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第10話 水魔術

 ヘリオドール王国があるベリル島は、海にぽつんと浮かぶ大きな島だ。

 周辺の海からは魔獣が湧いてくる。

 この魔獣は陸地に上がると、森や山に棲み着き数を増やす。そして、人を襲って殺す。


 魔獣は様々な形をしているが、ほとんどが醜悪な獣の姿である。眠りはするがものを食べる事はなく、その生態は謎に包まれている。

 魔獣は人を見れば襲ってくるものだが、特に海に出ようとする人間や、空を飛ぼうとする人間を執拗に攻撃する習性がある。

 だから海に近付く事は禁じられているし、鳥のように空を飛ぶ魔術や魔導具も禁止だ。


 そのため、この島に住む人間は海の向こうに何があるのかを知らない。

 はるか沖は霧に包まれていると聞くが、実際に見た事がある者はほとんどいない。


 この島全土がヘリオドール王国に統一されてから数百年、人同士の大きな争いは起こっていないため、この国が有する兵や武力というのは概ね魔獣と戦うためにある。

 その主力は騎士だ。魔術で己の身体を強化し、戦う術に長けた戦士である。


 また、魔術師も重要な戦力だ。攻撃魔術で敵を討つだけでなく、防御や支援、治癒など幅広く活躍する。

 魔術は魔獣と戦うためにほぼ必須だが、行使するために必要な魔力は誰もが持っている訳ではない。

 ゆえに高魔力者を輩出する家系はこの国において特権階級として保護されている。それが貴族だ。


 私達貴族は皆、幼い頃から戦闘の技術を教え込まれる。

 普段は配下の兵士たちに戦いを任せているが、有事の際には自ら剣や杖を持って戦わなければいけないからだ。

 それは王家の者だろうと例外ではない。



「へえ、お二人は魔獣退治に行ってきたんですね」


 今日は久しぶりに、ジャローシス侯爵邸に殿下とスピネルが来ている。もうすぐカエルが孵化すると連絡したからだ。

 初めてここに来て以来数年、殿下は毎年この季節をとても楽しみにしている。

 今は観察を終え、お茶を飲みながら雑談をしているところだ。


「騎士たちに連れられての訓練ではあるがな。やはり実戦というのは違うな。勉強になる」


 殿下もスピネルも、それぞれ数体の魔獣を斬ったらしい。初実戦という事で、色々と学ぶものがあったようだ。

 思わず「いいなあ」と呟くと、スピネルが「おい」とジト目で突っ込んだ。


「あっ、いや、違うんです。だって魔術は令嬢にとっても必須でしょう。魔獣との戦いは貴族の義務ですし」

「そうだが、自分から戦いに行きたがる令嬢がいるか」

「だから違いますって。別に魔獣と戦いたいわけではないです。私は支援や防御が得意なので、実戦に近い形式じゃないとあまり訓練にならないんですよ」


 そう説明したが、殿下もスピネルもぴんと来ていないようだ。二人共剣士だからよく分からないのだろうか。


「…お二人は支援系の魔術師と組んで戦ったことは?」

「ないな。まだ魔術師との連携訓練はあまりしていないし」

「なるほど。では、ちょっとやって見せましょうか」


 私はガーデンチェアから立ち上がると、近くの木へと歩み寄った。

 ここだとちょっと近すぎるかな。3メートルほどの距離を開けて立つ。


「スピネル様、剣でこの木に打ちかかってみてください。私がそれを防御します」


 そう言いながら、魔術で直径20センチほどの大きさの水球をいくつか生み出して浮かべる。

 スピネルは腰の剣を抜くと、木の前へと進んだ。


「いくぞ?」

「どうぞ」


 ひゅん、と空を切る音と共に剣が木の幹へと打ち下ろされる。

 しかしそれは、途中で小さな水の盾によって防がれた。

 私が魔術で素早く水球を動かし、盾へと変えて防いだのだ。


「おお?」

「もっとたくさん攻撃してもいいですよ」

「よし」


 連続で繰り出される攻撃を、すべて水球を動かして防ぐ。

 …こいつの剣捌き、上手いな。もちろん手加減しきった動きなのだが、それでも分かるくらいに洗練されている。

 前世のスピネル、凄い剣士だったもんなあ。




「…大したものだな、リナーリアの魔術は」


 ややあって、殿下が感心した様子で言った。

 私は「ありがとうございます」と答えようとし、それを横から阻まれた。


「やるなあ!すげーじゃねーかお前!」


 駆け寄ってきたスピネルだ。興奮した様子で私の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。


「ちょっ、やめて下さいよ!だから魔術は得意だって言ったじゃないですか!」

「いや、ここまでやるとは思ってなかった。お前すごかったんだな」

「水の防御魔術の一つですよ。今は1対1、しかも動かない木を守っていたので簡単でしたが、本来は多数の敵を相手に戦場で動き回る騎士が防御対象になるので、高い集中力と繊細な操作が必要になります」


 乱れた髪を整えながら答える。

 この精密な動きは、液体である水を使った魔術ならではだ。細かく変形させながら飛ばす事で、騎士の動きを妨げずに防御ができる。

 炎や風のように大きく敵を吹き飛ばしたり、土のように堅牢な壁を作るのにはあまり向いていないが、代わりにこのような小回りが利くのが水魔術の特徴なのである。


 しかも人間の敵である魔獣は、海から湧いてくるくせに水が非常に苦手だ。川や湖などの水場には近付きたがらないという習性があり、水が身体にかかることも嫌がる。

 その理由は不明なのだが、水にはこの島の守護神である水霊神の加護が宿っているからだと言われている。海の水はとても塩辛いとも聞くので、きっと海水は水のように見えて全く違うものなのだろう。

 まあとにかく、水の魔術は魔獣に対して非常に有効な防御手段なのだ。


「見た目は地味ですけど、組んで戦った時の戦いやすさでは水魔術が一番だと思っております」


 えっへん、と胸を反らす私。

 …おいスピネル、お前今胸元を見て一瞬哀れんだような顔をしただろう。ちゃんと見ていたからな。


「確かに、これは一人じゃ練習できないな。しかも多数を同時に相手取る事が想定なら、実戦が一番手っ取り早いか」

「はい。イメージトレーニングなどもしていますが、やはり実戦とは違いますから。我が家の騎士や魔術師の訓練に加えてもらう事もあるんですが、いつもという訳にはいきませんし…」

「なるほど。君は努力家なんだな」


 私は小さく微笑んだ。


「いつ、何が起こるか分かりませんから」


 これは前世で私が、殿下を守るために習得した魔術だ。

 たくさん修行をして、研鑽を積んで、…だけど結局何の役にも立たなかった。




「…さて、お茶の続きにしましょうか」

「おう」


 ガーデンチェアに座り直し、冷めた紅茶のカップに手を伸ばす。


 灼け付くような胸の痛みは、時折こうして襲ってくる。

 どれほど楽しくとも、平和に見えても、あの日の事を忘れてはいけないのだとそう教えてくれる。

 絶望を、怒りを、悲しみを、決して忘れてはいけないと。


 胸を掻きむしりたくなるほどの焦燥。

 今もこうして努力を続けているけれど、こんなものに本当に意味があるのか。ただ無駄な時間を過ごしているだけではないのか。

 私に一体何が出来るのか。どうすれば殿下を救えるのか。


 暗闇の中を手探りで進むもどかしさと恐怖。

 それでも歩みを止める事などできない。目的を果たすまでは、絶対に。


 ふと、向かいに座った殿下がじっと私を見た。


「どうした?」

「え?」


 あえて不思議そうな顔を作り、きょとんとして見せる。

 殿下はしばし私を見つめると、「…何でもない」とだけ言った。

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