扇谷上杉と山内上杉の戦いが始まったか
さて、あれこれやっているうちに文明11年(1479年)になった。
弟の伊勢弥二郎は元服した後、今まで幕府に出仕したりなどをして京で色々叩き込まれていたらしいが、15歳になったことで正式に一人前と認められたのかこちらへやってきて俺の下で働くことになった。
「兄上これよりは兄上の下で働くことになりましたのでよろしく願いいたします」
「うむ、こちらこそよろしく頼むぞ」
三島や沼津の治水に関して現状は蛇行している河川の流れをなるべく直線的にして流路が変わりにくくしつつ、河の合流地点の対岸に高岩を築いてそこの対岸が洪水被害に合いにくい状況にしているとこだが、農地改革やら治水やらには時間がかかるので長い目で見ていくしかないと思う。
労働の扶持米として与えている赤米でも稗や麦よりは美味いし現状は農閑期でもあることから、賦役に参加している者たちには特に不満はないようだ。
この時代は日の出から日の入りまでしか働けないからそんなに長時間の労働にもならないし、そもそも労役は税の一種として無償で行われるのが普通だしな。
生まれた子どもたちも無事に育っていて、数え2歳(実際はようやく1歳とちょっと)になった長男もよちよち歩きで少しずつ歩けるようになり可愛いことこの上ない。
「ととしゃ!」
「うむ、千代丸よ、こんごも無事健やかに育つのだぞ」
「あー!」
まあまだ意思の疎通自体は大してできないけどな。
それから前将軍である足利義政は正式に今川龍王丸の家督と遠江・駿河守護継承を認めて本領を安堵する内書を出してくれた。
龍王丸の元服まで後4年ほどはあるが、正式に元将軍の書類があるのとないのとでは説得力も違うからな。
一方、相模及び武蔵南部を拠点とする扇谷上杉定正と関東管領山内上杉顕定の対立はますます深まっている。
そんな中で扇谷家の重臣の一家である相模三浦氏の家中では当主で扇谷上杉定正の実兄である三浦高救が養父三浦時高と養子縁組をしていた実子の三浦義同に家督を譲り、これに激怒した三浦時高によって、義同ともども追放されてしまったことで混乱している。
そして上杉顕定と実父の越後守護上杉房定、実兄の上杉定昌らは扇谷上杉家に通じた長尾房清を攻めて、そのまま一気に上杉定正の本拠である相模の糟谷館を制圧しようとしているらしい。
ややこしいのは長尾景春の乱で太田道灌が得た土地はもともと山内上杉の土地だったわけなので山内上杉としても当然自分の土地だと思っているが、扇谷上杉は長尾景春の乱で山内上杉が失った土地を得ただけだと思ってることなんだが。
「で、俺には上杉定正の救援要請が来ているわけだ」
糟谷館は現代の神奈川県伊勢原市であるからここが落ちるとそのまま西に向かってくる可能性は少なくはない。
「まあ、救援は出すべきだろうな。
下手すれば三島の民まで巻き添えになりかねない」
大道寺重時はそういうがたしかにそのとおりだろう。
「扇谷定正殿は河越にいるはずですが、あちらは知らないようですな」
風魔小太郎がそういうので俺もうなずく。
「いないのを知って本拠を落とすつもりなのか、そうでなくいないことを知らないのかが問題だな。
どちらにしても兵は500から1000もだせば十分だとは思うが」
弥二郎が首を傾げていった。
「援軍をして戦ったらなんかくれるのかな?」
まあ普通なら戦の手伝いをするなら何らかの利益がなきゃやらないのだが、
「それは正直な所わからんな。
陣所やそこでの食い物くらいは流石にくれるとは思うが」
そこで風魔小太郎が言う。
「それに相模の情報を手に入れるよい機会でもございますな」
「まあたしかにな」
実際の所上杉家の内部はかなりボロボロになっているし、いずれは相模や武蔵を切り取りに行くことにはなるだろうがそれはすぐのことではない。
だが事前に様々な情報を手に入れておくのは良いことでもあろう。




