Kapitel 4 “das Schicksal” Szene 4
「『ミサ・ソレムニスなどいかかですかな』」
熟練の手付きで黒光りしたスティックを撫で回しながら、赤信号の間に装置を弄り、悦びに満ちた歌声が響き渡る。
「なかなか趣味の分かる御方ですね。貴方のお名前を聞いても宜しいでしょうか」
「いえいえ私のお名前など蜻蛉のようなもので、大した意味を持ち合わせておりません」
「吝嗇な方ですね。まぁ良いでしょう、詮索はしません」
「伯爵様は好事家の側面も持ち合わせております。話題には事欠かさぬ為、ヘルタ様が日夜研鑽された教養についても、きっと新しい価値が産まれる事でしょう」
「ふふ、過大なお言葉ですね」
Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.
Domine Deus, Rex coelestis! Deus Pater omnipotens!
「主の大いなる栄光に感謝致します、全知全能の神よ」
「ほっほ、オペラ談義にも加わって頂けそうですな。年老いた私には、会場まで足を運ぶ事すら難しくなりました」
「またまたご謙遜を。本当にそうでしたら運転手など務まらないでしょう、腰の痛みに耐え切れない」
「健康第一でございますよ。ところでヘルタ様、本当に宜しいのでしょうか」
「何がです、祖母の事でしょうか」
「貴方様の未来でございます。部下に調査を依頼した所、驚いた事に、クロアチアの名門シベニク大学から特待生としての入学が許可されておりました。国内の学徒でも正規の方法では難関中の難関の大学です。いやまして留学生として学費免除も受けながら、どうしてこちらの世界へと足を踏み入れたのか気になってしまったのです」
「そうですねぇ……」
右中指で眼鏡の縁を眉間に押し付ける。
「私は一介の運転手であり、労働者です。貴方様の身を案じ、道を引き返そうなどとは思いませぬ。ただ、あの伯爵様の下で働く覚悟は本物なのかとお尋ねしたいのです」
ソファーに深くもたれ掛かり、艶っぽい溜息を交えながら答える。
「本物かと聞かれたら、残念ながら偽物でしょうね。運転手さん、どうして覚悟が本物である必要があるんです。主のため私は働くんです、それで良いじゃないですか。一ヶ月で逃げるかもしれないし、数年後は僕が屋敷の主となっているかもしれない。貴方が今ここでシートの下からトカレフを持ち出して、僕を襲う権利だってあるんです。人が誰かの為に働いていますかね、大抵の人は自分の食欲と性欲を満たす為に働いているんだと思います」
顎をさすり、微笑をうかべながら答える。
「ヘルタ様、人は必ずしも小さなエゴに囚われて生きているのではありませんよ。電車の中でオギャアと泣きわめく赤ん坊と、それをあやす婦人がいたとしても、不快感を抱く人間の方が少ないでしょう。ある方は自身の経験を振り返り、またある人は無垢な瞳に癒され、共通意識が芽生えます。慈愛の心です。この国の若者がどうか正しい理念、原点に立ち返る事を願って止まないのです」
「僕は只の女装男子、ですよ」
牧家的な風景を眺めながら生返事を返す。
「では、ヘルタ様はどうしてそのような格好を」
「ライフ・イズ・バッド・ア・ドリーム。自分自身を好きになりたくて、いつのまにかこんな格好をする事で、内的欲求を満たしている。そんな錯覚に最近気付きましたね」
「左様でありますか」
地平線が広がる穀倉地帯を抜けると、旧時代の遺物を思わせる高級そうな別荘がちらほらと目に付く。
「もうすぐでございます」




