伊豆の堀越公方対策は焦らず行くか、まずは風魔を雇い入れておくかね
さて、堀越公方の執事であった上杉政憲という後ろ盾と国人の支持を失った小鹿範満の排除はわりとスムーズに行え、それにより駿河国の全体の掌握も出来た。
次は伊豆の堀越公方なわけだが、史実における状況とはだいぶ違うので少し頭が痛い。
史実で北条早雲が足利茶々丸を討伐することになったのは、そもそも堀越公方足利政知の嫡男茶々丸が素行不良の廉で父の足利政知の命により土牢に軟禁され、代わりに弟の潤童子が後嗣とされ、父の死後は継母の円満院に虐待されるも、牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた異母弟の潤童子と継母を殺して、事実上の堀越公方の後継者となったことによる。
潤童子の同母兄は叔父義政の意向で天龍寺香厳院の後継者に定められ、法名を清晃と名乗っていたが従弟の9代将軍・足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去すると足利義視の子である足利義材が10代将軍に迎えられるも、明応2年(1493年)4月の明応の政変で管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって足利義材は追放され、清晃が将軍足利義澄として擁立された。
そして足利義澄は実母と兄の敵討ちを北条早雲へ命じ、北条早雲は伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃した。
また足利茶々丸は、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を斬殺するなどしたことから、旧臣の支持を失っていたし、そもそも古河公方足利成氏に対抗するための戦で足利政知の時代から民は重税に喘ぎ、国人衆も堀越公方に反発していたこともあって、鈴木繁宗や松下三郎右衛門尉、大見の三人衆ら伊豆の豪族が北条早雲に従ったことで、足利茶々丸は伊豆国から逃げ出す事となり上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたが明応7年(1498年)に甲斐国で捕捉されて、自害することになる。
異母兄というのは同母兄に比べ他人にかなり近く母や弟の敵でもあったし、足利茶々丸には中央に従う意思はサラサラなかっただろうから北条早雲の伊豆討ち入りは将軍の命令であって別に下剋上でもなんでも無いわけだ。
その後の扇谷上杉の支配下にあった小田原城奪取も足利義澄・細川政元・今川氏親・扇谷上杉定正・北条早雲の陣営と、足利義稙・大内政弘・足利茶々丸・武田信縄・山内上杉顕定の陣営、つまりは明応の政変による対立構図の中での将軍の指示による軍事行動で、小田原城城主である大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものであったりする。
基本的にその頃までの北条早雲は将軍の指示で動いていたに過ぎなかったんだな。
でまあ今回の堀越公方討伐に関して言えば将軍足利義尚当人の意向というよりも、日野兄妹や細川政元の意向のほうが強いのだろう。
とは言え足利義政にとっても異母兄弟でしか無い堀越公方足利政知に対して親愛の情などはあまりないだろうし、結局関東の騒乱鎮圧にほとんど何も役に立たなかった彼を重要視する必然性もないのだろうけど、そもそもそうなった理由が足利義政自身にあるのではあるのが。
それはそうとしてそろそろ手足となって動く存在としての風魔を取り込んでいきたい。
風魔は相模国足柄下郡を根拠地とした忍者集団として有名だが、どちらかと言うと諜報よりも破壊工作などがメインだな。
相模国足柄下郡というのはいわゆる”祀ろわぬもの”すなわち中央朝廷へ帰順しないものの住む場所だがそうなる理由は火山灰土によって農業を行うのが難しく、狩猟や採取、山賊などにより生計を立てざるを得なかったからであり、また彼らは独特の馬術にも通じていたという。
そしてそういった立場にあるからこそ彼ら風魔は重宝された。
なにせ箱根あたりの山道を縦横無尽に抜けることが出来るというのは強みだからな。
「伊豆の豪族の懐柔とともに足柄の風魔もこちらの味方につけておくべきだな」
俺がそう言うと大道寺重時は首を傾げた。
「風魔と言うと山賊追い剥ぎのたぐいではないのか?」
「だからこそ蕎麦を使って取り込んでいくんだよ」
「ああ、蕎麦ならば足柄あたりでも栽培できるか」
というわけで俺たちは蕎麦で風魔の胃袋を掴むべく更にうまいそばの開発に勤しむのであった。




