現状では扇谷上杉連合が優位のようだが……小田原の大森氏も一枚岩ではないようだ
さて、足柄に水車を設置したり、椎茸の人工栽培を試したりなど、あれこれやっているうちに文明12年(1480年)になった。
今川龍王丸も数えで10歳になったので元服もそう遠くはなくなり、今川家は彼によって継承されるのはほぼ間違いないだろう。
扇谷上杉と山内上杉の闘いは上野国の白井城に滞在していた、越後国守護の上杉房定の長男である上杉定昌を白井城の旧城主である長尾景春が襲撃し自害させている。
これに憤慨した山内上杉顕定は兵を集めて現在の扇谷上杉の実質的な本拠地である河越城への攻撃を行おうとしているという。
で、俺もそれに参加することになりそうかというとどうもそうではないらしい。
現在小田原城などの西相模を抑えているのは駿河大森氏で、室町時代初期の大森頼春の代に鎌倉公方に仕え、上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げ、禅秀方であった土肥氏を滅ぼし、その勢力圏であった相模・伊豆に勢力を広げた。
応永10年(1403年)ごろに大森頼春の弟証実が箱根権現社(箱根神社)と箱根山金剛王院東福寺を管轄する箱根権現別当に就任して以来、代々箱根権現別当職は大森家が継承していた。
永享の乱では足利持氏方に属して幕府軍と戦い敗れるも、国人領主として勢力を保った。
しかし、享徳の乱以降の混乱期に大森憲頼・成頼と大森氏頼・実頼父子の二系統に分かれ対立し、長尾景春の乱では大森憲頼は長尾景春方について相模国平塚城に籠ったが、太田道灌に攻略され、子の成頼と共に箱根山中に逃亡し、太田道真・道灌の支援を受けた大森氏頼が新たな大森家当主、そして小田原城城主となったわけだ。
つまり大森氏と扇谷上杉家のつながりは古くも強くもないわけだ。
大森氏頼は太田道灌が暗殺された後では、扇谷上杉家の第一の重臣として家中において重きをなし、実蒔原の戦いでも活躍し、現状では河越城にも滞在しているのだが、太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正のそばにいることで彼が信用も安心もできない人物であると書き残したりもしている。
そしてそんな状態であることもあり大森憲頼は俺たちに当主復帰の助力を求めてきている。
「もともと大森家当主は兄である私であり弟に不当に奪われたにすぎませぬ」
「駿河における小鹿範満と同じだということですな」
「ええ、その通りです」
軍記物では北条早雲は大森藤頼へ進物を贈って友好関係を装い、油断した大森藤頼が北条早雲の箱根山中での鹿狩を許した事で、勢子に擬装した兵の奇襲を受け、小田原城を略取され追放されたといわれているが、実際は大森家の元当主である大森憲頼の手引きで大森藤頼に攻撃を仕掛けたと考えたほうがいいだろう。
「とはいえ現状では表立って小田原に兵を進めることはできませぬな」
「そうですか」
「急いては事を仕損じると申しますゆえ」
何より大森家の家督争いに介入するならば大義名分が必要だからな。




