長尾景春が反乱をおこしたせいで関東がめちゃくちゃになったか
五十子陣において総大将を努めていた山内家の家宰である長尾景信は6月23日、五十子陣において病死し、続いて扇谷上杉家の上杉政真が11月24日に五十子での攻防戦で古河軍によって討たれて関東の情勢が怪しくなった。
長尾景信が死去すると、白井長尾家の力を恐れた上杉顕定は景信の子である景春を登用せず弟の忠景を家宰としたが、それにより家宰を継げなかった景信の子の長尾景春は上杉顕定を恨んで足利成氏方に寝返って、文明6年(1474年)に長尾景春は武蔵国鉢形城に立て籠もり、古河公足利成氏と結び挙兵した。
このとき長尾景春は従兄弟である大田道灌に謀反に加わるよう誘ったが、道灌はこれを断り、主君である扇谷定正と父の大田道真もいる五十子の陣に赴き関東管領の山内顕定へ、長尾景春を懐柔するために長尾忠景を一旦退けるよう進言したが、山内顕定は受け入れなかった。
さらに次善の策として長尾景春を武蔵国守護代につけることを提案したが、これも却下された。
それではと直ちに長尾景春を討つよう進言するが、山内顕定はこれも受け入れなかった。
そして長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内上杉顕定、扇谷上杉定正は大敗を喫して敗走し、古河公足利成氏と長尾景春に味方する国人が続出して下総・上総・下野・常陸以外にも武蔵や相模で大半の国人が離反したことで、上杉氏は大変な危機に陥った。
しかし、太田道灌は兵を動かして長尾景春方の相模の溝呂木城と小磯城を速攻で攻略、武蔵の石神井城も落し、用土原の戦いで長尾景春を破り、鉢形城を囲んだが古河公方足利成氏が出陣したため撤退して、早期に景春を討つ好機を逃し、結果的に古河公方足利成氏の勢力は大きく伸長した。
これにより上杉氏と古河公方の間で和解の機運が盛り上がると、上杉政憲はこれを受けて堀越公方足利政知に戦闘継続の困難を唱えて和議の受け入れを迫り、これによって堀越公方の支配権は伊豆一国に限定される事になったため本来の関東を抑えるという役割をほぼ喪失した。
更に足利政知が問題児である嫡男の茶々丸を廃嫡しようとした際に、これを強く諌めた事に激怒し、遂に上杉政憲は自害を命じられ切腹して果て、足利政知は長男の茶々丸を廃嫡して次男の清晃を嫡子として擁立した。
これには足利義政のみならず日野勝光や細川政元も危機感をいだき、俺に事態の収拾を図るように命じてきたのだった。
「まずは東駿河と伊豆を制圧し古河公方足利成の東海道西進を阻止せよか」
要は小鹿範満と足利政知を排除して俺が東海道の要衝である箱根を最低限抑え、足利成氏の東海道への侵攻を阻止しろってことだよな。
こういったことに備えて俺はある程度兵を雇って、槍を職人に打たせ、訓練を施しているが。
言うだけなら簡単だが、やる方は大変なんだけどな。
だが、名目上は将軍の被官である俺は命令ならば言われたことをやらなきゃならないのがつらいところだな。




