挿話・14 ニッケルの家庭の事情3
家庭の危機を救ってもらったことで、ニッケルはすっかり王子を尊敬するようになった。
人の話によく耳を傾けてくれるあの王子ならば、将来必ず立派な国王になる事だろうと思う。
しかも王子はこれからニッケルと同級生になるのだ。一緒の学び舎に通えるのがとても楽しみで待ちきれない。
それからニッケルにはもう一人、気になる人物ができた。
王子にペクロラス家の話をしたという侯爵令嬢のリナーリアだ。
ニッケルも名前だけは知っていたが、姉や友人に詳しく聞いた所、彼女は貴族の子女たちの間では「王子の婚約者候補なのではないか」と噂になっている有名人らしい。
人見知りで引っ込み思案であるらしく、女性ばかりのお茶会にしか出てこないので、男が苦手だという噂もある。
ニッケルの妹も引っ込み思案な性格なので、親近感のようなものを覚えてしまう。
さらに彼女は大変な美人であるそうだ。めったに会えない事もあり、令息達の間ではそういう意味でも注目されているという。
「でも、王子殿下じゃなくてスピネル様の方と付き合ってるって噂もあるのよね。どっちにしてもあんたには高嶺の花よ」
姉にそう言われたニッケルは慌てた。
「そ、そんなんじゃないから!俺まだ会った事もないし!」
だがニッケルにとって恩人に当たる少女が、あのスピネルという従者と付き合っているのだとしたら少々ショックだ。
何しろ従者は王子があの拷問に等しい母の話を聞いている間、ちゃっかりお茶を飲みながら姉や妹たちと楽しそうに話していたのだ。
従者がそんな事でいいのか。
しかもあれ以来、妹があの従者にすっかり夢中なのである。
あれほど嫌がっていたお茶会やパーティーにも興味を持つようになった。あの従者に会いたいという動機でだ。
妹が社交に興味を持ってくれたのは嬉しいが、よりによってという気持ちがある。顔がいいのは認めるが、どうもチャラチャラした雰囲気があるのもあまり気に入らない。
まだ幼い妹が相手にされる訳はないのだが、どうせ憧れるならあの男より絶対に王子の方がいいと思う。
「まあ、リナーリア様にはどうせもうすぐ入学祝いパーティーで会えるでしょ」
「うん…」
ニッケルはまだ見ぬご令嬢に思いを馳せた。
王子の口ぶりからは、どことなく彼女に好意的な様子が感じられた。
きっと王子にふさわしい、心優しくて美しい少女に違いない。
入学祝いパーティー当日、ニッケルは友人のヘルビン・ゲータイトに声をかけられた。
「よう、ニッケル。どうだった?リナーリア嬢と話はできたか?」
「む、無理だった…緊張して何も話せなかった…」
ニッケルはがっくりと肩を落とした。
パーティーでは新入生とその家族はお互いに挨拶をして回るため、これでニッケルもリナーリアと初めて面識を得られたのだが、彼女は想像していた以上の美少女だった。
きらきらと輝く青銀の髪。深い湖のような鮮やかな蒼の瞳。肩も腰も驚くほど細くたおやかだ。
どこか儚げな美貌に控えめな微笑みが浮かべられた瞬間に頭が真っ白になってしまい、挨拶をするだけで精一杯だった。
例の件の礼を言うどころではなかった。
「確かにすっげえ美人だったな。王子のお気に入りってのも分かるわ」
うんうんとうなずくヘルビンに答えたのは、一緒にパーティーに来たニッケルの姉だ。
「でも彼女、王子殿下とはファーストダンス踊らないらしいわよ?」
「え、殿下と踊らないの?なんで?」
驚いたニッケルに姉が肩をすくめる。
「私に訊かれても知らないわよ。だいたい彼女さっきお兄さんにエスコートされてたじゃないの、見てなかったの?」
全然覚えてない。じゃあ彼女もニッケルと同じく兄弟に頼んだクチなのか。
ニッケルの今日のダンスの相手は姉だ。
ちなみにヘルビンもニッケルの姉とは以前から面識があり親しいので、その後はヘルビンが姉と踊る予定である。姉は「結婚決まってからモテても嬉しくない」などと言っていた。
「そう言えば兄貴っぽい人が一緒だったな。ならニッケルにもチャンスあるんじゃね?」
「いやないよ!無理!!ヘルビンの方こそどうなんだよ!」
「絶対やだよ、俺は地味で普通の目立たない子がいいんだよ」
ヘルビンは本当に嫌そうだ。地味に生きたいというのは彼の口癖だ。
黄緑色という珍しい髪色の彼は整った顔をしているし剣の才能にも恵まれていている。女性から好まれる要素は揃っているのだが、それとは別の理由でよくご令嬢方に囲まれている。
何故なら学院在学中のヘルビンの姉は非常に目立つ有名人で、ご令嬢方にとても人気があるのだ。その姉にお近付きになりたいとヘルビンに仲立ちを頼んだり、あれこれ話を聞きたがるご令嬢が跡を絶たない。
おかげですっかり女性が苦手になってしまったらしいヘルビンに、ニッケルも少し同情している。
「とりあえず少し様子見てみたらどうだ、ニッケル。5、6番目くらいならお前も踊れるんじゃね」
「う、うん…」
あの美しい少女と踊るのは自分にはとても無理だと思うが、話くらいはしたい。機会があれば話しかけに行こう。
ところがその後、リナーリアは何故かあの従者のスピネルとファーストダンスを踊っていてニッケルは衝撃を受けた。
まさか本当にあの従者の方と付き合っていたなんて。
そちらが気になって完全にダンスが上の空になってしまい、ニッケルは姉に怒られてしまった。
さらに彼女はスピネルの後でパイロープ公爵家の嫡男のアーゲンとも踊っていた。王子に次ぐ大物だ。
その後も次々とダンスの申込みが来ているようで、遠くからその様子を見ていると、近くの知り合いと話していた姉が戻ってきた。
「なんか、スピネル様とアーゲン様がどっちがリナーリア様のファーストダンスの相手になるかで争ってたらしいわよ」
「ええ!?」
「王子殿下、やっぱりリナーリア様と踊りたかったのかしら?」
「な、なんで?」
姉があれこれ説明してくれたが、もう雲の上の話すぎてニッケルにはさっぱり分からなかった。
とにかく彼女がすごいという事しか分からない。何だか姉の好きな恋物語の主人公みたいだ。
彼女はとても自分に話しかけられるような存在ではない。そうニッケルは諦めるしかなかった。
そうして学院生活が始まった。
ニッケルは王子やリナーリアと同じクラスになっていたが、接点など持てるはずもない。
友達のヘルビンは別のクラスで少々心細かったが、それでも知り合いは何人かいたし、数日経つうちには新しい友達もできた。
そんな風に学院に馴染み始めていた、ある日の昼休み。
突然あの従者スピネルがニッケルの所にやって来た。
「よう」と気安い様子で話しかけられたニッケルは、動揺して思わず挙動不審になってしまった。
「ど、どうも…」
「お前、殿下になんか用があるんじゃないのか?」
確かにニッケルは入学してからずっと、王子の様子をちらちらと見ていた。
父と母の不和を解決してもらった件のお礼を改めて言いたかったのだが、なかなか話しかける勇気がなかったのだ。
「え、ええと…」
どう答えたものかと口籠っていると、スピネルの後ろから王子がやって来た。リナーリアも一緒だ。
「ニッケル」と王子に呼びかけられて少し安心する。
「こいつ殿下に話あるらしいぞ」
「そうなのか。なら、丁度いいから一緒に昼食を取ろう」
「えっ、は、はい!喜んで!」
ニッケルは思わず舞い上がった。
すっかり萎縮してしまい遠慮していたが、やはり王子は気さくで優しい人なのだ。
「…殿下!その節は本当にありがとうございました!!」
ガバっと頭を下げると、王子は鷹揚にうなずいた。
「気にするな。その後、伯爵と夫人の様子はどうだ?」
「はい。急に全部仲良くって訳にはいかないっすけど、もう父が怒鳴るような事はなくなりました。母の趣味も認めてくれたみたいで…あと、あそこに行くのも、すっかり減ってます。母も、領地に帰るとは言わなくなりました」
部分的に濁しつつ答える。リナーリアもいるので、娼館の話をする訳にはいかない。
「そうか、良かったな」と言う王子の隣にいるリナーリアにも、ニッケルは大きく頭を下げる。
「リナーリアさんにも、本当にお世話になりました!」
リナーリアは言葉の意味が分からなかったらしく、可愛らしく首を傾げた。
不思議そうな彼女に、ニッケルの横のスピネルが説明する。
「こいつの両親は最近仲違いをしてたんだよ。それで殿下が話を聞いて解決してやったんだ」
「…ああ!なるほど、ペクロラス伯爵家の」
彼女はその簡単な説明ですぐに思い当たったらしい。
王子が彼女からうちの話を聞いたというのは本当のようだ。
「殿下が解決なさったんですか?」
「はい。何時間もかけて、辛抱強くうちの母と父から話を聞いて…。ほんと、凄かったっす!!」
力を込めてそう言うと、彼女は一瞬目を丸くしたあとで嬉しそうに両手を合わせた。
「まあ…!そうなんですか、さすがは殿下です…!!」
花が綻ぶような笑顔で、ニッケルは思わず見とれてしまった。
隣の王子も少し照れたように視線を彷徨わせる。
「…大した事じゃない」
「そんな事ないっすよ!あんなの、誰にでもできる事じゃないです」
「だな。あの話を聞き続けるのは殿下じゃなきゃできない」
しれっとそう言うスピネルにニッケルは白い目を向けたくなったが、今こうして王子にお礼を言えているのはこの男が声をかけてくれたからだ。
ニッケルが王子に話しかけたがっているのに気付いていたようだし、何より王子はスピネルを信頼している様子だ。
ただチャラチャラしている訳ではないのかも知れない。
その後、リナーリアにせがまれてニッケルは父母の騒動の経緯を話して聞かせた。
それで分かったのは、リナーリアが心から王子を敬愛しているらしいこと。ニッケルが王子を褒めるたびに嬉しそうにしている。
彼女はニッケルが想像していたよりずっと気さくで親しみやすい気性のようだ。ごく普通に話しかけてくれるので、男が苦手という噂はどうやら嘘だったらしい。
王子もまた、リナーリアを憎からず思っているようだ。表情は相変わらず真面目な顔のままで動かないが、彼女に褒められると微妙にそわそわと照れた素振りをしている。
父や母と話していたときとはまるで違うその様子が、ニッケルには意外だった。
リナーリアと付き合っているのかと思われた従者のスピネルは、時々茶化したり混ぜっ返したりはするものの二人を見守っているようにも見える。
どうして彼女はファーストダンスをスピネルの方と踊ったのだろう。
何やら不可思議な人間関係の一端を見た気分で、その日のニッケルの昼休みは終わった。
一連の出来事を経て、ニッケルは様々なことを知った。
人はちょっとした理由で足を踏み外しもするが、ほんの少し背中を押されるだけで一歩を踏み出すこともできる。
父と母のように。
そして、昼食の時の様子を見るに、王子はニッケルが思っていたよりも人間味のある年相応の少年のようだった。
あれほどに落ち着き堂々と振る舞っていた王子も、好きな相手の前ではそうも行かないらしい。
なら、ニッケルがやりたい事は一つだ。王子の恋路を応援するのである。
ニッケルに何ができるのかは分からないが、せめて少しだけでも背中を押せたらと思う。
あの従者は最初思ったよりは良い奴のようだが、やはりニッケルとしてはあの美しい少女とは王子の方と上手く行って欲しい。
いつか王子に恩返しできる日を夢見て、ニッケルは明日からも頑張ろうとそう思った。




