逃げろ傘ドロボウ!
Author――羽野ゆず
みぞれが降っている。
これが雪か雹だったら、迷いなく飛び込んでいけたのに。
今にも泣き出しそうな灰色の空から落ちてきたのは、雪と雨の中間だった。とはいえ北国の十一月、不安定な天気は毎日のことで、生徒の多くが傘をたずさえて登校している。
水無月日向もその一人だった。
「じゃあな」
クラスメイトに背中を叩かれた。
汗で湿った長めの襟足。急ぎの用事でもあるのか日向の脇を乱暴にすり抜けていく。生徒玄関のガラス扉から外を眺めていると、よこしまな女子生徒に忍び寄られた。
「み・な・づ・き・くん」
「……雷宮先輩」
彼女が首をかしげると、艶々したポニーテールの尻尾もかしぐ。
猫のような瞳を細めて少女は微笑む。
「傘、ないんだ。水無月くんのに入れて?」
いつもは部活終わりの体育館で待ち伏せしているのに、今日はどうしたのだろう、と気にしていた。まさか、こんな罠があるとは……。
図ったようなタイミングでスマホにメールが届く。
差出人:野巻アカネ
件名:おねがい☆
いきなりごめんね。傘を忘れたドジなアタシに、優しくて美しい親友・光が傘を貸してくれたの。悪いんだけど、光を家まで送ってくれないかな? 受験生だし風邪をひいたら大変でしょ(>_<)
みぞれが降るって天気予報で散々いってたのに、アタシったらおっちょこちょい! ナイアガラの滝にでも打たれてくるわー( ;∀;)
p.s.相合い傘だしチョットくらい密着しても怒られないと思うよ!
滝に打たれるなら、傘をさす必要はないんじゃ……?
あまりにふざけた文面に意地悪な返信をしたくなったが、いちおう先輩相手なので止めておく。
「じゃ、かえろっか」
光が指をからめてきた
途端、逃げ出したいような焦りと甘い痺れが同時に走る。こうして触れてくるのも、‟治療”の一環だろうか。どちらにせよ心臓に悪い。日向は短く息をつく。
この二学年上の先輩に告白されたのが一月半前。
『女性恐怖症だから』と断ったのに、『私が治してあげる』と強引に押し切られ……。おかげさまで、刺激的で退屈しない日々を過ごしている。
本当は平穏が好きなんだけどな。
心の中でぼやいて、傘立てに手を伸ばしたところで、日向は動きを止めた。
「先輩」
もう一度外を見やる。みぞれはしぶとく降り続けている。
マフラーを巻きローファーの爪先を鳴らした光は準備万端。しかし、残念な報告をしなければならない。
「あの、僕も傘ありません」
「ええ?」
光はきょとんとしたが、すぐ思い出したように、
「朝一緒に登校したときは持っていただろう」
「そうなんですけど……今はないんです」
一年C組とD組共用の傘立てには、チェック柄の長傘が一本とビニール傘が二本残っているが、どれも日向のものじゃない。
「誰かが間違って持ち帰ったのか、それとも」
盗まれたか。
特徴のない傘ほど盗難率は高いという。その点、彼のビニール傘は見事に条件を満たしていた。今朝購入したばかりだったのは惜しいけど、地団駄を踏むほどじゃない。
それよりも、今をどう切り抜けるか、だ。
自分はジャージだから多少濡れてもかまわないけど、制服の光はそうもいかないだろう。みぞれが止むのを待つしかないか……。
日向が淡々と考えを巡らせていると、
「おい、あれ」
光の細い指が、校門近くの生徒を示していた。
ウインドブレーカーを羽織った男子は、右手で黒い長傘をさし、左手にビニール傘を提げている。
「雷宮先輩?」
胸騒ぎがして止めようとしたが、遅かった。勢いよく飛び出した光は、両手をラッパのように口に当てて叫ぶ。
「待てーっ! 傘ドロボウーっ!!」
湿った冷たい空気に、その怒号はよく響いた。
ぎょっとして振り向いた男子生徒は、光を目視するや否や、弾かれたように駆け出した。閉じたままのビニール傘を捨て置いて――
「ふざけやがって!」
「落ち着いてください、先輩」
怖い……!
さすが鬼と称された女子剣道部元部長、迫力が凄すぎる。追いかけようとした光を必死に留め、捨てられた傘を拾いにいく。
戻った日向は白い吐息をして、「僕のです」と認めた。
「やっぱりそうか。怪しいと思ったんだよ、傘を二本も持っているから」
「……でも、楢崎がどうして」
「ナラサキって誰だ」
呆然とつぶやいた日向を光が問いつめる。
「さっきの傘ドロボウ、知り合いなの?」
「同じクラスで、部活も同じバスケ部です」
しかも数分前別れの挨拶を交わしたばかりなのに……。
まあいいや傘も無事だったし帰ろう、と袖を引く光の声は、もう耳に入っていなかった。
「楢崎、自分の傘をさしていましたよね……?」
「ビニール傘を別に持っているから怪しいと思ったんだって。さっきも言ったろ」
日向の大きな瞳の漆黒に深みが増す。
「どうして傘が二本必要だったんでしょう?」
* * *
すきま風が厳しい生徒玄関から、暖房が効いた保健室に避難した。
ココアのゆたかな香りが室内を満たしている。養護教諭の田雲政宗は、熱々のマグカップを日向と光の前に置いた。
「はい、どうぞ。今日は寒いね」
「こんなぬくぬくした部屋にいるくせによく言うよ」
「いつでも温まりにおいで。光ちゃんなら大歓迎だよ」
穏やかな笑みを浮かべる養護教諭。
若くてイケメンで人当たりが良い田雲は、女子生徒に絶大な人気を誇るが、光はお気に召さないらしい。ツンとしたままココアを啜る。
日向もカップに口をつける。おいしい。優しい甘みが空きっ腹に染みる。
「そんなに難しい話じゃないと思うぞ」
ぶっきらぼうに光が切り出した。
これもどうぞ、と田雲がくれたクッキーを齧っていた日向は、ほぇ、とマヌケな相づちを打つ。
「傘がもう一本必要になったってことは、他の誰かに貸すためだ」
面倒ごとは早く終わらせて帰りたい。不満な態度を隠そうともせず、『二本傘ドロボウの謎』について考えを述べた。
日向は咀嚼したシナモンスティックをのみ込んでから、
「でも、一方が傘を持っていて他方が持っていない場合、普通は相傘しません? 楢崎の傘、大きめだったし」
きっと紳士用だろう。日向のビニール傘よりも確実に二人を雨から守ってくれそうだ。
光は、むぅ、と唸る。
「相手が男だったんじゃない? カップルや女子供同士ならまだしも、男二人で相傘はしないだろう」
「それは相手によりけりじゃないかな」
長身を折ってテーブルに肘をついた田雲は日向の顔を覗きこむ。
「僕は、日向くんみたいな美少年とだったらむしろしたいけどね」
「近づくな変態っ」
逆側から光に羽交い絞めされた。両挟みになった日向は顔色を赤くして青くした。
「えっと……実は、僕は他のことを考えていて」
「他のこと?」
腰を浮かせた日向は、光から適度な距離をとって座りなおす。
「雷宮先輩の想像通りなら、楢崎は傘がない誰かの為とはいえ、他人の傘を盗ったことになります。その行為がアイツらしくないっていうか」
「らしくない、ってなんだよ?」
憮然とたずねる光に、日向は、んーと唇に指を当てて、
「楢崎は少し悪ぶっているけど、面倒見が良くて優しいんです。シュートが苦手な僕にこっそりコツを教えてくれたり、宿題を忘れて困っている僕にノートを貸してくれたり……」
光には内緒だが、恋愛のアドバイスをくれたこともある。
ようするに世話好き。兄貴気質。
「もし、傘がなくて困っている誰かがいたら、自分のを差し出す方がよっぽどらしいっていうか。とにかく、楢崎はそういうヤツなんです!」
熱弁をふるった日向に、ふうん、と光は冷めた口調で提案した。
「だったら直接聞けば? どうして傘を盗んだのか。今すぐ電話しろ」
「楢崎、携帯を持っていなくて」
「じゃあ明日にしろよ」
「でも、どうしても気になるんです……」
ウンザリ顔になった光に、日向は申し訳なさそうに身を縮めた。
いたって普通で温厚な彼だが、不可解なことがあると居ても立ってもいられないという悪癖を持つ。
「ひとついい?」
白衣の腕を組んだ田雲が挙手する。
「内心は分からないにしろ、楢崎くんが傘を盗ったのは事実なわけだよね?」
「まあ、はい」
「僕が気になるのはつまり――彼は傘ならばどれでも良かったのか、それとも、日向くんの傘を狙ったのか、ってことなんだけど」
え、と日向は表情を曇らせる。
もし後者だった場合、彼への嫌がらせ以外の何でもないからだ。ゆっくりと頭を振る。
「僕の傘とは分からなかったハズです。だって、ほら」
スクール鞄の上に置いていた傘をかかげて、「何の変哲もないビニール傘だし。他にも同じような傘はありましたから」
「ちょい待て」
光がずいっと身を乗り出す。
「見ろ。持ち手に『APO』って文字があるぞ。日向がこの傘を持っているのを確認して、『APO』を目印に覚えていたのかもしれない」
田雲が忍び笑いをする。
「光ちゃんはお嬢様だから、ビニール傘を使ったことがないんだね。それは、『非晶質ポリオレフィン』の略で、持ち手に使われている材質のことだよ。わりと、どのビニール傘にも付いていると思うけど」
「そういえばありました。他にもAPOが付いたビニール傘」
頬を真っ赤に染めた光は、ぷいっと横を向いた。
機嫌を損ねてしまったらしい。
「あ、でも! 雷宮先輩のおかげで思い出しましたよ。今朝、生徒玄関で楢崎と会いました」
「それで?」田雲が追及する。
「僕がよく傘を失くすことを愚痴って、ビニール傘だってタダじゃないんだから気を付けろよ、と注意されました」
「もしかすると、そのときに、日向くんが傘を入れた場所を記憶したのかもしれないね」
「いいえ。僕、昼休みに外出したんです。戻ったとき朝とは違う場所に傘を入れましたから」
「じゃあ、お手上げだな」
肩をすくめた田雲は、窓のレースカーテンを開く。中庭に降りそそぐみぞれは勢いが衰えてきたようだ。
傘が二本必要な理由。
優しい楢崎が傘を盗った理由。
冷めたココアを一口飲んで、日向はおもむろに喋り出す。
「こんなのはどうでしょう? 楢崎には年の離れた妹がいて、幼稚園に迎えにいくことがあるそうです」
いきなり何を、という視線を光に投げられるが、尻込みしつつも続ける。
「小さい子って、何でも自分でやりたがる時期があるじゃないですか。
僕の弟も昔そうで、特に傘って雨の日しか使えないから絶対に自分で持ちたがるんですよ。上手くさせないくせに。放っておいたらズブ濡れになっちゃうから、僕が傘を上から広げていないとダメで」
じっと聞いていた田雲が、なるほど、と黒縁眼鏡のブリッジを上げる。
「傘を持ちたがる妹のため、か。確かに二本必要だね」
楢崎のキャラ的にも馴染む気がするが……。
一刀両断したのは光だった。
「勝手なことには変わりないよ。身内の事情で他人のモノを盗ったんだから」
「……ですよね」
厳しいが正論だ。
日向が例に出したのは、彼が小学生で弟が園児のときの出来事。
小学生なら我儘な弟に振り回されて、つい、となってしまうのは分かるが、楢崎は分別もしっかりある高校生で、可愛い妹の為とはいえ盗難に安々と手を染めたりしないだろう。少なくとも日向の認識ではそうだ。
「素朴な疑問なんだけど」
行き詰った雰囲気のなか田雲が訊ねる。
「日向くんは自分の傘を『何の変哲もないビニール傘』って形容していたね。じゃあ、他の傘とどう区別しているわけ?」
「……えっと」
あらためて問われると、答えに窮する質問だった。
例えば僕は、と田雲が事務机の引き出しを探って、
「持ち手に付けるタグを使っているんだ。なかなか便利だよ」
革製のタグはベルト状になっており、手軽に装着できそうな上、しっかり目印として機能しそうだ。良いですねそれ! と日向は目を輝かせる。
「誰にプレゼントしてもらったんだか」
「妬ける?」
光の呆れた視線をたおやかに受け止めて、田雲は日向に言う。
「二つあるから。もし、よければ一つあげるよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
さっそく装着しよう、と傘を開いた日向は、おかしなものに気づいた。
持ち手と柄の境目に、茶色いゴムが巻かれている。
日向が首をひねっていると、田雲が黒縁眼鏡の顔を近づけて、
「なんだ。もう目印あるじゃない」
「いや、でもっ、僕はこんなもの付けた覚えは……」
コンビニで売られていたときは、持ち手の部分までビニールに包まれていた。初期装備という突飛な可能性を除けば、購入してから放課後までに巻かれたことになるが。
あまりにもさりげなくて、見過ごしてしまいそうな存在感。いったい誰がこんなことを……?
「みぞれが止んだ」
光が嬉しそうな声を上げた。
つられて日向も中庭を見る。が、天気よりも、猫みたいに伸びをする光の姿に惹きつけられた。
ポニーテールの尻尾を撫でた指が、首筋、シャツの襟、胸元までを滑らかにたどる。何だかとても艶っぽい仕草だった。
日向はすっと瞼を伏せる。口調も行動も男っぽいのに、ときどき妙に女らしくて、目のやり場に困ってしまう……
「おあっ!」
突然奇声を発した日向に、毛先を弄っていた光が肩を震わす。
「なんだよ⁉」
「これ、楢崎のです! 楢崎が髪をくくっていたゴムです!!」
帰り際に見かけた、汗で湿った長めの襟足。
部活中はいつも襟足をゴムでくくっているのに――漆黒の髪にヘアゴムの茶が印象的で憶えていた――、今日はしていなかった。
「どういうことだ……?」
「悩む必要ないよ。これを傘に巻いたのはナラサキってことだろ」
ずばりと指摘する光に、日向は眉を八の字にする。
「なぜ?」
「だからそれは……水無月くんの傘を盗むつもりで、目印を付けておいたんだよ」
「……うぅ」
泣きそうな顔になった日向に、黙りこんでいた田雲が唐突に笑い出した。
「先生?」
「君たち、時間も遅いしそろそろ帰った方がいいね。まだ小雨が降っているから、相合い傘をするといい」
少し妬けるけど、と鷹揚に微笑んで、養護教諭は付け加えた。
「悲観しなくていいと思うよ、日向くん。楢崎くんは悪意があったわけじゃない。むしろ……いや。君たちが仲良くすることで、彼の‟時限装置”は作動するんだから」
* * *
冷たい小雨のなか、ビニール傘の下を並んで歩く。
気まぐれに触れる肩と腕がムズ痒い。花のような香りが鼻をかすめた。
「変だ……」
「ん?」
「楢崎です。あのヘアゴム、本当に傘を盗む目的で付けたのかな、と」
「まだ考えていたのか」
盛大に嘆息する光。日向はうつむき加減のまま呟く。
「盗むつもりなら、別にいつの時点でもよかったと思うんです。目印を付ける手間なんか省いて、すぐどこかに隠せばよかった」
だって何の変哲もないビニール傘なのだから。誰が持ち歩いても不自然に映らなかったはず。
「水無月くんの為だったんじゃないの?」
光が桜色の唇を尖らせて、さっきはああいったけど、とバツが悪そうに言う。そういえば保健室での光は始終不機嫌だったな、と日向は思い返す。
「よく傘を失くすって、ナラサキに相談したんだろ? 水無月くんが傘を見失わないように、目印を付けてやったんじゃないの?」
「…………」
開いた口が塞がらなくなった。
少し悪ぶってはいるが、面倒見がよくて優しい楢崎。
そんな彼が、ひっそりと行った厚意。なんてことだろう。驚くほどに、しっくりくる。
「傘を盗んだ理由はさっぱりだけどな。水無月くん?」
はみ出た肩を濡らしたまま、彫刻のように固まっている日向。
「雷宮先輩」
今日一番の真剣な表情で光に確認する。
「野巻先輩に傘を貸したんですよね? それはいつの時点で?」
「水無月くんに会う前だよ。生徒玄関にいるのを見つけたから、野巻に傘を渡して別れたんだ」
「じゃあ、直前までは傘を持っていたってことですね……?」
もし、楢崎が傘を持つ光の姿を見かけていたとしたら――? もちろん彼は、彼女たちの‟企み”を知る由もないわけで。
はぁあ、と長い溜息をついた日向に、光は顔をしかめる。
「どういうことだよ」
「楢崎が傘を盗ったのは、僕たちに相合い傘をさせるためだったんです……野巻先輩と同じく」
ようするに、行き違い、だ。
『逃げ腰になることないんじゃねえ? お前からも近づいてみたらどうよ』
兄貴気質な友人の気取ったアドバイスを回想する。
田雲が皮肉った、‟時限装置”の意味――傘は必要だったから盗まれたのではなく、盗むことに意味があったのだ。なぜ盗ったの? そこに傘を持つ光が居たから、である。結果として彼の行動は矛盾と謎だらけになったが。
まったく……。日向はゲンナリした。
親友のために一計を案じた野巻アカネも、思いつきで仲を深めさせようとした楢崎も、答えを勿体ぶって教えてくれない田雲も――自分たちの周りにはお節介が多すぎる。
「雨、止んだね」
ひとり歩を進めた光が掌を天にかざす。
空はあらかた泣き終えたのだろう、どんよりした雲の合間から夕陽け空が覗いていた。
「行こっか」
「……はい」
伸ばされた手をそろりと握り返して。関係ないんだけどな、と日向は思う。
相合い傘をしようとしまいと――光が触れてきて、日向がそれにドギマギすることに変わりはないのだ。
用をなくして閉じた傘は、朝よりも重たく感じた。
雨と傘にまつわるミステリは世に溢れていますが、自分流にアレンジして書いてみました。
『階段下は××する場所である』より http://book1.adouzi.eu.org/n6270cw/
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