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挿話・13 ニッケルの家庭の事情2

 数日後、従者と護衛を伴った第一王子エスメラルドがペクロラス伯爵屋敷を訪れた。


「王子殿下!ご無沙汰しております。本日はようこそ当家へいらっしゃいました!」


 父はニコニコ顔でしきりに頭を下げながら王子を出迎えた。

 媚びへつらいが透けて見えるようで、ニッケルは少し恥ずかしくなる。

 王子の方はそんな態度には慣れているのか特に表情を変えたりはしなかった。早速、母の描いた絵を見に行く事になった。



「…これは、ペクロラス領の風景か?」


 尋ねられ、母は「はい」とうなずいた。

 王子に見せたのは、母が最も多く題材としているペクロラス領の山や自然を描いた絵だった。

 王都にいたまま一から描いたので、記憶だけを頼りに描いた事になる。


「所詮、女が趣味で描いた素人画です。お恥ずかしい」


 そう言った父に、王子は首を振る。


「いや。確かに技術は拙いかもしれないが、繊細でとても丁寧に描かれている。心を込めて描いたものなのだと伝わってくる絵だ。…ペクロラス領を愛しているのだな」

「さすがのご慧眼でございます」


 じっと絵を見つめる王子に、父は作り笑いを浮かべた。


「…だが、この絵は未完成ではないのか?」


 王子の言葉に、母はピクリと体を震わせた。


「…お分かりになりますか」

「おい!」


 王子の言葉を肯定した母に、父が咎めるような声を上げる。王子はそれに構わずに言葉を続けた。


「これだけ丁寧に描いているのに、ところどころ妙にぼやけていて描き込みが甘い。…それに、絵が趣味だというのにこの一枚だけなのはどうしてだ?他の絵はないのか?」

「それは、所詮ただの手慰みなので…」

「ニッケル」


 父の言葉を遮って王子がニッケルを呼び、こちらを見た。

 ニッケルは唇を噛んでうつむき、それから王子の目を見つめ返す。


「父上は先日、母上がこちらで描いた絵を全て勝手に捨ててしまったんです。…この絵は、殿下のお手紙を貰ってから母上が寝る間も惜しんで描いたものです」

「…ニッケル!!」

「ペクロラス伯爵」


 怒りの声を上げる父を、王子は再び遮った。


「絵を捨てるというのはあまりに横暴ではないのか。なぜそのように夫人の絵を卑下する。この絵を見る限り、夫人は真摯に絵画に打ち込んでいるように見える」

「し、しかし、絵など何の役にも立たない趣味です。…それに、これのために領地にずっと引きこもって、貴族の妻としての役目を果たしていない」

「…それは、本当に絵画が理由なのか?」


 真っ直ぐに見つめてくる王子に、父は言葉を失ったようだった。「ですが…」とモゴモゴと言っている。

 そこに声を上げたのは、ずっとうつむいていた母だった。


「わ、私が妻の役目を果たしていないというのなら、あなただって夫の役目を果たしていません!いつも社交だの昇進だのと言って、私や子供たちのことなど考えていないでしょう!

 し、しかも、あんな所にずっと通い続けて…!そんな暇があるなら、む、娘たちと話をしたり、ニッケルに稽古の一つでもつけたらどうですか…!!」

「なんだと…!?」


 母はどもりながらも必死で言い募った。今までずっと口答えをしなかった母の突然の主張に、ニッケルは驚いてしまう。

 だがもっと驚愕しているのは父の方だろう。あんぐりと口を開けて母を見ている。

 その様子を、王子は落ち着いた表情で見回した。


「…お互い、それぞれの主張はあるだろう。俺が話を聞こう。…ニッケル、部屋を用意してくれないか。まず夫人から話を聞く」




 それから王子は、宣言通りにきちんと母の話を聞いた。

 そこには従者とニッケルも同席していたのだが、2時間ほど経った所でニッケルは耐え難くなった。

 ニッケルは母の事が好きだしできれば味方をしたいのだが、母にも欠点はある。

 とにかく話が長いのだ。


 要点を押さえるのが下手で要領を得ないし、王都で色々と我慢している分鬱憤が溜まっていたのか、愚痴が多い。しかもあちらこちらに話を飛ばしながら何度も同じ話を繰り返すので、なかなか進んで行かない。

 王子は真面目な顔で相槌を打っているが、従者の方は先程「手洗いに行く」と言ったきり戻ってこない。

 ニッケルもまた耐えかねて「新しいお茶を頼んできます」と言って一度席を立った。


 食堂の方へ行くと、従者がテーブルについてお茶を飲んでいるのが見えた。

 …戻ってこないと思ったら、こんな所で油を売っていたのか。

 姉と妹もそこに同席しているようだ。さらに使用人の少女まで交えて、何やら楽しげに笑いながら会話をしていた。

 姉や使用人はともかく、人見知りの妹までもがやけに心を許している様子なのが少々気になる。


 思わずジト目で見ると、従者は澄ました顔で紅茶に口をつけた。


「母君の様子はどうだ?」

「…まだ殿下にお話を聞いてもらってます」

「そうか。まあ、殿下に任せとけば大丈夫だ」


 お前は何もしなくても良いのか。

 そう胸中で突っ込みつつ、ニッケルは新しいお茶を運ぶよう使用人に頼んだ。



 結局、母の話が終わるまでその後さらに2時間ほどかかった。

 ニッケルはすっかり疲れ果てていたが、王子は「次は伯爵の話を聞こう」と父を呼んだ。

 父の話は母ほどは長くなかったが、それでも1時間近くはかかった。その間も従者はやっぱり戻ってこないままだった。


 王子はまだニッケルと同じ15歳だというのに、驚くほど聞き上手だ。

 要所要所でちゃんと相槌を打ってくれるのでしっかりと話を聞いてくれているのが分かる。あくまで真面目な顔で聞き、話に余計な口を挟もうとしないのも、話しやすい理由の一つだろう。

 それにしても忍耐力が凄すぎる。かれこれ5時間にもなろうというのに、嫌な顔一つしていない。

 身内のニッケルですらとっくに音を上げているのに。


 全て聞き終わった後、王子は父に母から聞いた話を掻い摘んで話した。

 父の娼館通いに対し、母が不満だけではなく不安を抱いていたこと。身体が弱い妹の育て方にもっと心を砕いてほしかったこと。

 絵画は初めほんの息抜きのつもりだったが、この数年真剣に取り組んでいたこと。鉱山で新しい顔料を見つければ多少の金になるし、それで絵画の趣味を認めてもらえるのではないかと思ったこと。


 あれほど頑なだった父も、相手が王子殿下だというのもあるのだろうが、黙って話を聞いていた。


 その後母も呼んで、母に向かって父の話をした。

 母が王都に来ないために社交の際いつも一人で肩身が狭かったこと。離れている期間が長いために妹の教育に口を出しにくくなってしまったこと。

 それから、王都にずっと母が来ない事で男として欲求不満が溜まっていたことなどだ。

 寂しいなどと言うのはプライドが許さなかったのだろうが、要するにそういう事だったのだと思う。


 父母とは違い王子は要点をまとめるのがとても上手かった。話は分かりやすく、短かった。



 王子の話を聞いた父は長い時間沈黙していたが、やがて母に向かってぽつりと呟いた。


「…すまなかった。今まで、お前の気持ちをきちんと考えてこなかった。いや、考えようとしなかった…」


 母もまた、涙を浮かべて父に向かい合う。


「いいえ…。私の方こそ、自分や子供の事で頭がいっぱいで。あなたがどんな気持ちでいるかを考えておりませんでした…」


 二人のその姿は、まるで憑き物が落ちたかのようだった。

 そう言えば、ニッケルがまだ幼い頃は二人は普通に仲の良い夫婦だったのだ。

 いつからああなってしまっていたのだろう。

 母は王子に向かって深々と頭を下げた。


「…王子殿下。本当にありがとうございました。殿下のおかげで夫ときちんと向き合う事ができました。…それに、私の絵を褒めてくださった事も、とても嬉しゅうございました」

「いいや。あの絵は本当に良い絵だったと思う。いずれ完成したらまた見せて欲しい」

「あ、ありがとうございます…!」


「…あの、もしや殿下はこのために当家を訪れたのですか?」


 父が遠慮がちに王子へ尋ねる。


「ああ。ニッケルは茶会でずっと浮かない顔をしていたからな。少し話を聞いたんだ」

「ニッケルが…」

「俺には親の苦労を想像することは難しい。だが、親が諍いを起こしている時の子供の気持ちは想像できる。ニッケルは両親の事も姉妹の事も、とても心配していた。どうかその気持ちを分かってやって欲しい」

「はい…」


 父と母は揃って静かに頭を下げた。




 そして王子は従者や護衛を連れて帰っていった。

 このまま帰すのはあまりに申し訳なかったが、既に日も暮れかけていて王子をこれ以上引き止める方がよほどまずい。

 親子揃って恐縮しながら見送ることになった。


 帰り際、ひたすら頭を下げるニッケルに王子は苦笑しながら言った。


「そんなに気にするな。本当にたまたま話を聞いたから関わっただけだ」

「でも、誰に聞いたんすか?こんな事…」


 我が家は特に注目されるような貴族家ではない。離縁の話が持ち上がったのもつい最近で、噂になるにはまだ早い。

 なぜ王子の耳に入ったりしたのだろう。


「リナーリア。リナーリア・ジャローシスから聞いた」

「あ、ジャローシス侯爵家の」


 その噂は聞いた事があるが、ニッケルは会ったことがない。

 王子ととても仲が良いらしいが、なぜ彼女がペクロラス家のことを知っているのだろうか。


「彼女はとても勉強熱心で、他領のこともよく知っているんだ。…礼を言うなら、彼女に言うと良い」

「わ、わかりました!」



 王子一行を見送ってから屋敷の中に戻ると、母がニッケルへと向き直った。


「ニッケル、本当にありがとう」

「いや、俺何もしてないよ。全部王子殿下のおかげだ」

「そうじゃなくて、絵の話よ。王子殿下に褒めていただけて、社交辞令だとしても本当に嬉しかった…。身に余る光栄よ。今まで頑張ってきた甲斐があったけれど…でも、ニッケルが励ましてくれなかったら、とても描けていなかったわ」

「そっか…」


「…それに、初めてはっきりと口答えができたのも、あの絵のおかげよ。殿下が褒めてくれたあの絵が、ほんの少しだけ自信をくれた…私の背中を押して勇気をくれたわ…」


 目を伏せる母を見て、隣にいた父がためらいがちに口を開く。


「…お前の絵を捨てて、すまなかった。役に立たん趣味だが、王子殿下が認めてくれたものだ。…これからも、続けたいなら続けていい。鉱山に人を送る件も、考えておいてやる」

「あなた…!」


 母は感極まって泣き出した。

 近くで様子を見ていた姉と妹も、こちらへと近寄ってくる。

 母の背を撫でながらニッケルは、ようやくこの家に平穏が戻ってきたのだとそう思った。

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