エネルギーの通貨(事件発生篇)
Author――山本周波数
東海道新幹線のぞみで東京から名古屋に向かったのは、八月の初めであった。青木良一は名古屋駅のホームに降り立つと、軽やかな足取りで改札口へ向かった。改札口を抜け少し進むと、待ち合わせ場所として有名な「銀の時計」がある。まわりにはたくさんの人がおり、辺りを見回したり、スマートフォンで大声で電話したりと、誰かと会う約束をしている人がほとんどのようだ。
「これだけ待ち合わせの人ばっかりだと、相手を見つけるのは大変だな」 少し困ったように青木はつぶやいた。しばらく辺りをきょろきょろと見回すと、一人の若い女性に目が向いた。身長は一五〇センチほどで顔立ちは整っている。彼女は「元湯夏海旅館」と書かれた旗を持っていた。青木が泊まろうとしている旅館の名前だ。青木はにこにこと笑いかけながらこの女性に近づき声をかけた。
「あの、すいません。夏海旅館の方ですか」
「え、ええ、そうですよ」 このとき青木は、この女性が自分の顔を見て、恥ずかしそうに眼をそらしたのを見逃さなかった。
「予約をした青木ですが……」
「あ、青木さまですね。このたびは当旅館をご利用いただいて、誠にありがとうございます。送迎用のバスが間もなく参りますので、もうしばらくお待ちください」
「わかりました。しかし、おたくの旅館を選んでよかった。あなたみたいな美人に出会えたんですから」
「まあ、もう、お世辞がお上手なんですから」 そういいながらも、彼女はまんざらでもない様子だった。少しくだけた口調になって、
「私、杉本椿っていいます。青木さんは……、どうしてうちの旅館を選んだんです?」
「実は大学のラグビー部で怪我してしまって……、それで医者が言うんです。君は部活のやりすぎだ、たまには温泉にでもゆっくり入って羽を休めなさい、とね」 確かに青木の体格はがっしりしていて、半袖から覗く浅黒い腕は筋肉がしっかりとついている。
「まあ、そういうことでしたか。それなら安心してください、うちの露天風呂は怪我の治りを早くするって有名なんですよ」
「へえ、それはいいや。楽しみです」 それから椿としばらく話していると、ロータリーに送迎用のバスがやってきた。椿のあとに続いて、青木はバスに乗り込んだ。バスの中には青木のほかに宿泊客らしき人物が二人いた。しかしその二人がどちらも男だとわかると、青木は興味を失ったらしく窓から見える景色をぼんやりと見ていた。
一時間半ほど走っていくと、田んぼや木々に囲まれた田舎の風景が広がっていた。その中にぽつんと少し大きめのコンビニエンスストアがある。さらに進むと山が見え始め、バスは山道を上っていく。
青木が夏海旅館を選んだのは、宿泊費が安かったからだ。地形のためだろうか、すくなくともバスに乗っている宿泊客の数を見る限り、この時期はあまり流行ってはいないらしい。観光地といえるのは近くにある寺院ぐらいで、それでもそこそこ有名な寺らしく、時たまそこの参詣者が泊まりに来たりはするようだ。そしてもう少し経って晩秋になると、辺りの渓谷が色鮮やかな紅葉に彩られ、多少にぎわうらしい。
駅から二時間ほど経ち、ようやくバスは宿に到着した。辺りには、宿が四軒あり、どこの建物も古い。その中で一番大きく、まだ綺麗な宿が夏海旅館であった。建物は大正時代の建築だと椿が説明していたが、なかなか風情がある感じがして青木は意外と気に入った。玄関で宿帳に名前と住所を書き込むと、椿が部屋へ案内してくれた。
部屋の広さは八畳で多少畳が茶色に変色している以外は比較的清潔にされている。冷蔵庫と小さな箪笥があるから、最低限の生活は保障されているといえるだろう。
「夜のお食事は何時ごろお持ちしましょうか」 椿が愛想よく笑いながら尋ねた。腕時計を確認するともう午後四時を回っていた。
「そうだな、じゃあ七時ぐらいで」
「かしこまりました。露天風呂は夜中の十二時から朝の四時の間以外はいつでも使えます」
「じゃあ晩飯を食べたら行こうかな。どうもありがとう」 椿は軽くお辞儀すると、部屋を出ていった。手持無沙汰だと感じた青木はスマートフォンを取り出した。
「げ、圏外かよ。今時電話もインターネットもできない場所が存在するなんて」
暇を持て余した青木は、適当に旅館の中をぶらぶらと歩くことにした。しばらく歩くと休憩所と呼ばれる小部屋を見つけた。
この休憩所には古びたソファーに木製の長机、そしてブラウン管テレビがある。宿泊する部屋にはテレビがないから、何か見たい場合はここに来ればいいわけだ。
この休憩所には先客が二人いた。送迎バスの中で見かけたあの二人の男だった。一人は青木と同じ二十くらいの青年で顎にはぼさぼさの髭を生やしている。顔は青白く、体の線は細い。何か本を見てぶつぶつとつぶやいている。青木はふと、なんとなくこの男に話しかけてみようという気になった。青木は大学で好色家として有名な男だ。その甘いマスクを利用してどんな女ともすぐに仲良くなってしまう。その一方で、男友達というのにはあまり興味がないらしい。だから、この男が自分から積極的に他の男に話しかけることはとても珍しいことだった。
「とても熱心に読んでいますね。何の本です?」
この男は本から目を離して青木をちらりと見て露骨に嫌そうな顔をした。本を読むのを邪魔されたと思ったようだ。
「別に……、言ったって分かりっこない」 ぼそっとこの男は言った。
この反応に短気である青木はかちんときて、ふんと鼻を鳴らした。そして無理やりその本を奪い取って、その本のタイトルを見た。
「アインシュタインの美しき相対性理論……」 本のタイトルを読んでみて、確かに自分には縁のないものだと青木は思った。
「返せよ、失礼じゃないか! だいたい君に何が分かるって言うんだ。ローレンツ変換や、ミンコフスキー時空を君は知っているのか? どうせ君はユークリッド幾何学の世界で生きているんだろうね。時空がゆがむというこの面白さを、君は実感できるのか? 僕の貴重な時間を浪費させていることに、ようやく気付いたか、え?」
「わ、悪かったですよ。そんなに怒らなくてもいいでしょうに」 青木はさっさと本を返して、強引に会話を終わらせた。
青木は聞こえないように小さく溜息を吐くと、もう一人の男の方を見た。歳は三十の後半ぐらいだろうか。体には自信のある青木よりも更にがっちりとした体格で、青木と同じく何かスポーツで鍛えているようである。何か話しかけようかとも思ったが、先ほどの男の件もあるし、何よりこの男は豪快にいびきを立てて寝ていた。おまけに、大きく立派な鼻提灯を作っている。結局、青木はやることもなくなって、自分の部屋に戻ってのんびり過ごした。
運ばれてきた晩飯は素朴だがとても美味かった。特に山菜料理は青木の好みに合った。下宿先ではいつも外食やファーストフードばかりでなかなか野菜をとれない青木からすると、こういう健康的な料理はありがたかった。
晩飯を食べた後は、念願の露天風呂に入った。驚いたのは、湯にゆったり浸かっていると、椿が体にバスタオルだけを巻いた煽情的な姿で現れて、
「お背中を洗いますね」 と入ってきたことだった。
すぐに、青木と椿は男女の仲になった。
青木の夏海旅館での生活はなかなか快適なものだった。しかし人間は欲深いもので、いくら良い生活でも同じような生活が続くと刺激が欲しくなる。旅館に泊まって数日経つと、青木はここの生活に飽きてきていた。
そんなある日のことである。この旅館に、一人の若い女が泊まりに来た。歳は、二十代後半だろうか、顔がたいそう整っていて今がちょうど女盛りといったところだ。この女、どこをどう見てもうらびれた夏海旅館には似つかわしくない。身に着けている服やバッグ、キャリーバッグもブランド物ばかりで、この辺鄙な田舎に全くふさわしくないのだ。
この女は旅館に一人で現れた。すぐに後からこの女の連れも現れるかとも思われたが、そういうことはなかった。
「まだ詳しくは決めていませんが……、一週間ほど泊まらせていただくかもしれませんわ」 女は綺麗な声で従業員である椿に言った。無論椿は快諾した。女は宿帳に名前と住所を書き込んだ。それがまた達筆で、椿はいちいち驚いた。この女は名前を、山田沙織といい、住所は名古屋市西区A町B丁目C番地。と書かれていた。
女性一人の宿泊客……、しかもこんな田舎にである。椿は多少不審に思ったが、持ち物を見るに羽振りはかなり良さそうであるから、少なくとも金銭のことは心配しなくてもよさそうだ。椿はふと、少女のように心躍る自分がいることに気づいた。田舎でずっと暮らしていると、こういうちょっとした刺激が大きな驚きや感動になるのかもしれない。
夕食に山菜を出すと、意外と女は喜んだ。こんなハイカラな人にはちょっと地味かもしれない……と危惧していた椿はこの反応にほっとした。
椿は後からこの女のところに誰か来るものだと思っていたが、次の日になっても女の連れどころか新しい宿泊客もなかった。
(やっぱり一人で観光にいらしたのかな……) 確かに、この女客は椿が食事を運んだ時に、近場で物珍しい場所や見物するといいおすすめの場所を尋ねてきた。もちろん椿は愛想よく、近くの有名な寺を紹介した。しかし、この女客は特に外出する気配もなく、部屋でラジオなどを聞きながらくつろいでいるだけなのだ。それでは、青木のように温泉目当てで宿泊しているのであろうか。いや、やはりそういった気配は感じられなかった。
狭い温泉宿の中である。これといった娯楽もないから、噂はすぐに広がる。この女客のことも宿泊客や宿の職員の間ですぐに話題になった。青木良一も当然その中の一人であった。
「椿ちゃん。例の女客は一体どういう女なの」 廊下でたまたま椿と会った青木は気さくにそう尋ねた。
「さあ、分からないわ」 そう答える椿の心の中は穏やかなものではなかった。
(何よ、私という存在があるのに……)
「椿ちゃん、あの部屋の担当なんだろ? それなのに全然分からないの?」
「担当といっても言われたことをするだけよ。変な詮索はお客様を怒らせるだけ……。あの女の人が気になるの?」
「ここの宿にとまっている人はみんな多かれ少なかれ気にしてるさ。君だってそうだろう」
「そりゃあ、まあ……」
椿はどうにもはぐらかされたようで、面白くなかった。
(あんな女さえいなければ……) 椿の中で嫉妬の炎がゆらゆらと燃え上がっていた。
青木はこの女客のことが非常に気になっていた。狭い宿の中である。ましてや好色家の彼はすぐにこの女客のことを知ったのだ。
時たま、廊下などで出会ったりすると青木は決まって軽くこの女客に会釈した。青木がこうするといままで会ってきた女は皆頬を赤く染めたりした。しかしこの女客は少し口元に笑みを作るだけですぐに行き過ぎるのである。
この反応に、青木はおおいに自尊心を傷つけられた。
この女客の積極的とは言えない対応は、何も青木だけに限ったものではなかった。青木は休憩所で、例の相対性理論男と鼻提灯男が女客に話しかけているのを、偶々通りかかったときに見つけたのだ。その時もこの女客は多少笑みを作っただけで、すぐに会話を終わらせるとさっさと自分の部屋に戻っていってしまったのだ。鼻提灯男は露骨に舌打ちをしていたし、相対性理論男などは、顔を真っ赤にして一言、
「殺してやる」 と言い残すとどこかへ出かけてしまった。
ざまあみやがれ。俺ならもっとうまくやる、と青木は考えていただけに、女客の対応はきついところがある。
その日の夕方ごろ、五十代前半ぐらいの一人の男が旅館に現れた。玄関であの例の女客の苗字を言って、この旅館に泊まっていると訊いたのだがと伝えた。女客は椿にその話を聞かされると、嬉しそうに笑い、急いで玄関に走ってきたのだ。その様子を偶々青木は見ていたから、とても驚いた。
「遅くなってすまないね。ずいぶんと待っただろう」
「そんなの、全然気にしませんわ。それより、お疲れでしょう。二人でゆっくり休みましょう」
この男と話すときの女客は、非常に楽しそうで、そして何より美しかった。いままで一度も旅館では見せたことのない表情だ。
(そういう顔を自分ではなくあの男だけに見せるのだ……) 心の中でふつふつと黒い感情が湧き上がっていくのを、青木は自覚していた。今まで感じたことのないものだった。
この連れの男性が旅館に現れてから、女客は目に見えて明るくなった。それまでは、どこか少し悲しげというか、人を寄せ付けない険しさのようなものがあったものだが、今やそういうところは姿を消し、実に楽しげなのが周りにいてもわかった。後ろから見ていてもその睦まじさから、見る者をついついニヤニヤさせた。ただ、青木を含めた男の宿泊客三人や、椿などはその姿を忌々し気に睨めつけていた。
この何人かを除いて、旅館の中ではこの二人を好意的に見つめていた。
「あの男の方は、女性の旦那様なんでしょうか」
「しかし、見たところかなりの歳の差を感じる。愛人かなにかではないだろうか」
「いやいや、あんなにきちんとした感じの女性が愛人というのは違和感がある。最近は多少歳の差があっても気にしないという話もあるし……」
旅館の中ではこの二人の関係についていろんな噂がささやかれていた。二人がどんな関係か、ということについては人によって意見が分かれたが、この女客が早めにこの旅館に来て男を待っていたのだというのは一致していた。
男が現れてからの女客の変化について、一番いろんな人から尋ねられたのは、部屋を担当している椿だった。二人の様子などについていろいろ聞かれたが、椿はそのどれにもあいまいに答えるだけだった。
しかし、椿は大っぴらには言えないようなことを、布団を整えているときに気づいたのであった。もっとも、二人の男女が同じ屋根の下で暮らせば、当然そういう行為が行われることぐらいは初心な椿にも分かっていることではあった。何しろ、椿自身も青木とそういう関係なのだから……。
椿はそのことを、青木にだけこっそり教えた。女客に気にかけている様子の彼の反応を試したくなったのだ。てっきり、青木は興味なさそうなふりをするか、と思っていたのだが、椿が気づいたことを教えると、青木はただ、
「ふうん……」 と面白くなさそうにそっぽを向いただけであった。
「なによ、この前まであのお客様に興味津々だったくせに」
「そりゃあそうだけれど……、しかしね。椿ちゃんが見つけたということにしても、夫婦なら当たり前だと思ったんだよ。そんなことに、いちいち俺が驚くとでも思うのかい」
「そ、それもそうね。変なこと言ってしまってごめんなさい」 椿は、青木の機嫌を悪くしないように努めた。と同時に、青木に対し、どことなくぎこちなさというか、違和感を覚えずにはいられなかった。しかし、それが何なのか椿にははっきりとは分からなった。
事件が起きたのは、女客の連れの男が現れてから四日目のことであった。午後三時頃に女客の連れの男が一人で外出した。いつも女客と一緒にいるから、珍しいものだと玄関の係りの人に覚えられていた。旅館の近くには店がないから、旅館に来る途中のコンビニエンスストアに買い物に出かけるのだということを言ったそうだ。旅館からこのコンビニまではバスで三十分かかる。近くに店がないことから、その品揃えはむしろスーパーマーケットと呼んだほうがすっきりくる。買い物に時間がかかったのだろう、往復の時間を合わせて一時間五十分かかった。
この男が帰ってきたのは四時五十分だった。玄関の係りの者が応対した。その時に偶々腕時計で時間を確認していたことが、後で役に立った。男の片手にはコンビニの買い物袋がぶら下がっていた。
男はすぐに自室に戻っていた。それから、およそ二十分が経過した。正確な時間は五時十三分であった。玄関の係りの者がまたこの男の姿をとらえたのだ。その右手にはスーツケースを持っていた。この旅館に現れた時もこのスーツケースを持っていた。
係りの人間は驚いて、
「お帰りになることにしたのですか」 と聞くと、男は一瞬顔を引きつらせて、
「いや、そうじゃない。仕事の関係で呼び出されましてね……。ちょっと名古屋駅に行ってきます。明日か、遅くても明後日の朝には帰ってくると思いますよ」 と言った。なぜか、この男は顔を真っ青にさせて、一刻も早く旅館から出ようという気持ちがありありと表情に表れていた。係りの人間は頷いて、
「承知しました」 と答えた。
「ああ、それから妻はぐっすりと寝ていましてね、起こすのはかわいそうだから、誰もいかないであげてください。ま、すぐに起きるとは思いますがね」
「わかりました、ではそのようにいたします」
このあとに、旅館の者がこの男に会うことは二度と無かった。
女客の死体が部屋から発見されたのは、午後八時半だった。係りの椿が、晩飯の時間を確認しようとして、部屋に入ったところ、死体を発見したのだ。
すぐに警察に連絡し、捜査員が駆け付けたのであった。
Next→→→『エネルギーの通貨(捜査篇)』




