40,アリーシャとカーティス〔3〕
見学の際、アリーシャは必ずノートと筆記用具を手に持ち、必要なことをその都度書き入れていく。
それでもスイーツが目の前に出されると、胸元に位置していたノートを下げて、目をつぶってまずはその香りを味わい、次に目で、指で、そして最後に舌で楽しみ、視線が答えとなる。私を見る。私は見ている。興味津々である。
「お父様、これはどのような食べ物なのでしょうか?」
「これはチーズケーキと言ってな、あの牛乳を加工して作っているんだよ」
「牛乳を、加工……。それはどのような加工で、どうしてこれほどまでの味が出せるのでしょうか?」
そうして、一つの素材が様々な過程を経て、違うものに生まれ変わっていくことを聴きとって知っていく。
「どのように」という仕組みはわりと簡略化して説明できるが、「どうして」という理由はなかなか難しい。
世界の成り立ちは科学的に説明できても、世界の存在、つまり「なぜ世界があるのか」は科学の対象ではなく宗教の対象と言われる。
「私」がどのようにできたかは明らかにされているが、「私」がなぜあるのか、それは答えられない。が、人は往々にしてこの答えのない問いを捨て去ることができずに抱えながら生きていく。
「…………ということになるわけだよ」
いくつかの製品については研究者や開発者の方が詳しいので、私が説明する場合はかいつまんで説明することが多い。だから、説明や論理にはいくつかの飛躍や省略が必然的に生じてしまう。
「……………………はい」
アリーシャは、そしてカーティスも、決して「わかった」とか「なるほど」とは不用意には言わない。「はい」とだけ言う。
自分という孤独な世界の中に身を置き、じっくりと対象を咀嚼して、反芻して、自分の中にある曖昧としていたものを一つずつすくい上げていって組み合わせて言葉にしてみて、それでも何か不明な点があることを点検して発見し、さらにその不明瞭な問題を多くの知識体系を基にしながら明らかにし、そうして自信をもって初めて人はここまでは「わかる」という理解をし、ここからは「わからない」という納得をして境界線を設けることができる。
「わかる」とは「わける」ことであり、どこまでが既知であり、どこからが未知であり、そしてここではないどこかには不知の世界があると予測し、そもそも矮小なる人間には認識すらできない不可知の世界があると全知の神々だけは知っているが、まるで神々の悪戯であるかのように一握りの人間だけが時折それを垣間見たり想像できたりして、その正体は詩人であり、その溜息は詩という形をとって私たちの世界に不意に投げ込まれていく。
形もなく通常感覚によって認識できない形而上のものを無理矢理に形而下にしていく者は、だから自身の詭弁に、姑息な論理に、信念に足をすくわれて、しかもそのことに気づくことはない。
そういう者を人は無知とみなし、無知に気づけずに責任を他者に転嫁する者は愚者と呼ばれる。
だから、何か問題があって「わからない」と述べる科学者や研究者の率直な言葉は、無知でもなんでもなく、真摯にこの世界の理を分別しようとしているまったき智者の至言であり金言なのであり、私たち全員に共有された考えるべき、考えざるをえない有益な問いかけの言葉なのである。
そしてさらに「わかる」とも「わからない」とも言わずにじっと一人で孤高に沈黙していく態度は、いつの日にか固く鎖された渾沌の扉に一本の指先が、やがて手が届き、そして一滴の真理を見出しうる可能性があるのだ。
徒らに言葉を発せずにじっと待つことができるのは、受身でもなんでもなく、一つの見識であり、知性の現れである。
アリーシャは利発な子だ。
カーティスとはまた違ったところで才能が開花するだろう。
いや、違うな。才能を新しく自分の中に生み出すだろう。花を咲かせるよりも種を探して植えることの方が今はいい。
この子が学べる限りは支援をしていこう。
しかし、こんな気立ての良くて向上心の高い子が悪役令嬢なんて不名誉なものに育ってしまうのが不思議でたまらない。
いったいどこで道を間違えたのだろうか。




