最初で最後の事件
Author――まさか
1
おれには、忘れられない経験があった。
それは、大抵の人間が記憶の深淵へと葬送してしまうであろう、小学校二年生のときの出来事だった。桜の散る、四月のはじめ頃だったと心覚えている。おれの人生の針路を決定づけたと評しても過言ではないくらいの、重大な一日だった。
当時、クラスで流行っていたアニメがあった。さすがに名前までは覚えていないが、きっと「何とかレンジャー」の類だったろう。とにかく、そのアニメの貴重なフィギュアを、おれは手に入れたのだった。当然の如く、自慢するために学校に持っていく。だが、その日の昼休みのうちに、フィギュアは何者かによって盗まれてしまった。
いや、何者か、という表現は適切ではないだろう。同じクラスにはいわゆるガキ大将がいた。確か小山錦太とかいう名前の奴で、今でも彼の憎たらしい顔は鮮明に思い浮かべることができる。犯人はそいつに違いなかった。だが、おれがそれを立証することはおよそ不可能で、理不尽にも、錦太は知らぬ顔をして帰ろうとしていた。理屈なんて彼には通用しないし、力ずくで挑むなんてもってのほかだ。おれ一人の力ではどうしようもなく、泣き寝入りするほかないように思えた。
そこでおれは、「近所のお兄さん」的存在である小学四年生の少年に、駄目もとで泣きついたのだった。しかしどうだろう、彼は話を聞くなり、錦太の元へ向かい、彼が犯人だと指摘したのである。論理という〈魔法〉を用いて、見事に証明してしまった。おれの目にはフィギュアを取り返してくれた彼が、とてつもなく格好よく映った。だが事情があって、あの事件以来、おれは彼――永宗翔さんと一度も会っていない。
だが、翔さんがおれに残した印象は鮮烈だった。あの日以来、おれは翔さんみたいになりたいと日々努力を重ねた。あらゆる物事に対して論理的に考える癖をつけ、知識の吸収も怠らなかった。おかげで数年後には「スティーブス」なんていう、これまた流行中のアニメに登場する理屈っぽいキャラクターからとった徒名がつけられてしまった。おまえなんでいつも本ばっかり読んでるんだよ、などと馬鹿にされたことも数知れない。それでもおれがその習慣をやめなかったのは、多分、既にあの時点でロジックの美しさにとり憑かれていたからだと思う。その嗜好は少なくとも学業には反映され、おれはクラスで一番の成績になった。そのまま名門と呼ばれる全国屈指の男子中学校に進学し、高校まではエスカレーター式で、大学も天下の英都大学の文学部に、現役で難なく合格した。客観的に見たら、平穏で順風満帆な学生生活だったと評価していいだろう。
そう、平和だ。
おれは大学構内の食堂で、一人、コーヒーを飲んでいた。大学内でもおれは、その優秀な成績で一目置かれる存在になっている。しかし、だ。
おれは満ち足りていなかった。目指していたのは、こんな所ではなかったはずだ。事件を論理のみで鮮やかに解決する翔さんに憧れて勉学に励んでいたのだ。なのに、おれの世界はあまりにも平和すぎた。小学校二年生の春以降、おれは一度も事件と呼べるものに遭遇したことがない。いや、日常生活の上での失当な「事件」ならいくらでもあったが、それらはおれがどうこうできる類のものではなかった。
ため息をつく。ずっと前から気づいていた。論理なんて、実生活では何の役にも立たない。思考法などがいろいろと参考になるかと思い、大学では哲学を専攻している。そこで改めて痛感した。推理も哲学も、とどのつまりは机上の空論にすぎず、それで何かを変えることができるわけでもなければ何かを生み出せるわけでもないのだ。勉強にひたすら没頭することで、その当たり前の事実から、割り切れない現実から、おれは目を逸らし続けてきただけなのかもしれない。
翔さんは今頃、どこで何をしているのだろうか。最近よく考える。彼だけには、おれの記憶の中に焼き付いた名探偵像と一致していてほしかった。そうでないとやっていられない。
おれはコーヒーを最後の一滴まで啜ると、立ち上がった。さあ、講義だ講義。
「お、健太」
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。大学内でこんなに親しげに話しかけてくる奴は一人しかない。振り返ると、いつもの天然パーマのボサボサ頭が立っていた。鈴木文麿。おれの、中学校時代からの友達だ。唯一の親友と言っても、ぜんぜん過言ではない。
「何だ、文麿。おまえも講義か」わかりきったことを確認する。
「ああ、もちろん、細川教授のな。健太もそうだろう?」
まあそうだな、とおれは答えた。文麿もおれと同じく、哲学を専攻していた。別に友達だから一緒にしようと示し合わせたわけではなく、また、おれみたいに論理的思考の強化に使えるかもしれないと考えたわけでもあるまい。明確な理由は聞いていないが、彼は昔から哲学者のように達観した台詞をよく口にしていたし、単純に興味があったのだろう。あるいは、ただの気まぐれか。大学も、家が近いからという理由のみで選んだほどだ。そんな動機で実際に入学できているのだから、大したものなのだが。
「今日はあれか、へーゲルの弁証法あたりか。おれよくわかないんだよなあ」と文麿がぼやいた。
「そうか? 結構単純な話だと思うけれど」
おれと文麿、どちらが試験でいい点を取れるかといえば、それは決まっておれの方だった。しかし、おれは文麿にはかなわないと直覚していた。彼は天才肌というか何というか、とにかくものを見るセンスが卓越している。だからこそ一般人とは考えが合わないことも多いが、それはいつの世もそうだろう。天才と凡人は理解し合えない。
おれが一番楽しみなのはさ、死ぬことなんだ。いつかの帰り道、彼はおれにそう告げたことがある。戸惑うおれに慌てて彼は手を振った。違う、死にたいとかそういうわけじゃなくて、純粋に、死んだらどうなるか知りたいんだよ。だって全く想像できないじゃないか。天国があるなんて思わないけれど、じゃあおれたちはどこへ行くんだい? どこにもいかないんだとしたら意識はどうなるんだ。死って何なんだ。身近な現象なのに、誰も答えは知らないし、きっと生者がいくら科学を発展させたって突き止めるのは不可能だろう。そんな果てしない謎をおれたちはいつだって抱えているんだぜ? わくわくしないか、なんか。
そのときおれは何と答えただろう。思い出せないが、見上げた星空が妙に神秘的だったのは印象に残っている。今目の前にあるのはあの「宇宙」なのか、という未視感だ。おれたちはどうしようもなく広い宇宙の中で、限りなく小さい岩の塊の上に立って、踊っているのだ、と。
また、文麿はほかの天才の例に漏れず、いわゆる変人だった。普通に話している分には何とも思わないのだが、ふとしたときにその片鱗を見せる。給食で出た大好物の揚げパンをじっくり楽しもうと毎日少しずつ食べていたため、教室に蟻を大量発生させたり、考えごとに夢中になったあまり家の近くの公園に数時間居座って学校に遅刻したりと、奇行のエピソードは枚挙にいとまがない。中でも印象深かったのは、クラスの仲間で集まって、心霊映像が連発される番組を鑑賞していたときのことである。初めのうちは皆と同じように平気な顔をして「これは偽物だな」「明らかに不自然だろ」と批評していた。だが後半、本物じみた映像になっていくと、彼の顔は次第に青ざめていった。やがて、まるで世界の重大なる秘密に気づいてしまったかのように「やめろっ!」と叫び出した。おれたちが面白がって映像を流し続けると、彼は暴れ、糸の切れた操り人形のように床に横たわった。
「ふざけんなよ、幽霊なんているんだったらおれは何を信じて生きていけばいいんだよ。何で勉強なんかしているんだよ……」
そんな風に彼は独白したのだった。おれの脳裏には、あの声の持つ異様な切実さがしばらく焼き付いていた。後日、彼はおれにだけ告白してくれた。何でも、あの日以来、夜中にトイレへ行けなくなってしまったそうだ。おれが笑うと、彼はすねたように、「どうして皆は幽霊が怖くないんだ、おかしくないか? 矛盾していないか?」と嘯いた。科学至上主義の脅威だ、と。
文麿といると、どきりとすることが多い。いかにおれたちが不安定な世界を生きているかを、そしてそのことにいかに気づかずのうのうと暮らしているのかを、思い知らされる。だからおれは文麿が好きだった。周りの人は彼を変人呼わばりするが、おれはこんな魅力的な人間を親友に持てたことを、誇りに思う。もちろん本人には口が裂けても言えることじゃないけれど。
「どうしたんだ、じろじろ見て」と怪訝そうに文麿は問う。
「何でもない」
おれはかぶりを振ると、講義室への足を早めた。
文学部哲学科。世間一般のイメージとしては「人生に悩んだ秀才たちの集うところ」とか、「いつも理屈っぽいことを言っている気難しい奴らの集合体」といったものが挙げられるだろう。実際、あながち間違ってもいない。哲学科が最も自殺率が高いなどという都市伝説じみた噂も小耳に挟んだことがある。何でも、誰もが「人生は無意味だ」という結論に達してしまうため、だとか。
しかし哲学というものの辞書的な意味は「宇宙や人生の真理を理性的な思弁によって突き止めようとする学問」である。要は、物事を筋道立てて思索する力を養う科目で、誰もがそろって生きる意味を模索しているわけではないし、難解な理論を研究しているわけでもない。教授がいて、研究室もあって、卒業論文も書かないといけない、至って凡庸な学部なのだと、初めにことわっておきたい。おれに言わせれば、見ただけで気の遠くなるような公式を証明したり、宇宙の年齢を計算で求めようとしたりしている理系の連中の方が、よっぽど雲上人だ。
さらにおれは哲学者を目指してもいないし――そんな職業が実在するかはいいとして――哲学にさしたる思い入れもない。だから、興味のない講義はあまりまじめに聞いていない。案外おれみたいな学生もたくさんいて、まだおれの方が熱心なくらいである。どうしても遠く見られがちな哲学科も、少なくともこの大学では、その程度のものだというわけだ。
といっても、中には悟りを開いたような“本物”もいる。細川東視教授は正に、そんな高尚な人物だった。理知的な眼光に、穏やかな笑みを湛えた口元。常に的確で深みのある言葉を口にし、その所作の一つ一つには無駄がなく、洗練されている。そんな彼に心酔している人も少なくない。山名西尚准教授もその一人だし、学生の中にも何人かいる。特に、山田佳奈という若い女性研究員は、それこそ新興宗教の教祖か何かのように、細川教授を崇拝している。もちろん、教授はそのような俗世の習わしとは無縁だろうが。
ついでにいうと、文麿は、その山田佳奈に恋心を抱いている。
断定してしまうのは少しおかしいかもしれない。彼の口から聞いたわけではないからだ。あくまでもおれの推測、しかしいつも一緒にいるのだから、大体察しがつくというものだ。文麿は意外と、そういうところがわかりやすかったりする。彼女と喋るたび、文麿がいつもより早口になるのを、そして彼の耳が真っ赤に染まるのを、おれは見逃しはしないのだ。
とにかく――細川教授、山名准教授、佳奈さん、そして鈴木文麿。おれが大学生活を送る上で関わり合いになるのは、ほとんどこの四人だけだといってもいい。そして都合のいいことに、この物語を語る上でも、この四人で大概は事足りる。無論、もう一人、大事な役者がいるのだが。
事件は大学四年生の秋に起きた。おれの遭遇する最初の事件だった。
2
『うちの大学で殺人事件があったらしい。興味があれば来てみたら? どうせ暇なんでしょ?』
弟の薫から受け取ったメールを見て、永宗翔は苦笑を禁じ得なかった。薫の言うとおり、彼はいつものように暇を持て余していた。今も、一人、事務所の机でトランプタワーを立てるのに夢中になっていたところだった。
翔の四歳下の弟である薫は、言わずと知れた名門大学、英都大学の一回生だった。悔しいが、弟とは頭の出来が違う。
それはともかく、殺人事件だ。翔は興味をそそられずにはいられなかった。探偵としての本能、という奴である。翔はここ一ヶ月、何一つ依頼を受けていなかった。最後に殺人事件を解決したのは半年以上前だが、それも実につまらない真相だった。言葉は悪いかもしれないが、翔は飢えていたのだ。血が騒ぐような、魅力的な謎に。
気づけば、翔は立ち上がっていた。その拍子で机がガタンと揺れ、トランプタワーがはらりと音もなく崩れる。翔はため息をつきながら、冷静になって考えてみた。――何の関係もない探偵が事件と聞いて、サバンナのハイエナの如く駆けつけるのは、いかがなものか。それに立ち入った話を聞ける見込みも少ない。そうだ、ここは行くべきではない。それが合理的な判断……。
……ダメだった。理屈では抑えきれない衝動が、翔の中で蠢いていた。殺人事件が起きたと聞いて、無視できる探偵がどこにいるというのだろう。無惨にも崩壊したカードの山に、背中を押されるような心地がした。
思い立ったが吉日を座右の銘とする翔は着替えもせず、英都大学に直行した。ほらやっぱり来た、という薫のにやけた顔が、電車の中でちらちらと浮かんでは消えた。
「ほらやっぱり来た」
薫はにやけた顔で兄を揶揄した。翔は何か言い返そうと口を開きかけたが、やめた。代わりに、「で、事件の概要を教えてくれないか?」と聞く。
「残念ながら小耳に挟んだだけで詳しいことは何も知らないんだよ。文学部哲学科の何とかっていうカリスマ教授がやられたらしいってことくらいしかね。理系のぼくには縁もゆかりもない人だね」
「何だよ、それじゃあ意味がないじゃないか。何があったのかと警察に詰問するわけにもいかないし。来た意味がない」
「だから暇つぶしに来たんでしょ?」薫は無垢な笑みを浮かべた。「暇つぶしっていうのは得てして無意味なものなんじゃないの? 有意義な暇つぶしなんて聞いたことないよ」
「いつからおまえはそんな殊勝なことを言うように……。じゃあ、せっかく来たからには現場だけでも見ていきたいからさ、そのカリスマ先生の殺された場所だけは教えてくれよ」
「いいけれど、面倒なことはしないでよ。ぼくに迷惑がかかるからね」弟は兄に忠告した。「教授の研究室だって聞いたけれど」
「それはどこにあるんだ」
「あ、ごめん、もう次の講義が始まる時間だ。スペクトルとウィーンの変位則について。何時間かはかかるから、ここでバイバイだね。有意義な暇つぶしを」
最後に、日本語らしからぬ用語と弟らしからぬ皮肉を並べ、薫は去っていった。残された翔は、落胆と、少しの自己嫌悪に襲われていた。こうなることはわかっていたのに、どうして来てしまったのだろう。ただの野次馬根性ではないか。
よいしょ、と立ち上がると、校内の案内板を眺めた。哲学科、哲学科……あった。英都大学の東端、道路に面したところにあるらしい。行ってみるか、と翔はゆっくりとした足取りでそこへ向かった。
文学部哲学科の棟はすぐに見つかった。人気がないのは、別に殺人事件があったからではないだろう。その古びた建物は、忘れ去られたようにぽつんと建っていた。荒廃したゴーストタウンが似合うくらいに。
入り口は立ち入り禁止と書かれたビニールテープによって封鎖されている。いよいよやることはなくなった。翔は大きなため息をつくと、研究棟に背を向けた。殺人現場が目と鼻の先にあるというのに、様子すら窺うことができないもどかしさ。無力を痛感する。黄色いテープは、「探偵に出る幕なんかないんだよ」と喋りかけてくるようだった。
「あのー」
一瞬、本当にビニールテープが話したのかと思ったが、違った。
「翔さん?」
自分の名が呼ばれるのを聴き取った。誰だろう、こんなところで。翔は訝しみながら声の方を向く。
「翔さんですよね? 永宗翔さんですよね?」
そこには、帽子を目深にかぶった青年が立っていた。学生だろうか。彼は興奮している風だが、翔にはまるで見覚えがなかった。
「失礼だけれど……君は誰だい?」
「あ、そうですよね、覚えてないですよね」心なしか、若者は少し落ち込んだ。「里見健太です。小学校低学年のときにお世話になった」
里見健太。記憶の、奥の、奥の方が刺激される。小学校――ああ、思い出した。
「そうか」翔は微笑んだ。「のび太君か」
「そうです!」健太は満面の笑みを浮かべた。
「まさかこんなところで会うとは」
当たり前だが、見違えるほど成長した健太に、翔は目を細める。なかなか劇的な再会だった。
3
その日、おれが大学に着いたときには既に、警察が研究室を封鎖していた。
細川教授が殺された、と文麿はおれに告げた。アナウンサーがニュースを読み上げるような、やけに抑揚のない口調だった。何かの冗談かと思った。
「冗談じゃない」
文麿ははっきりと繰り返すが、彼自身も信じ切れていないような、呆然とした表情だった。冗談じゃねえよ、という糾弾のようにも聞こえる。ふざけるなよ、と。
だが、おれたち以上にショックを受けていたのは、佳奈さんと山名准教授だった。無理もあるまい。二人にとって、細川教授は正しく「神」であり、「聖書」でもあったのだ。
「どうしてっ! どうしてなの! 細川教授が殺されるなんて!」
普段の冷徹な物言いが嘘のように、佳奈さんはヒステリックな叫声を上げている。やがて語尾は痙攣したように震えて、泣き始めた。それを心配そうに見つめる文麿。
「誰だ」山名准教授は呻いた。「誰が教授を殺したんだ」
そのときになっておれはようやく、殺人という事象の意味するところに思い当たった。つまり、犯人が必ず存在しているということ。あの、哲学を体現したような温厚な教授に殺意を抱き、その手で実行に移した人間が一人、いなければならないのだ。そんな人が果たしているのだろうか――途方もなく信じ難い。
「あ」
おれは場違いな声を出していた。振り返る文麿に、何でもないと首を振る。気づいただけなのだ。これがおれの立ち会う、最初の事件であると。おれが待ち焦がれていたはずの、非日常。
何という皮肉だろうと思った。師の死を喜べというのか。
詳しい事情は少ししてから聞かされた。教授が亡くなっていたのは、彼の研究室。椅子に座っていたところを、背後から刺されたらしい。凶器のナイフは背中に刺さったままで、流れ出た血は完全に固まっていたという。
死亡推定時刻は昨夜の六時から九時頃。教授は熱心なことに、毎晩研究室に残って自分の研究に没頭している。机の上には開いたままの文献と、大好物のコーヒーが残っていた。教授専用のコップである。コーヒー好きが多いこの学科では、各自専用のコップがあり、コーヒーメーカーまで備えられているのだ。
入り口の防犯カメラには誰も映っていなかったようだが、裏口からなら誰でも中に入ることができるので不思議はない。大して貴重な資料が眠っているわけでもないし、一応各部屋には鍵がかけられているので、入り口、裏口自体は戸締まりをしていないのだ。従って、犯行が可能か否かという観点からは、犯人の絞りようがなかった。犯人の遺留品なども見つかっておらず、大げさに言えば、容疑者は世界七十億人の人々であるわけだ。他の多くの事件がそうであるように。だとしたら、論理なんて代物を行使する余地はないだろう。
もちろん、警察が「犯人は全人類だ」なんて詩的なことをぼやくはずもなく、先ずおれたちがアリバイを聞かれた。動機など、誰にもあるはずがないのに。
文麿と山名准教授のアリバイは完璧だった。
というのも、文麿は山名教授と、もう一人、何とかという教員と三人で近場の居酒屋で食事をしていたらしい。よくそのメンバーに入れるな、とおれなんかは思ってしまうが、実際文麿の見識は大人のそれと比べて何ら遜色はないし、准教授とは普段も妙に波長が合う。一緒に食べに行くのもこれが初めてのことではないようだ。
食事した場所は大学からさほど遠くはないものの、時間は丁度六時から九時だった。ちょっと出来すぎている感も否めないが、しっかり証言も得ているため、不在証明は揺るぎようがなかった。
そしておれと佳奈さん。どちらも大学からかなり離れた家にいたのだが、生憎一人だった。当然、立証はできない。
さすがにそれだけで署に連行されるようなことにはならなかったが、警官には値踏みされるような鋭い目つきで見られた。もしかしたら、おれが最重要容疑者なのかもしれない。なかなかぞっとしない想像だった。
現場保存用のテープが張られ、おれたちはいよいよ、とんでもないことが起こってしまったんだなと実感した。哲学科は一体どうなってしまうのだろう。メンバーは皆同じ場所で待機していたが、会話はほとんど交わさなかった。突然の悲劇に衝撃を受けているせいもあるのだろうが、互いへの疑念も世紀末的な沈黙の一因になっている。つまり、犯人がこの中にいるのではないか、という。皆どこかよそよそしく、気安く話しかけられるような雰囲気ではなかった。
昼頃になり、警察からの許可も下りて、早々に帰宅する運びとなった。
おれはそのまま家に帰る気もしなかったので、何とはなしに哲学科の棟へ向かった。今思うと、虫の知らせ、というものがあったのかもしれない。
彼は、名残惜しそうに研究棟をあとにしたところだった。鼻筋の通った端正な顔立ちに、理知的な光を帯びた瞳。一目で彼だとわかった。
「あのー」とおれは高ぶる心を押さえつけながら、彼に向かって問いかける。「翔さん?」
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