挿話・4 純粋
揺れる馬車の窓から、スピネルは外を見ていた。
見送ってくれたリナーリアやジャローシス家の者達の姿はもう見えない。
視察の行程は一日遅れになってしまったが、この程度のずれは天候次第でいくらでも起こる。
今日はとても天気が良いし、馬車は順調に進むことだろう。
「スピネル。…俺は間違っていただろうか」
ふいに、向かいのエスメラルド王子が呟いた。
沈んだその様子に、スピネルは「どうしてそう思う?」と尋ねる。
「俺は、リナーリアを危険な目になど遭わせたくない。俺のために命を張ったりしないで欲しい、彼女はただ笑っていてくれればそれでいいと思う。…でも、彼女はそうは思っていないようだ」
「……」
「俺が叱った時、リナーリアはとても悲しそうだった」
『二度とあんな事はするな。…その時は、俺は君を許さない』
自分より王子の無事を優先しようとした彼女に対し、王子はあえて厳しい言い方をした。
スピネルもその言葉には賛成だった。彼女に犠牲になどなって欲しくはないし、そんな必要もない。それは従者である自分の役目だ。
だが彼女は、それを悲しんだ。叱られて落ち込んだのではなく、何かとても辛い事を言われたかのように目を逸らした。
「…どうしてリナーリアは、あんな事をしたんだろう」
それはスピネルも疑問だった。
王子を助けたかったという動機は分かる。しかし自分自身も危機に陥っている時に、咄嗟に「殿下を」などと普通言えるものだろうか。
彼女はまだ13歳の少女で、危機があれば誰かに助けを求めるのが当然の存在だ。なのに彼女はあの一瞬で判断を下した。一体誰を優先するべきなのかを。
一昨日の夜、握手をした時の事をスピネルは思い出す。本当に細くて、驚くほどに小さな手だった。
あんな小さな手で、それでも「助けて」とは言わなかったのだ。そして結局、自力で戻ってきてしまった。
王子もスピネルも薄々勘付いている。彼女は何か隠し事をしていると。
時折見せる思い詰めたような目の、その理由は何なのか。
本当はあの時それも尋ねたかったのだが、その前に話を逸らされてしまった。彼女はたまにそうやって、ふざけて煙に巻こうとする時がある。
よほど触れられたくないのだろう。
だから、スピネルはあえて明るく言った。
「あいつはバカだから、ただ殿下を助けたかっただけだよ。それ以外何も考えてないのが困りものだけどな。あんたが大事なんだ」
「どうしてそんなに俺が大事なんだ」
「知るか。あいつに聞けよ」
「『理由が必要ですか?』とか言われそうなんだが…」
「…言いそうだな。あいつは」
これが恋心だというのなら話は簡単なのだが、そうは見えないのでややこしいのだ。
王子も、彼女がそういう態度だったならこのように悩みはしなかっただろう。彼女の気持ちに応えるかどうか、それだけ考えればいいのだから。
「リナーリアはとても純粋だ。…だから俺は、自分が間違っているような気がしてしまうんだと思う」
純粋。それは確かに彼女を表現するのにぴったりなのだろうが、あまり好きにはなれない言葉だなとスピネルは思った。
純粋なあまり自分の身を顧みないというのは、どこか歪んでいるように感じるのだ。
「…俺は、殿下は間違っていないと思う」
殿下はあのままでいいのだと、彼女は言っていた。
スピネルもまたそう思う。王子はこのままでいいし、変わって欲しくはない。
だからこそ命令が聞けない時もあるのだが。…泥を被るのは、自分の役目だ。
「殿下が言った通りだよ。俺たちは足りないものばっかりで、だから失敗もする。間違ってるからじゃない、力が足りないからだ」
王子は顔を上げ、それから自分の手のひらを見つめた。
「…そうだな。悩むより前に、やる事はいくらでもある」
「心配なら、あいつがおかしな無茶をやる前に殿下が止めりゃいい。俺も少しは手伝ってやる」
「お前のそれが『少し』か?」
「何のことだよ」
「本当に素直じゃないな。感謝はしているが、遠慮ならしなくていいぞ」
「だから何のことだよ」
王子は呆れたような顔をしたが、スピネルの方はあくまで「何のことかわからない」という顔だ。
「それならそれでいいが。…とりあえず、王都に帰ったら剣の稽古だな。魔術もだ。もっと鍛えたい」
「了解。いくらでも付き合うさ」
「まずはお前に追いつかなければな」
そう言って笑う王子に、スピネルは「できるもんならな」と不敵に笑い返した。




