姉上に子どもが生まれたが、今川義忠が討ち死にしたか
さて、昨年に比べれば平和な雰囲気の中で年始の宮廷行事はつつがなく行われた。
「今年は平和で何よりですなぁ」
「まったくですなぁ」
とは言え実際は近江・美濃・伊勢・越前より東ではまだまだ戦火は燃え盛っているのであるが。
そして俺の姉である北川殿から嫡子となる龍王丸が生まれたと言う文も届いたので、まずはめでたいと言っていいだろう。
姉上が今川義忠のもとに嫁いだのが応仁2年(1468年)なので結構時間がかかったとも言えるけど。
当時は、細川勝元からの要請で尾張と遠江の西軍の斯波義廉の分国を撹乱すべく今川義忠は駿河へ帰国したが、その後も積極的に遠江への進出を図り、斯波氏やその被官の国人と戦っているようだ。
しかし、美濃国守護代格の斎藤妙椿から攻撃された東軍の三河国守護である細川成之を支援するため、将軍の命により三河へも出陣したが、兵糧用として将軍から預けられた所領を巡って、同じ東軍の尾張・遠江守護となった斯波義良及び、三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人である巨海氏、狩野氏とも対立して、これを滅ぼしてしまったため、同じ東軍の斯波義良、細川成之とも敵対することになったようだ。
もっとも細川と山名、細川と大内、赤松と山名、武田と一色と言った畿内から西日本にかけての主要な大名が和睦を結んでいるのですでに東軍西軍を分ける意味はあまりないのだが。
更に将軍足利義政が斯波義廉の重臣である甲斐敏光を越前の朝倉孝景同様に西軍から寝返らせるために、彼を遠江守護代として任じてしまったから、同じ東軍ながら、遠江から斯波氏を締め出したい今川義忠と斯波義良の関係は一層悪化した。
斎藤妙椿がかなりしぶとく戦い続けているから、それをなんとかしたい将軍足利義政の気持ちはわからないでもないんだが……もしかすると斯波と今川の勢力も削ぎたいだけかもしれない。
そしてとうとう最悪の事態が起こった。
斯波義良に通じて今川義忠から背いた遠江の国人の横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討伐すべく、500騎を率いて出陣した今川義忠は両人を討ったものの、その帰途で横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われ、流れ矢に当たって討ち死したのだ。
「こいつはまずいことになったな」
大道寺重時も重々しく頷いた。
「お前の姉上も大変なことになるな」
「ああ、だがそれ以上に行動が問題なんだよ」
幕府から任じられた守護の斯波義良に従った横地四郎兵衛と勝間田修理亮を攻撃して討たれた今川義忠の方が幕府に反抗した謀叛人という事になってしまう可能性があるのだ。
そして龍王丸はまだ生まれたばかりだ。
しかし彼は父である今川義忠の幕府への反逆行為を咎められて生母である北川殿ともども討たれる可能性すらある。
そして実際に今川家では庶家にあたる小鹿範頼と堀越公方の執事である上杉政憲の娘との間に生まれた小鹿範満の今川の家督継承を三浦・朝比奈・庵原氏が支持し、龍王丸を擁する瀬名・関口・新野氏らの二派に分かれての抗争が始まったことで、龍王丸とその母の北川殿は小川郷の長谷川政宣の館へ逃れることになった。
そして、範満支持派と龍王丸派が数度の合戦に及ぶ内乱状態となってしまい、この内乱に堀越公方である足利政知が介入し、上杉憲政を大将とする三百騎を派遣、また範満と縁がある扇谷上杉氏は太田道灌を代官として同じく三百騎を派遣した。
これに対して足利義政は、今川氏の嫡流である龍王丸の討伐までは考えていなかったものの、今川義忠死去の経緯により関東管領の力が駿河に及ぶことを警戒し、龍王丸の叔父に当たる俺を駿河に派遣することに決めたようだ。
この時点の東国の情勢は、南近江の六角と美濃大和の土岐・斉藤はまだ将軍と敵対中、尾張と遠江の斯波はお家騒動中、三河の吉良もお家騒動中なのでここで関東方に駿河を抑えられると、京まで一気に関東の軍に攻められる可能性があるからな。
「細川と山名、細川と大内を和解させたそなたならば、今川家の内乱を収め、上杉政憲や大田道灌を駿河から撤兵させることもできよう。
駿河に下向し駿河守護代として龍王丸の後見人として駿河を安定させよ」
「かしこまりました」
ちなみに朝廷からは駿河守の官位を与えられ、俺が京や大阪でやっていたことは、養父である伊勢貞道及びその被官のものに引き継がれることになった。
そして小鹿範満に当面は当主を代行させるが、龍王丸が成人した後の家督継承を承認させるための将軍の御内書を得て俺は駿河へ下向することになったのだ。




