日本全国における現状をまとめてみようか
さて、室町幕府は平家や鎌倉幕府江戸幕府と違いはっきりいつ滅亡したといえない微妙な政権であったりする。
平家の滅亡は平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)に長門国赤間関壇ノ浦で行われた戦闘での敗北だし、鎌倉幕府の滅亡は元弘3/正慶2年(1333年)の六波羅探題、鎌倉、鎮西探題の陥落による北条家の滅亡であるし、江戸幕府の滅亡は慶応3年(1867年)の鳥羽・伏見の戦いののちの(慶応4年/明治元年)の勝海舟と江戸城明け渡しであるといえる。
しかし室町幕府の滅亡は一般的には、元亀4年(1573年)に織田信長が15代将軍義昭を京都から追放した時点とするのが一般的であるが、これはあくまでも現代人が見てそう区切るのが適切だと考えているだけで、足利義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、天正16年(1588年)に関白豊臣秀吉に従って参内して、忠誠を誓うまで征夷大将軍であった。
そもそも室町幕府は三代目足利義満の時代は一応全国的な支配力を持っていたといっていいかどうか? という程度の政権であり12代将軍足利義晴や13代将軍義輝は近江国に追放されていた期間もあり、応仁の乱以降は精々山城の中での権威ぐらいしか持たなかった政権でもある。
そして応仁の乱において明確な勝者がいないのも結局は朝廷も将軍も明確な権力を持っていなかったというのがあったと思う。
そして将軍足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量」と述べ、幕府による土地争いの仲裁を拒否したことで室町幕府の存在価値はほぼ失われたといってもよかった。
そんなこともあって守護が守護代に土地を奪われ、守護が明確に任命されなくなって混沌としているのが現状なわけだが全国の状況を一度整理してみよう。
まず九州では豊後・筑後守護の大友政親は大内教弘の娘を妻にしている関係で西軍に所属し京へ出兵していた。
肥前の少弐教頼は嘉吉の乱後に、首謀者である赤松満祐の弟で九州に逃亡してきた則繁を隠匿し李氏朝鮮への脱出にも協力したことから、幕府よりの追討を受ける身になったため対馬に逃亡したが、舅である宗貞盛が上洛し管領・細川勝元に教頼の窮状を訴えると共に教頼の赦免を請願し、赦免をうけて肥前国に戻ったのち、大内教弘や九州探題の渋川教直と何度も戦うも連敗。
しかし応仁の乱が勃発すると東軍細川勝元に通じ大宰府を攻めるも敗北自刃した。
家督は弟の少弐政資が継承し筑前、豊前国を奪回したが、大陸や朝鮮半島との貿易で対立して対馬国の宗貞国が離反、更に大内政弘が再び北九州への侵攻を開始すると劣勢となっている。
肥後の菊池重朝も東軍に属して筑後国などへの勢力拡大を目論んだが結局は失敗に終わる。
薩摩大隅守護の島津立久 は日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。
応仁の乱では名目上は東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であって、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していたが、これは応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためであって大きな混乱は起こっていない。
しかし文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、噴火による降灰が農地に多大な被害を与えたために、その後の領国経営に苦労し、島津の分家どうしの争いを誘発することになる。
中国地方は大内政弘が周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見を支配下においたが、大内政弘の上洛に際しての留守中に大内教幸の反乱を鎮めた陶弘護が領国を掌握し、政弘と弘護は対立を深めているらしい。
出雲では佐々木氏の傍流にあたる京極氏の分家で出雲守護代の尼子清定が山名氏の出雲侵入を撃退したが、それにより独立の動きを見せるようになる。
西軍総大将であった山名宗全の後継者である山名政豊は赤松政則の支援で頻発した分家の領国の反乱鎮圧のため山陰地方に下向し、因幡守護山名豊時と伯耆守護山名政之を助けて領国を安定させたが、東軍についた山名是豊が失態を演じて追放された後は備後や安芸の国人は離反していき、その勢力を大きく縮小している。
播磨・美作・備前の赤松政則も分家の反乱に悩まされ、中央政界における立場も将軍義尚と実権を握る日野富子とその父で大御所の義政の対立により義政の寵臣だった事が響いて失脚している。
四国・淡路は細川一族が抑えているが土佐や伊予の支配については盤石とは言い難いものになりつつあるようだ。
丹後の一色と若狭の武田あいかわらず争っているが、摂津・和泉・丹波は細川一族が抑えていて、畠山義就は河内と大和をおさえ、紀伊の畠山政長との闘いは続いている。
越前は朝倉孝景が、それを奪還しようとする斯波義寛、甲斐敏光らと交戦中だが朝倉が有利な状況のようだ。
北近江では京極騒乱と呼ばれるお家騒動が勃発しており、南近江の六角高頼は足場を固めつつある。
美濃では斎藤妙椿が多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。
尾張では斯波義廉と尾張守護代の織田敏広が支持勢力を全て失って織田敏定が新たな守護代に任じられ織田敏定の清洲織田氏(大和守家)が本家筋である織田敏広の岩倉織田氏(伊勢守家)を凌ぐ勢力を持つことに成る。
伊勢は群雄割拠状態だな。
飛騨では京極被官の三木重頼と山科家の代官である姉小路勝言、姉小路基綱
達が争っている。
加賀では富樫政親が弟の幸千代と家督をめぐって争って、真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ幸千代に敗れて加賀を追われたが、浄土真宗本願寺派門徒などの援助などを受けて奪回を狙っている。
越中は畠山政長の守護代である神保長誠が能登守護である畠山義統の攻撃をよく防いでいた。
信濃は小笠原政秀や小笠原家長と諏訪大社上社の諏訪氏が小笠原清宗と諏訪大社下社金刺氏の間で内乱が続いている。
三河では細川と一色が撤退したことで吉良氏の内輪もめに乗じて松平氏が勢力をのばしている。
遠江・駿河は今川の支配下にあり伊豆は俺の支配下。
相模と武蔵南部は扇谷上杉が、越後・上野・武蔵北部は山内上杉が抑えていて、下総は千葉氏、安房は里見が抑えているが、上総は国人が群雄割拠状態。
下野や常陸も宇都宮や佐竹と言った有力なものはいるが国人が入り乱れているな。
奥羽地方は、関東以西の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない状態であるが、双方ともに斯波氏の分家である出羽探題の最上と陸奥探題の大崎が筆頭である。
伊達成宗も台頭してきているところだけど。
とまあこんな所だ。




