最初で最後の事件
4
今は私立探偵をやっているんだ、と控えめに翔が報せるなり、なぜか健太は相好を崩した。本当ですか、本当に探偵なんですか、と無邪気にはしゃぐ。
「じゃあ、もしかして、翔さんはこの事件を解決しにここに?」
「残念ながらそうではないんだ」翔は決まりが悪くなって、頭をかく。野次馬として来たというのも何だったので、「弟がここの大学だからさ、近くに来たついでによっただけだよ」
「そうしたら偶然殺人が起きていたと? さすがですね、翔さん。本物の名探偵は事件を引きつけるといいますけれど、本当なんですね。これまでも何度も事件を解決してきたんでしょう?」
「う、うん、まあね」
「でも、翔さんがいればこの事件は解決したも同然ですよ」
「悪いけれど、ぼくはこの事件のことを何も知らないんだ。誰が殺されたかすら知らされていない。それに、依頼人がいないことにはどうしようもないんだよ」
子供の夢を壊すのにも似た罪悪感を覚えながら翔は答えた。すると、健太はいたずらっぽく微笑んだ。
「大丈夫です」と彼は言う。「おれが依頼すればいいんですよね」
「うーん。それでも同じことさ。事件の内容がわからないんだから」
「事件の関係者なんです、おれは」健太は告げた。「殺されたのはおれたちに哲学を教えてくださっていた細川東視教授。おれは容疑者だったりするんですよ」
健太は翔の探偵事務所までついてきた。
「すごいですね、こんな広いオフィスに」
「全部親の金さ。それに、こんな田舎だからね」投げやりに翔は応じる。「それより、里見君。君は落ち込んでいないのかい? 殺されたのは君の先生なんだろう?」
皮肉などではなく、素朴な疑問だった。記憶の中の彼は、そこまで明るかったイメージがない。
「悲しいとは思えないんです。まだ実感が湧いていないせいもあるでしょうし、大変なことが起きたとは理解できるんですが……所詮おれは冷めた学生でしたから。親友や家族がいなくなったというのならともかく、教師に対してそこまでの感情を持てないんです」
健太はどこか自虐的に答えた。彼の顔に一瞬深い陰りが落ちたのを、翔は見逃さなかった。もしかしたら彼は、かなり屈折した十代を過ごしたのかも知れない――何となく翔は思った。
「そうか、まあいい。さて、依頼人さん、事件の概要を聞かせてくれないか?」
椅子に腰を下ろし顔の前で手を組むと、翔は努めて明るい声を出した。
健太は目の前の席に座り居住まいを正すと、今朝からの出来事をつらつらと語りだした。さすがに知った仲のことだけはあって、一応容疑者になっている哲学科の他のメンバーについても、翔が要求すると、詳しく話してくれた。年齢、性格を始め、癖や人間関係まで子細に。
「なるほど、さっぱりわからないな。君の言うとおり、それだけじゃあ論理は行使できない」
一通り伝えられた後、翔は潔く言った。ですよね、と健太は同調する。
「君がやったわけじゃないんだよね?」と冗談か本気か判じ難い質問を翔は続けて飛ばした。
「は、はい」意表を突かれ、健太はどもってしまう。「疑っているんですか?」
「まさか。無意味な質問だ。しかし、犯人が君たち四人の中にいると仮定した場合、可能なのは佳奈さんしかいなくなってしまうな。君は違うと言っているし、残り二人には歴としたアリバイがある。単純な消去法さ」
翔の真意が掴めず、健太は当惑する。深い思慮に基づいた発言なのか、それともただの思いつきにも満たない戯れ言なのか。つかみどころがないのは相変わらずだった。
しかし誰かに似ている、と健太はそこで気づいた。文麿だ。翔と文麿が持ち合わせるオーラはそこはかとなく共通している。
「わかっているさ、これはロジックじゃない」翔は立ち上がる。「つまり何が言いたいかって、ここで座っていても何も解決できないってことだ」
その通りだ、と健太は思った。同時に、新鮮で形容できない感情が胸の内に湧き起こっているのを認識していた。これは――興奮か? 外連味のある言い方をするならば、今から自分たちは論理という名の魔法を作り上げ、細川教授を殺した下手人を捕らえるのだ。そうだ、これだ。
やっと自分の力を試すことが出来る。それもあこがれの人と一緒に。
高揚を抑えきれなくなった健太が勢いよく腰を浮かせた、その瞬間だった。探偵事務所の扉が開き、本物の依頼人がやってきたのだった。翔は驚きを隠せていない。
「おっと、先客がいましたか。これは失礼」
四十代前半と思われる男は立ち止まり引き返そうとしたが、翔は呼び止める。
「いえ、この人はぼくの、その、助手でして」
「ああ、そうでしたか」と男は大股で歩み寄ってきた。「では。私はこういうものだ」
男は名刺を差し出すと、さっきまで健太が座っていた椅子に着席した。いつの間にか、〈依頼人〉から〈助手〉になっている健太はとりあえず翔に合わせておこうと、彼の横に行き、神妙な顔をして背筋を伸ばす。すると翔は健太に受け取った名刺を渡した。
『NPT商社 社長 霧島旭』
おっ、と健太は声を上げていた。社長か。道理で貫禄があるわけである。霧島は健太のその反応を満足げに眺めた後、口を開いた。
「本題から入ろう。私の息子が誘拐された。この近辺で発生している男児連続誘拐事件の一環だろう。その犯人を捕まえてほしい」
「は?」翔は思わずそう漏らしていた。簡潔すぎて、事態が飲み込めない。「いや、失礼しました。えっと、誘拐ですか。そんなに急に言われましても……警察には?」
「もちろん君に指図されるまでもなく連絡した。ついでに君の他にも何人か別の探偵を雇っている。犯人を捕まえられるのなら、いくらでも金はくれてやる」
霧島の傲慢不遜な態度に、健太は少しはらはらしながら、二人を見守っていた。探偵というのは日常的にこんな厄介な依頼人の相手をしないといけないのか。
「ちょっと待ってください。子供が心配な気持ちはわかりますが」
「シンパイ?」そんな言葉は初めて聞いた、というように彼は遮った。「違う。私は不快なだけだ。犯人はおそらくただの愉快犯だ。その証拠に、これまで同じ学校の息子の同級生を三人ばかりさらっているが、いずれも三日以内には戻ってきている。身代金の要求もなしに、だ。慌てふためく親たちを見て、ほくそ笑んでいるだけだろう。私にはそれが不愉快でならない。他人に見下されるのが何よりも嫌いな性質なのでな」
そこで霧島は不敵に笑った。異常だ、と健太は反射的に思い、ぞっとする。これまでの人生で自らのためにどれだけの人間を蹴落としてきたのだろう。
「そうですか」翔もあまり彼のことはよく思っていないようだった。態度が硬化する。「しかし手がかりがないことには、ぼくになど」
「子供たちの証言をまとめると、甲高い声の男で、マスクをつけていて、背は少し低いくらい、ニット帽をかぶっているそうだ」
何の手がかりにもならないことを言う。ただの不審者だ。
「オリエント急行かよ」と翔が口にした。
「は?」
「いえ、何でもないです。続けてください」
「ああ」と怪訝そうな顔をしながら霧島は語を継ぐ。「警察は学校関係者でないかとにらんでいる。誘拐された子供たちの共通点が、皆携帯を持っていない、ということらしい。今の時代、小学生でも携帯を持っている子は少なくないからな。折りしくも、学校では携帯を持っているか否かのアンケートもあったようで、その結果を入手した犯人が、リスクを回避するために持っていない子を標的にしたのではないか、と」
健太は釈然としなかった。仮に携帯を持っていない子を誘拐するほうが多少なりとも有利に働くとしても、そのような基準で被害者を選ぶだろうか?
翔もやはり腑に落ちない。しかし、霧島はそれ以上煩わしい説明を続ける気はないらしかった。
「これで十分だろう。あとは自分たちで調べてくれ。何かわかったら会社まで連絡を頼む。繰り返すが、報酬は弾むぞ。息子が戻ってきたらそのときは伝える。以上だ」
呆気にとられる健太たちを後目に、霧島は事務所を去った。狐につままれた思いで、二人は顔を見合わせた。
「どうするんですか? いかにも怪しげな依頼人でしたが」
「ああいう人って本当にいたんだね。でも探偵であるからには真剣に事件に取り組まないといけないさ」探偵として百点満点の解答をした後、ニヤリと笑った。「と、言いたいところだが、今回だけは訳が違う。ぼくは既に君からの依頼を受けているからさ。そっちを優先しないのは筋違いという話だろう?」
そうだ、と健太は思った。一瞬忘れかけていた。自分たちも事件の最中にいるということを。
翔は自然な仕草でぱちりと指を鳴らす。
「さあ、今度こそ調べにいこうか」
健太は思わず顔を綻ばせ、深くうなずいた。
5
その三日後のことだ。
研究室はようやく使用できる状態になったので、おれは大学に向かった。
この二日間の、おれと翔さんの捜査はかなり難航していた。何しろ、一度も現場に入れていないのだ。出来ることとして考えられるのは、生前の教授の行動とかを思い出し、動機として考えられるものを探っていくことくらいだった。しかしもちろん、そんなものは一つだって見当たらない。あの聖人君子が人の反感を買うようなことをするはずがないのだ。
研究室には全員がちゃんと集まっていた。会えなかったのは大した期間ではなかったのに、おれには彼らの姿がひどく懐かしく感じられた。山名准教授に、佳奈さん。おれと文麿。細川教授は死んだからいない。その当たり前の事実が今更になって重苦しくのしかかってくる。ただでさえ存続が危うい科だったのに。
おれたちはどうなってしまうのだろうか。
同じ危惧を抱いているのはおれだけではないようだった。准教授はどこか上の空で講義をしている。文麿も授業に身が入らない様子で、沈んだ顔をしていた。終局が近づいているのを予感しているのか。
一方で、どうなろうが構わない、と捨て鉢になっている自分がいる。むしろ、それが本来のおれのはずだ。元々さしたる思い入れもなかったのに、何を嘆くことがあるのだろう。
「山田さん」と山名教授はおれたちを多少気遣うようにしながら口を開いた。午前の講義が一通り終わったときだった。「今夜、暇はありますか?」
「はい」と佳奈さんは今までと変わらない凛とした声で答える。
「それは良かった。夜の六時頃、私の研究室に来てください。この科の将来について少し話があるものですから」
それから准教授はおれたちを見やって告げた。
「今日は申し訳ないが、午前だけで授業は終わりとします。折角来てくれたのに、すみません」
「いえ」と文麿は応じ、おれの顔を見てきた。おれはしかめ面をしてみせながら、そろそろ就職活動の本でも買っておこうかなどとぼんやりと思った。
「いただきっ!」
おれは努めて明るい声を出し、文麿のエビフライに箸を伸ばした。予定通り、軽く弾かれる。昼、大学近くのファミレスの中だ。暇だし飯でも食うか。と珍しく文麿がおれを誘ってきたのだった。
「いらないならちょうだいよ」
「いらないんじゃない。楽しみなものはとっておかないと。というか、健太もそんなことくらいわかっているだろ?」
もちろんだ。文麿の食事における信念くらい理解しきっている。
「健太、まさかおれに気を遣ったのか」文麿は何でもお見通しだった。「おれが朝から浮かない顔をしているから元気づけようと」
「そうだ。自覚があるんならいいけれど、おまえずっと何か考え込んでいるだろ」おれは仕方なく本音を吐露した。「お互い隠し事をしたってすぐにわかるんだからさ」
おまえが佳奈さんを好きだってこともな、という言葉は口が過ぎるので飲み込む。
「そうか、そうだよな」
文麿は妙に納得した後、しばらく黙り込んでしまった。明らかに何かを躊躇っている顔だった。迷いと葛藤で視線が定まっていない。
だがやがて、彼は視線をまっすぐおれに向けた。
「聞かない方がいいかもしれない話だ。細川教授のことで」
文麿は声を潜めたので、おれは身構える。「聞かせてくれ」
「わかった。警察がおれのところに来たときに、確認されたんだ。端的に言うと、教授は麻薬をやっていた。警察はそれを突き止めたらしい」
「えっ」
おれは意表を突かれ、頓狂な声を出した。細川教授と麻薬。段ボールとフォアグラ、みたいな滑稽な響きだ。到底結びつくはずのない概念のように思えた。信じられない。
「案外ショックを受けないんだな」
「ショック……というか素直に驚いた。細川教授が薬物を……へえ」
「へえ、って。まあいいや。とにかく、警察はその方面からの動機も探しているらしい。おれは教授が麻薬をやっていたことを知っていたか、取引相手に心当たりはないか、なんて聞かれたんだが、当然そんなものはないよな」
「ああ。それで?」
「それで? それだけだけど」
「それだけなのか? え、だって落ち込む理由になっていなくない?」
「落ち込むよ、尊敬していた教授が麻薬なんてやっていたんだから」
文麿はどこか自虐的に笑った。そんなものなのか、とおれは得心しかけるが、文麿はまだ何か隠しているのかもしれない、と思い直す。もっと大きなものを背負ってしまったような、そんな気がする。さっき「隠し事をしてもすぐわかる」なんて格好つけてはみたが、ただの強がりだった。本当は、文麿の考えていることなんてほとんどわからないのだ。大体、人の心を理解してあげようなんて、ただのエゴじゃないか。
「どうした?」と文麿がおれの顔をのぞき込む。
「いや、何でもない」
問いつめるだけ野暮だし、ここはそっとしておく方が得策に思える。
「そうか」
それから、文麿はとっておいたエビフライを美味しそうに頬張った。「どんなときでもうまいもんはうまいんだな」と噛みしめるように呟く。
昼飯の後、おれは直接翔さんの事務所に向かった。彼はいすに座り、机の上の書類とにらめっこをしていた。おれに気づくと、やあ、と片手を挙げる。長年付き合ってきた親友のような気さくさで。
「何をやっているんですか?」
「例の誘拐事件の方さ。一応調べてみようと思って、誘拐された子供たちの情報を集めたんだが、やはり何もわからないな。携帯を持っていない、というのが唯一の共通点だが、それだけでは犯人の絞りこみようがない」
「そうですか」何だか、翔さんがこちらの事件を諦めたように見えて、少しがっかりする。「こっちは新事実が出てきましたよ。教授が麻薬をやっていた、っていう衝撃的なものです」
「麻薬」さすがの翔も面食らったようだった。「なるほど、それで悩んでいた動機は何とかなる……のかな? しかしいずれにしても――」
それ以上は進みようがない。どちらの事件も袋小路に入っていた。論理の行き詰まり。演繹の限界。やっぱり探偵が現実世界で為し得ることは限られている。
おれの心中を察したように翔も苦々しい顔をし、「手がかりがまだ出揃っていないということにしよう」と言った。
新たな手がかりが提示されたのは、その晩だった。山名准教授の死、という形で。
6
山名准教授が殺されたのは、丁度、彼が佳奈さんと話していたときだったという。六時過ぎ、予定通り「哲学科の未来」についての話が始まってすぐに、彼はナイフで胸を刺された。即死だった。
健太からその旨を翔が聞いたとき、彼は驚きを隠せなかった。
「つまり犯人は山田佳奈さんだった、と、そういうことなのかい?」
「そうだったら話は簡単なんですけれど」
「不謹慎なことをいうね」
「あ、確かにそうですね。でもそう言いたくなるくらい話は複雑なんです」そして健太は続ける。「ナイフは彼女の後ろから飛んできた」
「えっ? だからそういう冗談は不謹慎だって」
「本当なんです。嘘みたいな話ですけれど、こういうことらしいんです。二人が話をしていると、急にピッ、と音がしてエアコンが作動した。六時十分にタイマーがセットされていたんですね。そしてエアコンの中には電源が入る問いと動き出すモーターがある。それが糸を巻きとって、向かいの本棚の本の間に隠されていたナイフを引っ張り出す」
「えっ、ちょっと待ってくれ、そんな馬鹿な」
「糸は蛍光灯の上を通されていました。支えるものを失ったナイフは重力に従って落下し、蛍光灯を支点として振り子の要領で、エアコンの下に座る准教授の胸に襲いかかる」
「まるで馬鹿げているじゃないか、そんなの」翔は戸惑うほかない。「そんなふざけた物理トリック、二流小説家でも使わない」
「でも実際に起きたんです。佳奈さんの目の前で。しかも聞いて驚かないでください。この方法では、糸はモーターに巻かれ、エアコンの中に吸収されます。そして細川教授の部屋のエアコンからも、巻き込まれた糸が見つかったんです!」
翔は言われたとおり、聞いて驚かなかった。代わりに天井を仰ぎ、首をゆるゆると振る。急展開についていくのがやっとだった。
「えっと、アリバイはどうなんだい? 昨晩の、その時刻のだ」
「ぼくも文麿も家にいたのでありません。佳奈さんは……あるっていうんでしょうか?」
「現場の不在証明っていう意味のアリバイなら、ないといえるだろうね。何しろ彼女は犯行時刻に現場に居合わせた存在証明を持っているんだから」それから翔は思いついて声を高くした。「そうだ、彼女がやったんじゃないか? 突発的に殺してしまった後に、自分が逃れる術がないことを悟った。何せ、二人の会談は君たちも知っていたことだし、防犯カメラにも入った瞬間がばっちり写っている。だからこんな風に苦し紛れの法螺話をでっち上げたんだ。そうとしか説明が付かない」
「突発的に、偶然持ち合わせていたナイフで殺したって言うんですか? 言っておきますが、現場に元々ナイフなんて置いていませんでしたし、使用されたものはとても護身用に持ち歩くような小物ではありませんでした。あまつさえ、わざわざ第一の殺人の偽装まで行ったって言うんですか?」
「……」翔は沈黙した。「でも待てよ。細川殺しのときの文麿君のアリバイは、そんな時限式のトリックが使われたらしい以上、消滅するわけだ。教授が毎晩居残っているのは皆知っていることだったんだろう? 切る方のタイマーも設定しておくなりしておけば、十分可能なアリバイトリックだといえるな」
「文麿には昨晩のアリバイがありません」健太は冷静に告げた。「あんなアリバイトリックが使われたからには、アリバイがないということが逆説的に犯人でないということの証明にな……ん?」
健太は言葉を止め、翔と顔を見合わせた。
「そうだ。二人が六時に山名准教授の部屋で会うことは君らにとって既知の事実だった。それなのにアリバイトリックを仕掛けるというのは、手品のタネを見せびらかす自殺行為だ。もはや時限式物理トリックとしての意義を為していない」
「つまり犯人は、二人が会うことを知らなかった外部の人間だと」
「そう結論づけたいところだが、早計だろう。残念ながら、いくつか難がある。第一に、動機だ。細川教授の場合は麻薬がらみで狙われた可能性も浮上しているが、まさか山名氏までやっていて、二人とも組織に狙われたなんて馬鹿げた話じゃああるまい。それに、だ。エアコンのタイマーや糸とナイフの設置と細やかな調整なんて、内部の人間にしかできない芸当だろう。そもそもその手の殺し屋がこんなまどろっこしいやり方をすると思うか?」
確かに、物理トリックで人を葬るヤクザというのは聞いたことがない、と健太は納得する。
「とにかく、外部犯はまず考えられないというのがぼくの帰着点だ。何というか、探偵の勘みたいなものもそう告げている気がするから、これは信じてほしい」
「はあ。でもそんなことを言ったって、おれたち三人はそれぞれ犯人たり得ないわけですよ」
「現時点での論理の指し示す結果だからね」と当たり前のことを翔は言う。
「手がかりがまだ不足していると? ああ、そうだ。一つ忘れていました。山名准教授の日記です。彼の部屋の引き出しの中にあったんですが、教授が殺された翌日の日記が、こんな調子だったんです。『今日、細川教授が殺されたことがわかった。しかし私には犯人がわかってしまった。あとはどうするかだ』と。筆跡も自然で、偽装工作の線は薄いみたいですね」
「大事な情報じゃないか!」翔は叫ぶ。「なるほど、彼は犯人を知っていた。だからこそ口封じのために殺されてしまったのか?」
いったい誰に? だめだ、頭が回らない。健太は首を振る。
「どうも論理の糸がこんがらがっているな。どうして犯人はわざわざ物理トリックを見せたんだ? ああ、しばらく考えさせてくれ。何か、見えてきそうなんだよ。重要な何かが」
翔は瞑想するように穏やかな表情で目を閉じた。このまま解決に漕ぎ着くのか――と健太は思ったが、翔の統一された精神は非情な着信音によって遮られた。事務所の固定電話だ。
「はい、もしもし」と翔は不機嫌に受話器をつかむ。それから健太のためにスピーカーホンにしてくれた。
「私だ」「私ではわかりません。ムスカですかそれとも詐欺ですか?」「私だよ、霧島だ」「ああ、あのいけすか――失礼。先日依頼してくださった社長さんですか。何の用で?」「息子が戻ってきたんだ。それだけは報告しようとね」「ああ、それは良かったですね」「棒読みだな」「お互い様じゃないですか」「まあいい。それで犯人はわかったのか?」「わかりません」「それは犯人がわかっていないという意味での『わからない』なのか、あるいは質問の意図が」「――前者です」「そうか、初めから期待していないよ」「期待されることを期待していないのでご心配なく」「口だけは一流だな。まあ引き続き捜査を続けてくれ。私は早く犯人をとっちめてやりたいんだ」「息子さんの敵を討つためですか?」「まさか。自分のプライドのためだよ」
ガチャ。
電話が切れると、翔はフルマラソンを終えた後のような心底疲れきった顔を作り、肩をすくめた。
「まったく困ったものさ。あの事件もどうかしないといけないんだから。両手に花とはこのことだね」
「でもやっぱり愉快犯みたいですね」
「そういう奴もいるんだろう、広い世界だから。会ったことはないけれど」
「しかし変なところで神経質です。携帯電話を持っているかいないかなんて、実際大した問題ではないのに」
「まあ、携帯が命取りになると、本気で思いこんでいるんだろう。本人にとっては、信じているものがそのまま真実になり、行動原理になるからね。宗教なんかそのいい例だ」
翔はそこで、前兆もなく、すっくと立ち上がった。
「ど、どうしたんですか?」
「信じているものがそのまま真実になる……」
翔は先ほどの自分の台詞を反芻すると、部屋の中を歩き回り始めた。ぶつぶつと聞き取れない音量で呟き続ける。
傍目でも、彼の中で事件の全体像が紡がれつつあるのは明らかだ。健太は頼もしさと、焦燥にも似た気持ちのアンビバレンスの内に翔を見ていた。翔は――翔はいったい何に気づいたというのか。頭がぜんぜん働かない。
論理だ、と健太は自分に言い聞かせる。自分が唯一、執着を持って、長年磨き上げてきたもの。この日のために。
論理的に考えれば、必ず答えは導き出せる。
意義を失った時限トリックの意義。
アリバイは誰にもない。ならば何のための物理トリックだ。
渦巻く言葉の奔流が健太を翻弄する。
意味。論理。犯人。無意味の意味。
哲学的な問いだ、と彼は思った。
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