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俺が命じられているのは伊豆の奪取だが、今川分家は遠江の奪還を優先してほしいらしい

 さて、足柄の風魔を麾下に加えることは成功して駿河国内においてほぼ全面的に勢力の掌握は出来たと思う。


 ここで問題になってきたのが関口氏、入野氏、木田氏など今川庶流の国人は伊豆よりも遠江奪還を優先してほしいと言ってきたことだ。


「そもそも駿河と遠江はわれわれが今川中務大輔(範氏)より代々150年にわたって統治していた場所。

 それを斯波ごときに奪われたのは誠に口惜しいのです」


「ふむ、その気持は良くわかりますがな」


 今川に代わって遠江守護となった斯波義重は足利義満の大のお気に入りだったのに比べて、九州探題も努めた今川了俊や今川仲秋(いまがわなかあき)は足利義満から疎んじられていたこともあるが、斯波義重の母親が吉良氏の出身であったことも遠江を今川氏が失った理由でもあったろう。


「しかしながら斯波武衛(義寛)殿は公方より正式に守護に任じられていますからな。

 勝手に遠江を切り取ることは許されますまい」


「その公方様は諸国の御沙汰は毎事力法量と申されています」


「あ、ああ、まあ確かにそうなんだけどな」


 今川義忠が西軍の斯波義廉に代わって派遣された東軍の斯波義寛とも戦い続けたのは遠江は斯波に奪われたものと考えており遠江奪還は今川氏の悲願になっていたからではあろうし、史実において遠江への侵攻の兵を率いたのは北条早雲で、明応3年(1494年)頃には、遠江を勢力下に収め、更に三河や甲斐にも出兵している。


 しかし永正3年(1506年)には北条早雲は三河へ侵攻して敗れると、今川は北条早雲を用いることがなくなり以後は関東進出に専念することになった。


 最終的には今川氏親は足利義稙によって正式に遠江守護となり斯波義達を合戦で捕らえて尾張東部まで勢力を伸ばし、息子の今川義元とともに今川の最盛期を築いたが桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後は滅亡の道を歩むことになるんだ。


 斯波義寛の方は現在東軍へ寝返って朝倉に奪われた越前奪還に目を向けていて朝倉孝景と戦っているのだが、旗色は良くないのが実情だから遠江を奪おうと思えば出来ないことはないのだが。


「遠江へ兵を出すならばまずはこちらを遠江守護に任じてもらうのが先だろうな」


「そうですか……」


 面倒ではあるが大義名分を整えるのは大事なんだよな。

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