市の上がりを武力で掠め取られないためにも傭兵を雇って訓練もしておかないとな
さて、日用品の六斎市を開き、食料品は毎日やり取りできる見世棚が出来上がると市場税も増え、小川湊の津料や遊郭からの運上金もかなり入るようになってきた。
入ってきた金を使ってそれらをさらに整備し、公正で安全な取引を出来るようにすればまた人が集まってくるという好循環が得られるのだな。
しかし、金が集まってくればそれを奪おうとするやつがでてきてもおかしくない。
特に隣の遠江の斯波や伊豆の堀越公方から見れば、俺たちは目障りな存在だろうしな。
悴者要するに流浪民達の傭兵は応仁の乱の京都市街での争いが収まったあとは盗賊になるものと守護にそのまま雇われて各地に散らばって行った者がいるが、関東では応仁の乱に直接参加していないので、一族郎党による個人戦が未だ主流なのだが、関東で一番最初に”足軽戦法”と呼ばれる戦術を使ったのは太田道灌だと言われる。
これは山内上杉と扇谷上杉の兵力差を埋めるために考えたと言われるが実際のところは、応仁の乱で一度上洛してから駿河に戻ってきた今川義忠のやり方を真似たものでもあると思う。
太田道灌は寛正6年(1465年)に上洛して将軍足利義政に関東静謐の策を言上したとされるがこのときは応仁の乱の前だからそのときにはまだ悴者の存在を知らない可能性が高いと思う。
駿河は農地が少なく農業的に貧しいから、尾張や遠江を抑える斯波と渡り合うには金で雇い入れる悴者の存在は必要だったろう。
もっとも道灌の軍は収穫期を考慮してか8月、9月には、一度も出撃していないので、道灌の足軽は、悴者を雇うのではなく平将門と同様の農民を動員した伴類で兵農両立の軍団であった可能性が高いが。
「やはり悴者を一時雇用ではなく永続契約して抱えておくべきか。
市の安全を守るためにも、斯波や堀越公方のちょっかいを避けるためにも、兵数を増やさなばならんよな」
俺がそう言うと大道寺重時が頷いた。
「そうだな。
京や大阪では細川や山名・大内の兵をある程度利用できたが今はそれは出来ぬし、自らで兵を揃えるしかあるまい」
「うむ、槍を一斉に突き出したり、長槍を振るったり、弓矢の練習をさせたり、印地打ちを行わせるのが良かろうか」
「ああ、基本的には荏原荘でやっていたことをここでもやればいいと思うぞ」
なんだかんだで荏原荘でやってきたことは色々役に立っているんだよな。
「まあその前に槍とかを作れる職人を大阪から呼ばないと駄目だと思うけどな」
「あ、そりゃそうだな」
この時代はまだ薙刀や長巻が主流で槍はまだあんまり普及してないから、上方から職人を呼ばんと作れるやつがいないのを忘れていたぜ。




