Kapitel 5 “der Unfall” Szene 1
「『ミサ・ソレムニス』などいかがですかな」
「はーい」
新調したエスニックカチューシャ、耳の付け根にどうもしっくりこない。
「んふーふっ、おじさんはいいひと、わるいひと、それともぼくをじゆうにしてくれるひとですか?」
「ほっほ、鋭い質問ですな」
「ぼくはね、さいかそうのにんげんなんですよ」
「ほっほ」
「でもね、ぼくのむねのうちはまだ、よごれきってはいないんですよ」
「左様ですか」
「おじさん、ねぇ、ぼくはなんさいにみえますか?」
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,
miserere nobis.
「唯一つ、私に申せる事があるとすれば、貴方は強い御方であり、澄み切った表情を浮かべるその胸中の深層には獰猛な獅子が住んでいる、と見受けられます」
「ふーん、おじさん、なかなかねんきのはいったひげをたくわえてますね。さわっていいですか?」
「エミール様、運転に支障が出てしまいます、私ので良ければ到着後切り取って差し上げますから。どうかベートーヴェンで我慢なさって下さい」
傾斜の大きい山道に入り、せわしなくギアを切り替える。
焦点の定まらないうつろな瞳、行動原理が定まらない少年をフロントミラーから見張り続ける。
どうにも速度が上がらない、これでは到着予定時刻に遅れてしまう。
「そんなつめたくてさみしいおじさんには……ふふっ、くすぐりのけいにしょす!!!!」
運転席の真後ろに移動しフロントミラーの死角に入ったエミール。
ガラ空きの脇腹に、まずは両中指をうねうねと、伸びきった爪で肋骨を撫でる。
「ふぅっ……や、やっ……い、悪戯は直ちにお止め下さいっ」
背筋を仰け反る強張った仕草を見せるものの、老練なハンドル捌きに乱れ無し。
「へぇ……おじさんさすがだね、ぼくみたいなけいけんちのあさいオトコノコじゃ、ものたりないかな……じゃぁつぎはゆびじゅっぽんで、いきおいよく、やっちゃう……」
このままでは確実に遅れてしまう……なにこんな悪戯など孫達と幾度もじゃれあってきた……車まで止めて叱責する程の事でも無い……。
「安全運転が第一なのです。五体満足の姿で、伯爵様にお会いしたくないのですか」
「おじさん……ふふっ、ぼくとあいのとうひこう、やってみませんか? うすよごれたオトコノコだけど、おじさんとなら……ぼく……」
「私は職務を全うするまでです。それに伯爵様に同じような事をすれば、チップも弾むでしょうな」
Dona nobis pacem.
「ふふっ……ぼくはおじさんがいーんですっ、キミにきめたっ☆」
長い耳たぶをぱくりと咥え、乱れた鼻息で鼓膜を愛撫する。
「はなあああああっっ!!」
「んむ~☆」
視界を見失った老執事はハンドルのコントロールを失い、目前に迫るガードレールを避けようとリアタイヤを滑らしドリフトを試みる。
コンマ数秒間、不可抗力の重力が車内を支配する。
甘美な誘惑を招いたエミールは、風通しの良い全開の窓から勢い良く半身を投げ出し、ぐにゃりと首元から叩き付けられ、ひび割れたアスファルトとエスニックカチューシャに褐色の鮮血を勢い良く滲ませていた。




