挿話・15 真面目な従者【前世】
「リナライト、いるか」
エスメラルドはノックをしながら扉の外から呼びかけた。
何度か繰り返してみたが返事はない。しかし扉には在室を示すプレートがかかっている。
「入るぞ」と声をかけてから扉を開け室内に入った。
相変わらず本が多い。しかしいつも几帳面に整頓されているはずの部屋は、わずかに散らかっているように見える。
そして机の上に突っ伏している、青みがかった銀髪。一つため息をついてからそちらに近付く。
「おい、起きろ」
そう言いながら肩を揺さぶると、ようやく顔を上げた。いかにも眠たそうに目を開く。
「…あれ、殿下…」
「時間になっても来ないから迎えに来た」
「あ、す、すみません!!」
彼はぱっと大きく目を開けると慌てて立ち上がった。
突っ伏していた机の上に、何枚もの書類が重なって散らばっているのが目に入る。
「すみません、えーと…剣術の時間でしたっけ?」
そう言った瞬間に寝癖のついた髪がぴょこんと撥ねて、少し笑ってしまった。
リナライトはきょとんとしている。
「今日は俺の部屋で自習だ。教材は向こうにある」
「あれ?そうでしたか…?わ、分かりました」
「自習は何の科目を?」
エスメラルドの自室に入ったところで、リナライトが尋ねてきた。
「俺は数学でもやる。お前はあっちだ」
そう言って奥の寝室を指差すと、彼は「はい?」とまたきょとんとした。柔らかそうな銀髪は、相変わらず少し乱れたままだ。
「顔色が悪い。それに目の下のクマ」
エスメラルドの指摘に、リナライトがびくりと肩を震わせる。
「さっきの書類、生徒会のものだろう。また先輩方に押し付けられたな」
「…いえ、その」
「持ち帰ってまでやる必要はないと会長も言っていただろう」
「……」
「また何か言われたのか?」
目を逸らす彼を黙ってじっと見つめていると、やがて観念したのかしぶしぶ口を開いた。
「…この程度の仕事もできないんじゃ、王子の従者も大した事はないと…」
「リナライト」
「すみません、しかし、私はともかく殿下までバカにされるのは我慢できません」
「先輩方はお前に仕事を押し付けたいだけだ。真に受ける必要はない」
「…はい…」
彼はうなずきながらも不満そうだ。どうも分かっている気がしない。
「勉強も根を詰め過ぎだ。この前のテストで2位だったのがそんなに悔しかったのか」
先日の定期テストではアーゲンに首位を取られていた。
勉強好きで学業に自信がある彼としてはその事がショックだったらしい。
「…それは」
「さらに剣術や魔術の稽古、社交もか。ずいぶんと色々やっているようだが、お前は一体何人いるんだ?俺の目には一人にしか見えないがな」
呆れた口調で言うエスメラルドに、リナライトは口籠りながらも反論する。
「で、でも従者なら、そのくらいはできて当然かと…」
「できていないだろう。今日のスケジュールを把握していなかったのが良い証拠だ」
几帳面な彼は本来なら、毎日のスケジュールを朝確認してしっかりと頭に入れている。だがさっきは、エスメラルドに言われて自信なさげに首を捻っていた。
本当は彼の言う通り剣術の予定だったのだが、先程教育係に「今日は学院の授業でも剣術をやって疲れている」と言って変更しておいたのだ。
返す言葉もないらしく、リナライトは眉を下げてうつむいた。
「真面目なのは良いが、無理はするな。それで体を壊しては元も子もない」
勤勉なのは彼の長所だが、何事にも手を抜けずに頑張りすぎるのが困った所だ。
しかも意地っ張りなので絶対に弱音を吐こうとしないし、人を頼る事もしない。こうして気にかけてやらなければ、休みもろくに取らずに無理をしてしまう。元々身体が丈夫な方ではないくせに。
前にも似たような事で体調を崩してしばらく落ち込んでいたので、今度はきっちり阻止するつもりだ。
「…すみません…」
しょんぼりと肩を落とした彼に、エスメラルドはもう一度寝室を指差す。
「分かったなら寝ろ」
「や、休むなら自室で休みますので」
「部屋に戻すとお前はまた書類をやりかねない。それに教育係が様子を見に来たら困るだろう。その時はちゃんと起こしてやるからそこで寝ろ」
「だったらそこのソファを使います」
「近くで寝られたら俺まで眠くなる。集中できない」
「しかし、殿下のベッドを使わせてもらう訳には…」
「いいから、向こうで寝ろ。命令だ」
このままでは埒が明かないので強く言うと、リナライトはようやく「はい」と言ってとぼとぼと奥の寝室に入っていった。
どうやら叱られて落ち込んでいるようなので、起きたら励ましてやった方がいいだろうなとエスメラルドは思った。
全く手のかかる従者だが、エスメラルドはそんな彼を気に入っている。
誰よりも真面目で忠実な彼は、エスメラルドにとって最も身近で親しい友人だ。少々視野の狭い所があったり無理をしすぎるのは困りものだが、そういう所も嫌いではない。
弟がいたらこんな感じだろうかと密かに思っている。口に出したら彼は確実にショックを受けるだろうが。
彼の短所は最大の長所であるひたむきで努力家な部分の裏返しだ。その一生懸命さにはエスメラルドも感心している。
それに、端から見れば彼は今でも十分に優秀なのだ。
彼自身はとにかく完璧な従者であることを目指していて、何か失敗する度にすぐ落ち込んだりむきになったりしているのだが。
何より、彼はいつでもエスメラルドの事を信頼してくれている。いずれ立派な王になるのだと信じて疑っていない。
エスメラルドが何か落ち込んでいる時でも、下手に慰めたりせず、絶対に「殿下なら大丈夫です」「必ずできます」と励ましてくれるのだ。
その信頼にいつでも背中を押されているし、勇気をもらっている。
焦らずともいずれ彼は立派に成長し、自分の右腕となってくれるだろう。
文官として官僚になるのか、魔術師としてその力を発揮していくのかは分からないが、王となったエスメラルドの補佐として存分に働いてもらう事になる。
彼がエスメラルドを信じるように、エスメラルドもまた彼を信じている。
…いつかそういう未来が訪れるのだと、疑うことなくそう思っていた。




