第75話 兄の結婚相手(前)
水霊祭が終わり王都に戻ってきていた私は、ひどく気落ちしていた。
王都に帰り着いたその日に、ブロシャンの魔鎌公が急死したという報せが届いたからだ。
死因は病死。
突然発作を起こし、そのまま亡くなってしまったらしい。
魔鎌公はもともと病気を患っていたし、周囲はその死を惜しみつつも受け入れたと言うが、私はとてもショックを受けた。
つい数日前に魔鎌公と会話を交わしたばかりだったし、何より、前世の魔鎌公はこれよりも1年以上後に亡くなっていたのだ。
病気だし、それなりのお歳で身体も弱っていたらしいので、そういう事もあるのだろうと思うけれど。
私が知っている限り、これほどに死亡日時が変わった人は初めてだった。
前世の記憶が戻って以降、貴族の動向はできるだけ把握している。老衰や病気だけではなく、突発的な事故や魔獣被害で死んだ者の事も幾人か知っている。
今までは全員、全く同じとは行かずとも大体似たような日時に死んでしまっていた。
それに対して積極的に関わってきた事はない。手を出して良いものだとは思えなかったし、それ以上に怖かったからだ。人の生死を左右する事が。
…だけど今回、私は初めて人の死を阻止するために動いた。ユークレースを、ひいては殿下を救うために。
魔鎌公は病死だし、魔獣との戦いで死ぬはずだったユークレースとは関係ない。
そのはずだが、まるで見計らったようなタイミングのこの死が、私にはとても怖かった。
ユークレースの事も心配だ。彼はお祖父ちゃん子だったから、きっとずいぶんショックを受けているだろう。
最後に見た魔鎌公の穏やかな笑みが脳裏に蘇る。
やはり人の生死は、軽々しく変えてはいけないものなのではないか。
だが、それなら私は何のためにこうして生まれ変わってここにいるのだ。
私は殿下を助けたい。しかし良かれと思ってやった事が、もっと悪い結果を招いたりしたら。
だって私は、前世でも間違えたのだ。彼女を、フロライアを殿下に近付けてしまった。
また間違えないとどうして言える。
…今世で私がやってきた事は、本当に正しかったのだろうか。
それからもう一つ私を落ち込ませたのは、セナルモント先生への弟子入りを両親に大反対されたことだ。
両親は何だかんだ言って私に甘いし、本気で頼めば許してもらえるだろうと根拠なく思っていたのだが、今回ばかりはそうは行かなかった。あまりにタイミングが悪すぎた。
何しろ私は王家の祭礼に付いて行ったはずが、タルノウィッツ領では意識潜行の魔術を使って領主や魔術師たちの捕縛に関わり、ブロシャン領では大型魔獣との戦いに前線で参加し、足を骨折して帰ってきたのだから。
特に母は、その報せを聞いて卒倒しかけたらしい。
屋敷に着いて無事な顔を見せた時も泣いていたし、その後王家やブロシャン公爵家からお礼状が届いてもちっとも嬉しそうではなかった。
優しい母に心労をかけてしまったのが辛い。母だけではない、父や兄、コーネルたちにもだ。
「…リナーリア、入ってもいいかい」
控えめなノックの音と共に、優しい声が聞こえる。ラズライトお兄様だ。
顔を上げ、「はい、どうぞ」とすぐに答える。
私は今、王都のジャローシス侯爵邸にいる。
足首を骨折しているせいで色々不自由だから、歩けるようになるまでは学校を休み屋敷にいる事になったのだ。
そして、昨年までは領地にばかりいたラズライトお兄様も今は王都にいる。
数ヶ月後に迫った結婚式の準備のためだ。
部屋に入ってきたお兄様は、ベッドに座っていた私の顔を見て少し心配げな表情をした。…そんなに元気なさそうに見えるのだろうか。
「今、サーフェナが来ているんだ。良かったら一緒にお茶でもどうかな?お前も、サーフェナとは話したがっていただろう」
「あっ」
サーフェナ様はシュンガ伯爵家の娘で、ラズライトお兄様の婚約者だ。
そう言えば今日は彼女が来ると聞いていたのに、考え事をしていてすっかり忘れていた。
「すぐ行きます!」
あたふたとする私に、お兄様は「ゆっくりでいいよ」と優しく笑った。
迎えに来たコーネルに付き添われ、庭へと出る。
ガーデンパラソルの下にはお兄様とサーフェナ様がいた。
「やあ、来たね」
お兄様がにこりと笑い、サーフェナ様もまた紅茶のカップを置いて微笑んだ。
「ごきげんよう、サーフェナ様。お久しぶりです」
「ごきげんよう、リナーリア様。…足の具合は大丈夫かしら?」
サーフェナ様が気遣わしげに私の松葉杖を見る。
「はい。もうずいぶん良いので、明後日には松葉杖をやめる予定です」
経過は順調だと医術師にも言われている。
松葉杖なしに歩けるようになったら、すぐ学院に復帰するつもりだ。
「それは良かったわ」
サーフェナ様はおっとりと笑う。
その笑みはラズライトお兄様に少し似ていて、はてこんな笑い方をする人だっただろうかと内心少し疑問に思う。
前はもっと凛々しいというか、どこか張り詰めたような印象の方だった気がするのだが。
夫婦は似てくると言うあれだろうか?まだ結婚していないが。
いくつか他愛もない世間話をして、それからお兄様が席を立った。
「少しばかり書類仕事を残しているんだ。片付けたらまた戻ってくるよ」
そう言って微笑むと、私の肩にぽんと手を置いてから屋敷の方へと歩いて行った。
どうも私とサーフェナ様を二人きりにしてくれたらしいと思い、サーフェナ様の顔をちらりと見ると、彼女は「ふふっ」と少し笑った。
「彼、ずっと貴女のことを心配しているの。落ち込んでいるみたいだって」
「す、すみません…」
お兄様はいつも優しいからつい甘えてしまっていたが、結婚を控えた婚約者が妹の事ばかりというのは、彼女にとってあまり面白くない状況ではなかろうか。
そう思って頭を下げたが、サーフェナ様は「いいのよ」とまた笑う。
「あの人はいつも誰かの心配ばかりだもの。きっと心配するのが趣味なのよ」
「そんな事は…」
あまりの言い草に、私も思わず笑ってしまう。確かに兄は、いつも周りの人の事を思いやっている。
「本当に優しい人。…私には、もったいない人だわ」
ぽつりと言ったサーフェナ様の顔を、私は見返した。
薄い緑色の髪、小柄な身体。くりっとした目と意思の強そうな太めの眉が印象的だ。
ラズライトお兄様は、我が兄ながら素晴らしい男性だと思う。結婚相手としては理想的だ。
侯爵家の嫡男だし、顔も良い方だと思うし、何より穏やかで優しい性格が一緒にいて落ち着く。家庭円満間違いなしだ。
もし私が女だったら結婚相手は兄のような男性がいい…いや、今は女なんだけど。
どうしても誰かと結婚しなければいけないと言われたらラズライトお兄様がいいと言うだろう。妹だから無理だけど。
でも、サーフェナ様がお兄様にふさわしくないとは思わない。
兄に学院の友人だと紹介されてからそれなりに長い付き合いになるが、彼女はとても真面目な女性だ。騎士家の出身だが、魔術師を志していて、魔術に対してとても真摯だった。
そして兄の婚約者となった後でも、私を始め周囲の者に対して誠実で優しい態度をずっと変えなかった。飾り気のない雰囲気も、私は好きだ。
何より、あの兄が選んだ女性なのだ。素晴らしい人である事を、私は疑っていない。
「彼から聞いたわ。貴女は王宮魔術師になりたいんだって」
「あ…、はい…」
私はサーフェナ様の顔色を窺う。
彼女もまた、魔術師になりたかったはずなのだ。王宮魔術師のビリュイに弟子入りしていたのだから。
兄と婚約はしたが、その夢を諦められなかったらしく、学院卒業後もしばらく魔術師修行をしていた。
結局は、兄との結婚を選んだけれど。
「どうして王宮魔術師になりたいの?」
その問いに、私はこの数日考えていた事を思い出す。
「…私は、一人で立てる人間になりたいのです。誰に恥じることもなく、やりたい事をやれるようになりたい。…それを認められたい」
私が王宮魔術師になりたいのは殿下の命を守りたいから、そして殿下の役に立ちたいからだが、それだけが理由ではない。
ユークレースが私に「お前は王子の庇護を受けている」と言っていたが、多分あれは本当は正解なのだ。
殿下はきっと「そんな事はない」と言ってくれるし、実際そう思ってくれているだろうが、周囲はそうは見ない。王子の友人である事で、周囲に遠慮され守られているように思う。
何しろ私を庇って重傷を負った奴までいるし…。
彼は彼でまた借りがどうとかごちゃごちゃ言うのだろうが、彼の力はできるだけ殿下のために使って欲しい。私を庇って傷付くような事はもうやめて欲しい。
私は、彼とは対等な関係でいたいのだ。
だからやはり私は王宮魔術師になろう…つい数日前まで、そう思っていたのだが。
「水霊祭のとき、王宮魔術師のビリュイ様と話す機会がありました。ビリュイ様は、私なら王宮魔術師になれると言って下さいました。それだけの才は持っていると。…でも、こうも言っていました」
『私は王宮魔術師になった事は後悔していませんし、誇りにも思っています。しかし、ずっと魔術以外のものに目を向けずに生きてきた事を、今では少し後悔しています』
そう言うビリュイの目には、様々な感情が入り混じっているようだった。
その言葉は意外なもので、私にはよく理解できなかった。
魔術に打ち込んで生きてきたからこそ、彼女は希少な女王宮魔術師になり、こうして活躍できたのではないのか。
そうして帰宅したところに魔鎌公の訃報が届き、両親にも大反対されて、私はこれからどうしたらいいのかすっかり分からなくなってしまった。
…このまま私が王宮魔術師を目指すのは間違いではないのか。
そんな気がしてきて、ますます塞ぎ込んでしまっていた。
でも、ビリュイは話の終わり際にこうも言った。
『迷ったらサーフェナに相談してみるといいかも知れません。あの子は私の自慢の弟子です』と。
サーフェナ様がもうすぐ私の兄と結婚する事は、ビリュイも知っていた。
それを聞いてサーフェナ様がわずかに目を瞠る。
「お師匠様が、そんな事を」
「はい」
「……」
彼女は、どこか考え込むような目をした。
「…そうね…。お師匠様に任されたのなら、きちんと応えなければいけないわね」
少しぬるくなった紅茶に手を伸ばし、一口飲んで優しい笑みを浮かべる。
その微笑みはやはり、お兄様に似ている気がした。




