grif
Author――佐伯
「八時には帰るからね」母は、頭を撫でてきた。「わかった」ソファーに座りスマホを弄るぼく。その手が離れた時、母は自分に興味がなくなったのではと思った。
(事実そうなのかも)そう思い嘆息した。
母が出かけたあと、テレビを消すと雨が降っている事に気づいた。
雨が降ると桜が散る。
自分の名前がサクラだから、それに花がつく頃天気が気になった。一面に敷き詰められた桜の絨毯も美しいが、やはり枝についていてこその風情だと思う。
お腹が減ったので食事を取り、スマホをテーブルに置き、伸びをする。
インターホンがなった。
母には誰か来ても出なくていいと言われている。
違うな、出てはいけないと言われている。誰であろうと出てはいけないと、きつく言われていた。
インターホンがなる。
……リビングの大窓がしまっているか気になった。
フローリングの床は素足にはひんやりした。鍵に手を伸ばすと、外からその窓に手をかける人がいる。一足早く鍵を閉めた。
窓が軋む音がした。
「サクラちゃん。開けてくれないか?」
「それはできないですよ。後藤さん」
「お母さんいないんだろ。いいじゃないか」
「警察呼びますよ」
「……本気?」
背を見せたくないので、後ろ歩きでテーブルまで移動しスマホを取る。
「帰ってください。来るならお母さんのいる時に」
男は怒気を含んだ表情となり、「……開けろ! サクラ開けるんだ!」と言った。
「無理ですよ」
ぼくは百十番を押し、画面を向ける。
「じょ、冗談はやめろ。わ、わかったから」
コールする前に切る。
「帰って」
男は未練がましくこちらを見ながら去って行った。
母が帰ってくるまであと四時間。
テレビは興味のないものしかやっていない。どーやって時間を潰そう。分針の進みがやたらゆっくりに感じた。一秒の塊が八十くらいに思えた。
「はやく帰ってこないかな」薄暗いなか小学生を置いて行くのはどんな気分だろうか。
例えば、変質者に首を絞められ殺されていたら、母は泣くのだろうか?
想像して自分の首を絞めた。
冗談でやっていたが強く絞めていたようで、気を失っていた。
目を開けると母が顔を覗き込んでいた。
「……大丈夫?」その表情は心配そうに見えた。
「大丈夫そうね」
ご飯にしようか?
ご飯……に……
鼓膜がおかしくなり言葉がうまく聞こえない。
次には眼球がおかしくなり、空間がグニャグニャに歪んだ。
キッチンに向かう母は床に落ちて行った。
きっと叫びたいのを我慢して落ちた。落ちた先はあの嫌う男しかいない。毎日喧嘩をするだろう。今床を埋めてしまえば二人と会わないで済む。
しかし母には会いたい。
「お母さん!」
答えてくれるはずだ。
鍵が開く音。
雨具を叩く音。傘ではない。
誰かがリビングに近づいてくる。
「今呼んだ?」
母だ。お母さんだ。
ジャージ姿の母は「まだ眠れない?」と聞いてきた。
どうやら、夜があけていたらしい。
「ごはん食べよっか?」
「後藤さんがきた」
「?」
「後藤さんがきた」発音を限りなくお父さんにすると通じた。
「あの男またきたの」
あの男と母は言う。心底呆れた溜息が聞こえた。
「ごめんね。一人にして、怖かったよね」
「うん、大丈夫だよ。気分転換になってるんでしょ?」
母は答えなかった。
「シャワー浴びてくるね。汗かいたから」
ぼくは目を閉じた。母がいれば深く眠れる。
「八時には帰るから」おそらく徹夜の母、は軽くストレッチをした。今日が期日のコラムをあげなきゃと言っていた。
「どうして新聞配達をするの?」
「お金の為」
と……。「そうね。頭が整理されるのよ、記憶整理にちょうどいいの。疲れて帰って寝て、起きるとなぜか筆が進むの」母は笑った。
母は頭のいい人だ、そのやり方は正しいのだろう。ぼくは息を短く吐いた。
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