Module_059
「さて……腹は括ったかしら? なら、今すぐ宿を引き払って来なさいな」
紅茶を飲み干したイルネは、カップを置くと静かに告げる。
「……へっ? 今すぐ?」
突然のことに、素っ頓狂な声で反応するセロに、イルネは続けて口を開いた。
「えぇ、そうよ。この商会は今日にもここを引き払って、新しい拠点に移る。というか、早くしろと不動産屋からせっつかれているのよ。手続きもそうだけど、移すにも人手がいるし、セロは宿を引き払えば身軽になるし……丁度いいとは思えない?」
二カッと笑みを浮かべて迫るイルネに、セロは「あー、うん」と言葉を詰まらせ、スッと視線を彼女から外す。
「それとも……折角のセロと私の新たな門出ともいうべきこの日に、自分はただ何もせず、逃げようとでも?」
イルネはずいっと身を乗り出しつつ、外堀を埋めるように言い寄る。
「もし逃げようと考えているのなら……それは、この母娘を見捨てることと同義と言えるのではないかしら。あらあら、それはあまりにも可哀想だとは思わない?」
スッとわずかに冷めた笑みを見せつつ呟くイルネに、セロはそれ以上何も言えずーー
「だああああぁぁっ! 分かった分かった、分かったよ。じわじわとこっちの良心を虐めるような言い方ヤメロっての! 手伝えばいいんだろ? 手伝えば……」
ガックリと肩を落としつつ、諦めるように返すのだった。
そして、セロはすぐに宿に戻り、慌ただしくチェックアウトの手続きを終えると、その足でマレーン商会の移転作業に駆り出された。
もっとも、荷物や設備の移動はセロの持つ「アイテムポーチ」によって苦労することなく終わる。
彼と同じく手伝いに参加させ(られた)レイナが、そのポーチの収納量に驚き、さらにそれをセロ自らの手で製作したことに、もはや驚き過ぎて言葉すら出なかった。
「梨紅水といい、アイテムポーチといい……伝説級のアイテムって、こんなに簡単に作れるものだったっけ……」
これまでの常識が音を立てて崩れ、呆然とするレイナを横に、セロはただ「早く終われ。早く終われ……」とブツブツ呟きながらひたすら手を動かしていた。
結局、移転作業は夜更けまでかかり、セロが新たな拠点で寝たのは、陽が昇り始める頃であった。
◆◇◆
「うぎゃああああああああああっ!?」
セロがイルネから工房を引き継いでから二週間が過ぎた。今、彼はメンバーとして加わったレイナと共に、グリムの街から少し離れた森で狩りをしていた。
「ぼ、冒険者でもないのに……なんでこんな目に~~!!!」
茂みから撃った、非致死性の弾で釣った中型の猪が、興奮した様子で正面に立っていたレイナに突撃する。
しかし、突っ込んでくる猪を前に、レイナは半泣き状態で叫び声を上げながら背を向けて逃走する。
「あぁ、心配するな。折を見て冒険者登録してもらうから……って、オイコラ! 逃げるな! 真正面から来てるんだから、サッと避けて一撃入れろ!」
「無理無理無理っ! 絶対無理デスって師匠ぉぉおおおお! あんなの直撃したら、下手したら死にますって!」
「大丈夫だって! あれくらいなら、直撃しても全身骨折するくらいで済むから、たぶん! もしそうなっても、死ぬ前に限界濃縮した回復薬でもを飲めば、すぐくっつくから! ダメなら梨紅水もあるから!」
「チクショー! この師匠、有能過ぎて、もはや何でもアリかっ! この鬼っ! 悪魔っ! それで大丈夫なワケあるかぁ!」
レイナは必死に逃げながらもキッチリとセロの言葉にツッコミを入れる。彼女は「絶対にセロの技術を体得する」との意気込みから、セロを「師匠」と呼んでいる。当初は「勘弁してくれ」と変更を申し込んだものの、レイナは頑として譲らず、結局はセロの方が折れる形で決着した。
(それにしても「師匠」とはなぁ……#日本__むこう__#にいた頃にも「新人研修」の指導員に任命されたことがあったけど……あの時は、何故か1カ月も経たずに変えられたんだよなぁ……今となってはどうして変えられたのか謎だけど)
悪態をついては逃げ回るレイナを眺めていたセロは、ふと転生前の出来事を思い返した。
もっとも、彼の心に引っかかっていた「謎」は、単に「要求されるレベルが高くいため、新人では理解できなかった」というのが真実であったりする。
だが、セロがそのことに気づくことはほぼ無いに等しいだろう。
「やれやれ…仕方がないなっと」
軽くため息を吐いたセロは、自身に身体強化の術式を施して大地を蹴る。その瞬間、その場からセロの姿が忽然と消え去った。
森の中という足場の悪い中、身体強化の術式の恩恵によりセロ目にも留まらぬ速さで疾駆し、大樹を蹴って驚くほどの距離を跳躍する。
そして瞬く間にレイナに追いついたセロは、実弾を装填した#愛銃__カトラス__#を腰のホルスターから引き抜く。
「ーーっ!」
そして、逃げるレイナとそれを追う猪の間に割って入るように跳躍したセロは、跳躍した体勢でカトラスの銃口を向けーー即座に引き金を引いた。
「グゴ……アァ……」
乾いた破裂音が辺りに響くと同時、カトラスによってその眉間に風穴を空けられた猪は、くぐもった鳴き声と共にその身を大地に横たえた。
「はぁ……はぁ……って、あれっ!? い、いつの間に……」
逃げることに夢中であったレイナは、背後から迫るプレッシャーが突然無くなったことに戸惑い、チラリと後方を見やる。すると、そこには銃口から立ち昇る硝煙を吹き消し、愛銃をホルスターに仕舞うセロの姿があった。
「さて、大きな獲物も得たことだし、今日の狩りはここらで終わりにしよう。ただ……」
震える足を引きずるようにして歩み寄るレイナに、セロはニヤリと不穏な笑みを浮かべた。
「ただ……?」
どうか外れますように、と内心ビクつきながらオウム返しで訊ねるレイナに、セロは続く言葉を紡ぐ。
「ひ、じょ~に残念ながら、俺はお前の師匠として、敵前逃亡をする可愛い弟子には、それ相応の罰を与えなければなるまい……」
あからさまに嘘と分かる態度で呟くセロに、レイナは目を泳がせながら「い、いやぁ……アレは仕方がないかとーー」などとわずかばかりの反論を試みる。
しかし、セロは徐にアイテムポーチから荒縄を取り出しつつ、レイナの言葉を明らかに無視してさらに告げる。
「本当に……非常に心苦しいが、これもキミを成長させるためだ……って、ワケで、この猪をーー縛って#ウチまで運んで__・・・・・・・__#置いてくれ」
「……コレを、ですか?」
レイナは今しがたセロが仕留めたぼかりの獲物を指差しながら、聞き返す。目の前に倒れるーー大型の熊にも迫る体格の猪を呆けた顔で指差しながら。
「まっ、ここからなら、夕暮れ時までには間に合うだろ? あぁ、心配するな。ちゃんと言いつけを守っているかどうか、見守ってやるから」
「い、いや……それは見守るというより、『監視する』ってのが正しいかと思うのですよ。ハッ……ハハッ……」
乾いた笑い声を上げて立つレイナを尻目に、セロは「じゃあ後は任せた」と自分だけサッサと戻っていった。




