あやかりゴースト・中
2
「まず、言い訳させてもらうとね」彼女はそう前置きして、捲し立て始める。「アタシが殺したんじゃないんだよ。さっきもいったんだけど、いつの間にかそうなっててね――」「と」「言うのも、」「お風呂入って帰って来たらさっきの死体がテーブルの上にあったのよ」「それで」「びっくりしちゃって」「つい、隠すように押入れに閉じ込めちゃったの」「そもそもこの人、知らない人だし……」「ま」「あれじゃない?」「ほら、呪いってやつ!」「だってもう」「十一月九日でしょ?」「アタシもそうだけど」「きっとこの男も今日を目的に興味本位でここを訪ねたんじゃないかな?」「それに花上くんだってそうでしょ?」「とするなら」「まあある程度の覚悟はできていたと思うよ?」「だから仕方なかったとは言わないけれども……」「でも助かったよ!」「きみたちが来てくれてさ」
きみたちと渡邊さんが言った通り、この場にはいま、僕以外にももう一人、死体遺棄幇助――いや、幇助するつもりはないけど――の助っ人がいる。
百合籠さんだ。僕と百合籠さんは、テーブル越しに渡邊さんと向き合って話を聞いていた。さっきまで死体が置かれていたテーブルなのだと思うと、走って逃げ出したくなるが……。
死体はなおも押入れからずり落ちた形で隣室の床に転がっている。ふすまが隔てるすぐ向こう側に死体があるだなんて考えたくもない。
百合籠さんは、薄ら笑いを浮かべて渡邊さんの話を聞いていた。どことなく楽しそうに見える。気が動転した僕が、嫌な顔をする彼女をここへつれて(さすがの百合籠さんも僕のただならぬ雰囲気を察したのだろう)あの死体を見せたときにも、百合籠さんは眉ひとつ動かさず「ほう」としか言わなかった。
僕とはまるで大違いだ。
まあ、そりゃあそうだろうけど。僕と彼女では性格が違いすぎるし、それに僕には覚悟がなかったのだから。僕はどこかで、しょせん噂は噂とたかをくくっていたのだから。
表面上は百合籠さんに合わせていたのだけど、心の底ではまさかこうなるなんて思ってもいなかった。十一月九日なんて……十一月九日なのだとばかり――
と。
ここで気付く。
「あの……、いまって、十一月九日なんですか?」
さっきスマホで時間確認したときはまだ日付は変わっていなかった。
「ああ? うん、ほら」
彼女が見せたスマートフォンには、「00:32」と表示されていた。
おかしい。僕がさっきスマートフォンで確認したときは、二十三時と十数分といったところだった。あれから、少なくとも三十分以上が経過しているということはありえない。これは断言できる。
「僕の体内時計もそんな感じだ」
横で百合籠さんが言った。というかそんな機能があったのか。
百合籠さんの言葉では確証とまではいたらないが、まあ二人とも意見が合致するのなら、これは僕の方が間違っていると解釈して間違いないのだろう。たぶん、僕のスマホの時計が狂っているのだと思う。――いつから?
というか、インターネットに接続されているスマホの時刻表示が狂うだなんてことは普通ありえるんだろうか。
……なるほど、十一月九日。
なめていた。想定以上に想定外だった。
「で、僕たちにどうしてほしいんですか? 死体遺棄ですか?」
「アタシ犯人じゃないの。その証明を手伝って」
言うほど深刻そうではない口調だ。
なんか……、ホラーというかミステリっぽい展開になってきたぞ。
「渡邊さん――でしたか。でしたらまず、浴室に入ったのは何時ごろか教えてくださいますか?」
これは僕じゃなくて百合籠さんの台詞だ。意外と思われるかもしれないが、百合籠さんはなんと敬語も話せるのである。天地がひっくり返りそうなくらいの仰天事実だが。
「えと、たしか、十一時半よりあとからだと思うけど」
これはもちろん、十一時半から零時ごろまで、十二時間半も風呂に入っていたという意味ではなく、単に口語だから二十三時を十一時と言っているに過ぎない。こんな注釈、通常の理解力があればいらないとは思うが、一応。
「ふむ、和親が部屋を出たのは零時十五分だったから――」分刻みでわかるのか。「――和親、部屋を出たとき渡邊さんとすれ違ったか?」
「いいえ」
「なら、和親が部屋を出たときにはすでに渡邊さんは死体とご対面していたのか。少なくとも二十三時半から零時十五分まで、渡邊さんは部屋にはいなかった」
「すごい!」
渡邊さんがキラキラと目を輝かせた。
百合籠さんがやったことと言えば、時系列の整理――事実の整理くらいで、それは推理小説内の探偵役だと出来て当然で推理とすらいえない代物なのかもしれない。だけど現実の人間が口頭ですらすらと言うには結構な難度だと僕は思う。ことに、死人が出ているこの状況では。
「もし渡邊さんの言うことを信じて、これが呪いのせいだとするのなら、死亡推定時刻はざっと零時から零時十分といった感じだな。渡邊さんの言葉を信じるのなら、だが」
いちいち信じるのなら、と強調する百合籠さん。ま、当然か。渡邊さんが言ったことが事実だなんて確証はいまのところないのだから。
渡邊さんがしゅんとなっている。
「じゃ、確かめるか」百合籠さんが立ち上がりつつ言った。
「なにをですか?」
百合籠さんはにやと笑い。
「事実かどうか、をだよ」
◇
大広間には十三人の人間が集められていた。
十人は僕と百合籠さんも含めた客。残り三人はこの民宿のスタッフだ。
大広間の空気は最悪だ。
三○三号室の大森さんという女性がさめざめと泣いていた。どうやら、亡くなった男性と彼女は恋仲であるらしかった。愛しい人を亡くしたばかりで傷心している大森さんを、スタッフの円居さんが親身になって慰めている。垂れ目で柔らかい印象の女性だ。その上、先ほど独り言を聞かれてしまった二○一号室の愛則さんがいるのでなんというかいたたまれない。彼女は僕に気付くと気まずそうに会釈した。ちなみに、心霊サークル四人組は二○三号室だった。この機に翁長さんに新聞紙のコピーを返す。なんだか妙な達成感があった。残った二○二号室には泉井さんという男性がいた。目元が前髪で隠れていて、感情のほどが窺えない。
「はい、こんな夜中にすいません」
静かな水面に石を投じるように、百合籠さんが先駆けて言った。
「皆さんをここに集めたのは他でもありません――先ほど《十一月九日》の、その犠牲者がさっそく出たためです」
場がざわつくとかそういったことはなかった。一人ひとりの部屋を訪ねる際に、犠牲者が出たことは手短に伝えていたからだ。その犠牲者が大森さんの知人だということも、まあ空気でわかるだろう。
「犠牲者は三○三号室の榎佑介さんです」
「その、榎さんはどんな風に亡くなっていたんですか?」
秋森さんの質問。
「三○一号室で、絞殺体で発見されました。寝室の押入れを開けた拍子にずり落ちてしまい、いまもそのままにしてあります。三○一号室はこちらの渡邊和海さんが宿泊している部屋になりますね」
百合籠さんに名前を呼ばれて、遠慮がちに渡邊さんが挙手した。
これにはさすがに場もざわついた。とくに大人数の心霊サークル四人組が目立つ。それぞれが顔を見合わせ、そして最後には渡邊さんに視線が集まった。
全員の視線を、ぎこちない笑顔で受け止める。まあ、ぎこちないとはいえ笑顔を浮かべることができる時点で大概だ。そもそも死体を発見したその直後になんでもない風に「手伝ってほしい事がある」と声をかけたところから、頭のねじがいくつか外れていることがわかる。
「あんたが! 佑介を殺したんでしょ⁉」
場のざわめきは大森さんの絶叫に近い声で静まった。大森さんは、渡邊さんをいまにも殺しかねない形相で睨みつけた。それから、憎き渡邊さんに襲い掛からんと腰を浮かせるが、これは近くにいたスタッフの眞部さん――受付の人だ――と、僕の部屋に一度来た仲居の鴨田さんが押さえつけ、なだめた。円居さんはあまりの気迫に腰を抜かしている。
「落ち着いてください。それはこれから、考えるのです」
百合籠さんが機械的に言った。これが大森さんの神経に障ったようで、ぴくりと反応らしきものはあったのだが、意外にも何も言わなかった。
すると、ゆっくりと眞部さんが手を挙げた。
「あの~」
「なんです?」
っていうかいつの間にか百合籠さんが仕切ってる形になってるな。
「警察に……連絡はその、しないんですか?」
もっともな疑問だった。百合籠さんは僕には絶対向けてくんないような微笑みを浮かべて答える。
「それは、あとになります。なぜかというのも含めて、これからお話したいことがあります」
百合籠さんの隣で、大森さんの気迫に怯んでいた渡邊さんが大仰にうなずいていた。
「まあ、三○一号室で榎さんが発見されたせいで、渡邊さんが榎さんを殺害したと思われるかもしれません。しかし僕は、これを《十一月九日の呪い》のせいじゃないかと考えています。その裏付けをとるために、いまから大森さんと愛則さんにお尋ねしたいことがあります。すぐに済むと考えているので、警察を呼ぶのは渡邊さんの潔白を証明してからでいいでしょう」
「私……ですか?」
愛則さんが小首を傾げている。小動物のようだ。大森さんはなにも反応しなかったが、怒鳴るとかそういうのはなかったから、たぶん続けてもいいってことだろう。
「はい。まず、榎さんの死亡推定時刻ですが――」三○一号室で語った推測を説明する百合籠さん。「――と、いう訳で、死亡推定時刻は零時から零時十分の十分間だと推測できます」
ここで、百合籠さんがふう、とため息をついた。そして、全員の顔色を窺った。
「でも、それって渡邊さんの話を信じた上で――しかも呪いを信じた上での推測でしょ? その人が嘘ついてるって可能性はないの?」川満さんが言った。
「はい、その通りです。ですから、これから確かめます。――和親」
「は、はい」
突然名前を呼ばれてどきりとなるが、どうして呼ばれたのかはすぐに思い至った。きっと百合籠さんはあのことを訊くのだろう。
「君が零時十五分ごろに大広間を訪ねたとき、そこには誰がいた?」
予想通りだった。
「あ、それは――」
僕が答えようとしたとき。
「私です」
との声が僕の言葉を遮った。愛則さんだった。
「なにか独り言を言っていたので、すごく印象に残ってます」
「忘れてください! でなければ殺して!」
恥を曝されてつい叫んでしまった。隣の百合籠さんですらぎょっとしている。言われた当人の愛則さんなんか、とても困惑した声で「は、はい。忘れます……」とか言っているし。
「あ、すいません……」
「まあそれはあとで追究するとして。愛則さん。では、二十三時半から零時十五分までの間、浴室からシャワーの水音が聞こえませんでしたか?」
そうである。
百合籠さんが僕の秘め事を暴いてまで(これは事故だったが)知ろうとしていたのは、そのことだった。
「あ、はい。聞こえてました。たしか、ちょうどそのくらいの時間帯でした。シャワーの音がやんだのが、たしかそこの和親さん? が部屋に来た十分前くらいでしたから」
つまり、零時五分。部屋には一分くらいでつくから、渡邊さんが死体を発見したのは零時六分だとして、そしたら、榎さんが亡くなったのは六分間の内ということになる。呪いを信じれば、だが。
「なるほど。では、このなかにその時間帯に浴室を使っていた人は?」
この質問に挙手したのは、渡邊さんだけだった。まあ、二人以上いたら大変だけど。
「決まりですね。その時間帯、渡邊さんは浴室を利用していた。じゃあ、次に大森さん」
「なによ」
大森さんが喧嘩腰で言った。
「榎さんが退室した正確な時間はご存知ですか? その理由も」
「便所に行きたいって言って、二十三時五十九分に。――時計を気にしてたから、憶えてる」
「その時間帯だと、渡邊さんは浴室ですね」
百合籠さんが酷薄な笑みを浮かべた。
その態度、言葉がどうやら逆鱗に触れてしまったらしい。
「だから、そいつじゃないっていうの⁉」大森さんが叫んで、立ち上がった。「そいつがシャワーを流している最中に浴室から出て殺したのかもしれないじゃない!」
いや、それは無理がある。たしかに不可能ではないが、実行するには時間が足りない。二十三時五十九分に生存が確認されているのだから、呪いを前提としなくても、死亡推定時刻は零時以降だと考えられる。そして、シャワーの音が止まったのは零時五分ごろ。その一分後には部屋に戻った渡邊さんが死体を発見するのだから、つまり榎さんはその五分間のなかで殺されたということになる。しかしお風呂の最中に抜け出して、殺して、浴室に戻ってシャワーを止めてまた部屋に戻るというのは、五分で出来ることではない。
それに、浴室からじゃあ榎さんが客室から出たことを知るすべはないのだ。
まあ、榎さんが部屋から出る前から浴室を出ていて、その身をずっとどこかに隠していたというのなら話は別であるが。また、殺害はシャワーを浴びたあとだということも考えられる。
それでも、前者だと「どうしてそんな煩わしいことをするのか?」という疑問で切り捨てられるし、後者は「それでも時間はあんまりないよね」って切り捨てられる。……いや、でもこれってどっちも実行不可能ってわけじゃないのか? これって言った方がいいのだろうか。
「あ、そういえば、シャワーの音が止まるほんの数分前に、大広間の前を通る足音を二回聞いたよ」
大森さんの暴論に思いあたりがあったのだろう、愛則さんが言った。無理なこじつけに対して、さらに補足するような意見だったが。
だけど、ナイスだ。それなら榎さんが部屋を出る前から浴室を抜け出していたという線は消えるし、シャワーを浴びたあとに殺したという線もかなり薄くなる。
だが、大森さんは。
「ほら! その女がシャワー中に風呂場から抜け出した時の足音よ!」
大森さんは、人差し指を乱暴に渡邊さんに向け、味方を得たとばかりに食いついた。突然指された渡邊さんは、驚いて肩を震わせていた。
違う。そうじゃないんだよ。
だが、百合籠さんはこの反論に対し、実にあっけらかんと言うのだった。
「いえ、それは榎さんがトイレを往復したときの音でしょう」
大広間が静かになった。
大森さんがぽかんと口を開けている。場違いにも、ずっと黙っていた泉井さんが、耐えられなかったみたいにくっと笑みを溢した。
これはいままでの話を統合すれば、百合籠さんが指摘するまでもないくらい容易に導き出せる結論だった(僕でもわかった)。
最初から榎さんはトイレに行くと言っていたのだし。榎さんがトイレに行ったとすると、榎さんが部屋を出る前から渡邊さんが外で待機していたという可能性は排除され、また、シャワーのあとに殺したという可能性も消える。なぜなら、榎さんが用を済ませたのなら真っ先に部屋に戻るはずだから、その数分後に出てくる渡邊さんが榎さんを殺せるはずがない。というか、そもそも論として渡邊さんには動機がない。
しかしそれでも、大森さんは間違えた――それくらい興奮していたんだと思う。一度「こう」だと決めたことを、人は簡単に取り下げられない。感情的になっていればなおさらだ。三○一号室で死体が発見されたと聞き、真っ先に疑った渡邊さんへの疑惑を、彼女はどうしても取り下げられなかったのだろう。
言い換えればそれは、渡邊さんへの憎しみは、大森さんのいまにも崩れそうな心のよりどころとなっていたのだ。それが崩れ去ったいま、彼女は。
「ばっかみたい、意味わかんない」
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。大森さんは俯いたまま、なにかを呟いて。
「こんなところ、もういや! 私、家に帰るわ!」
警察が来たら、彼女だって取り調べの対象になるのだから帰宅は難しいが、その思いは僕も同じだった。僕だって帰りたい。
しかしまずいな……。この展開は、なんだか覚えがある。
あまりミステリやホラーには馴染みがない僕だけど、それでも浮かんだ嫌な光景。
僕たちは彼女を、引き止めないといけない。この先に行かせてはならない。
だがここで、床に腰を落ち着けていた僕たちと、興奮して立ち上がっていた大森さんとの初動の差が出てきた。僕が腰を浮かせたそのときには、大森さんはすでに入口の前に駆けていて、ふすまを開けようとしていた。
「だめです!」
そう叫んだとき、すでに大森さんはふすまを開けていて――
彼女がこちらに向いたので、僕と目が合った。
そして。
「――え?」
彼女はなにかに引っ張られたかのように仰向けに倒れて、その身を廊下に出した。それから、「ひっ」という声を漏らしたかと思うと、首を左に回して、なにかから目を離さないよう必死に虚空を見つめている。その視線の先になにがいるのか、僕たちの方からは窺うことはできなかったが、彼女の挙動はまるで、目を離せばその瞬間に殺されてしまうみたいな風だった。
だから大森さんは目を離さなかった。いや、離せなかったのだろう。しかし、結局、その瞬間は訪れた。
まるで透明人間に頭をわしづかみにされて、引っ張られたみたいに彼女はひとりでに引きずられていった。足で精一杯に床を漕いで抵抗を試みているが、引きずられるのと同時に上げた悲鳴はだんだん遠ざかっていった。
それでも、悲鳴はいまだに続いている。同時に、バリバリと木板が砕けるような鈍い音が絶えず聞こえてきた。
その間、僕は、僕たちはみな動けずにいた。彼女を追いかけようと踏み出した足が、そのままの状態で固まってしまう。百合籠さんはいま、どうしているのだろう。戦慄しているのだろうか。……振り向く余裕すらなかった。
遠くにあるのに耳を直接劈くような悲鳴は、やがて水の入ったレジ袋を床にたたきつけたかのような音とともに止まった。
「あ――」
大森さんの死。
それは直接死体を見ずとも、肌で感じ取ることができる。
決定的だった。
これがなによりの証拠である。
やはり榎さんは、《十一月九日》という現象に殺されたのだと。
大広間は大混乱に包まれた。阿鼻叫喚の地獄絵図。僕は振り返ることをせず、大広間から駆け出した。
おそらく「大広間から出る=死」という図式が刷り込まれてしまったのだろう、僕に続く者は誰も――いや、百合籠さんしかいなかった。
「面白くなってきたな」
僕の後ろを小走りにしながら、百合籠さんが言った。
「…………」
僕は黙って玄関口へ向かう。
……あった。
ピンク色。
◇
警察への連絡は不可能だった。百十番が頭から出てこなかったわけではなく、単純にスマホが圏外になっていたからである。電話が通じない……これも怪奇現象の一つだろうか?
また、外へ出て、直接交番を訪ねることもなかった。ここを出ようとした大森さんがどうなったか、それを知っていて無理に帰ろうとする者はいない。
あれから五時間くらい経過して、外はようやく明るみ始めた。もちろん、誰も一睡もできやしなかった。
実はあのあと、一度大森さんの死体があるエントランスからなにか大きな物音が響いて、再び大広間がパニックになったことがあった。結局僕たちの身にはなにもなかったが、大広間にいた人はすっかり怯えきってしまった。僕と百合籠さんは、あれから何回か部屋に戻ったが、他の全員は大広間から離れられないようだった。
朝の八時になって、ようやく一人大広間から出てくる人物がいた。
僕と百合籠さんが部屋にいると、ドアをノックする音が聞こえてきた。心臓が爆発するんじゃないかってくらい心拍数が上がりながらも、動こうとしない百合籠さんを尻目にして僕はドアを開けた。
渡邊さんだった。
「いや~、よく考えたら花上くんたちが大広間を出ているから大丈夫かなって」
座布団の上で胡坐をかきながら、渡邊さんは言った。
まあ言葉だけ聞けばその通りだが、たった一人でそれを決断するのはなかなか勇気がいるだろうに。ここまできて陽気を崩さない姿勢も驚嘆に値する。
「それにしてもむごいねぇ。大森さん」
この部屋までこれたということは、大森さんの死体に遭遇したということでもある。大森さんの死体はむごいなんてもんじゃない。体中あざと骨折だらけで、腹は食い破られている。
「エントランスはすごく荒れてたし、壁とか一部壊れてたし、本当になにがあったんだろ」
「ええ……」
僕は相づちを打った。
「あの、大森さんが握っていたハンマーが最後のとどめを刺したのかな」
「たぶんそうじゃないですか。あの水風船が破裂するみたいな音」
思い出したくもない奇怪な音だった。
……気持ち悪くなってきた。
だが、それでも渡邊さんは続けようとする。
「でも、あれじゃあまるで、自分でお腹にハンマーを叩きつけたみたいよね」
「…………」
と、ここで僕の様子に気付いたのだろう、渡邊さんは「はっ」と息を飲みこんで、「ごめんね。嫌なこと思い出させちゃったかな」と、気遣うようなことを言った。
「いえ。なんでもありませんよ」
その通りだったけれども。
そんな僕らのやり取りを興味深げに見ていた百合籠さんは、「あのポリポリって音――」と会話に交ざってきた。
「ポリポリ? ……あ、ああ。あれね。体中のあざとか、骨折とか、それの音なんじゃない?」
渡邊さんは一瞬、なにを言っているのかわからなかったようだが、すぐに思い至ったらしい。
百合籠さんは、オノマトペの使い方が変なのだ。
「いや、なんというか、木材を叩き割るような音に似ていないか?」
百合籠さんの敬語はすでに崩れていた。
「え? まあ、木材が割れた音を実際に聞いたことはないけど、イメージとしては近いかもね。でも、それが?」
百合籠さんは不敵に言う。
「僕は思うんだよ。木材が割れたみたいな音というのは、つまり木材が割れた音なんじゃないかってね」
百合籠さんのトートロジーに、意味が分からないといった感じで渡邊さんは首を傾げた。
エントランスは騒然としていた。
階下から甲高い悲鳴が聞こえてきたので、僕たち三人は部屋を飛び出して駆けつける。なにがあったのかはだいたい予想がつくが、万が一ということもあるし。渡邊さんは「えー?」と渋面を作りつつも、一人になりたくなかったのかしぶしぶあとをついてきた。基本的に他人のことはどうでもいい性格なのかもしれない。
それで、エントランス。
エントランスにつくと、大森さんの死体を囲うように人垣ができていた。そのなかの一人、円居さんが尻餅をついて「あ、あ」と声を震わせている。おそらく、先ほどの悲鳴は彼女のものだろう。大森さんの死体を見た彼女は、生来の気の弱さから大声で叫んでしまったのだ。たぶん。
「どうかしましたか?」
白々しくも百合籠さんが訊いた。円居さん以外の視線がすべて百合籠さんに注がれる。
「大森さんを見た円居さんがショックで倒れてしまって……」
率先して答えたのは柏木さん。
「なるほど。ところで、みなさん大広間から出て大丈夫なんですか?」
「まあ、いつまでも大広間にってわけにもいかないからね。それぞれ部屋に戻ろうって話になったんだよ」
ここに来てようやく、か。
カウンターに立てかけられた時計を見ると、時刻はもう十時。彼らは九時間近くも大広間に閉じこもっていたことになる。
百合籠さんに応答したあと、柏木さんは屈んで円居さんの肩に手を置く。「大丈夫?」と言って立ち上がらせ、「早く部屋に戻ろう?」と優しく微笑みかけた。あーあ、なんか嫌になっちゃうな、こういう茶番。
「円居さんはスタッフですよね?」
どうして、まるで「自分と一緒に戻りましょう」みたいなニュアンスで語ってるんだろうか。
「二○三号室に来てもらうよ。もはや客だとかスタッフだとか言ってる場合じゃないでしょ? ――いいだろ?」
秋森さん、翁長さん、川満さんに同意を求める。三人は微妙な顔で頷いた。
さいですか。
そうして、柏木さんと円居さんは階段を昇って行った。心霊サークルの三人はあとをついて行って、そのまた次に残りの四人がぞろぞろ二階に向かっていった。
「あの二人、大広間でもずっとあんな感じだったのよ」
渡邊さんがいらない情報を提供してくれた。なんの参考にしたらいいのだろう。
「動物の本能は怖いな」
「……そうですね」
僕と百合籠さんは、三人だけになったエントランスでそんな風に言葉を交わした。
「あら。それなら私と獣になる?」
渡邊さんが冗談っぽく言って、ウインクした。色っぽく舌なめずりする。
うっ。
なんだか嫌な気配がしたので百合籠さんの方を向いたら、ごみでも見るみたいな目で見られてた。
……僕が悪いのか?
渡邊さんにはなんというか場を和ませる才能があると思う。彼女のマイペースさを目の当たりにしていると、気付いたらこちらまで飲み込まれてしまっている。
「僕の方が多いですね」
数え上げたトランプの枚数をお互いに告げたあと、僕は勝ち誇って言った。渡邊さんはわかりやすく悔しそうにしたあと、トランプをぐちゃぐちゃにした。
「もう、片づけるの大変じゃないですか」
大人げない人だなあ。
僕と渡邊さんは神経衰弱をしていた。自分でもまあ、こんなときにどうかと思うけど。百合籠さんの方は相変わらず押入れのなかにいるのだが、いままでと違うのがふすまを半開きにしていることだ。膝を折りたたんで座って、読書しているのがこちらからでも見える。
本当はさっさと家に帰りたいけど、少なくとも明日までは帰れないし安眠も出来ない。暇を潰すという意味でも、眠気覚ましという意味でも、ゲームなり読書なりで頭を使わないとやっていけなかった。
このまま何事も起こらず、さっさと九日が流れてくれればいいのになぁ。
……だけど、そうは問屋が卸さないのが現実ってやつである。
渡邊さんとのゲームにも飽き、お絵かきを再開した僕。横で渡邊さんが絵を覗き込んできて、「上手いねぇ。なんの絵?」と訊いてきた。
「僕の妹です」
「え……?」
呆然とする渡邊さんをそのままに、僕は絵を描き続ける。そんなのんびりとした時間……彼は突然現れた。
「みなさん! いますぐ大広間へ集まってください!」
ノックもなしに乱暴に開かれたドア。秋森さんだった。
百合籠さんはノックなしに部屋に入られるのをとても嫌うので、僕は内心恐々としていたが、しかし百合籠さんはなにも言わなかった。ただ、ちょっと口の端がひくついてる。嫌味を言いたくてたまらなさそうだ。
「か、柏木が……」
舌をもつれさせながら、柏木さんの名前を口にする秋森さん。
柏木さんが……? その慌てぶりからして、悪い報告だろうと予想できる。
嫌な予感がする。というか、ほぼ確信に近い。
「…………死んだ……」
予想通りの答えに、百合籠さんが読んでいた本を閉ざした。
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