Module_053
時間は少し遡り、セロがセイラスの前に立ってイルゼヴィルたちを先に逃がした頃。
母たるイルバーナが倒れ、悲嘆に暮れていたレイナは、いつの間にか逃げるタイミングを誤り、その場に取り残されてしまった。そしてほどなくして始まったセロとセイラスの戦闘に、レイナはハッと我を取り戻したものの、既に場には張り詰めた空気で満たされていた。
そうした状況下に取り残された非力なレイナには「逃げる」という行為に及ぶ前に恐怖が枷となって逃げ出すことができなかった。「このままではお母さんと同じ結果になる」と彼女なりに考えた結果、近くの物陰に身を隠して状況を窺うほかなかった。
(どどど、どうしよう……も、もし見つかったら――)
ガタガタと身を震わせたまま、ギュッと肩を掴んでうずくまっていたレイナだったが、直後に聞こえて来た言葉に我を疑った。
「あぁ……やっと邪魔がいなくなった」
それは先ほど自分たちの前に立って「逃げろ」と言ってくれた声と同じだった。だが、その言葉にレイナは違和感を覚える。
(えっ? な、何……? 邪魔がいなくなったって……一体どういうこと?)
ふと芽生えた違和感に、レイナは恐る恐る潜んでいた物陰からわずかに顔を出して声のした方を見つめる。その時、彼女が見たものは――燃え盛る焔から姿を現した壮年の男性と、それを従えるセロの姿であった。
(す、凄い……)
レイナの視線の先、刻一刻と状況が変化する中で行われる命のやり取り。常人から見れば、渦巻く狂気と殺意に裸足で逃げ出したい思いに駆られる戦場にセロは一人立つ。
セロはその外見から判別できるように、レイナより若干年下の男の子だ。だが、彼女の目は気づけば彼の後ろ姿に釘付けとなっていた。
それは、単に彼が見せた力の一端を垣間見たからではない。レイナは戦場に一人立つセロの姿に、かつて母から伝え聞いた英雄にも似た印象を抱いたからだ。
セイラスはこれまでに両手で数え切れないほどの人間を手にかけてきた危険人物だ。嬉々として人を甚振り、快楽のままにその命を奪う。それをレイナは間近で見ていただけに、彼の恐ろしさは身に染みて理解していた。
それだけに、セイラスと対峙するセロに、彼女は思わず「逃げて」と口から出そうになったほどだ。
ーーしかし、彼は逃げなかった。
もちろんセロにはセイラスを倒すとの自信があったからかもしれない。だが、それを実行できるかはまた別の話だ。能力があっても、現実に敵を前にして怖気づき、逃げ出してしまう者は意外と多いのだから。
そして、セロは端から眺めていたレイナの予想を超え、実力者であるはずのセイラスを瞬く間に劣勢へと追い込んだ。
セロの手に握られた愛銃は、レイナから見ても相当に高度な技術を組み込まれた精霊武具だと分かる。かつて父から片手間に教えてもらった知識があるからこそ、彼の武具に用いられた技術の高さにレイナは気づけた。
一方、セロが呼び出した執事の格好をした壮年の男性は、大勢の武装した男たちを前に一歩も退くことなく立ち向かい、その焔で戦況を一変させた。その光景はまさに「蹂躙」の二字が相応しく、レイナは男たちを次々と呑み込む、#罪喰い蛇__クライム・イーター__#と呼ぶ焔の蛇について「綺麗だ」と場違いな思いさえ抱いたほどだ。
セロが召喚したベリアル、そして彼の僕たる炎の蛇。赫々と燃える炎に思わず目を奪われたレイナの脳裏に、ふと父が呟いていた言葉がよぎる。
「ーー技術とは、いわば魔法のようなものだ」
耳にした時は「一体何のことだ」と分からなかったが、今こうしてセロの戦う様子を窺っているレイナには、あの時父が言っていた言葉の意味が何となくではあるが分かったような気がした。
自分よりも小さな男の子が、力も体格も勝る大人を翻弄し、魔法とも思える技術を高いレベルで有する。
もっとも、ベリアルを召喚したセロの力は、本物の「魔法」なのだが、この時のレイナはそれを知らないのは当然であろう。
彼女が見つめるなか、クライム・イーターに人が紅蓮の焔に呑まれ、悲鳴と断末魔を叫びながら物言わぬ骸となるその過程は、確かに見るに耐えない光景ではある。
だが、レイナはそれすら気にも留めないほど、その焔に魅せられていた。そして、彼女の目はそれまで自身の命を脅かしていた存在たるセイラスと対峙するセロに再び移る。
レイナにとって、セロは摩訶不思議な存在だった。
それまで絶対に出ることの叶わない鉄の檻を、「サッサと出よう」などとまるで近所の店にお使いにでも行くようなノリで言ったのだ。当然ながら同じく囚われの身となったユーリアが「何を言ってんだコイツは」と呆れ口調で目の前の状況を説明するものの、セロは「だから何だ」と言わんばかりに無骨な鉄格子を斬り伏せ、不自由を強いる枷を壊した。
再びの自由を得たいと願いつつも、長らく叶わなかったことが、こうもアッサリと叶ってしまったことに、レイナは当初、戸惑いを隠せなかった。
レイナの願いを(本人は意識してないものの)叶えたセロに、彼女は気づけば目が離せなかった。
ーー必ずヤツら俺が討つ。だから、ここは任せろ
あの時、直接口に出さず、ただレイナとイルバーナの二人の前にたったセロの背中からは、ふとそんな声が聞こえた気がした。
年下の、それもまだ小さな背中。だが、その小さな背中からは想像もできないほどの強さを感じ、レイナの涙は自然と止まっていた。言外から伝わる彼の怒りは、彼女の肌を刺すほどに痛い。
だが、目に映る小さな背からは、セロの内なる優しさが感じられた。「心配すんな」と暗に訴える彼の立ち振舞いが、亡くなった父の面影にも重なり、恐怖と悲しみで凍っていたレイナの心を溶かすようでもあった。
しかしながら、どれほど虫のいい言葉を並べても、たった一人である状況に変わりはない。
劣勢に追い込んだとしても、もともとの#体格や力__スペック__#は不利なことに変わりはない。一瞬の判断ミスが致命的とも呼べる状況で、一体何ができるのか?
そんな内なるレイナの疑問は、この後すぐに氷解することとなる。だが、それが原因でデラキオの人質となってしまうこととなるのだが……果たして彼女が逃げ遅れたことが良かったのか悪かったのか……それは誰にも分からない。




