそれが本当なら、今回の事件は……」

 と、光沢が言葉を挟んだ。一里塚は頷く。

「えぇ。十三年前に発生し、同時に震災の混乱の中で消えた幻の殺人事件。これに端を発している可能性が浮上します。言ってしまえばこれは『時の果ての殺人事件』なんです」

 その言葉に、その場の誰もが絶句するしかなかったのだった……。

Last→→→『時の果ての殺人 第三章「悪夢の真実」』

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