挿話・12 ニッケルの家庭の事情1
ニッケル・ペクロラスはこの国の第一王子エスメラルドの事を心から尊敬している。
王子はニッケルと同い年だが、優れた容姿と抜きん出た剣の腕の持ち主で、学業においても優秀だ。
少々無口で無表情だが、思慮深く心優しい性格である事をニッケルは知っている。
何しろ彼は、ニッケルとその家族の恩人なのだ。
話は1年近く前まで遡る。
とあるお茶会へとやって来ていたニッケルは、その日とても憂鬱だった。
何故なら、今朝も父と母は口論をしていたからだ。
内容はいつも通り、下の妹を連れて領地に帰りたいと言う母と、そんな事は許さないと怒る父の怒鳴り声。
今までずっと控えめだった母が、今回ばかりは譲ろうとしないので父はかなり頭に血を上らせている。
その声を聞いて落ち込んでいる妹の頭を撫でて慰めるのはニッケルの日課となっていたが、この日はお茶会に出発するため、途中からメイドに妹の世話を任せなければならなかった。
今頃泣いているかも知れないと思うと心配で仕方がない。
しかし、今日のお茶会は絶対に出席しなければならないと決まっていた。父親が友人に頼んでなんとか招待してもらった大事なものだからだ。
主催はとある有力な侯爵家のご令嬢なのだが、なんと今日は第一王子がこのお茶会にも出席するのだ。
王子はニッケルと同じく、秋に学院への入学を控えている。今のうちに何とかして面識を得て、できれば取り入っておけ、というのが父の命令だ。
だが、王子が自分程度を相手にするとは思えない。
ペクロラス家は伯爵位、つまり高位貴族の一員だが、それだけだ。特別豊かでもなく、権力があるわけでもなく、ただ何となく歴史だけはある。
長男であるニッケル自身、特別何が優れているという事もない。剣術は人並み程度だし、頭も別に良くはない。
母から教わった絵画は多少自信があるが、これは同年代の少年少女に対し誇れるようなものではない。父からはむしろ疎まれている趣味だ。
無口であまり喋らないと噂の王子から気に入られるような話題を持ちかけられる自信は、ニッケルにはなかった。
今日はせいぜい、顔を覚えてもらえれば御の字だろう。
予想通り、お茶会のご令嬢たちの視線は王子とその従者へと集中していた。
噂通り王子は自分からほとんど喋らなかったが、その代わり隣に座った従者が上手く応対し、王子から短い返事を引き出している。
そのよく回る舌と爽やかで甘い笑顔に当てられ、むしろ従者の方に夢中なご令嬢も多いようだ。
従者はきちんと男に対しても話題を振ってくれているのだが、ご令嬢方が他の男に興味を持っていないのは明らかだったし、王子は何を考えているのかよく分からない。
やはり来るだけ無駄だったと、ニッケルは内心でそう思った。
何だか馬鹿馬鹿しくなってきたニッケルは、途中で手洗いに行くと言って席を立った。
お茶会のテーブルからは離れた庭の隅、人目につかなさそうな池のほとりに座り込む。
…妹は今頃どうしているだろう。母の愚痴を聞かされている所だろうか。大きくため息をついた時、後ろから声をかけられた。
「どうした?」
「…え」
振り向くと、そこにいたのは第一王子だった。
「お、王子殿下?どうしてここに?」
「疲れたから抜け出してきた。そこに座ってもいいか」
「は、はい、どうぞ!」
何が何だか分からず慌てるニッケルの横に、王子は座り込んだ。
疲れたと言っていたが、王子もあまりお茶会には乗り気ではなかったのだろうか。
その整った横顔からは感情が読み取れないが、あれほど無口ではお茶会など楽しいものではないのかもしれない。
ほんの少し親近感を覚えていると、王子は再び「どうしたんだ?」と尋ねてきた。
「な、何がですか?」
「ずっと浮かない顔をしていた」
「……」
ニッケルは言葉に詰まり下を向いた。家庭の不和など、王子に話せるような事柄ではない。
「もしかして、父君と母君の事ではないのか?」
「…どうして、それを?」
驚愕して目を瞠るニッケルの顔を、王子は真っ直ぐに見る。
「少し小耳に挟んだだけだ。…問題を抱えているのではないのか?」
「それは…その…」
「俺で良ければ、話を聞こう」
王子は目を逸らそうとしない。ニッケルが話すまで待つ気らしい。
ニッケルはためらいながらも王子に事情を話した。
ニッケルには上に姉が一人、そして年の離れた妹が一人いる。
姉は婚約者がいてもうじき結婚するのだが、妹は内気で人見知りで、いつも母親にべったりだ。
母もまた最も遅くにできたこの妹を大層可愛がっていて、妹の身体があまり丈夫ではない事もあり、ずっと領地に残って大切にこの妹を育ててきた。
しかし、妹とて伯爵家の令嬢だ。いつまでも領地に籠もってばかりはいられない。
今年はついに母と妹も王都で社交シーズンを過ごす事になったのだが、人見知りの妹はあまり外に出たがらなかった。
以前から父はそんな妹を叱っていたのだが、王都に来た事でそれが激しくなった。母は妹を庇ったが、それに腹を立てた父はますます叱責した。
そうしているうち、耐えかねた母がついに「妹を連れて領地へと帰る」と言い出したのだ。
父はそれを聞いて激怒した。
貴族の娘ならば、まだ幼くともいずれ良い家に嫁ぐべく王都で社交をしなければいけない。今まで待ってやっただけでも有り難いと思え、そう怒る父に母は抗った。
ずっと従順で大人しい妻であった母は、父に対して口答えをする訳ではない。だが決して言葉にうなずかず、従いもしないという形で抵抗した。
父の叱責は日に日に激しくなり、もはや離縁という言葉すら出てくるようになってしまっている。
「…なるほど」
話を聞いた王子は静かにうなずいた。
「だが、事情はそれだけではないのではないか?父君と母君の趣味も関係しているんじゃないのか」
「な、何で知ってるんすか!?」
そこはしっかりと伏せて事情を話したはずなのに看破され、ニッケルは目を剥いて驚いた。
王子は真面目な顔で言う。
「小耳に挟んだ」
「小耳って…」
「ある人に聞いたんだ。…それで?」
「あ、はい…。殿下の言うとおりです。うちの母は、絵を描くのが好きなんす。
でも父はその趣味を役に立たないって言ってあまり良く思っていなくて…だから母が領地に帰りたいって言うのは、王都じゃ好きなように絵を描けないせいもちょっとあると思います。
しかも母は最近、父に内緒で鉱山で新しい絵の具の材料を探してたらしくて。それが父にばれて、ますます父が怒って…」
「ふむ」
「あと、父の方がですね…。母は妹が生まれてからずっと領地暮らしを続けていたので、父は毎年俺や姉を連れて一人で王都に来てまして。…だから、その間にっすね…その、しょ、娼館に」
「…頻繁に通うようになった訳か」
「そうっす…」
身内の恥を晒すのは気が引けたが、話し始めると止まらなかった。
本当はずっと誰かに相談したかったのだが、友人にもこんな話はしにくい。
言える相手がなかなかいなかったのだ。
「妹が大きくなってからも母がずっと王都に来たがらなかったのは、父の娼館通いのせいもあるんじゃないかなって」
娼館通いをするのは王都にいる間だけとは言え、やはり母にとっては辛い事なのだろう。
年を追うごとに絵画にのめり込んでいるのも、それと無関係ではないと思う。
そんな母の態度が面白くないのもあり、父はますます娼館に行くようになる。悪循環だ。
「もし離縁なんて事になったら、妹が可哀想です。内気でまだ母離れできてない子なんで…。それに姉は結婚を控えてますし、醜聞はちょっと…」
もし離縁となったら、母は子供たちを置いて実家に帰る事になる。貴族ではよほどの事情がないかぎり、子供は男親が養うのが決まりだからだ。
妹は母と離れ離れになってしまう。
「そうか…」
王子はじっと考え込んだ。そこに、一人の人間が近付いてきた。王子の従者だ。
「殿下、いい加減戻ってきてくれ。誤魔化すのもそろそろ限界だ」
「すまない、スピネル」
「話は聞けたのか?」
「ああ」
それから王子はニッケルの顔を見る。
「今度、適当な理由を付けて俺を屋敷に招待してくれ。君の父母に会おう」
「えっ!?あっ、はい!」
「じゃあ、戻るぞ」
従者に促され、王子はお茶会のテーブルへと戻っていく。
ニッケルもまた、慌ててその後を追った。
お茶会の後、ニッケルは半信半疑で王子へと手紙を送った。
家に招待する理由をどうするか迷ったが、大したものを思い付かなかったので「母の描いた絵画を見て欲しい」と書いた。
王子からはすぐに返事が来た。数日後にペクロラス伯爵屋敷を尋ねてくるとの事だった。
「でかしたぞニッケル!よくやった!!」
父は大喜びだったが、ニッケルは曖昧に笑うしかなかった。ニッケル自身が何かした訳ではないのだ。
「下らん趣味だが、まさかこんな役に立つとはな。すぐに王子殿下をお出迎えする準備をしなければ。…お前も分かっているな?」
父にそう言われた母は、表情を固くして目を逸らした。
「…ですが、私の描いた絵はあなたが先日全部捨てたではありませんか」
「えっ!?本当ですか、父上?」
思わず父の顔を見ると、気まずそうに目を逸らす。
全く知らなかった。さては、自分がお茶会に行っている間に行われたのか。
「…ひどい」
母の絵は確かに素人が描いたものだ。何の価値もないと言えばそうだろう。
しかし、ニッケルは母の絵が好きだった。優しく柔らかいタッチで描かれる風景画や静物画。
そこに込められた時間と思いを踏みにじるなんて、いくら父でも許される事ではないと思った。
いつもはあまり逆らわないニッケルからの非難を含んだ視線にたじろいだのか、父は「ふん!」と言って背を向けた。
「…だったら王子が来るまでに新しく描けばいいだろう!分かったな!!」
そうして父は、肩を怒らせて部屋を出て行ってしまった。
「母上…」
王子が来るのはわずか数日後だ。出迎えるための準備もあるというのに、それまでに新しく描けというのは無茶がある。
それでも、ニッケルはうつむいて暗い顔をしたままの母に呼びかけた。
「母上、絵を描こうよ。王子殿下に母上の絵を見てもらうんだ」
「…ニッケル」
「俺、本当は殿下に気に入られた訳じゃないんだ。俺が落ち込んだ顔をしてたから、殿下が気を遣って声をかけてくれただけなんだよ」
「…そうなの?」
母が驚いてニッケルの方を見る。
「殿下は俺の話を聞いてくれた。だからきっと、母上の話も聞いてくれると思うんだ。でも、母上、それだけじゃだめだよ」
戸惑った顔をする母に、ニッケルは必死で言い募った。
「母上は何年もずっと頑張って絵を描いてきたじゃないか。その絵を王子殿下に見てもらう機会なんて、もう一生ないかもしれない。後悔しないように、精一杯描いた方がいいよ」
「ニッケル…」
母は両目から涙を溢れさせた。
「…ありがとう。私、頑張って描いてみるわ…」




