アイデンティティ・クライシス
Author――茅野愁
自分の存在理由はなんだ。生きていることの価値はどこにある。人生は幻影だ。走馬灯のように次々、移り変わっていく。そして記憶に残っていくのは、その断片のいくつかでしかない。記憶に残る断片を全て繋ぎ合わせたって、これまでの人生は形作られない。自分とはなんだ。人生とはなんだ。断片から存在理由を見出せるのか。これからも断片化していく幻影に、生きていく価値なんて存在するのか。自分の存在理由はなんだ――
アイデンティティ・クライシス
Identity crisis
///俺ら若者三人が夜の森のなかでなにをしているのか。知りたいとも思わないだろう。誰かに聞かれたことなんて一度もないし、そもそも、夜の森に今いることを知っているのは、俺ら三人と、目の前にいる一人以外には誰もいないのだから。
俺ら三人。それぞれ名前は、ヒトリ、フワタリ、ミツリ。紹介だけはしてみたが、覚える必要はない。誰が誰であるのかも意味がないし、俺が誰であろうとどうでも良い。どうせ忘れ去られていく身なのだから。
目の前の一人だってそうだ。こいつの場合は、名前の紹介すらいらないだろう。ここで紹介をしなくたって、近いうちにその名前は広がっているに違いない。突然の不運に見舞われた、可哀想な一般人として。
【ハッピースラッピング】この言葉を知っている人は、そう多くはいないだろう。直訳すると愉快な一撃。略称としてハピスラと呼ばれている。赤の他人を捕まえてきて暴行し、その現場を撮影。インターネット上に公開をする行為。それがハピスラだ。
被害者とその家族、加えて動画を見た一部の人間はみな口をそろえて言うだろう。これは〈犯罪〉だと。そう犯罪だ。間違ってはいない。でも、俺らからすれば、これは単なる〈悪戯〉でしかない。少々、過激で暴力的な悪戯。平穏な日常生活へのスパイスでしかない。
何事も、行き過ぎなければ問題はない。越えてはならない一線だってきちんと決めている。そこの手前でさえ留まっていれば――〈殺し〉さえしなければ、なんの問題もないのだ。
「今日の獲物はやたらと反応が良いな」///ヒトリかフワタリかミツリの誰かが言った。///「なにをやっても楽しませてくれそうだ」
夜の森のなか。薄闇に消えかけている、獲物の姿が見える。
アルバイトからの帰り途中だったのだろうか。仕事着を入れたスクールバッグを背負って、自転車を漕いでいた姿を思い出す。栗色のショートヘアが特徴的な小柄な少女だ。その少女は、人面猫のマスクを被った俺らに捕まって、残した悲鳴を誰にも届けられないまま拉致された。どことも分からない森の奥の奥まで。そして、暴行を受けている。木の幹に体を縛り付けられ、口にハンカチを噛まされた格好で。
「たまには趣向を凝らしてみようと思ってね」誰かが言った。「きっと綺麗だろうからさ」
耳の側でひゅっと。風を切る音がした。目の前で必死の抵抗を見せている少女の左頬になにかがぶつかる。鈍い音がして、少女が苦しいうめき声を出す。
「あれ、可笑しいなあ。もう少し刺激がほしいのかな?」
再び風を切る音がして、少女の左頬でなにかが花咲いた。ぱっと明るく。規則的に点滅する輝きを放って。それは光の線を描きながら後戻りし、またすぐに、少女の頬へと向かっていく。
暴力的な光の線の軌道。重たく響く殴打の音。くぐもったうめき声。光が点滅するたびに、少女が噛んでいるハンカチに滲んだ血が見える。痛みに耐えられず、涙を流す少女の顔が見える。
確かに綺麗だ。ビデオカメラを握る手に思わず力が入ってしまうほど。綺麗だ。けれど、俺は光の軌道のなかに『die』不吉な言葉を見てしまった気がして、恐怖を抱いた。まるで先のことを暗に示されたような心持ちになって。恐怖を抱かずにはいられなくなった。
*
これは誰の人生だ。本当に俺らの人生なのか。だとしたら、なんて物語的なんだろう。こんな陳腐なマクガフィン、誰だって望んでやしないだろうに。
「何度確かめたって無駄だろ。どう見たって、死んでる」
俺は後悔していた。なぜ、恐怖を抱いた時点で止めなかったのか。
何事も、行き過ぎなければ問題はない。越えてはならない一線の手前でさえ留まっていれば。なんの問題もなかったのだ。なのに、俺らはこの一夜で越えてしまった。単なる悪戯が、殺しを通して、明確な犯罪になったのを理解した瞬間にはもう手遅れだった。
「なあ、どうするよ」三人の視線が交わる。
【メメント・モリ】自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな。そう、自分はいつか必ず死んでしまう。そんな当たり前のこと、忘れたことなんて一度もなかった。けれども、目の前の、それも他人が死ぬことに関してはどうだ。他人だっていつか必ず死んでしまう。そこを忘れてしまっては意味がなかったのではないか。自分が死ねば、全ては終わりだ。しかし、他人が死んだところで俺らは生き続けていく。一番忘れてはならなかった死。それはなんだったか。
「映像でも見てみるか?」とうに録画を停止したビデオカメラを掲げてみせる。
「誰がこいつを殺したかって? 犯人探しなんてしてどうする。全員でやったことだろ」
ハンカチを咥え、木に縛り付けられたまま絶命している少女。時間が経てば腐敗していくに違いない、魂を失った肉塊を前に俺らは沈黙する。
森の奥の奥。今は誰にも見られていないとはいえ、死体が見つかれば俺らは必ず捕まるだろう。では、捕まらないためには死体を隠せば良いのだろうか。どこに。良い場所も良い方法もあるとは思えない。地中深くに埋めようにも、スコップだって持ってきてはいない。もう、後がなかった。
「答えも出ないのに、こんなとこでいつまでも考えてたって仕方がないよ」
「仕方がないならどうするんだ? 置いていくわけにもいかないだろ」
「ああ、だから連れて帰るんだよ」///
*
//これは夢か。幻影か。部屋の真ん中で死体と踊る。軽快なステップを踏んで、二人だけの世界。
観客は携帯電話のカメラをこちらへと向ける。顔認識スタンプによる特殊加工で色んなキャラクタに変身させてきて、奇妙な写真を撮って笑いながら。現代的なダンス・マカブルを楽しんでいる。
それでも途端につまらなくなって、床を漂う青いビニールシートの海に肉塊を突き飛ばして溺れさせる。どうせ溺死はしないのだ。その証拠に、溺れてもがくことも苦しむこともない。なぜなら、少女はもう死んでいるのだから。俺らはといえば、別の意味で溺れていた。冷蔵庫から取り出してきた酒で気持ちよく。むしろ、吐き気がするほど気持ち悪くなるくらいに。
「さあ」死体の解体がはじまった。頭のなかが掻き回されている。それぐらいにぐらぐらのふにゃふにゃで、異常なことをしているはずなのに、なぜだろう。とても楽しい。赤へと染まっていく青を見ながら、ほかの色も足したくなって、牛乳の白や珈琲の黒なんかも混ぜ込んだ。ヒトリが、これでしばらくは肉に困らないなと笑い、酒のつまみと言いながら、切った肉をいくつか焼いて腹に入れていた。
「俺らが生きている意味ってなんだろうな」ミツリが手を血で染めながら、突然、真面目になって言った。「人生のなにに価値を見出して生きていこうとしているんだ?」
「そんなもの、今が楽しいからだろ」俺が答える。
「じゃあ、今が楽しくなかったらどうするんだ?」
「楽しくなる日まで生きるだけだろ」ぶっきらぼうに返して、酒を飲む。「それに、楽しいときに楽しくないときのことを考えてどうするんだよ。それでなにかが解決されるわけでもあるまいし」
空になった缶を放って、解体を続ける。
俺はこんな異常な状況も楽しい。人を殺して、その死体を解体するなんて、なかなかできることじゃない。だからこそ、とても楽しいんだ。そんなときに、楽しくない話なんてしてほしくはない。
ミツリ。撮影担当。こいつはいつもどこか冷めている。――関係者なのに部外者のように振る舞って。それが気に食わない。
一度、困ればいいのだ。その冷静さをなくしてしまえばいい。//
*
/窓の外で起きていることを見ているようだ。真面目な話をする二人の姿なんて、これまでに見たことがなかったから。驚きだ。あの二人が人生の価値を話し合っている。僕はどうだ。馬鹿な僕の人生なんかに価値はあるのか。
それにしても血生臭い。鼻が曲がるって言葉を聞いたことがあるけれど、本当に曲がってしまいそうだ。むしろ、曲がる前に自分で鼻をもぐかもしれない。でも、こんなに臭いのに肉は美味しかった。――ああ、美味しけど、この量はさすがになあ。どうしよう。
「ねえ。この肉どうやって減らしてく?」
あれ、違う。あの二人の話に繋がらない。
ああ、まただ。僕だけ話の流れが読めていない。
「ハンバーグでも作ればいいさ。それを、近所で外飼いしている犬とかにでもやればいい」
けど、フワタリは優しい。口調は厳しいけれど、僕の空気が読めない発言にも返答をしてくれる。僕を否定するわけじゃなく、僕を嫌がるわけでもなく。自然と会話をするように、返してくれる。
なんだろう、すごく、馬鹿にされている気分だ。
きっとフワタリは僕を見下しているからこんな馬鹿にも優しくなんてできるんだ。でないと、僕みたいな馬鹿に優しくなんてできるはずがない。ミツリはどうだ。ミツリは普段から無口だ。だから、なにも返してはくれないことの方が多い。でも、思い返してみればフワタリとはそれなりに会話をしている気もする。つまり、それもきっと――。
包丁を持つ手に力が入っていく。
僕は見下されるのが嫌いだ。人を見下すなんてどうかしている。見下される人間はどれだけ傷ついていることか。あいつらは考えたことがないんだ。でも、自分で自分が馬鹿なことだって知っている。
僕は見下されたくない。そのために、二人を越えたい。
どうすれば、僕は二人を越えられる。/
◯
『今日の獲物はやたらと反応が良いな。なにをやっても楽しませてくれそうだ。……たまには趣向を凝らしてみようと思ってね。きっと綺麗だろうからさ。あれ、可笑しいなあ。もう少し刺激がほしいのかな? ……何度確かめたって無駄だろ。どう見たって、死んでる。……なあ、どうするよ。……映像でも見てみるか? 誰がこいつを殺したかって? 犯人探しなんてしてどうする。全員でやったことだろ。……答えも出ないのに、こんなとこでいつまでも考えてたって仕方がないよ。仕方がないならどうするんだ? 置いていくわけにもいかないだろ。ああ、だから連れて帰るんだよ』
動画投稿サイトにアップロードされた一つの動画。そこには、人面猫の被り物で顔を隠した性別不明の誰かと、暴行を受けている少女の姿がうつしだされている。
一度インターネットの海へと放たれた情報は、消えることを知らない。
三人のうちの誰かがアップロードをしたであろう動画。一体、誰が。――疑い合い。否定し合う。だが、本当に大切なことに三人は気が付いていない。犯人を探す前に、自分とは誰かを把握すべきであることに。そして、画面にうつる動画の不自然なことに。
時間は巻き戻ることを知らない。記憶に残る断片はどこか欠如している。
だが、どうだろう。
時間は記録されていないか。
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