哀愁
男はいつも丘の上に立っていた。町を見下ろすためだ。家々は箱のように並び、人々は点のように動く。ここに立つと、世界は単純になり、悩みも縮小される気がした。
男は町で一番の成功者だった。財産も名声もあり、誰もが彼を見上げていた。だから彼は、人を見下ろす場所を求めたのだ。
毎夕、男は同じ時刻に丘へ登り、同じ景色を確認した。変化がないことを確かめる作業だった。もし何かが違っていれば、自分の価値が揺らぐような気がした。
ある日、丘の上に望遠鏡を持つ少年が現れた。少年は丘の下をじっと見ている。男は不快になった。見下ろす立場は自分だけであるべきだ。
男は少年に近づき、何を見ているのか尋ねた。少年は答えた。「貴方の見る景色です。いつも一人で立っていて、少し寂しそうだから」
男は言葉を失った。自分は世界を見下ろしていたつもりで、誰にも見られていないと思っていた。しかし実際には、哀れみの対象だったのだ。
その夜、男は丘に登らなかった。翌日も、その次の日も。町の人々は気づかなかった。誰かを見下ろす者が一人消えても、世界は何も変わらなかった。
男は町の中を歩き始めた。見上げる側の視線を初めて意識し、足取りは重かった。誰も彼に特別な注意を払わない。それが妙に心に響いた。人々は各自の生活に忙しく、成功者の不在など問題ではない。
数日後、男は丘を見上げた。そこには誰もいない。ただ風が吹き、草が揺れているだけだった。男はその静けさに安堵し、同時に取り返しのつかないものを失った気がした。見下ろすことで守っていた孤独が、今は足元にまとわりついていた。
彼は思った。高い場所に立てば強くなれると信じていた自分は、実は弱さを隠していただけなのだと。視線の高さは心の大きさを保証しない。あの少年の一言が、遅れて効く薬のように胸を締めつける。それでも男は前を向き、見上げる空の広さを受け入れることにした。丘はもう必要なかったが、そこから降りた自分は、以前より少しだけ人間に近づいていた。
夕暮れ、町に灯りがともる。男はその一つ一つを見つめ、かつて点にしか見えなかった人々の息遣いを想像した。見下ろさず、見上げもせず、同じ高さで世界を見ること。それが彼に残された、ささやかな救いだった。彼は静かに歩き出し、誰にも気づかれない未来へ溶け込んでいった。それで十分だと、初めて思えたのだった。丘は遠く、彼の背後で静かに沈んでいった。夜が深まっていく。




