10　始業セレモニー・下

　壇上から見えるものがあるという事は、知っていたつもりだった。

　領主という務めを果たしている以上、当然、多数の人々に対して何かを語る機会は度々訪れる。

　だが、それは所詮兵士や村人といった、所謂被支配層へのものに過ぎない。

　──その程度に過ぎぬものなのだと、実感する。

　王太子は、エリックとグレイスは、こんなものをいつも見ているのか。……エミリアは、これから死ぬまでこれを見続ける事になるのか。

　貴族の子女。

　大衆とは一線を画する立場と意思を持ち、教養と学識を積んだ、おそらくこの世界では最も『自己』というものを確立させている社会層の子供達。近い将来、この巨大な国を動かしていく、磨き上げられた歯車達。

　それらが発する感情や意志の揺れは、あまりにも重たい。

　自分の民を軽視しているつもりは毛頭無い。けれど、明らかにそこには違いが横たわっているのが解る。

　そんな彼等が不安の波に揺れ惑う光景を、顔色一つ変えずに受け止めるのが国の頂点へと立つ者達なのか。

　……そして、そこへエミリアを押し上げる手の一つが、私なのか。

　リンダール大公女。王太子の口から発せられたその肩書きに、ホール内にはっきりと動揺が広まった。

　壇上から見えた学生達の表情は険しさを帯びている。エミリアの存在を受け入れたくない、という思いが見えて、私はそっと嘆息する。

　ゲームでは、ここまで険悪な雰囲気ではなかった。

　エミリア自身があらゆる意味で戦争から遠ざけられていた事もあって、ゲームと実際の戦線にどれほどの差異が生じたかは分からない。

　彼女の視点から変わった事の分かる事情は終戦の状況だけ──二国が友好国として協定を結ぶ、限りなく平等な和平だったものが、リンダールの完全なる敗北による降伏宣言と、ほぼ支配国に課すような、不平等な取り決めばかりの和平の締結へ。

　それを齎したのは、やはりあのリンダールが最後に用いた余りに非人道的な戦略──奴隷狩りのための他国の紛争への介入と、奴隷兵の動員、その運用方法、それらの影響が大きかった。

　あれさえ無ければ、もう少しリンダールとの関係は穏やかなものとなり、またこれ程までにアークシア内でのリンダールへの感情が悪化することも無かっただろう。

「エミリア大公女殿下は和平の証。我が国とリンダール、二国を繋ぎ、その繋がりを確たるものとするため、殿下は我らと共にアークシアについて知見を広める事となった。……つまり、これは広い意味では外交となる」

　王太子はホールの様子に構いもせず、淡々と必要な説明を重ねていく。

　上級生や上級貴族の子女を中心に、それなりの人間がアークシアの外交そのものが変化した事に気付いたようで、波の立っていた不安定な空気が一気にピリッと引き締まる。

　今までは一国で完結していたアークシアが、それなりに規模の大きい国と形式的なものとはいえ同盟関係を結んだのだ。

　当然、エミリアのように他国の人間が出入りするようにもなれば、支配と監視の為にアークシアの人間が他国へ行かなければならない事態は増える。

　これまで通り大公家のみの人員で外交を務める訳にはいかず、私達の世代から、外交の場に対応出来るよう教育する事が貴族院で決定されたのである。

「先の二国の間に起こった不幸な争いについては、既に和平が結ばれたもの。今は対等な同盟国であると認識を改め、我が国の貴族という立場に恥じない態度でもって、外交という厳粛なる場に相応しい振る舞いを心掛けるよう願う」

　王太子の柔和な印象にそぐわない、硬質な響きのある言葉。

　静まり返るとまではいかないものの交わされる囁きは遠く、春の夜に相応しい冷えた空気がホールの底に溜まったかのようだった。

　時まで凍てついたというのか、王太子が口を閉じても、誰も動こうとしなかった。

「……学長殿。私からは以上ですが」

「あ、ええ、はい。……あ、楽団に演奏を始めさせて……」

　結局、少々気まずげな王太子に小声で促された学長によって、やっと始業式が始まった。

　無理矢理凝った空気を解きほぐすように弦楽器の音が大きく奏でられ、それに弾かれたように学生達が慌てて退いたホールの中央へとエミリアを連れた王太子が降りていく。

　夜会の華であるダンスの最初の一曲は、その場で最も身分の高い者か、主催者が踊る事になっている。学習院主催の夜会では身分の順となるため、今後は常に王太子とエミリアが最初の一曲を担う事となる。

　求められている役割を果たすのはむしろここからだ、と、私は気を引き締めた。

　ジークハルトと目配せで合図を交わし、出来る限り目立たぬよう二手に分かれて段を降り、壁を伝うようにして王太子達の後を追う。

　最初は音に合わせて緩やかに揺れていたエミリアのドレスの裾が、軈て大きく移動するステップに合わせて床をさらさらと滑り出し、翻る。

　淡い黄色から下がるほど白くなるエミリアのドレスは、裾だけはリンダールの旗に使われている、明けの空のような紫の交じる青の色に染めさせた。

　考えていた通り、それが人目を引く。控えめだがふとした瞬間華やいで、けれど印象は柔らかく。

　──ゲームから受けたエミリアという少女のイメージを現実の彼女に纏わせる事にしたのは、彼女の行く末が少しでもあの物語に近付くように願ったからかもしれない。

　それは、胸の底の澱ような、微かな罪悪感が生み出した、身勝手な願いだ。

　リンダールが侮蔑されるべき非道な戦略を取る程までに追い詰めた、その原因の一つ……或いは最大の原因として。

　ただその皺寄せだけを引き受ける事になった無力な少女へと寄せる、あまりに身勝手な願いだった。