秋になったのできのこ狩りをして人口栽培に手を出したよ、そして畠山が山城を追い出されたか
さてさて、この時代においては、寺や神社、貴族もしくは貿易相手の明などに高く売れるものというと、たとえば椎茸や鰹節や昆布のような出汁を取れる食材、陶器や陶磁器、漆器などの食器、絹や木綿の衣服や布、茶や蜂蜜、砂糖などの甘味、漢方薬なんかだな。
そして秋はきのこの季節で山の中であれば椎茸などのきのこ類の人工栽培はできる。
後は養蚕での絹づくりや木綿栽培をして木綿も作るのは大事だろうけどそれは来年の春からだな。
とはいえ絹のもととなる蚕を養蚕するための桑の木の植樹はすすめておくけどな、いざというときに桑の実は食料にもなるし。
そして来年の春の4月になれば蚕を飼い始めることも出来るだろう。
蚕は暑さには弱いのでやるなら京都盆地の中ではないほうがいいはずだが。
とりあえずきのこ類の採取と人工栽培に取り掛かるとしよう。
いわゆるカビの真菌類と茸は同じもので、茸やカビは植物でも動物でもなく、胞子を飛ばす植物で言う花に当たる部分がでかいのが茸、そうでないのがカビだと思えばいいが基本的に本体と言える部分は、根っこの菌糸が張った部分でそれを原木に当ててやればカビと同じように茸も移るというのが人工栽培の基本だな。
ようはカビの生えたみかんやリンゴを箱の中にひとまとめにしておくと、みかんやりんごにみんなカビが生えるのと同じようなものだ。
まあ、気をつけないとカビもやばいが、致死的な毒キノコも多く、しかも外見だけだと食用キノコとあまり見分けがつかない場合もあるのが怖いところではある。
そして椎茸を干した干し椎茸は大陸への輸出品としても重宝されているのだ。
この頃の日本からの輸出品は火薬の原料となる硫黄や日本刀、扇、銅等とともに捕らえられた流民が奴隷として売られる場合もある。
椎茸の人工栽培の始まりは江戸時代の頃に炭焼き用に積み上げてあるナラの原木に多数の「しいたけ」が自然に発生しているのを見たのが始まりだとされている。
茸にも大きく分けて2種類あって、生きている木に生える菌根菌系の茸。
これはマツタケやホンシメジなどがそうで、これらは人工的な栽培は難しい代わりに、生命力が強くまとまって生えていて、柴が薪として使われる時代でも普通に生えているので見つけるのはそんなに難しくない。
もう一つは枯れた木や落ちている枝、落ち葉などに生えてそれを分解する腐生菌系の茸。
こちらはシイタケやナメコ、マイタケなどがそうで、これらは自然の中では倒木や切り株、落ち葉などに生える菌類だから柴狩りが普通に行われている時代だと松茸などより探しにくいが、切り取った枝を原木として使える腐生菌系は、人工栽培がやりやすい。
なにはともあれまずは山に入り人工栽培の茸の種となる茸が生えている木を探すとしようか。
椎茸や平茸は春と秋にも生えるが多くの茸は秋に生えてきてしかも結構遅いことも多い。
これはおそらく、雨が少なく空気が乾燥している状態でないと、飛ばした胞子が広がりにくいからだろう。
「よし、じゃあ、今日は茸と原木を探しに山にいくぞ」
俺は大道寺重時などに背負子や竹の籠を背負わせて、山へ向かう準備に入った。
「うむ、今は茸がよく取れる季節だし、今夜の料理が楽しみだな」
「まあ、これもあちこちに献上しないと駄目だろうけどな」
そして俺たちは山に入って椎茸を探し回り、その他の榎茸やシメジ、マイタケなども取っては茸の生えている枝ごと持って行き、皆の背負子や籠が一杯になったら山を降りた。
今夜は水鳥と葱と茸の鍋を皆でつつき、ある程度は朝廷幕府寺社へも寄進したが当然茸が生えていた枝は残っているので、翌日に俺は原木を使った茸の人工栽培に取り掛かることにした。
ナラやクヌギの太さ10cm~15cm位のものを選り分けて、枝を切り少し乾燥させた後、くさび形にナタで裂け目を作って、そこへ椎茸が生えていた木をくさび形に削って木槌で打ち込んでいったんだ。
「うまく行けばこれで椎茸が生えてくるはずだ」
大道寺重時が笑っていった。
「ならばうまく行ってくれればいいな」
このころ畠山政長と畠山義就の争いはまだ山城南部で続いていたが、将軍の停戦命令も聞かないこの二者に対して業を煮やした山城南部の国人や惣村の代表たちが、宇治の平等院に集まり評定を持った後に、国一揆を起こして両軍を攻撃した。
「そもそもお前らが御霊神社を焼いたせいで京は焼け野原になったんだ!」
「そうだそうだ、おまえらは山城からでていけ!」
両畠山氏の長年にわたる戦いで南山城の国人衆や農民は疲弊し不満が溜まっていたのである。
結果として畠山政長と畠山義就は双方山城から追い出されて戦場は河内へと移動した。
南山城は伊勢貞宗が半国守護に任命されたが、幕府及び伊勢氏は一揆側に一定の自治権を認めた。
これは国人達や惣村の代表は室町幕府や守護領国制自体を否定するために一揆を起こしたものではなく、畠山氏を追い出すために立ち上がっただけであったためで、両者の利害は少なくともこの時は対立していなかった。
畠山義就は、畠山政長の河内守護代である遊佐長直を若江城から追放して、他の河内諸城も落として河内を実力で奪取してしまったため、畠山政長は堺へ協力を要請したが堺はそれを断ったために、畠山政長は堺へ実力行使を実行。
今まで尼崎や兵庫の戦火を対岸の火事とばかりに、両陣営へ刀などの武器や具足を供給して溜め込んでいた財を堺は一瞬で奪われ焼かれたのであった。
とは言え畠山政長は戦上手ではないこともあり、河内の拠点を確保することは出来ず、最終的には紀伊へ落ち延びていくことになった。




