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明への貿易に使う輸出品の内容に関して幕府や細川・大内に助言をしてみたよ

 さて、河内と紀伊で争ってる畠山やその争いに巻き込まれた堺の状況はさておいて、畿内もある程度は落ち着いてきたので室町幕府の重要な財源である日明貿易の輸出品目の提案をしておこうかと思う。


 もともと日明貿易は3代将軍の足利義満がはじめた。


 とは言えそれはすぐさまうまく行ったわけではなく、当初は南朝の征西大将軍であり九州肥後国に勢力を持っていた懐良親王(かねながしんのう)が、すでに明から「日本国王良懐」として承認されていたので相手にされなかった。


 しかし、九州探題今川貞世が南朝方の中心となっていた菊池武朝・阿蘇惟武ら南朝勢力を打ち取り、懐良親王や名和顕興、島津氏久を降伏させ南北朝を合一させることに成功。


 義満は義持に家督を譲って隠居したが、皇族扱いの「日本国准三后源道義」として天皇の臣下ではなく、皇族として「日本国王」として冊封されたことで明との貿易が開始された。


 建文3年(1401年)から永楽8年(1410年)まで8回行われたが、室町幕府の将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰るという建前が朝廷では問題となり、義満の死後4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは貿易を一時停止した。


 本来朝貢は義務だが、こうやって内輪もめで止まることもよくある。


 しかし6代将軍足利義教時代の1432年(永享4年)には幕府の財政強化のために復活。


 この頃になると寺院の船も多数出るようになり、宝徳3年(1451年)には9隻と船数が増加、人数、貿易品ともに増加していったことで、明はこれを制限する政策に転じたが、この時の貿易船は、これまでの相場で言えば21万7,732貫ほどになる商品を積んで行ったのだが、買取相場が大きく下がって5万118貫文にしかならなかった。


 特に硫黄の相場が大暴落し、それまで最高では一斤500貫文だったものが、25文にしかならず硫黄をそのまま日本に持ち帰ったと言われる。


 そして六代将軍義教の時代には一振10貫文だった日本刀も一振3貫文まで値段が下がっていた。


 これは日本刀が数打物の粗悪品になってしまったからでもあるが。


 以後は10年1貢、船数3、人数300までと定められ遣明船は幕府船、細川船、大内船の3隻となったのだが、応仁の乱でそれどころではなくようやく船を出せるようになったところだ。


 朝貢貿易は皇帝と臣下の王の朝貢と下賜であるため献上したものよりも遥かに価値あるものが下賜され、その代わり倭寇の取締義務などを負うことになったわけだが明に頭を下げないといけない代わりにめちゃくちゃ儲かるのだ。


 日本からの輸出品はまず日本刀で、日明貿易における日本側の主要な輸出品の一つであった。


 日本刀は室町時代では一貫文の刀剣が明では十貫文で売れた。


 中国では鋳造で刀剣を作ることが多いため、あまり斬れず、日本刀はその切れ味から武器としても重宝されたが工芸品、美術品としての価値もあったのだ。


 しかし段々と輸出量が増えると値崩れしていったのだが、現状では十分利鞘の稼げる交易品である。


 その他は金、銅、馬、硫黄、瑪瑙、屏風、扇、漆器、蒔絵などで輸入品は絹織物、生糸、銅銭、陶磁器、書籍、水墨画、漢方薬、砂糖など。


 さらに従属国から宗主国への朝貢という形態なので、関税もなく滞在費などの費用も明が負担していた。


 明などの中国歴代王朝がそうまでするのは単順に軍事費を負担するより安く済むからとそれだけの経済力を有していたこと、中華思想によるものなどだな。


 銅は国内よりも非常に高値で明に輸出されたが、この理由としては、中国の銅の不足の他に、日本の銅には金や銀が少なからず含有されていて、当時の日本にこれを分離抽出する技術は無かったが、明はそれを持っていたため、銅にしては高いが銀にしては安いという値段で引き取られていたのである。


「なるべくなら再生産の可能な物ものを輸出したほうがいいんだよな」


 刀に使う鉄や銀が多く含まれた銅を輸出するのは正直もったいない。


 俺は細川勝元の病死によって幼少の嫡男である細川政元の後見人である細川政国に面会して話をすることにした。


「細川典厩(政国)様、今度明へ献上するものとしては倭椹と呼ばれる干した椎茸やキクラゲ、海産物の干し鮑、干し海鼠、干しエビや瑪瑙・真珠などを多くするのが良いかと思われます」


「ふむ、そうであろうか?」


「はい、日ノ本ではあまり斬れぬ束刀であれども、鋤鍬にすれば、田畑を耕すのに役に立ちますゆえ、それに刀の価格も下がっていると聞きます」


「確かにそうかも知れぬな」


 将軍にも伊勢家を通じて話をして、大内政弘とも輸出品は乾物の割合を上げるように話をした。


 そういうわけで今回は俵に海産物の乾物を詰めて持って行かせたがなかなか良い値段で引き取られたようだ。


 この時代は中国料理ですでにフカヒレなどが高級食材とされていたし、日本の乾物は特に品質が良いことで知られるようになっていくのだな。


 鎌倉、堺、博多などでは私鋳銭が作られていたが、堺が焼けてしまったこともあって銭不足になりそうだし、大阪でもそろそろちゃんとした品質のものを作ったほうがいいかもな。

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