最初で最後の事件
7
今から事務所に来てくれ。
翔さんがおれにそんな内容の電話をかけてきたのは、空が毒々しいほどの赤に染まった夕方のことだった。午前中、翔さんはおれを、一人になりたいと言って帰したのだった。それなのに一体どうしたことだろう。――いや、理由は想像に易い。犯人がわかったのだ。それ以外、考えられない。
おれは古びたアパートを飛び出した。翔さんの事務所までは数駅で、意外と近い。それでも電車に揺られながら、おれははやる心を抑えるので精一杯だった。犯人は誰なのか。真相は何なのか。心臓が暴れる。
あのとき以来だ。おれは思う。おれの人生を変えた小学二年生のあの日の、興奮が蘇ってくる。
事務所に駆けつけると、翔さんは神妙な面持ちでいすに座っていた。待っていたよ、というように顔を上げて、向かいの席を勧める。
「犯人が、わかったんですか?」とおれは上擦った声を出した。
「ああ、わかった」翔さんは苦々しげに答えると、コーヒーを注いだ。「まず初めに、依頼人である君に真相を話そうと思ってね」
おれはごくりと唾を飲み下す。渇いた口を潤すため、差し出されたコーヒーカップに口をつけた。ふー、と長い息を吐き出す。
「教えてください」
おれはゆっくりと言った。
「わかった」と翔さんは湯気の出るコーヒーをふーふーと冷ましてから、一口すする。「言うまでもないだろうが、この事件で一番の問題となるのは、使用された物理トリックの『意味』だ」
そうだ、とおれは頷く。それはわかっている。
「エアコンのタイマーによる、時限式の物理トリック。成功率が高いとは思えないし、他にも危険が多い。まず、仕掛けを作っているのを見られたら言い逃れのしようがない。次に、作動する前に気づかれてしまう可能性もある。標的がたまたま席を立っていたら計画は文字通り空振りに終わるし、犯人を内部犯に限定してしまう。どれも大きなデメリットだ。自分で直接刺しにいった方がはるかに確実だろう。それなのに、犯人は敢えてこの方法を選択したんだ。それには、前述のリスクを凌駕する積極的な理由がないといけない」
「でもそれはアリバイ作り、ではないんですよね?」
「そうだ。極めて特殊な例を除けば、物理トリックの使用用途は、二つに限られる。一つはアリバイ作り、もう一つは密室トリックのためだ。後者は論外として、前者に関しては、少なくとも第一の事件には適用できるね。アリバイがあったのは文麿君と山名准教授だ。しかし第二の事件で、そのアリバイのあった二人の内の一人が殺され、もう一人にはアリバイはなかった。加えて、犯人は物理トリックを見せびらかすような真似をしている。第一の事件でアリバイのために物理トリックを使ったのだとしたら、その苦労が台無しさ。行動として矛盾している。つまり、犯人の意図はアリバイ作りにあったわけではない、ということだ。
さっき言った二パターンがどちらも通用しないとなると、新たな動機を考えなければならない。ちなみに、極めて特殊な例として存在するのが、物理トリックによって何らかの状況を演出する、というものだ。たとえば、探偵をおびき寄せるとかね、いかにも推理小説的な発想だが。しかし今回の事件で使われたトリックは頗る平凡で、それに類する何らかの効果を期待できるものではなかった。現実的な解釈にはならないだろう。
さて、そろそろ断案を下そうか。別に難しいことではないんだ。物理トリックの特徴――本質を思弁すれば、自ずと答えは導かれるはずなんだよ。そしてそんなものは一つしかない。犯人が現場にいなくても実行できる、ということだ」
そんなことはわかりきっている。問題はその先なのだ。おれは少し苛立った。
「では、現場にいないことにいかなるメリットがあるというのか。アリバイ作り、密室トリック……とどちらも、この物理トリックの同じ性質から派生していることがわかるが、これじゃあ堂々巡りだ。型を破らないといけない。すると、新たな視座が得られたんだ。すなわち、現場にいなければ、被害者に顔を見られることはない、ということさ」
託宣のように翔さんは重々しく言い放った。しかしおれには意味が理解できない。
「確かにそうですけれど、それが一体なんだっていうんです?」
「言い換えれば、被害者は、自分を殺した犯人が誰かわからないまま死んでいく、ということになる。それこそが犯人の狙いだったんだ」
「どういうことです? 別にどうせ殺すんだから顔を見られたって構わないでしょう? まさかダイイング・メッセージを残させないためとか、そんな理由じゃ」
「信じているものがそのまま真実になり、行動原理になる。結局世界は各自の認識の内にしか存在できないってことさ」翔さんはおれの反論を遮った。「犯人は被害者に自分が犯人だと知られてはいけなかった。何故なら、犯人は幽霊になった被害者からの復讐を恐れたからだ」
おれは一瞬、翔さんが冗談でも言ったのかと思った。即座に笑いを浮かべようと試みたが、うまく作れない。そして翔さんの顔は真剣そのものだった。
「そう考えたらすべての説明がつく。物理トリックを使えば、被害者は誰に殺されたかわからないまま死んでいき、死後、犯人に危害を加えることができなくなる。こんなに大きなメリットはないだろう?」
「でも幽霊なんて!」
「いるんだよ、犯人にとっては」翔さんは冷徹に言い放った。「別に君も理解できない心理ではないだろう? お化けが怖いから、トイレに行かない。合理的でなくても十分論理的な行動だとぼくは思うけれどね」
そのとき、何かがおれの頭を刺激した。トイレ。お化け。幽霊を恐れている。まさか。
おれは慄然とした。
「そして君は以前こんなことを言っていたね。文麿君は心底霊を恐れていたと」
文麿が犯人。嘘だ。嘘に決まっている。
「自分が疑われるか否かなんて、彼には大した問題ではなかった。第一の殺人でアリバイが成立したのも、たまたま食事に誘われて断るのも不自然だったから、という成り行き上のものだと思うよ」
「じゃあ准教授殺しの方は?」とおれは問い詰めた。「文麿は、六時に教授が佳奈さんと会うことを当然知っていました。それなのにタイマーを六時過ぎにセットするというのは明らかにおかしいでしょう? 曲がりなりにもアリバイはあったわけですし、わざわざトリックを明かすこともない」
「いや、准教授が佳奈さんと会っているときにしか、文麿君は准教授を殺すことができなかったんだ」翔は不可解な台詞を口にした。「そもそも文麿君が准教授を殺した動機を考えてほしい。例の日記の内容を踏まえると、やっぱり准教授は犯人に気づいていて、口封じのために殺されたと解釈するのが妥当だ。教授と文麿君のトラブルを目撃していた、とかそんなところだろう。そして准教授はそのことを利用して文麿君を強請った。だから文麿君は准教授を殺そうと思った、と。だが先述した通り、准教授には文麿君が犯人だと知られてはいけない、という絶対条件があるわけさ」
「あっ!」おれはやっと翔さんのいる場所に辿り着いた。ひどく単純なことじゃないか。どうして今まで気づけなかったのだろう。やはり、翔さんには遠く及ばないということか。
「そう、やっとぴんときたようだね。第一の殺人のように物理トリックで殺しても、死んでいく中で准教授は『ああ、私は文麿君にやられたんだな』と感づいてしまう。何しろ、自分に強い殺意を抱いているということは、准教授自身が一番よく知っているんだからね。ふつうに殺したら、どうやっても文麿君が犯人だと気づかれてしまう。文麿君にとってそれはとんでもなく切実な危惧だったんだよ。だけれど、一つだけ方法がある。准教授と誰かが二人きりで話しているときに遠隔操作で殺せばいいのさ。だって物理的に犯行が可能なのは、閉ざされた部屋で一緒にいた佳奈さんしかいないんだからね。まさかナイフが文麿君の仕掛けたもので、佳奈さんの後ろから飛んできたなんて思わない。即死なら、ナイフについた糸なんかに気づく余裕もない。完璧だ。被害者に犯人を誤認させることが、あの無意味に見える物理トリックの『意味』だったわけさ。ぼくらにとってはまるで無意味に思えても、文麿君にとってはあらゆるデメリットを背負ってもおつりのくるくらい大きな意味がね」
おれは息を吐いた。
被害者に犯人を誤認させるため……そんなの、前代未聞だ。だが――だが、それで全て辻褄が合ってしまう。
もはや間違いがなかった。文麿が犯人で間違いがなかった。
おれは唇をかみしめる。鈴木文麿。年来の親友のことが、おれには全く理解できない。
頭がくらくらする。
「どうしてですか。どうして文麿は教授を殺しなんてしたんですか?」
「それはぼくにはわからない。君が一番の友達なんだろう?」
突き放すように、翔さんは告げる。その通りだ。文麿はおれの親友だった。彼以上に一緒にいて居心地のいい人間はいなかった。彼が隣にいるだけでおれは心強かった。それでも。
それでも所詮、文麿はおれの親友でしかなかったのだ。ただそれだけのことだったのだ。悔しさとも空しさともつかない感情が胸の内で渦巻く。
おれは立ち上がっていた。
「今から文麿のところへ行きます。警察に連絡するのはそれからでいいですよね?」
「もちろんだ、君が依頼人なんだから」翔さんはハンガーにかけてあったコートを掴むと、素早く羽織った。「ぼくも行こう」
おれは頷くと、早足でドアの方に向かう。決着をつけなければならない。
風が冷たかった。もう秋か、と今更のように思う。雲の切れ目からは、冴えた十六夜の月がおれたちを冷たく見下ろしていた。
「ここなんだね」
翔さんは古びたアパートをみやった。青白く浮かび上がった彼の顔に、月光が深い陰影を刻んでいる。
「ここです」
訪ねるのはしばらくぶりだった。大学から徒歩十分ほどの住宅街にある、おれのアパートにも負けないくらい年季の入った建物。二〇一号室だとおれは記憶していた。ギーギー軋む階段を連れ立って上る。
文麿には連絡を入れていない。必要はないと思った。おれはただ、理由が知りたいだけなのだ。彼が何故細川東視教授を殺したのか。納得できる動機が――そんなものはないにしても――聞きたかった。どうするかを考えるのは、それからでいい。
気づけば、二〇一号室は眼前にある。翔さんは階段のところで見守っていた。おれ一人でケリをつけろということか。翔さんと視線を交わし、深呼吸をすると、ドアをノックした。
返事はない。
もう一度、最初よりも力を込めて扉を叩く。しかし何も起きなかった。外出しているのだろうか。
不意に、一際冷たい風がおれの頬を撫でた。ざわざわと木々が音を立てる。急に胸騒ぎがした。鳥肌が立つ。論理とは無関係な予感に衝き動かされ、ドアノブを捻った。
抵抗なく、開く。体が部屋の中に吸い込まれる。
不用心だな、とおれは思った。そう、前にもこんなことがあったじゃないか。何も異常なことではない。「お邪魔しまあす」
次の瞬間、おれは悲鳴を上げた。
ふらつくおれの体を、駆けつけてきた翔さんが抱き止める。
「どうしたん」
言いかけた翔さんの言葉は途切れた。奥の部屋の光景を目の当たりにしたからだった。
円卓。ペットボトル。こぼれた水。覆い被さる文麿の身体。
「どうして!」翔は怒鳴ると、現場に駆け寄った。おれは他人事のように彼の姿を眺めている。
そしておれは、部屋の隅のパソコンの電源ランプが点灯していることに気づいた。おぼつかない歩を進め、近寄る。マウスを動かすと、黒かった画面に光が戻り、文書が現れた。
『もう生きている意味が分からなくなった。だからやめます。教授を殺したのも、准教授を殺したのも、全部おれだからさ。
なんか、幻滅しちゃったんだよ、この世界に。だから殺したんだ。そうじゃないとおれの世界が保てない気がして、でも、今は、愚かなことをしたと思っている。おれの世界なんて、取るに足らないものだったっていうのにさ。最初からこうしていればよかったんだ』
おれは呆然として遺書を読む。文麿は自殺したのか。
思い出が走馬燈のようにフラッシュバックする。お互い不器用だったから、打ち解けるまで一年近くかかった。でもそれからは何だかんだいって、いつも一緒だった。
そう、彼はあの日語っていた。おれは死ぬことが一番楽しみなのだと。振り返り、文麿の死体に目を向ける。彼は今、待望の秘密を知ることができたのか。そんなの。
スクロールする。
『お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう。こうして途中でやめることになったけれど、別にお父さんたちのせいじゃないから。本当にごめんなさい。
そして健太。おれの親友は後にも先にもおまえだけだった。おれの人生で唯一誇れることがあるとしたら、幸運だったと喜べることがあるとすれば、それはおまえと友達になれたことだ。そう、本気で思っている。今までありがとう。
だけど、さようなら。』
それからのことはよく覚えていない。気を失ったわけではないらしいのだが、思いだそうとしても、夢の内容を想起するようで判然としないのだ。ただ、おれはあの後泣いたのかもしれない。文麿が死んだのだから、当然そのはずだと、そう思う。
8
文麿の服毒自殺から一週間が経った。
哲学科は廃止になったと健太は聞いたが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。最も大事なものはもう失っていたし、大学も既に辞めていたからである。
「里見君、新たに誘拐された子の資料を取ってくれ」
翔は健太に声をかけた。正式に助手となった健太は「わかりました」と慇懃に答え席を立つ。
「この子も携帯電話を持っていないんだよね」
翔は悩ましげに呟いた。
「やっぱり犯人は異常に携帯の力を恐れているんですね」
「うーん、不可解だなあ」
翔が小首を傾げ唸ると、健太は思いついたように声を高くした。
「あ、こういうのはどうですか? 犯人は親が怯える様子を楽しんでいる愉快犯なんですよ。ほら、携帯を持っていない方が不安感は増すでしょう?」
「うーん、怯える様子を楽しむって言ったって、どうやって親の様子を見るんだい。大体、本当に人が恐れおののくのを快感とする悪趣味な輩が犯人なら、数日もしないちに子供を返してしまうのはどういうわけだ。それじゃあ不安も半減だろう」
「ダメですか」健太は肩を落とした。「確かに数日もしない内に返しているんですからおかしいですよね。でも何でたった数日しか誘拐しないんでしょうね。食わすための金がないからとか?」
「そんなバカな」と翔は吐き捨てた。「そんな貧乏な奴が何だって身代金も求めない誘拐をするんだい?」
だがそこで、翔は固まった。「うん?」
「どうしたんですか?」
翔は答えず、俯いた。ややあってから、にやりと笑って顔を上げる。
「まさかこんなに単純なことだったとはね。今すぐあの虫が好かない社長を呼んでくれ」
霧島社長はくるのが面倒だと言い張って、真相がわかったのなら電話で教えてくれと頼んだ。しかし翔の方にも健太には理解しがたい「探偵としてのプライド」があるようで、意地の張り合いになった挙げ句、霧島が根負けし、事務所まで来ることになった。
「まったく世間知らずの探偵さんだな」と霧島は早速毒づきながら、我が物顔でいすに腰を下ろした。
「あなたが探偵の常識を知らないだけですよ。電話での片手間な解決編なんて、ぼくは絶対に認めませんから」
変なところで強いこだわりを持っているようだ。間違いなくいえるのは、二人ともが「世間の常識」とは無縁な世界で生きているということだった。
「わかった。わかった。それで犯人はどこのどいつなんだ」
「犯人は複数います」翔は言った。「おそらく首謀犯は一人でしょうが」
「だからもったいぶらないでいいんだ」
「わかりました。結論から言いましょう。この事件は、子供たちの自作自演です」
「えっ!」と健太が一番大きな反応を見せていた。
「自作自演だと? ……なるほど。ただのいたずらだったわけだな。道理ですぐ帰ってくるわけだ」
「違うんです。彼らは明確な意図を持ってこの作戦を実行していたんです」翔は霧島を睨みつけた。「あなたみたいない尋常ならぬ人を見ていたせいで、大切なことを忘れていました。子供が誘拐されたら、親はものすごく心配するはずなんです。たとえ愉快犯の可能性が高くとも、とんでもない不安に襲われることは疑いの余地がないでしょう」
「何が言いたいんだ、回りくどいな」
「だから、それこそが子供たちの目的だったわけです。親は彼らを心から心配する。こんな茶番劇を演じる以外、日常でここまで子供のことを想う瞬間はないでしょう。そして親はこう考えるはずだ。携帯電話でも持たせていればよかった、と。たとえ携帯が実際に有効な手だてではないにしても、子供と離ればなれになり、恐怖のどん底につき落とされた親は嫌でもそう思います」
「そういうものなのか?」霧島はまだ翔の推理を理解していないようだ。「だからどうしたんだ」
「まだわからないのですか? いいですか、社長さん、子供たちは携帯電話がほしかったんです。親に買ってもらいたかったんです。だから、親に携帯の必要性を感じさせる、ただそれだけのために子供たちは誘拐劇を演じてみせたのですよ。戻ってきた後、『怖かったよ、ママ、携帯買ってよお』なんて泣きついたら親だって無下にもできないでしょう。実際はここまで明け透けなねだり方はしないでしょうが。そして、数日以内に帰ってくるのは偏にお小遣いとの兼ね合いです。そう長い間隠れて生活できるわけではありませんから。
想像するに、この無謀といってもいい計画を実行するにあたっては、絶対的なリーダーが必要です。携帯を持っていない子供たちを集めて、まとめ、資金などのやりくりをする、中心的人物がいるはずです。さらに、連続誘拐事件が発生したら、別に子供が実際に誘拐されなくても、親は携帯を持たせようという気になります。だからこの事件を起こしたのは、誘拐された数人の子供たちだけではなく、もっと多くの人が場所や費用を提供し、その恩恵に与っていると考えた方がいいでしょう。いやあ、イマドキの小学生はませていますからねえ」
霧島社長はぽかんと口を開けていた。あまりに人を食った真相なので、唖然としているらしかった。
「ふ、ふざけている」
「ふざけてません。ぼくはいつでも真面目です」と翔は即答する。
「君がじゃない! 私の息子がだよ! 夕の奴、あいつがこのばかげた犯行を全て仕組んだに違いない。あいつはずっと携帯をくれくれとうるさかった。金の無駄だとはねのけ続けていたんだが、まさかこんな大それた手段に出るとは。……しかしあいつならやりかねないな」
霧島は立ち上がり、それから思い出したように財布から札束を取り出した。叩きつけるように翔の机に置く。
「ご苦労だった。くそっ、帰ったらあいつをとっちめてやる。ぼこぼこにしてやるからなっ!」
肩を怒らせ、事務所を退出する霧島。健太には少し、その夕とかいう息子が可哀想になった。彼も大人になったら、父親みたいになってしまうのだろうか。
翔はというと、黙って札束を数えている。
「げっ、諭吉さんが三十人もいるよ。あのおっさん太っ腹だなあ。これで当分は生活に困らない」
「それにしてもさすがですね、翔さん」と健太は誉め讃える。「見事な推理です」
「どうしたんだい、急に。照れくさいな。大体、あんなものは推理とはいえない、ただの想像さ。何の根拠もない。本当なら証拠と確信を持って犯人を挙げたかったんだが、相手があれだからね。多少不誠実なくらいがつりあうってものだろう」
「ぼくはいつでも真面目だってさっき言っていたじゃないですか」
健太は笑った。翔も頬を緩めると、窓際まで歩いていき、芝居がかった仕草で外を見た。
「でも里見君、ぼくらの挑戦は始まったばかりだ。これからたくさん事件を解決し、一流の名探偵をぼくは目指す。それには君のサポートも必要だ。ぼくについてきてくれるかい?」
健太は陽に照らされる翔の凛々しい横顔を眺めた。はたして彼は名探偵にならなければいけない人間だ、と思う。健太は深く頷いた。
「はい、ついていきます。どこまででも」
これからどんな未来が待っているのか。健太は楽しみで仕方なかった。
9
文麿の服毒自殺から三日後、おれは大学へ赴いていた。退学届を出すためだ。
学長は「君みたいな優秀な生徒が」と口だけで惜しむ言葉を吐いてみせたが、特段強く引き止めようともせず、おれの退学届を受諾した。帰するところ、おれは何千人もいる学生のうちの一人にすぎない。そのうちの何十かが退学することかは、確率的に定まっているのだ。
もとより、どんなに去るのを拒まれたところで、決心を翻すつもりは毛頭なかった。未練の欠片もない。もう全て終わったのだ。みんな、いなくなってしまったのだ。哲学科がつぶれるのも、時間の問題だろう。
だけれど最後に、会わなければならない人がいた。
哲学科、おれ以外の唯一の生き残り。佳奈さんだ。ついに、文麿が想いを伝えることが叶わなかった相手。
そう、文麿は佳奈さんのことが好きだった。おれはそれを確信している。しかし文麿は遺書にそのことを書き残さなかった。だからこそ、おれは佳奈さんに会わなければならない。
「あっ」
おれは声を上げた。佳奈さんが、哲学科の棟の前に一人、佇んでいるのを見たからだった。
「佳奈さん」とおれは静かに声をかける。彼女はゆっくりと振り返った。
「あら、里見君。今日は、授業はないはずだけれど」
「やめました」おれは言った。「今、退学届を出してきたところなんです」
そう、と彼女は動じない。「奇遇ね。私も今日、この大学を辞めたところだったの。これで哲学科もおしまいね」
そう呟き、彼女は朽ちていく建物を儚げに見やった。最後に見納めようと思ったのだろうか。ついに全てに見放された、老いた建造物は、孤独な老人を思わせる、深い哀愁が漂わせていた。
おれは彼女の側まで歩み寄る。文麿のことを話すのは今しかないと思った。
「どうしたの?」
「佳奈さん、一ついいですか? 文麿のことです」
「鈴木君? どうしたの?」
「文麿が自殺するはずがないんです」とおれはそっぽを向いて告げた。「文麿は前から、死ぬことが一番の楽しみだと、哲学的にもそんなことを言っていました」
佳奈さんは相槌を打たず、黙って建物を凝視し続けている。
「ですけれど佳奈さん、あいつは大好物を最後までとっておいてから食べるタイプなんですよ」
「……何だか三段論法みたいね」
少しの間の後、可笑しそうに佳奈さんは言った。でもおれはくすりともせず、決然と言葉を連ねる。
「そうです、つまり論理的に考えて、文麿は自殺をし得ないわけです」風が吹き、落ち葉がからからと音を立てる。「だから文麿は殺されたんです。――あなたに」
この冷たい風は木枯らしだろうか。漫然とおれはそんなことを思った。
「里見君。私が殺したっていうのは哲学徒としてはあるまじき飛躍だけれど、ひとまずそれは置いておいて、先輩として大事なことを教えるわ。人の心だけは哲学や論理学でも解明できないのよ。だからあなたの考え方は全く論理的じゃない」
「そんなことは嫌と言うほどわかっていますよ。でも」おれはできるだけ悪意を込めて言葉を紡ぎ出す。「じゃあどうやったら人の心が解明できるって言うんですか。教えてくださいよ」
佳奈さんは少し気圧されたような表情になって、「本気で言っているのね」と呟いた。
「本気です。おれはもう論理しか信じられないんです。そうじゃないとやっていられないんですよ」
「わかった。話を聞かせてちょうだい」
佳奈さんは溜息をついて承諾した。
「ありがとうございます。では、少し長くなりますが、おれの考えたことを聞いてください。――佳奈さんも知らされているでしょうが、翔さんは文麿が犯人だとする推理を組み立てて、警察もそれを信じ、事件の幕は下ろされました。犯人の自殺による終焉というわけです。
翔さんの推理は、この事件で用いられた物理トリックの怪をきれいに説明してしまう端正なものでした。恥ずかしい話、おれも探偵には憧れていました。だから、どうして思いつかなかったのかと自責した。しかしよく考えたら、あの推理は一番はじめの段階で論理的に否定できるんです。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、だからこそおれはたどり着けなかった。
要するに、こういうことです。犯人が霊を恐れていたために自分の姿を被害者に見られるのを恐れたと仮定しましょう。しかし、少なくとも第一の殺人では、犯人が物理トリックを用いる必要性、必然性などないのです。あの段階では、成功率が低いあんな方法に頼ることはなかった。毒殺、という極めて有効な殺害手段があったのですから。教授が自分専用のコーヒーカップで大好物のコーヒーを毎晩飲んでいました。カップなりコーヒーメーカーなりに毒を入れてやれば、直接手を下すことなく、より確実に殺めることができる。万が一、教授がコーヒーを飲まなくても、翌日回収して次の機会を待てばいい。こちらの計画の方がはるかに理に敵っていると思いませんか? ですから、翔さんの推理には最初から無理があるのです。
文麿がどうしても毒物を入手できなかった、というエクスキューズも効きません。何せ、彼は服毒自殺したことになっているのですから。従って、はじめの仮定、『犯人は霊を恐れて物理トリックを使用した』は誤りだったと断言できます。すると、二つの物理トリックの謎は振り出しに戻ってしまう。どう考えても説明はつきませんでした。しかし今なら――解決に必要な手がかりが全て出揃った今なら、一つだけ解釈の余地があります。
三日前の晩、文麿は毒を飲んで死にました。それからおれは頭を冷やしてじっくりと考えました。実は、翔さんが前に、こんな説を立てていました。物理トリックが使用されたというのはあなたの狂言で、本当は、逃れようのない立場から脱出するための苦肉の策だったのではないか、と。つまり、准教授とあなたの会談中、突発的にあなたは准教授を殺害したわけです。防犯カメラにあなたの姿は映っているでしょうし、あなたたちが会うことはおれたちに知られている。建物に入って経った時間なども加味し、このままではさすがに言い逃れのしようがないと踏んだあなたは、一度外に出て必要な道具を用意し、物理トリックが使用された痕跡を残した。信憑性を高めるために前の事件でも同じトリックが使われたように見える細工を施した。明らかにあなたしか犯行ができなかった状況を壊すために、現場にいなくても犯人たり得る物理トリックを持ち出したのです。おまけに、第一の殺人でアリバイのなかったあなたは、逆説的に疑いが薄れる。一見筋の通った、ストレートな解釈です。しかし、看過できない欠陥が一つあったため、この推理は否定されたのです。初めから殺すつもりではなかったはずなのに、何故ナイフなんていう代物を持っていたのか、という問題です。これだけがこの仮説の隘路でした。おれはどうしても通ることができなかったし、あなたもそれを見越してこの細工を行ったのでしょう。
――しかし、繰り返しますが、文麿の死こそが最後の手がかりだったのです。文麿が誰かに殺されたとするならば、その動機は何でしょうか。犯人にでっち上げるため? 結果としてはそうなりましたが、翔さんの推理はあの時点でおれしか知っていませんでしたし、それだけのために人を一人殺すというのも現実的ではありません。犯人は翔さんの推理に関係なく、元々彼を殺すつもりだった、と考えるべきです。それならば、あのナイフの謎がようやく解けるんです。あなたはあの日、准教授ではなく文麿を殺すつもりだった。准教授に会ったその足で大学近くの文麿の自宅に向かい、殺める予定だったのです。しかしおそらく、准教授は哲学科の未来の話ではなく、あなたの告発を行ったのでしょう。だから持っていたナイフで殺してしまった。そしてその繕いを必死でやった結果、あの奇妙な物理トリックの跡が形成されたのです。
そして文麿殺し。理由はともかくあなたは、文麿は殺さなければならなかった。折角だから全ての罪を着せてやろうとそう思いついたのですか? 実際アリバイの関係から文麿は疑われていたし、残った容疑者も少なくなってきていた。だからあなたは文麿を自殺に見せかけて殺害したのです。これが、おれの導き出せる、唯一無二の真相でした。本当は、たったこれだけの話だったんです。
でも佳奈さん、教えてください。おれにはわかりません。どうしてあなたは教授を、そして文麿を殺したんですか?」
おれは真っ直ぐに佳奈さんを見つめた。彼女の顔に表情と呼べるものはなかった。夢にまで見た、推理を披露し犯人を告発するという行為が、こんなに空しく苦しいものだとは思わなかった。
「鈴木君は私の犯行に気づいていたの。教授を殺した後に、私はどうやら居酒屋帰りの鈴木君と山名さんに大学近くで姿を見られてしまったらしいのよ。私は家にいたと警察に話したから、その矛盾に気づいた二人は私がやったんだとわかったんでしょうね。でも彼らは間抜けなことに、気づいたのは自分だけだと思いこんで、別々に探りを入れてきた。だから殺してやったの」
文麿は、佳奈さんが犯人だと知っていた。……だからか。
おれはやっと納得した。だから文麿は落ち込んでいたのだ。彼は、思いを寄せる女性の罪を知り、一人で抱え込んでしまった。そして――。
後悔の針が心をちくりと刺す。
「教授を殺した理由はあなたも知っているはずよ。あの遺書に書いたとおりだから」投げやりに佳奈さんは続ける。少しも悪びれた様子はない。「幻滅したのよ、私は。この世界に。だから殺した」
「幻滅」とおれは一言した。
「私はある日忘れ物を取りに帰ったときに見たのよ。教授が麻薬を吸っているのを。そのときの私の気持ちが想像できる? 私は心から教授の人格を尊敬し、教えを仰いでいた。人生の師だと本気で考えていた。あの人だけは、ほかの醜い人間とは違う、そう信じていたのよ。なのに」彼女は言葉を切る。苦しそうに続きを吐き出す。「なのに、教授も結局は欲にまみれた人間だった。そのときの空虚感、幻滅感といったらないわ。別に騙されたから怒った、とかそういうことじゃない。殺そう、殺さないといけない、と私は使命的に思ったの」
「そんな理由で殺したんですか?」
おれは責めるわけでもなくましてや諭すつもりでもなく、ただ確認した。
「そうよ。あなたにはこの気持ちがわからないでしょうね。崇めていた人の無力さを思い知ったとき、人がどんなに気抜けするか。世界の全てに裏切られた喪失感が」
「わかりますよ」おれは苛立って答えた。どうして彼女は、あたかも自分が正義であるように語れるのだろう。「すごく、わかります」
佳奈さんは眉をひそめた。「何、同情のつもり?」
「違う。おれも同じなんです。翔さんは、おれの尊敬する人で、ずっと憧れていました。彼の推理能力は絶対的だと思っていました。おれは少しでも近づこうと、努力し続けてきたんです。ところが、昨日やっと気づきました。翔さんの推理は間違っていた。そしておれはもう翔さんを超えていたと。わかっちゃったんですよ。実は今、翔さんが受け持っている事件があるんです。翔さんはいっこうに気づく気配はないけれど、おれは既に真相を見抜いています。別に自慢したいんじゃありません。むしろ逆だ。――おれは、どうしていいかわからなくなった」
「どういうこと?」
「だから、あなたと一緒なんですよ。十五年近く追い続けた偶像がただの虚像にすぎなかったと、理想なんてどこにもなかったんだと、おれは思い知らされたんです。幻滅……一番近い表現を探すのならそうなるかもしれません。でも翔さんを殺そうなんて、そんなことは全く思いつきませんでしたよ。だって、そんなことをして何の意味があるって言うんですか? あなたの殺人に何か意味はあったんでしょうか」
おれは次第に、自分の感情が抑えられなくなっていくのを認識した。心が手元から逃げ出していく。
おれは佳奈さんの胸ぐらをつかんでいた。
「なあ。答えろよ! 意味なんてあったのかよ! 皆殺しちまって、それで何の意味があったんだよ! ふざけるなよ。あるわけないだろ、そんなもの」
激しく彼女の体を揺らす。訳の分からない怒りをぶつける。こんなことは初めてだ。もう一人の自分が口と体を乗っ取って、勝手に動かしている。
「ないわ」やっと佳奈さんは答えた。「意味なんてなかった。ただ、そうしないと私の気が済まなかっただけ。それに、ほかにどうしたらよかったっていうの?」
「知らねえよ!」おれは彼女を突き放して、叫ぶ。「だけどおれは!」
佳奈さんは乱れた服を直しながら目を眇めた。「あなたは」
「おれは翔さんとこれからもやっていくことに決めました。助手として」
「どうして? あなたの方が能力があるんでしょ?」
「推理力なんて本当は問題じゃなかったんです。小学生の頃、翔さんはおれを救ってくれました。おれだって誰かを救いたい。でもその優しさは、翔さんの方がずっと持っているんです。人を救える方が名探偵じゃないですか」
「空々しいわ。まるで自分を無理矢理納得させているみたい」
佳奈さんは容赦なく指摘する。
「その通りかもしれません。でもこれが、幻想と現実に折り合いをつけるために、おれの出した答えです。あなたみたいに、自分を裏切った世界を破壊することで乗り越えるなんてことは、おれにはできません。そんなことをしたら、他の人の世界も綻んでしまいますから。それが許されるなんて思うのは、傲慢の極みです」
「ふーん。随分殊勝なことをいうじゃない」と佳奈さんは鷹揚な相槌を打つが、虚勢の鍍金が剥がれかけているようにも受け取れた。「じゃああなたはどうするつもりなの? 助手として何をするのよ。憧れの人の無力さを見て辛くなるだけじゃないの?」
「だから、おれはサポートするんです。翔さんを。かの有名な哲人、ソクラテスの対話法はご存じですよね。彼の弁証法の一つ、産婆術ですよ。今更説明は不要かと思いますが、あれは、相手の提出した論説を、質問を重ねることにより、当人の意識していなかった新しい思想を産み出させる問答法です。これを使えば、翔さんの推理をおれが上手く誘導してやることができる。彼のプライドを傷つけずに」
「それでみんなハッピーってことね」佳奈さんはニヒルな笑みを浮かべた。「でもそれって皮肉じゃない? その探偵さんは自分の考えが助手によって操られていると知らずに事件を解決していくのよ。アイロニーだわ。ソクラテスの用いたもう一つの問答法も、そんな名前じゃなかったかしら」
「ソクラテス的アイロニー、ですか。それも悪くない。おれはいつまでも無知を装い続けますよ。立派なワトスン役として」
「面白いわ」佳奈さんは本当に愉快そうに言った。そして掠れた声で続ける。「私には真似できなかったけれど」
陽は傾きかけている。黄昏が近づいていた。
「私がやったってことを誰かに言うつもりはないのね」
佳奈さんはふと確認した。懇願するような態度ではなく、別に警察に連れていかれてもかまわない、というような余裕があった。
おれは少し考えてから言った。
「そんなことをしても意味がありません」
「意味、ね」
噛みしめるように佳奈さんは独白する。生きている意味すら分からないくせに、人間はやたらと意味を求め、すがりつく。いつかの文麿の言葉だ。
彼女の横顔が夕陽に赤く染まるのを見て、一瞬、文麿はあなたのことが好きだったんですよ、という台詞が脳裏に浮かんだ。しかし直ちに胸の奥底へしまいこむ。それこそ一番の無意味に違いない。
「さようなら。もう一生ここには来ませんし、あなたとあうこともないでしょう」
そろそろ終わらせるべきだった。
「そう」
佳奈さんは頷くと、最後に研究棟を振り返った。おれもそれに倣う。青春なんていうものがまだ続いていたのだとしても、今ここで幕が下ろされるのだな、と思った。多少未練がないでもない――いや、やっぱり一つもない。問題はこれからなのだ。
佳奈さんは振り返る。
「さようなら」
風のない夜の湖面のような声で、彼女は別れを告げた。
おれは背を向ける。彼女に。過去に。全てに。
これがおれ、里見健太の、最後の事件だ。
了
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