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功績をあげすぎた太田道灌が暗殺されたか

さて、長尾景信が反乱をおこし、武蔵や相模の国人の多くは関東管領上杉家に背いて長尾景春に同調して山内上杉顕定と扇谷上杉定正は上野へ逃れることとなった。


 鎌倉幕府の有力御家人だった相模や武蔵の国人の旧領は上杉とそれに従う太田氏に奪われていたりしたことも原因だ。


 しかし太田道灌の縦横無尽の活躍により、相模・武蔵だけでなく下総・上総まで征圧して長尾景春を追い詰めて反乱は鎮圧され、文明9年(1477年)に足利成氏と両上杉家との間で和議が成立した。


 そして足利成氏は幕府から赦免され長年続いた享徳の乱はようやく収まった。


 この戦いで獅子奮迅の活躍した太田道灌の名声は大きく上がったが、それは相対的に上杉顕定や上杉定正の名を落とすことでもあり両者にとっては危険なことでもあった。


 しかしこの和睦は山内家と越後上杉家が主導したものであり、扇谷上杉定正は不満であったし、太田道灌も自分や戦った武士達に十分な恩賞がないと不満を漏らすことになった。


 しかし太田道灌は、長尾景春方についた国人の所領を自らの家臣たちに与えたことで、長尾景春はもともと山内上杉氏に属していたことから、山内上杉氏と長尾氏の勢力は衰え、扇谷上杉氏の勢力が伸長し道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。


 結果として上杉定正は太田道灌の意見を用いないなど反感を持っていたが彼が長尾景春のいとこであったこともあったし、太田道灌が江戸城と河越城の補修を行ったことに対して家中の者が謀反を考えているのだと讒言した、力が強くなりすぎた道灌が下克上で自身にとって代わりかねないと恐れた扇谷定正が自発的に暗殺したとも、扇谷家の力を弱めるための山内顕定の画策に扇谷定正が乗ってしまったとも言われるが、いずれにせよ彼は扇谷上杉定正の糟屋館に招かれ、入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。


「やれやれ、おそらくこれでまた関東が荒れるな」


 俺がそう言うと大道寺重時もうなずいた。


「反乱を鎮圧した太田道灌がいなくなりゃ、また上杉に背こうとする国人連中も出てくるだろうしな」


 伊豆と駿河を抑えたころには長尾景春の乱は鎮圧されて、足利成氏と中央との和睦も成立したので、関東軍の西進という事態は起こる可能性はほぼなくなったが、権威を落とした山内上杉が扇谷上杉を蹴落とそうとしても、扇谷上杉は当然それに抵抗はするだろうしな。


 まあ越前の朝倉や美濃の斎藤などの動きを見れば軍事的な才能のある守護代が守護を蹴落として権力の座につくというのは現実に起きていることでもあるから、扇谷上杉定正が心配になる気持ちもわからんでもないが。


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