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この頃の紙はバカ高いからかなり儲かるな、あと椎茸の人工栽培もやるか

 水車小屋を作らせたことで穀物の脱穀や製粉が楽になり、和紙の生産にもはずみがついた。


 ちなみにこの時代の紙の値段はかなり高く一束10帖の和紙5束が1900文とかだが、1帖は半紙20枚だから200枚で1900文、つまり一枚あたり9.5文、職人の日当が平均110文程度だから、おおよそ和紙10枚ちょっとくらいと同じ値段というわけだ。


 それだけ供給に対して需要が過剰であり、手間がかかっているということでも有るが、紙の材料そのものはそこまで高いわけでもないからい良い儲けの手段でも有ると思う。


「木の皮から作る紙がこんなに銭になるとはなぁ」


 大道寺重時が呆れたように言ったが商売とはそういうものだ。


「紙は記録を残すために重要だからな」


 まあ、武士や地侍の多くは荘園という農場経営者なので何らかの材料をもとに付加価値をつけて高く売るという概念はあんまりないのだが。


 だからこそこの土地で和紙や荏胡麻油、竹細工などを作って売るということで儲けが出るのでは有るのだが。


 そして風魔小太郎が聞いてきた。


「殿、我々の住む足柄でもこれをやっても構わないでしょうか?」


 足柄のあたりにも河は有るし和紙を作るのは無論できるだろうな。


「ああ、もちろん構わん。

 何なら紙漉き用の水車小屋を作る手伝いをするために人を送るか」


「そうしていただければとても助かりまする」


「では手配するか」


 風魔は諜報員というより本来は破壊工作員的な側面が強かったはずだが、情報そのものの価値というものは理解している一族だと思う。


 そして風魔が和紙を作りそれを売りに行くことで各地における情報をより入手しやくなるなら俺としても助かるわけだ。


 それと秋になったのできのこ狩りをして、伊豆でもしいたけなどの人工栽培に手を出した。


 寛正6年(1465年)に伊豆の円城寺から、当時室町幕府の八代将軍であった足利義政に干し椎茸が献上されたことが記されているように、伊豆はもともと椎茸の特産地でも有り、人工栽培の発祥地と言われる場所の一つでもあるのだが、天然だとどうしても数に限りがでてくるからな。


 ちなみに椎茸は安いというイメージが強いがそうなったのは昭和30年(1955年)頃からで、明治の頃は椎茸の値段は松茸の10倍以上したりしていたし、この時代であれば松茸は手軽に取れるキノコで逆に椎茸は超高級食材なのだな。


 米の栽培に適さない土地が多いとは言え駿河や伊豆も完全な不毛な土地というわけではないから今はできることをやっていこう。


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― 新着の感想 ―
[一言] 椎茸の量産化の目処が付いても山の富栄養化がガス普及以降並みに進まないと松茸の価格が上がる事は無さそうです。 あと、差別化を図る為にも濡れても破れない井戸に投げ込んでも乾けばまた使える江戸時代…
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