挿話・9 騎士家の兄妹
カーネリアは、持ち上げていた紅茶のカップを下ろすとその明るい赤毛をかきあげた。
ここは寮のカーネリアの自室だ。正面に座っているのは、カーネリアの2歳上の兄、スピネルである。
何をしに来たのかと尋ねたい気持ちはあるが、それは向こうから言うべき事だろうと思うのでさっきから黙っている。
この兄を甘やかすつもりは、カーネリアにはない。
「…勉強会はどうだったんだ?」
ようやく兄が口を開いた。
やっぱりその用件ではないかと内心で口を尖らせながら、カーネリアはつんと答える。
「恙無く終わりましたわ。リナーリア様に丁寧に教えていただいて、とても勉強が捗りました」
「そうか」
再びの沈黙。カーネリアは内心でイライラとする。
「皆様和気あいあいとして、大変楽しく過ごしましたとも」
「それは…」
「リナーリア様とシルヴィン様も、よ!あのお二人、案外気が合うみたいだわ」
いい加減まどろっこしいのでつい言ってしまった。
「そうなのか」
ちょっと意外そうな顔に少し溜飲が下がる。訊きたければ初めからそう言えばいいのに。
「そんなに気になるなら、お兄様も参加すれば良かったじゃない」
「できるか、そんな事」
兄が避けているのは主にシルヴィン様だろう。
彼女は悪い人間ではないが、兄はああして自分に近寄ってくるご令嬢に対しいつも一定距離を置きたがる。
それには立場やら何やら様々な理由がある事は、カーネリアにだって分かっているが。
「だからって私をいいように使われても困るのよ、お兄様。リナーリア様は大切なお友達だし、庇えるのならば庇うけれど、それはお兄様のためではないのよ?」
「誰もそんな事は頼んでないだろ」
「私に『リナーリアをお茶会に誘え』って言ったのはお兄様でしょ。それまでは私がいくらお願いしても会わせてくれなかったのに。それって要するに、リナーリア様を頼むって事じゃない」
「いつの話だ」
「ほんの3年前よ、お兄様」
「……」
憮然とした顔の兄に、カーネリアはこれ見よがしにため息をついてみせる。
「…お兄様がリナーリア様を大事にしているのは分かっているわ。でもリナーリア様にはもっとはっきり言わないとだめよ、本当に鈍いんだもの…シルヴィン様の気持ちにだって、ずっと気が付いてなかったのよ?」
あれはなかなか衝撃的だった、とカーネリアは思い出す。誰がどこから見ても明らかだったと思うのだが。
「そんなんじゃねえっつってんだろ」
「どこがよ。ずっと前から、リナーリア様に他の男が近付かないようにしていた癖に。そんなのお兄様がやったに決まってるわ」
彼女はとても美しく可憐な少女だ。あまり社交的ではないが物腰は丁寧だし、魔術師の家系で魔力も高いと言う。性格も品行方正で真面目、少しばかり天然な所は愛嬌と言っていいだろう。
普通ならばもっと沢山の男性から声をかけられて良いはずなのに、何故だか今までそんな様子がほとんどない。それどころか、彼女を避ける者すらいるのだ。まるで誰かに脅されでもしたかのように。
それができそうな人間、そしてやる必要がある人間と言えば、王子かこの兄くらいしか思いつかない。
正面から睨みつけると、兄はようやく観念したのか頭をがしがしと掻いた。
「…しょうがねえだろ!最初は本当にあいつが人見知りで泣き虫だと思ってたんだよ!」
スピネルは言い訳をする。
何しろ、リナーリアは最初王子に会っただけでわんわん泣いてしまったのだ。あの反応は流石にショックだったのか、王子も少々気にしているようだった。
その後は無事に打ち解けられたので安心していたが、ある日王子に会いに城にやって来たリナーリアを見かけたどこぞのボンクラ息子が手下相手に話しているのを聞いてしまった。
「あの侯爵令嬢を使えば、王子に近付けるのではないか」…と言う話だ。
王子はその無表情と無口のせいであまり人付き合いが得意ではない。
時間をかけて向き合えばある程度会話にも慣れるし、誰にでも分け隔てなく真摯に対応する様や人を見る目の鋭さと言った美点が見えてくるのだが、とっつきにくいのは確かだ。
そのせいで幼い頃の王子には親しい友人というものが自分以外にろくにいなかったので、スピネルはようやくできたあの妙な友人に逃げられたくなかった。
知らない子供に囲まれて「王子に紹介しろ」などと迫られれば、彼女はまた泣いてしまうかも知れない。
下心や面白半分の横槍で、リナーリアが王子と会うのを躊躇ったりするようになっては困る。
彼女が王子から遠ざかる事だけは絶対に阻止したかった。
だから「あいつは人見知りですぐに泣く。泣かせたら王子は絶対に怒る」と遠回しに言ってボンクラが彼女に近付くのをやめさせたのだが、同じことを考える奴は他にもいた。
ある日何やらリナーリアに絡もうとしている令息がいるのを見かけたので、物陰にそいつを連れ込んで忠告しようとし、途中で面倒くさくなったので念入りに脅しておいた。
こういうのは優しく言うよりも脅した方がずっと効果があるのだ。
リナーリアは実は思ったほどの人見知りではなく、泣き虫でもないのではないかという事に気付いたのは、それからもう少し後のことだ。
「…それで他の人が近付くのを牽制していたっていうの?」
「その方が手っ取り早かったんだよ!」
「ふうん…」
カーネリアは半眼になって兄を見る。
それを頭から信じるほど馬鹿ではない。この兄は大雑把ぶっていても意外に気遣いが細やかだと知っている。
「でも女の子が近付くのは止めていなかったわよね?」
「女友達は必要だろ。あいつは女らしくなさすぎる。それに、あいつ自身女友達を欲しがってたからな」
「ああ言えばこう言うわね」
「訊いてるのはお前だろ。…それに、俺はそろそろお守りは降りる。殿下がようやくその気になったみたいだからな」
「殿下のことは別にいいわよ。自覚が遅すぎだけど…そうじゃなくて私は、お兄様はそれでいいのかって訊いているの!」
兄が王子殿下に忠義立てをしたがっている事は分かっている。
そうしたくなるような何かが王子にあるのだろうという事も、薄っすらと感じている。
だけどカーネリアの目には、王子と兄の関係は主従という言葉ではくくれないものだと思えるのだ。
騎士の家系に生まれたカーネリアは、将来は女騎士になることを夢見ている。
事実自分には剣の才能があるとも自負している。同年代の女子どころか大抵の男子にも負けはしない自信がある。
そして、そのカーネリアから見て明らかに別物と思える才能を持つのが、この2歳上の兄スピネルだった。
7歳で王宮に行ってしまったので共に剣を振る機会などほとんどないのだが、既にいっぱしの剣士として名を上げている上の兄達も、口を揃えて「あいつが一番才能がある」と言っている。
…そのスピネルが唯一好敵手と認めているのが、あの王子殿下なのだ。
たった一度だけだが、兄と王子の立ち会いを見せてもらった事がある。もちろん、練習用の木剣を使ったものだ。
兄の動きは素早く変幻自在だ。フェイントを多用し、相手に隙を作り出し、崩してそこを突く。
対して、王子の動きは堅実かつ堅牢だった。驚くべき忍耐強さと粘り強さで守りを固め、相手に隙が生まれるのをじっと待つ。
兄は時間をかけて王子の守りを崩し、しっかりと追い詰め勝利した。
最後の一撃は遠慮など微塵も感じられない容赦のないもので、王子はずいぶんと悔しがっているようだったが、それでも最後には笑っていた。
お互いとても楽しそうに。
年齢差によるリーチの長さや身体能力の違いで今は兄に分があるようだが、やがて成長期が終わればどちらが上になるかは分からない、とカーネリアは思った。
…自分の才能では、二人の影を踏むことすらできないだろうとも。
その夜は悔しくて眠れなかった。どれだけ努力しても決して越えられない壁がそこにあると感じた。
自分が女だからか。それとも、単純に生まれ持った才能の違いか。
何より、王子の事が心底羨ましくて仕方なかった。カーネリアと同い年でありながら、兄に認められているあの少年が。
兄にとって王子とは、主であると同時に親友で、それ以上に好敵手なのだ。
その関係が羨ましくて、妬ましくすらあった。
だから、カーネリアは兄が王子に遠慮するのが許せない。
それが剣だろうが恋だろうが、欲しいと思ったなら競えばいいではないか。王子とて、それを許さないほど狭量ではあるまい。
リナーリアが既にその気持ちを決めているのならば仕方がないが、今の所その様子はないのだ。
正々堂々と競い、勝負をして、そうして決着をつければいいと思っている。
騎士らしく、だ。
だが、兄は決してそれを認めようとしない。
「何度言ったら分かるんだ。そんなんじゃねえ」
「全くそうは見えないもの」
「あのなあ。…そもそも、仮にそうだったとしてもだ。俺はそうするつもりは一切ない」
兄は嫌そうに顔をしかめながら、ふと真剣な表情を覗かせた。
「…どうして?」
「お前には分かんねえよ」
にべもなく切り捨てた兄に、カーネリアは頬を紅潮させ眉を吊り上げる。
「なんでよ!そんなので分かる訳ないでしょ!ちゃんと説明してよ!」
「嫌だね。それに、仮にっつってんだろ。俺はあんな変な奴を女として見るような趣味は最初っからない」
「お兄様の嘘つき!!」
「うるせえ。邪魔したな」
兄は軽く手を上げると素早く部屋から出て行った。その扉に、ソファに置いてあったクッションを投げつける。
「…もう!お兄様のバカ!!」
カーネリアの叫びは、虚しく室内に響くだけだった。
スピネルは前世でも相当の使い手だったのですが、一介の騎士として過ごしました。
それを宝の持ち腐れと感じていたのがリナーリア(リナライト)からスピネルへの評価が低かった一番の理由です。
入れる機会があるかないかわからないエピソードなので…




